テーブルにちょこんと乗っかっている白い一輪の花を見つけたのは、買い出しから戻って来た佐隈だった。事務所には芥辺の姿はない。ソファのあちらとこちらに座った悪魔たちが、大して面白くもなさそうにバラエティ番組を見ているところだった。彼女が立ち止まるや否やガサガサとスーパーバッグを漁り始めたアザゼルを抓りながら、その楚々とした印象の小ぶりな茎葉を手に取りなんですかこれ、と首を傾げる。あまりに無造作に置かれていたので作りものかとも思ったが、ちゃんとした生花だ。しかもかなり瑞々しい感触がある。んん、とアザゼルは気のない様子で佐隈の手元を覗きこんだものの、同じく今気付いたというようにきょとんとして何やそれと呟き、またすぐに袋へ頭を突っ込み始める。あんなに近くにあったのに気づかなかったんだろうか、というか「いい加減にしてください」パァン!佐隈の容赦ない投げによって吹っ飛んだアザゼルは、勢いよくぶつかったガラス窓に大輪の花を咲かせた。しかしそれを見る者は誰もいなかった。
「さくまさん、それはルシファー君がくれたのですよ」
「え!?あのルシファーさんですか」
テレビ画面を眺めていたベルゼブブがちょいちょいと手を振って告げた台詞に、佐隈は頓狂な声を上げる。まだ記憶に新しいその名前は、あまり良い思い出を残しては行かなかった。引っ越しが終わるまで雇い主の機嫌は悪いままだったし、うだるような暑さの中で倒れた本棚とグリモアの片づけをするのはそれは大変だった。できればもう関わりたくないと思っていたのに、こんなにあっさりと名前を持ち出されるとは予想外と、知らないうちに頬が引きつる。それにしてもこの花をルシファーさんがベルゼブブさんにあげたというのは、どういうことなんだろうか。
「はあー?なんやべーやん、プロポーズでもされたんかァ」
再勢力に定評のあるアザゼルが、あちこち継ぎ接ぎしながらニタニタといやな笑いを浮かべて戻って来た。佐隈の肩によじ登ると花をじいっと眺め、なんや見たことない花やなあと率直な感想を述べる。「私も何という花なのかは知りませんけどね、」ベルゼブブは今しがたのアザゼルの言葉にも大して反応を示さないまま、眠そうな目を二人に向けた。それからぶうんと飛びあがると、佐隈と目線の高さを近くしてやれやれといった風に続けた。
「私もどうしたものかと思っているのです…それは魔界に置いておけばすぐに枯れてしまいますから、とりあえず其処に置いておいたんですが」
「枯れて……って、このままほっといたらやっぱり枯れちゃうじゃないですか」
「いいえ、人間界にあるうちは枯れないはずです」
「は?どーいうこっちゃ」
「まあなんというか、ルシファーくんがそういう術をかけたのですよ」
悪魔の職能は人間界でなければうまく作用しない、だからベルゼブブは魔界からこちらへ召喚されるときに一緒に持ってきたということだった。おいおいマジでそういうアレなんか、えええでもあのルシファーさんがベルゼブブさんにですよーないですよー、勝手にひそひそと話しだす二人に呆れたようなじとりとした目を向けて、何を馬鹿な話をしているのかねと溜息をついてベルゼブブはひょいと花を手に取った。それは受け取った時から変わらない鮮度を保っており、術が発動し続けていることを示していた。
「アザゼル君、まだ小学生の頃に僕が力を抑えきれていなかったことを覚えていますか?」
「ん? あーそういやべーやん、よくうっかり物溶かしたりしとったな」
「ええ……あれは人間界でも同じでしてね、」
ベルゼブブはそこで一度言葉を切った。物を溶かすというフレーズに驚いているらしい佐隈をちらと見やり、そして目の前で続きを待っている友人の顔を素通りして目を逸らす。こんなことを話すつもりはなかったのだが、と内心で自らの迂闊さに歯噛みをしてももう遅く、やがて観念してゆっくり息をついた。いらぬ勘ぐりをされるよりはマシだろう。
「物を溶かすまではいかなかったのですが、よく人間界の花を枯らしてしまったんですよ」
「へえ……ベルゼブブさんってそんな力があるんですか」
「今ではもう抑えられていますがね」
「でえ?それとルシファーさんのお花にどない繋がるっちゅーんや」
「君は知らないだろうが、ルシファー君とは家ぐるみの付き合いをしていたから、小さい頃から知っていてね」
「えーっ初耳やで!!」
「だからそう言ってたじゃないですか」
「昔は私が花を枯らして落ち込んでいると、ルシファー君がこっそりその花を元に戻してくれたんですよ」
「へ、へえ……?」
まあその頃の癖なのかか何だか知りませんが、今でもたまにこうやって人間界の花に術をかけて持って来るんです。
そこで言葉を切ってくるくると茎を回しながら、ベルゼブブは居心地悪げに眉間に皺を寄せた。アザゼルと佐隈の視線がやけにひりひりとするのは、過去の情けない自分をわざわざ己の口で語る羽目になったからだろう。断っておくがどれもこれもルシファーが勝手に自己満足でやったことで、こちらから頼んだ覚えはない、そう言いたかったがこれ以上喋ると言い訳にしか聞こえないような気がしたもので、むすっとしたまま彼は黙っていた。
(ア、アザゼルさんこれって……)
(言わんときやさくちゃん!べーやん気づいてないみたいやし、下手するとルシファーの奴に何されるか分からんで!)
もはや視線のみで会話を成り立たせる佐隈とアザゼルは、必要以上にそわそわとしながら冷や汗を滲ませてベルゼブブからこっそり後ずさった。事情を聞いたところで、初めに持ちあがった可能性はまるっきりそのまま残っていたのだった。しかもおよそ悪魔らしくない恐ろしいようで何やら甘酸っぱいようなエピソードを聞いてしまっただけに、茶化すことさえままならない。ベルゼブブは墓穴を掘ったと思っているが、二人もまた別の意味でやらかしてしまったと胸中でぎゃあぎゃあと騒いでいた。忘れよ!もうこんな話忘れよ!無言でこくこく頷きながらアザゼルが今夜の夕飯へと話題を変えようとしていた、その時、

