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『俺と付き合え』


始まりは唐突で。
降って湧いたようなこの事実を、暫く私は受け入れることが出来ずにいた。それに伴うように。多忙な彼と私とじゃ時間なんて合う筈もなく、実感も湧かぬまま、時間ばかりが過ぎていった。


その一方で。付き合い始めた、という噂はあっという間に会社内に広まっていた。表立った批判とかはなかったけれど、でも。彼女たちの視線と交わされる密かな声は、決して歓迎しているものではなかった。



ようやく訪れたお昼休み。針の筵のような視線から逃れ、私は会社から少し離れた公園に来ていた。穏やかな風が頬を撫でていく。曇る私の心とは裏腹に、空は青く高く晴れ渡っている。その空にぽっかりと浮かぶ白い月。

この辛い気持ちを吐き出したかったけれど、彼に知られる訳にはいかなかった。忙しい彼の負担には、なりたくないから。せめて、彼が居る業務中くらいは、明るい顔していよう。だから、今だけは‥‥。

零れ落ちそうな涙をこらえて、空を見上げる。真昼の月が、何も言わずに私を見下ろしている。

風間さんは、月見たいな人だ。綺麗で、輝いていて。その輝きを手に入れたいのに、私の手なんか届かない。


「ミィー」


ふと聞こえた鳴き声に視線を落とせば、足元に猫が擦り寄っていた。まだ生まれてからそう長くないのか、細い手足に小さな体。

そっと手を伸ばすと、びくりと身を縮めて後ずさる。


「‥‥‥はは、」


ひとりでに口から渇いた笑みが零れた。


「キミも‥私を拒むんだ‥」


このコにそんなつもりはなかったのかもしれない。自分で言った言葉に、傷ついてる自分が居て。ぽろりと、涙が落ちた。













「‥‥だめ、とは‥どういうことだ」


至近距離で見つめる二つの深紅の宝石。それに耐えられず、私は思わず目を伏せた。

離れているときは、あれほど彼の傍に行くことを熱望しているくせに。

こうして、いざそんな状況になると‥‥彼と、向き合うことが、怖い。

彼の瞳に映っているのが、本当は自分では無い、ということを思い知るのが怖くて、私は。最後の一線を越えられないのだ。


「‥‥‥」

「黙っていても、わからぬ」


彼が、千景、が、呆れたまなざしを向けているのを痛いほど感じる。でも、この心の中のもやもやを、彼に吐き出してもいいのか悩んでしまうのは、心のどこかで、私と彼とじゃ釣り合わない、最初から対等なんかじゃないって思っているから。皆がそう思ってることくらいわかってた。何よりも私が、そうだと思っているから。

これ以上傷つくくらいなら、その前に身を引くべき、なのに。それでも私は、やっぱり風間さんのことが好きで。だからこそ、彼の気持ちがわからないまま、このまま流されるのだけは、厭だった。

そっと私が彼の胸を押せば、風間さんは驚くほど簡単に身を起こした。彼は、優しい。強引で、意地悪で、でも甘くて。それなのに、こういうときは私の気持ちを大事にしてくれる。こんなときになって、漸くわかって、また涙腺が緩む。


大事なこと、言いたいことはたくさんあるのに、どれも言葉にならなくて。


「‥‥‥ごめんなさい‥、」


ただ、それだけ言うと、私は逃げるように彼の横をすり抜けた。



はず、だった。
けれど、彼の右手はしっかりと私の腕を掴んでいて。

彼の、男の人の力になんて敵う筈もなく。

観念した私は、溢れそうになる涙をこらえて、彼の方を振り返った。




110913〜111027



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