due
私と風間さんが出逢ったのは、ほんの一年くらい前。

彼が副社長で、私は一社員。たったそれだけの関係。社長の御曹司で、仕事もできる。女の子の憧れの的である彼との接点なんて、殆ど無かった。


「風間さん、素敵よね〜」


彼が部署に姿を現す度に、女の子たちから漏れる溜息と羨望の眼差し。私もそんな一人で。

それが‥‥こんな風に、彼の瞳に自分の姿を映すようなことになるなんて、思ってもいなかった。





見下ろす深紅の瞳に射とめられ、私は身動きを取れずにいた。目さえも逸らすことが出来ない。


『今夜は‥‥‥俺に抱かれて、寝ろ』


今しがた彼が告げた言葉を反芻してみるも、うまく頭が働かない。唇を動かしてみても、言葉にならない息が、掠れて漏れるだけだった。沈黙の帳が部屋に降りる。



「かざ‥ま、さん‥」


ぎこちなく動かした唇から漸く意味のある言葉が音を結ぶ。でも、何も答えない彼の表情は、どこか怒っているようにも見えた。


「風間さんっ‥!」


それがなんだか哀しくなって、私はもう一度彼の名を呼ぶ。こんなに近くに居るのに、なぜだか彼がすごく遠くにいるように感じた。
すると、彼が急に私に顔を近づけてきた。突如埋まった二人の距離に、心臓がどくりと跳ねる。思わず目をつむると、温かさを首筋に感じて。


「俺の呼び名は‥そうではないと、教えたであろう」


直接鼓膜を打つ、抑揚のない彼の低い声。それはそのまま私の中心に落ちて、肌がぞくりと粟立った。

不意に頬に触れる、少しだけ冷えた感触。ゆっくりと目を開けると、驚くほど近い距離に彼の顔があった。


「忘れたとは‥‥言わせぬぞ」


唇にかかる、彼の吐息。上がる私の体温と心音。瞬きをすることさえ、憚られる。彼の恐ろしいほど整った顔が、私を見つめている。

彼は、待っているのだ。私の、言葉を。


『‥‥千景と呼べ、』


蘇る、あの日彼に言われた言葉。


「ち‥かげ‥」


おそるおそる紡ぐ、彼の名前。


「‥‥足りぬ」
「‥え?」


彼は眉ひとつ動かさずに、小さく呟く。降ってきた言葉の意味さえわからず、問いかけた。もう一度だ、と彼は求める。


「‥千景」
「足りぬ、」


もう一度彼の名を呼ぶ。それでも、もう一度と求めた。


「ち、‥‥んっ‥!」


三度目に呼ぼうとしたその名は、もう言葉にならなかった。一瞬、何が起きたか分からなかった。口に触れる柔らかな感触と、目の前にある伏せられた長い睫毛とで、ようやく私は彼に口付けられていることに気付いた。

絡む熱さと柔らかさが、私の心と思考を甘く溶かしていく。私はこうして、彼に捕らえられているのだ。彼の熱と甘さに翻弄されて、流されて。その一方で、私は。言葉にならない葛藤を感じていて。

思わず掴んだ彼の肩を、私は押し返していた。
絡む視線。相変わらず、緋色の瞳には何の感情も見えぬまま。気持ちが折れそうになる。でも。


「‥だめ‥、です‥、」


上がる息の合間にようやく、私は思っていた言葉を彼に告げることが出来たのだった。





20110826〜20110913

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