昼も夜もなく淀んだ陰影を渦巻かせているばかりの魔界の空をぼんやり見下ろしていると、ほんの時たまあの澄みきった青であるとか、グラデーションを描く紅であるとか、星々がちかちかと忙しなく瞬いている夜空を見たくなることがあった。無論こちらの生気に乏しい色彩ばかりに育まれてきた身にとって、人間界の風景は目に余り息苦しさをもたらす。おどろおどろしい空気こそが肺腑を安らかにする。それでもあるいは麻薬のように、異界の空はベルゼブブの意識の端にちらちらと閃いては、乾きにも似た物足りなさを促すのだった。厄介なところだと思う、人の世界というものは。
「何を見とるんや」
「……いいや、別に」
お前の部屋は落ち着かん、とかなんとか言ってゴロゴロしていたはずのアザゼルがいつの間にやらすぐ後ろに立っていたので、視線のみをそちらに遣って気のない返事をする。背を丸めて横から窓の外をちらとだけ覗いた彼は、すぐにつまらなそうに息をついて目の前でカーテンを引いた。乱暴に扱わないでくれたまえ、キミの家のものとはわけが違うんだからね。ハイハイ分かっとりますう優一お坊っちゃま。軽口を叩いて唇を尖らせたアザゼルは、しかしそれからも何かを疎ましく思っているような顔つきで、ビロードを模したワインレッドのカーテンをじとりと見つめていた。暇さえあれば碌でもないことをべらべら喋っている彼がこういう表情をする時には、大抵その思考回路の精度では追いつかないようなことを考えているのだ。幼少からひとつも変わっていない旧知の眉間に寄った皺を物珍しく眺め、ベルゼブブは静かに嘆息した。どうせさくまさんのことでも考えていたのでしょう、目を逸らして告げれば分かりやすく噎せたアザゼルが途端にぎゃあぎゃあと騒ぎ出し、ああうるさいとこれ見よがしに耳を塞ぐ。
「聞かんかいこら違うわボケェ!さくのこと考えてたんはべーやんのほうやないんか!キッショイ顔でお空なんぞ眺めてからにィ」
「は?何を馬鹿なことを言ってるんだねキミは」
「とぼけんなや、最近べーやんおかしいで…さくに惚れとるんちゃうんか」
「本当に可哀想な脳みそしか持っていないんですねアザゼルくん……というかさくまさんに惚れているのならキミのほうでしょう」
そう心底うぜえといった面差しで言ってやると、アザゼルはしばらく表情を乏しくしてベルゼブブを見つめた。落ちる沈黙。たっぷり耳鳴りに近いそれを味わってから、不意に伸ばされた手によって力任せにベルゼブブの体の均衡が崩された。声をあげるほどではなかったが、眠たげな双眸がいくらか見開かれる。そのままアザゼルの背後に鎮座していたソファへと彼を下に敷くかたちで二人して突っ込むと、ケラケラと愉快そうに笑うアザゼルの声が耳に響いた。下品な笑い方だと思えども、これに慣れてしまっているので不快感は起きてこない。一緒に乾いた音をたてて笑みを作る首元の骸骨を見下ろしながら、トチ狂ったのかねと言い捨ててやればいまだに全身を揺らして笑ったまま、アザゼルはベルゼブブの腰に腕を回した。そういえばこれは、アザゼルくんの好きな体勢だ。思い至ってむすりと唇を歪め、まだ勢い治まらずといった様子のアザゼルの鼻を摘まむと苦しそうに彼はいくつか悪態をついたが、そう間を置かず大人しくなった。笑いの発作というのは、大体この程度のものだ。
「なんやべーやん、妬いとったんか」
「だから君だろう」
「ワシはええんやアザゼル様やし!さくはいつか落としてみせるでえ……めっちゃくちゃにしてやるんや」
「……楽しみにしていますよ」
「まーでも、さくがワシに惚れたら終わりや思うわ」
悪魔に心を寄せた人間の末路など、おしなべて酷いものだ。それを知っているだけにどこか複雑そうな顔をして、しかし軽薄そうな眼光でけろりと笑ったアザゼルに、まあそんな日は来ないだろうがねとこちらも一笑に服して肩を竦めてやる。その瞬間に眼差しが重なる。腰に回った腕がやはり力任せにぐいと引き寄せるので、それに任せてしなだれてやると意外だとばかりに目を瞬かれた。山羊に似た長い角が複眼に触れたので、邪魔にならないよう仕舞いこむ。魔界で人間に擬態することほど意味のないことはないというのに、今ばかりはそれを心から望んでいるような錯覚をベルゼブブは覚えた。至近距離で釣り上がった目縁と小さな瞳を見つめると、些か気まずげに口を噤んでから色を穏やかにして、アザゼルは無駄に豪奢な天井を眺めた。
アザゼルくん、と呼ばれて尖った耳がぴくりと動く。まだ餓鬼だった頃とおんなじ拙さをそこに感じて、意図せずベルゼブブの背を撫でた。
「分かっていますよ、所詮アザゼル族は人間を選ぶのだから…初めから決まっているのだからね」
「なあ、ほんまに妬いたんか」
「まさか……ただ、アザゼル君のくせに生意気だと思ってね」
「…………」
僕らは、ヒトに近づきすぎているのかもしれないねえ。くすくす笑いながら首元でまどろむような声を紡ぐベルゼブブの王冠が、視界の端できらりきらりと光っている。頷きもせずに微かに舌打ちをして、姿だけなら自分よりも遥かに人間じみた華奢な腰をこれでもかと抱いたが、痛いとも言わずに黒い手はアザゼルの胸辺りに乗っているだけだった。溜まっていた空気を吐きだして、肌に慣れないソファの感触に身じろぎをする。こんなにくっつきあっても心音ひとつ聞こえないことが、今のアザゼルにとっての救いであった。本当にここ最近、ヒトに近づきすぎているように思えて困るのだ。快楽ばかりを求めるのが本質であるこの血が、ただひたすら生ぬるい安息を求めている。例えば今みたいに、何もせず触れているだけで満たされるような、得体の知れない渇望がこの友人にだけ向けられていること。これではまるで人間みたいではないかと顔をしかめても、尚ベルゼブブを離す気が起きない。ずっと抱えていた心地悪い矛盾をのろのろとかき混ぜながら、もう考えても無駄やと内心で呟いて、アザゼルはついに思案するのをやめてしまった。性に合わないのだ、元来こんなことは。
「侮れんなあ、人間界も」
無数の輝きを生み出すシャンデリアをぼうっと見上げながらひとりごちたつもりで呟くと、自嘲がちに首元でベルゼブブが笑った。




/その謎は解かないほうがいい