「ナマエ」
 
ふっと、名を呼ばれ立ち止まる。けれど背後を振り返りはしない。
 
「…何か」
 
私の声は掠れ、酷く弱々しかった。背後に居たヒョーゴがゆっくりと近づいてくるのが分かる。
 
「今日は、すまなかったな」
 
ぽつりとそう呟かれる。それは何に対する謝罪何だろうか。
 
「いえ、気にしていません」
「そうか…」
「それだけ、ですか?」
 
どことなく、悲しげなヒョーゴの声。どうして貴方が悲しむ必要があるんだろう。それともこれもまた、私をからかって遊んでいるだけだろうか。
 
「…ナマエ、俺は」
「疲れているので、申し訳ありませんが別の時にして下さい」
 
何かを言おうとしたヒョーゴの言葉を遮り、そのまま歩き出そうとする。
 
「ナマエ!」
 
しかし、ヒョーゴに腕を掴まれ、私は振り返ってしまう。私の顔を見て、ヒョーゴははっとした。どうして、どうして。
 
「…私の顔に、何かついていますか?」
「ナマエ、お前…」
「離して下さい」
 
けれどヒョーゴはその手を放さない。どうして。
 
「何で、そんな顔をするんですか」
 
ヒョーゴは、とても辛そうだった。辛いのは私の方なのに。貴方はこんな私を笑いにきたはずなのに。もうあんな思いはしたくないのに。どうして、こんなに苦しいの。
 
「なんで…」
 
枯れるほど泣いたと思ったのに、また私の目からは涙が溢れる。
 
「勝手にその気にさせて、勝手に捨てたのに…なんで、そんな顔するんですか」
「ナマエ…」
「何も考えたくないのに、もうどうでも良いって思いたいのに、なんでまだ苦しいんですか」
「ナマエ」
「なんで、なんで誰も私の気持ちを考えてくれないの…っ」
 
ヒョーゴは、そっと私を抱き寄せる。その腕の中で、私はまた泣いた。小さく小さく、嗚咽を零した。
 
私が落ちつくまで、ヒョーゴは背中をそっとさすってくれた。それは子供をあやす様に優しくて、私は余計に悲しくなってしまったけれど、それでもなんとか涙をこらえた。  
「ごめんなさい、もう、大丈夫ですから」
 
そう言って離れようとしたが、ヒョーゴは少し腕に力を込めて、それを阻んだ。私は疑問に思い、見上げるように少し首を動かすけれど、ヒョーゴは黙ったままだ。もぞもぞと体を動かしてみても、その腕は緩まない。
 
「ヒョーゴ、殿」
「…離したら、また逃げようとするだろう。そのまま聞け」
 
私は動くのを止めた。
 
「あの時は、御前の手前ああいうしかなかった」
 
ヒョーゴはぽつりぽつりと話し始める。
 
「お前があの話しを快く思っていないのは解っていた。だが俺は、これを好機と思った」
「…好機?」
「お前を、手にする好機だ」
 
その言葉に、私は思わず体が震えた。それに気付いたヒョーゴは、低く笑う。
 
「俺は、以前からお前を好いていたのだ」
「そんな、事…」
「信じられないか、まぁ無理もない。しかし事実だ」
「…」
 
これは、嘘なのか真なのか。ぼんやりとする頭では、良く解らない。
 
「あの夜、苦悩するお前を見てその隙に付け入ろうとした」
 
偶然を装った出会い、月を見上げて交わした杯、そっと頬に添えられたあの手も全部。やはり、私をその気にさせる罠。私は、ぎゅっとヒョーゴの服を掴む。
 
「その後に、廊下で叫ぶお前の声が聞こえた」
「!…聞いて、居たんですか」
「あれ程の声ならば、誰でも気付くだろう」
「…」
「そして、俺は己を恥じた。お前があそこまで思い詰めてるなどとは、思わなかった」
 
ヒョーゴの腕に、ぐっと力がこもる。
 
「それから、お前にどう顔を合わせれば良いのか解らなくなった」
「だから、何も言ってくれなかったんですね」
「あぁ…それも、お前を苦しめていたのだろうな…」
 
申し訳なさそうなその声に、私はふるふると首を振って応えた。
 
「こんな風にお前と結ばれる事を、望んでいたのではない。だからあの時、断ったのだ」
 
そこまで言うと、ヒョーゴはゆっくり体を離した。私はその顔を見る事が出来ず、うつむいたまま少しだけ後ろに下がる。
 
「…お前が好きだ」
 
ぽろぽろと、涙が落ちる。また泣くのかと、ヒョーゴは優しく私の頭を撫でた。それが嬉しいのに涙が止まらなくて。
 
「また、酒に付き合ってくれるか?」
 
そう言うヒョーゴに、私は一生懸命頷くのだった。
 
 
それは身勝手な策士の罠
 

080815
 
 
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