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目と鼻の先でひょこひょこと動き回るその手先をぼんやりと視界に入れつつ、静かにため息をつく。

首をそちらに傾ける為の労力すらも本当なら惜しみたいところだが、公衆の面前、明らかに顔見知りであろう男に女性が溢れんばかりの笑顔を振りまきながら呼びかけているのに無視を決め込むのはなんとも体が悪い。


ガラス越しに"入ってくれば"と店の入口を指差すと、一瞬はっとしたような表情をつくってから急いで中に回ってきた。


「Bonsoir(こんばんは)今日はなんの御用かな」


用がなければ帰って下さいという含みのある言葉を選んだのも実際その通りだからだ。

この子は欠かさず毎日毎日僕の前に現れる。女性にはなるべく丁寧に対応するように心掛けているが、こう何処にでも出没されれば、多少なりともうんざりするものだろう。



「月山さん!やっと私のことが好きになったんですね!!!」

「Attends! 待ちたまえ、一体全体どうしたら第一声がそうなるんだい…?」

えっなんだ違ったんですか、とぼそりと呟くと少しも落ち込んだ様子などないまま続けた。


「だって、月山さんさっき"入ってきていいよ"ってやってくれたじゃないですか!」

「……………もしかして終わりかい?」

「はい」


思わず頭を抱えそうになる。酷くポジティブシンキングというか、しかしそれはかなり外れた方に向かっていることは間違いない。

相変わらず笑顔の彼女はすっかり珈琲カップから離れてしまった右手を両手で掴んで、胸の高さでぎゅっと握った。



「私は月山さんが好きですよ!」

「よく知っているよ」

「大好きです!じゃあまた明日!!!」


水色のマフラーを翻して、手を振りながら走り去っていく。これも既に慣れ過ぎてしまったやり取り。彼女はしつこい割にあっさりだ。矛盾しているが、頻繁に絡みに来ては好意の言葉だけを置いて行く。

興味のない素振りを見せても傷付いた顔ひとつしない。こちらの方が、端から答えなど求められてはいないのではないかと感じるくらいだ。




そして今日。読みかけた文庫本の続きを片手に珈琲をすする。珍しく全く同じ店の同じ席で同じようにして、ただひとつ違うのはもう辺りが薄暗いという事。枯れ木の隙間からぽつぽつと街灯りが見え始めている。

昨日も例にならって"また明日"と言った彼女は、未だ現れていなかった。来ない日もあるものだなと思いながら店の出口をくぐるが、僕の足は自然と家まで遠回りの道に向いてしまった。


煩わしいと思っていた相手がいない今こそ真の安寧が訪れているのではないか?もしそうだとしたらこの素晴らしい時を散歩に使わないで何に使うだろうか?

カフェのドアベルの音のように、大して気にも留めていないのに何となく片隅に居座る彼女が煩わしい。僕に執着する癖に執拗に求めない彼女が煩わしい。星を眺めてゆったり歩を進める事が難しくなるくらい入り込んでくる彼女が煩わしい。彼女が、



「……?」


"あんていく"というランプの横に風になびく水色を見つけた。その向かいには西尾が立ち、何やら楽しげに会話をしている。

そういえば彼女は上井大学だったかもしれない。今まで特に気にしたことも気にしようと思った事もなかった。思い返してみれば、自分は彼女と笑み交えつつ話をしたことなどあっただろうか。答えはノーだ。


彼女が西尾をべしりと叩く。すると西尾は彼女の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。もそりと僕の心の中まで掻き混ざる。自分の知らない彼女が存在していることなんてとうの昔に忘れていた。


「Bonsoir,なまえ」

「こんばんは月山さん、なにか御用ですか?」


触れようとした手が直前で掴まれる。目の端では西尾が肩を震わせて笑っているのが分かる。振り向いてにやりと笑った顔を見て、一泡喰わされたのだと悟った。


「君の代わりに"また明日"を果たしに来たのだけれども…?」

「月山さん、やっと私のことが好きになったんですね」

「……悔しいけれどそうみたいだ」



すっかり冷たくなった左手を小さい温もりが包み込む。格好悪くもまんまと捕まってしまった自分に諦めの笑みを贈りつつ、左の指先にそっと力を込めた。



退戦略
 
("もっと"と思わせた方が勝ちでしょう?)


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