獰猛な光を溜めこんだ明るい色の双眸が、瞬きもせずにじっとこちらを見つめている。少し目線を下げれば彼の口端は尖った犬歯を覗かせながらさも楽しげに持ち上げられているだろうし、更に下げれば己の手首を掴んだやたらと装飾品の多いうるさい指が見えただろうけれども、常よりもいくらか高い位置から見据えるこの忌々しい輝きから、ベルゼブブは目を逸らすことができなかった。否、しなかったと言ったほうが正しいのだが、身を包むプレッシャーの前ではどちらでもよいことだった。これは自分たちにとってゲームのようなものであって、決してどこかへ辿り着くための一瞬の通過点であるとか、互いの意図を確かめ合うような行為ではなかった。意図など初めから決まっているのだ。それでも、いままで幾度も繰り返してきた中で自らに植えつけられた対抗心が、ルシファーの瞳からほんの僅かでも視線を外すことを拒絶しているのだった。
じっと睨みつけているとその宝石のような透明度を湛える虹彩が、ゆらゆらと炎を散らしているように煌めき、それからひたすらに暗い瞳孔がきゅっと縮んでいくらか縦に伸びた。背筋が意識と関係なく震える。タイムリミットを告げるその変化にずっと止めていた息を吐きだすと、時を同じくして笑ったルシファーが空いていた手をベルゼブブの首の後ろに添えて、ぐいと引き寄せた。毒々しいほどの赤がちらついた。呼吸はまたすぐに遮られ、尖った歯列に舌を食まれる感触に目を細める。そうやっている間も決して目の前のまなこは光を隠すことをしないのでひどく口惜しくはあったが、もはや捉えてやる意味もない。かすみ始めた視界をすり潰すように瞼を下ろし、眉を歪めて目を離した。彼を写さなくなった途端に視界が暗くなったのは、恐らく錯覚などではなかった。
「……いつも勝手だな、本当に」
「オイオイこのオレがキスしてやってるんだぜ?もっと嬉しそうにしろよ」
ベルゼブブを膝に跨らせた時から可笑しむような眼差しを絶やさなかったルシファーが、ようやく笑みを隠して肩を竦めた。薄い色の睫毛が揺れる。どこか不貞腐れた声色を滲ませて見上げてくる彼には横暴さと無邪気じみた何かが絡みついているために、疎ましく思いつつもそれ以上言葉を返すことはしなかった。あまり気がつく者は多くないが、素材のみから見て述べるならばルシファーという男は存外あどけない相貌をしている。我儘をまき散らす子どもがそのまま力と凶暴性を手にしてしまったような存在であったから、それを鑑みればまったく可愛げなど感じられずに、いつだってベルゼブブは胡乱気に目を逸らした。それが気に入らないのだと言ってたびたびルシファーはベルゼブブを捕まえては目を逸らした方が負けだという遊びを勝手に始めるのだったが、傲慢な彼にとってルールなど無きに等しく、いつもこうして飽きてきたルシファーがキスをしてきてゲームは終わってしまうのだった。そうしてますますベルゼブブはルシファーの目を見たくなくなるというのに、いつまで経っても彼はそれに気づかない。気づくことができないのだろうし、どうせ言ったところで理解もされずいいように解釈されてしまうのは分かっているので、ついぞベルゼブブは本人にメビウスの輪のようなこの繰り返しについて告げたことはなかった。ただ絶対にこちらから逸らして負けてやることはすまいと、それだけは意地になってゲームに臨むのが常であった。
「優一」
「なんだね」
「前から気になってたんだがよォ……お前、なんでそんなにお綺麗に化けるんだ」
相好が強張った。知らず知らず噛みしめた奥歯がきしりと鳴る。まあオレのほうが遥かに美しいがな、と言い加えることを忘れずに、しかし本当に怪訝だと言いたげに問われた言葉が脳の深きを撫でた。視線を戻す。ルシファーの瞳に映っている光のない青、白んだ金色、静脈の透けそうな肌の色、ベルゼブブを構成するそれらをオキレイと皮肉を込めて評した彼への苛立ちは、血色の悪い唇をおよそヒトのものではないくらいに歪ませた。ひび割れる空気。しかしほんの一寸のうちに、青年の皮はかたちを整えてまた気のない面差しへと戻ってゆく。陽炎の如くひととき揺らいだどす黒い影にルシファーは煽られたようであったが、その修復、さらに間を置かずに頬に伸ばされた指先に気がつくとひとつ瞬きをして、意外だと言わんばかりの眼差しでベルゼブブを見た。怒りを呑み込んだばかりでなく、あちらから触れてくるのは珍しいことだった。
褐色の肌は冷たい。大人しく触れられているルシファーに、腹の中でどろどろと煮えているものをぶつけたらどうだろうかと僅かに逡巡してしまってからすぐにそれを打ち消して、それは人間に紛れこむために決まっているだろう、と平坦な調子でベルゼブブは述べた。赤い複眼が、いくつかの光源をもとにつややかに光った。ルシファーの瞳がまた閃く。そうやってなにごとかを抑え込んで話すとき、微かに笑みを浮かべることをベルゼブブ自身は知っているだろうか。愛想を振るというのだったか、愉快でもないのに笑うという人間のやり方を覚えたこの悪魔が、ルシファーには面白くて堪らない。あれほど禍々しく背筋にぞくぞくとしたものが駆け廻る素晴らしい姿を持っているというのに、色のないなよなよとしたものを全身に貼りつけたベルゼブブの擬態はあたかもあの忌々しい天使のようで、その異質さが興味を増長させるのだ。何故そうまでして化けるのか、ルシファーにはどうやっても分からない。無理強いすれば出来ないことはないのだろうが、こうして何もかも押し込めて白々と笑うさまを眺めているのもまた悪くはない、と、撫でられるままに頬を預けてルシファーは歯を覗かせながら笑った。「なんだよつまんねえ、」指先に軽く噛みついてやればびくりとして遠のいた手が、今度は髪に触れてくる。珍しいなと思いつつも悪い気はしなかったので、ベルゼブブの背中の透き通った翅を弄りながら、しばらく好きなようにさせておくことにした。


(……ルシファー君、どうか気づかないでほしい)
後ろへ撫でつけられた柔らかな髪をすくいながら、ベルゼブブは怒りに代わってじわじわとせり上がって来た感情を殺して唇を結び、翅の縁取りをなぞる感触にぞくりと震えて目を細めた。その指先から何もかも、決して揺らがないルシファーのすべてが昔から嫌いだった。宝石のような瞳が嫌いだった。きらきら輝く髪が嫌いだった。自信に満ち溢れた声と、全部掴んでしまうずるい手が嫌いだった。酷くて綺麗なそれらに本当はどこかで憧れていた自分もまた、馬鹿らしくて仕方なかった。明けの明星、そう彼ら一族の始祖が呼ばれていた名を反芻するたびに目が眩みそうになる。今も同じだった。それだから、ルシファーの透き通った瞳を見つめるのがずっと嫌だったのだ。
「僕が綺麗に見えるかい」
「あ? そうだな、まあオレには負けるがな」
「ふふ、ムカつくなあキミは」
見つめ合ったらキスの合図だなんていつの間に決まったのだろうかと、内心で嗤いながら赤い舌に捕らわれる。澄んだ瞳が欲を湛えている。本当のことなんて絶対教えてやるもんか。飲み込んだ言葉を息に変えて彼の中へと流し込めば、それによって強さを増した指先がベルゼブブの背をきつく抱いた。視界が反転するまでずっと、今度は視線は逸らさなかった。




/満ちて欠ける一瞬