仕事で疲れた身体を引き摺るようにしながら帰宅。部屋の鍵を開け、扉を開く。ただいま…なんて言ったところで一人暮らしの部屋からお帰りという言葉が返ってくるはずもないので、いつも通りに無言で中に入った。しかしそこで、玄関に明らかに自分の物では無い靴が置かれている事に気付く。部屋の明かりは真っ暗だ。その靴の持ち主に心当たりのある私は、そのまま部屋の中へと進んでいく。さして広くもない部屋の中で、来訪者の姿はすぐに見付かった。明かりを付けながら言う。
 
「来てたなら連絡くらいくれれば良いのに。電気も点けないで…どうしたの、静雄」
「……お帰り」
 
ただいま、と答えながら鞄を肩から降ろす。静雄は暗い面持ちでベッドの側に座り込んだまま、何も語る気配はなかった。何かあったのだろうと察しながらも、一先ずは上着を脱ぎ、手洗いとうがいを済ませ、一息つこうとコーヒーを淹れた。マグカップの一つを静雄に差し出したが、緩く首を横に振ることで拒否されてしまった為、取り敢えずはテーブルの上にカップを置く。
 
「珍しいね、静雄が合鍵使うなんて」
「…嫌、だったか」
「全然。というか、もしそうなら最初から渡したりしないでしょ」
「そっ、か」
「静雄は遠慮し過ぎなんだよ」
 
言って、コーヒーを口にした。静雄とは付き合ってもう一年以上が経つが、彼は未だに私に対して様々な気を遣う。例えば合鍵もそう。いつでも来て良いと言ってあるのに、彼が今までにそれを使って部屋に入った事は片手で数えるほどしかない。曰く、女の部屋に勝手に入るのは悪いだろうとの事なのだが、私にしてみたらそんなのはどうでも良い。静雄なら、別に構わないのに。
 
「それで、どうしたの」
 
なるべく穏やかな声音で優しく問い掛ける。暴力的なイメージの強い静雄だが、本当はその力を誰よりも嫌悪し、けれど思い通りに自制する事も出来ない自分に対して悩み苦しんでいるのを私は知っている。静雄がこうして塞ぎ込んでしまう事はこれまでも度々あったし、今日もそうなんだろうな、と。しかし、静雄の口から零れた言葉は私の予想していたものとは少し違った。
 
「今日…何で、臨也と一緒に居た」
 
慰めようと静雄の肩へと伸ばし掛けていた手が、止まった。見られてしまった、気付かれてしまった、知られてしまった。決してやましい理由がある訳では無かったが、静雄とその人…折原さんの仲の悪さはこの池袋に住む人間ならば殆ど誰もが知る事で、勿論私も重々承知して居る。自分の彼女が自分の最も嫌いな相手と会って居た…それを知ってどんな心境だったか、想像するのは容易い。寧ろその場に自販機類が飛んで来なかった事の方が驚きだ。しかしこうなった以上は仕方が無いと、私は中途半端な位置で止まったままの手を降ろして小さな吐息を吐く。
 
「…ごめん。静雄があの人の事を嫌いなのは良く知ってるから黙ってたんだけど、実は暫く前、会社の帰り道で不良グループみたいな人達に絡まれて、たまたま通り掛かった折原さんが、助けてくれた事があったの。後日お礼に伺った後も、街で会う度に声を掛けてくれるようになって…色々、話しを聞かせて貰ったりもして。今日は、丁度お昼ご飯を食べに出た先で会って、ご馳走までして貰った。静雄が見たのは、多分、その時だと思う」
 
私が話しを進めるにつれて、静雄の身体が強張っていくのを肌で感じる。これまで、静雄が私に対してその拳を振るうような事は無かったが、普段の静雄を知っているだけに、私も無意識のうちに緊張していたらしい。背中に冷たい汗が伝う。けれどこれは寧ろ良い機会なのでは無いだろうか。私はぐっと拳を握ると、常々折原さんが話していた事を思い出しながら、意を決して口を開いた。
 
