家の鍵を閉めて空を見上げる。ぬるいが不快ではない風が頬を撫でていく。丁度あの時もこんな気候だった。忘れもしない、あの日、私が貴方に出会った日。
「つっきやっまさーん!ボンソワ!こんばんは!」
いつも通りのこの時間。数メートル先を歩く月山さんの後ろ姿目掛けてダッシュする。本来ならここでどーんと背中を押したいところだが、残念ながらそうもいかない。私がぶつかる寸前ですいっと少し横にずれた。
勿論加速した私はそこで止まれるはずもないので、すってーんと道に転がった。そう、私はただの人間なので特殊な身体能力も無いし、ちょっとの擦り傷でも全治一週間だ。
「月山さん!血が出てます!さあ、今日こそ!イートミー!」
「レディが公衆の面前で恥じらいもなくそんな言葉を使ってはいけないよ」
「公衆じゃなかったらいいんですか…!ではなくて、物理的に!」
「まだ言っているのかい?仕方のない子だね。丁重にお断りしよう」
「そんな!
アルバイトからの帰り道、暗い路地を急いでいると不意に後ろから足音がついてくる。怖くて振り向けないまま速足の速度を上げるも、マヌケな私は溝の隙間に足を引っ掛けて転んでしまう。もう駄目だ。人間か喰種か分からないけど、きっと悪い人にどうにかこうにかされてしまう。と目を瞑る。しかし突如とした痛みが襲った訳でも誘拐された訳でもなく、私の肩にぽんと誰かの手が乗った。その人は未だに尻餅をついている私の前に屈んで膝を覗き込む。
『大丈夫かい?嗚呼…大変だ、血が出ているね…僕が綺麗にしてあげよう』
『あ、ありがとうございます…』
きっとハンカチなんかで止血してくれるのだろうと思いじっとしているが、その人は一向に動作を始めようとしない。私のふくらはぎ辺りを両手で掴んで若干持ち上げたままで静止していた。
『あの…?』
『思った通り…嗚呼…芳しい香り……繊細でフルーティーな幽香に程よく脂ののった肉が相まって更に……いやまずは味見を』
『あの〜……』
『あぁすまない、今、綺麗にするよ』
仄かな赤い光がちらついた気がした。次の瞬間その人はあろうことか出血している私の膝をべろりと舐めた―――…
擦りむいた膝がじんじん痛む。あの日と痛みは同じでも目の前の彼は同じような熱烈な目を向けてくれない。獣のように鋭く、その中にも扇情的な何かを含ませた視線を私は」
「そんなに喋り続けていて疲れるだろう、さあ着いたよ」
外側から扉が開いて車から降ろされる。コンクリートに思い切り擦ったからか予想以上に出血が多く、私が過去に思いを馳せて絶望している間に月山家から車が来てそして到着してしまったという訳だった。
「酷いです!勝手に舐めておいて人のことを『不味い』だなんて……私傷ついたんですよ!この膝の傷よりずーーーーっと深いんですから!痛っ!」
「本当の事じゃないか…ほら、しっかり真っ直ぐ歩きたまえ。歩けないなら」
ふわりと体が浮く。優しさの欠片もない語調から想像もできないほど丁寧に抱えられたせいで、暫く自分の状態を把握するのに時間がかかった。
「僕が運ぼう」
不覚にもほんの少しだけどきっとした。タイプではないが容姿は整っているし、基本的には言動も優しい。何だか一瞬申し訳なくなったが、元はといえば月山さんが避けたせいで転んだのだしこれくらいして貰って当然だと踏ん反り返りを決め込むことにした。
部屋について傍の椅子に私をおろすと、月山さんはため息をついた。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
「生憎この家には手当用の道具がなくてね、水とティッシュペーパーくらいしか用意できないのだけれど」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます」
ティッシュに水を含ませるとぽんぽんと膝に押し付ける。若干眉を寄せているこの人は粗方、人間は治療しないと治らないのは不便だとでも思っているのだろう。
「君もさっき言っていたけれど、本当にあの日を思い出すよ」
「でも、私はあの日から変わりました。貴方に不味いと言われたあの日から、適度な運動健康的な生活サイクル、食生活の改善!美味しくなる為に努力したんですよ…」
月山さんがくすりと笑って空気が震える。ここはとても静かだ。
「君は面白いね、喰種に喰べられるのが怖くはないのかい」
「そりゃ怖いですよ!すごい痛そうだし!ただ不味いって言われたのが気に入らないんです!」
とくとくとくとボトルから水を出す音がやけに大きく聞こえる。
「月山さん、わたし、美味しくなったんですよ、たぶん」
サイドデスクに置かれたキャップを締め、血に濡れたティッシュをくずかごに放り込むと私に向き直った。
「再び試してみる価値はあるということかな?」
「…はい!」
両肩に正面から手が掛けられ、クッション性の高い椅子の背凭れに重圧が加わり、痛みに耐える為に目を閉じた私の耳元で月山さんが囁く。
「 ...Bon appetit 」
ちゅっと小さな温もりが唇に重なった。
unusual
(何故だか今日は)
(君の唇がおいしそうだった)