「あら、ボタンかしら」
ころころと転がってくる光沢を放つ物体を掴まえて拾い上げる。銀色の丸くて薄いそれは硬貨のようだ。生まれてこの方あまり物質としての金を見た事がなく、またこれに触れたのも初めての筈だった。
角度を変えてくるくると眺めていると、正面から誰かが近付いて来る。
「すみません、拾って貰っちゃって。ありがとうございます」
「貴方のなのね。お金を落とすなんて無用心だわ、お気を付けなさい」
顔を見て、硬直した。さらさらの黒髪に丸くてどこか愛らしさのある瞳。一度に記憶が蘇る。私が硬化に触れたのはこれで二回目、話は十数年前に遡る。
幼い私は好奇心旺盛で、よく行っては行けない場所に立ち入っては女中や家の者を困らせていた。
その日もまだ出掛けたことのない場所に行ってみようと、小さな柵をよじ登り門をくぐり抜ける。此処は植え込みの隙間の私しか知らない秘密の抜け道だ。
そこから道路へ出て、緑の生い茂る広場へと向かう。この道は最近のお気に入りだった。
しかし学校帰りの小学生達の下校時刻、わいわいと楽しげにはしゃぐ姿を見て、突然自分が独りだと気付いて虚しくなる。
今日はもう帰ろうかと踵を返そうとした時、すぐ前をぽつんと一人で歩いている男の子が何かを落とした事に気が付いた。
「ねえ、落としたよ?」
銀色の平たい物体を拾い上げて手渡すと、その男の子はにっこりと笑って私に何かを握らせた。
「ありがとう。お礼にね、これあげる」
「これはなに?」
先ほどの物とはまた違った銀色の物。中からは微かに甘い匂いが漂っている。
「チョコレートだよ。チョコレート、見たことない…?」
「チョコレート!ううん、なまえも知ってるの。でも、こんな形をしているのね」
「名前、なまえちゃんって言うんだね」
「うん!そうだよ。あなたは?」
「僕は…金木研」
それが出会いだった。あれきり彼とは会わなかったが、あの日暗くなるまで遊び回ったことは今でも忘れられない。それがこんな近い場所で再会するとは。
反射的に伏せてしまった顔を、再び恐る恐る上げると、それじゃあと言って去って行こうとする。
「お待ちなさいな」
「…はい?」
「私の事は…覚えていないの?」
「ええっと…すみません、何処かで会ったことがありますか…?」
いつまでも覚えていたのは自分だけだったのか。まあかなり昔の話だし、数多の日常のたったひとコマだ。忘れてしまっても無理はないかもしれない。
「…なんでもないわ。行っていいわよ」
そうは言っても少し切なかった。待っていた白馬の王子様が記憶喪失になってしまったらこんな感じだろうか。もやもやとした気持ちを抱えたまま屋敷に戻って夕食の席に着くと、珍しくそこには父親がいた。
「お父様、帰っていらしてたんですね」
「ああなまえ、ただいま。今日はお前に大事な話をする為に急遽戻って来たんだよ」
「大事な話?」
「お前に良い縁談が来たんだ」
相手は容姿秀麗で知的な方らしい。この家に生まれて今まで何不自由なく暮らしてきた恩返しをするべきなのだろう。元よりいつかは、と覚悟を決めていたつもりだったが、金木研との虚しい再会があった為か気分はドン底に落ち込んでいた。
それでも私は今日ここに来て準備を済ませた。手続きをして来る、と言って別れた父を待つ間、振る舞われた珈琲を座って頂く。
「(何が入っているのかしら、甘い香り―)」
くん、と鼻を近付けたその時突如として座っていた場所がそのまま上へと押し上げられていく。カッと照りつける光から目を守れば、耳を塞ぎたくなるほど大きな放送が耳に入った。
「さあ!今宵のメインディッシュは見目麗しい名家の御令嬢!強気な外見からどのような悲鳴が上がるのか、まずはその目でお楽しみ下さい!」
ウィィンと音がした方を振り向けば、大きなのこぎりを片手に持った怪物。自分がこれからどんな目に遭うのか一瞬にして悟り、どうにかして逃げねばと思うが何故だが体がぴくりとも動かない。
こんなに呆気無く終わってしまうのか。外野からも大袈裟なブーイングが飛び込んでくる。がたがたと震えたままその凶器から目を離せない。最後の抵抗とばかりに必死に後ずさろうとした時、急に視界が真っ暗になった。
「掴まって」
ふわりと身体を掬われ、風をきる感覚がする。つい最近聞いたような声にどくんと心臓が音を立てた。
「金木…研…?」
「そう。僕は、金木研」
がしゃんと音がして視界が開ける。私達は宙に舞っていた。怖くてぎゅっと目を瞑るが、暫く移動した後、地面に降ろされる。
地面、といっても屋根の上。金木から手を離すことが出来ないでいると、するりと腕を絡め取られた。
「金木研、貴方は喰種なの?」
「うん…見ての通り、だよ。なまえちゃん」
「私の名前……!だって、この間貴方覚えていないって…」
すると金木は座るように促して、自分も隣に腰掛けた。
「僕は喰種だから…なるべく君には関わらない方が良いって、そう思っただけだよ。あの日僕にしてくれたプロポーズだって、勿論覚えてる」
「…プロポーズ……」
思いを巡らせてその言葉の正体に気付いた時、首から上が一気に沸騰した。
「あああ、あれはその、その……っ!」
「"私だけの王子様にしてあげるわね"…あれって今でも有効かな」
括りつけられた腕が引き寄せられる。
唇に触れるだけの幼いキスは、あの日のチョコレートのように甘かった。
Old promise