「あのね、静雄。折原さんは、静雄と仲直りがしたいんだってずっと言ってたの。昔何があったかは私も聞いたけど、今はそれを後悔してるんだ、って。だから、私から静雄に伝えてくれないかって相談もされてて…私は、折原さんがそこまで悪い人とは思えなくて…お願い、一度ゆっくり話しをしてみて欲しいの。そうすればきっと、静雄ももう…っ」
 
言い終わるよりも前に、鈍い衝撃音が部屋に響く。それは静雄が勢い良くベッドを殴りつけた音だと気付いたのは、静雄がその腕を引いた時に、砕けた木片が床へと落ちた時だった。何かを必死で堪える様に歯を食いしばり、しかしその表情はどこか辛そうに歪んでいる静雄を、私はただ唖然と見詰めるしかなかった。こんな静雄を見るのは、こんな事をする静雄は、初めてだった。
 
「…悪い、今日はもう、帰る。…これ、ちゃんと弁償すっから…」
 
呟くようにそう口にして、静雄は静かに部屋を出て行った。それからの事は、よく覚えていない。呆然とした頭で、今日はどうやって寝ようとか、その前にシャワーを浴びて、珈琲を片付け無ければ…そんな事を考えながら、ただただ今起こった出来事が信じられずにいた。それでも朝はいつも通りやって来て、こんな事で仕事を休む訳にも行かず、私はいつも通りに家を出る。結局殆ど眠る事が出来なかった為、昼休みには身体を引き摺る様にして食事へと向かった。
 
「どうしたの?顔色が悪いみたいだけど」
 
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには折原さんの姿があった。そのまま近くの喫茶店に入り、昨日の事を説明する。不思議と取り乱して泣く様な事は無かったが、話しの途中で何度も自分のせいだと謝る折原さんに対しては、良心が疼くのを感じていた。外に出て、会社へと戻る途中。風切り音と共に飛来した自販機が、それまで折原さんが立っていた場所を直撃する。間一髪という所でその場から逃れた折原さんは、飛び散る破片から身を徹して私を庇ってくれていた。自販機が飛んできた方向を見るまでも無く、静雄がやって来た事を理解する。
 
「シズちゃん、たまには落ち着いて俺の話しも聞いてよ。俺はもう、君と争う気は無いんだよ」
「今度は何を企んでやがる…もう二度と、そいつに近付くんじゃねぇ」
「…解ったよ。ここまで言っても君と解り合えないのは悲しいけど、これ以上彼女に迷惑を掛ける訳にも行かないからね。…それじゃあ、俺はこれで」
 
折原さんは悲しげな笑みを浮かべそう言うと、一度だけ私の方を見て、その場から去って行った。次第に周囲に集まっていた人だかりも再び流れ始め、その場には私と静雄だけが立ち止ったまま取り残されてしまう。淀んだ空気に耐え切れず、私は静雄に言う。
 
「静雄…本当に、それで良いの…?」
 
たった数メートルの距離が、とても遠く感じた。サングラスの向こうにある静雄の瞳が、今何を映しているのかすら解らない。
 
「私は、二人に仲直りをして欲しいって、そう思って…」
「…お前は、」
 
静かに歩み寄って来る静雄に、昨夜の出来事が頭の中でフラッシュバックする。自然と強張る身体に、誰よりもそうした感情に敏感な静雄は目聡く気付いたのだろう。こちらに伸ばされた手が、躊躇したように一瞬だけ止まった気がした。けれどそのまま、静雄の手によって私の手が引かれる。
 
「お前は、俺を信じてはくれねぇんだな」
 
その言葉と共に、持ち上げられた掌へと乗せられたのは私の部屋の合鍵だった。いつぞや遊びに行った時、私が静雄に似合いそうだと言って、半ば押し付ける様にプレゼントしたキーホルダーがそこに付けられていた事など、知らなかった。静雄の事を理解して居るつもりになって、私はこれまで静雄の何を見てきたのだろう。思えば、どうして静雄が頑ななまでに折原さんとの和解を拒むのか、そもそもどうしてあのような関係になってしまったのか、静雄の口から聞いた事があっただろうか。
 
「しず、お」
 
 

110721
1000HIT記念企画夢、平沢様に捧ぐ
 
 
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