ふっと、廊下の先から誰かがやってくる。うつむいていた顔を上げて、私は思わず足を止めた。現れたのは、キュウゾウだった。咄嗟に踵を返して来た道を駆け戻りたくなったが、足が思うように動いてくれない。むしろ、キュウゾウに向かって歩き出す。二人の距離が次第に近付き、目の前までやってきて。私はそのままキュウゾウの横を通り抜けようとした。しかし、すれ違いざまにキュウゾウに腕を掴まれ、それは叶わなかった。離して下さい、そういう前に、キュウゾウが口を開く。
 
「行くな」
 
それは今言おうとした事も、払おうとした腕も、動かそうとした足も全部止めてしまう、まるで呪文のようだった。私はどうする事も出来なくなり、そこに立ち尽くす。キュウゾウはそのまま動かず、顔も向けないままに聞く。
 
「泣いていたのか」
 
と。見れば解るだろう、そんな事を言う気にもなれず、私は答えないまま。キュウゾウもそれ以上何も言う気配がないので、妙な沈黙が辺りを支配した。何を考えているのか、何をしたいのか、さっぱり解らない。キュウゾウも、私をからかっているのだろうか。それを面白がるような人間には見えないが。キュウゾウの手は、冷たい。生きているのか、不安になってしまう程に。
 
「…お前はここで、生きていると言えるのか」
 
唐突に、キュウゾウがそう言った。それは私の思考を読んだ訳ではないだろう。それよりももっと深いこと。私はここで、生きていると言えるのか。それは、私がずっと目を背けていたこと。ただ命じられた仕事をこなすだけの、何の変哲のない日々。全てはテッサイ様の恩に報いる為と、そう言い聞かせてきた。それで良い、それが良いんだ。けれど心のどこかで感じる虚無感。あぁ、私は―…。
そして私は、キュウゾウという人物を、少しだけ解ったような気がした。同じなのだ。この男も。自分の存在意義を見出せず、変わらぬ日常の中をただ彷徨っている。心から何かを求めているのに、それに手を伸ばす事が出来ずにいる。だからきっと、試してみたくなったのだ。御前が私の事を、腕が立つなどと言ったから。私と刀を交える事で、何かを得られるのではと期待して。そういう、事だったのかと。私はやっと、あの時の言葉を理解した。
 
"試して、みたくなった。何かが変わる事を、期待していた"
 
ふと、キュウゾウの顔を見上げる。彼の眼は、どこか遠い所を見つめていた。私にはその先に何が見えるのか解らなかったけれど、それでも、その虚空の虚しさは知っている。
 
「…キュウゾウは、何かを得られた?」
 
そう聞くと、キュウゾウは視線だけを私に向けた。じっと見つめてくるその瞳は、今はしっかりと私を見ている。
 
「…解らぬ」
 
短く答えるキュウゾウ。だがゆっくりと、その体を私の方へと向ける。その眼はなおも私を見つめていて、私はまた、あぁ獣のようだと思う。逸らす事が出来ない。しかし、初めて見た時のように、食い殺さんとするような殺気の籠ったものではなく。虚無感を漂わせるそれは、生きるよすがを求めて縋りつかんとするように。
 
「解らぬが、お前の事が離れない」
 
キュウゾウは、私から何か切っ掛けを得られるのではないかと、きっと期待している。この空虚な日々から抜け出すための、何かを。けれどそれは何かも分からない。キュウゾウにも、私にも。ただ一つだけ言える事は。
 
「一緒に居れば、そのうち解るんじゃないかな」
 
その時はきっと、私も。すっと、キュウゾウは私の腕から手を放した。けれど私はもう、そこから逃げ出そうとしない。ゆっくりとキュウゾウの方に体を向けると、自然に向き合うような形になった。キュウゾウの細い指が、私の目尻に触れる。涙で腫れている部分をなぞる様に、ひんやりと冷たい指が動く。それが心地よくて、でも少しくすぐったくて。私は目を閉じる。ふいにキュウゾウが屈み込んだと思えば、今度はそこに小さく口付けが落ちてくる。次第に唇へと変わるそれは、まるで獣が傷を舐め合うようだと思った。
 
 
これは身勝手な獣の願い
 

080815
 
 
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