バタン!

「あっ芥辺さん!?おかえりなさい……」
心臓に悪い唐突さでドアを開いた芥辺は、そこはかとなく普段よりも顔の影を割り増してスタスタと事務所へ入って来た。ああただいま、佐隈へのそっけない返事を述べつつその視線が捉えたものに、彼以外の身がびくっと固まる。小さな可愛らしい花、それを手にしているベルゼブブもまた、瞬く間にだらだらと嫌な汗を流していた。他でもないその花に、芥辺の眼光は注がれていた。まさか聞かれていたのでは。かたや佐隈とアザゼル、かたやベルゼブブ、それぞれが若干違う意味合いで、芥辺から滲み出るオーラに肩を震わせた。
「アクタベ氏……ってアアアッ!?」
「ひゃー!!」
「やりよったー!」
三者三様の悲鳴があがった。ひとつのためらいもなく伸ばされた手が花弁を包んだと思ったら、やはり躊躇なくそれをぐしゃりと潰し、挙げ句そのままむしりとって芥辺は窓の外へその残骸をぱらりと捨てた。そのあまりに無造作で作業的な動きにしばらくベルゼブブはぽかんと嘴を半開きにしたまま、手の中に残った僅かな茎と葉をぽとりと床に落とした。驚きのあまり落ちてしまった、といったほうが正しいかもしれなかった。
「アクタベさん……なにもそこまで……」
「せやせやァ男の嫉妬は醜いdfq」
「アザゼルさん!?」
前触れなくまたしても吹っ飛んだアザゼルは四肢バラバラになってドア付近にごろごろと転がったが、その頭は懲りない様子で芥辺を見やりにやついていた。芥辺は盛大に舌打ちをし、ぎろりとベルゼブブを睨みつける。引きつった悲鳴をあげた張本人はしかしとばっちりだとばかりにばたばたと両手をばたつかせ、スミマセンもうルシファー君の名前は出しませんのでと甲高くわめきながら佐隈の背後へと隠れてしまった。ちょっと私のところに来ないで下さいよ!慌てて巻き添えを回避しようとした佐隈はベルゼブブのおかしな鈍さに呆れながら、これ以上雇い主の機嫌が損なわれることだけは勘弁とばかりにその燕尾服を引っ掴み、思いきり芥辺のほうへとぶん投げた。

ピギャアアア!

断末魔に似た叫び声と黒いオーラをそのままに事務所を逃げ出した佐隈は、ごめんなさいベルゼブブさん!と内心叫びつつ全力で階段を駆け降りた。このはくじょうもんがあ!と気色悪い声を出しながらしっかりついてくるアザゼル。ようやく速度を緩めた頃にはビルも遠ざかっており、息を整えながら二人はどっと疲れて肩を落とした。しばらく戻らないほうがいいですね、そうやね、などと会話を交わしながら商店街へ向かう。背中にはベルゼブブの呪いの言葉が絡みついているような気がしたけれども、あの場合ああするしかなかったと佐隈は自分の正しさを繰り返し念じていた。




/ガランサス