惚れた腫れたで堂々巡り

緩やかに体を揺さぶられて意識が浮上する。開いた瞼の隙間から覗いた景色のど真ん中に妻の笑顔があって、一瞬ここがホテルではなく自宅のような錯覚に見舞われた。

「おはよう、承太郎」
「ああ――今、何時だ」
「7時だよ、ネボスケさん」

小さく笑みを零し頬をつついてくる妻は上機嫌なようだった。このままだと彼女のオモチャにされかねないため体を起こすと、名前は改めて「おはよう」と言った。

「早く朝ごはんにしよう。一緒に海に行くって昨日約束したよね」

「昨日」と自分が小さく呟くと、「もう忘れたの?」と名前の円らな瞳が吊り上がり始める。
すぐさま首を横に振って否定した。忘れてはいないが、目覚めた瞬間から全力で行動を開始できる名前と違って覚醒するまでに少し時間がかかっているだけだ。

「そう、ならいいんだ。今朝食の支度するから、待ってて」

すると、名前は爽やかな朝に相応しいにこやかな笑顔で応じて、いそいそと何やらテーブルの上に並べ始める。
部屋に備え付けのコーヒーカップに、紙袋に包まれているのはバターロールか。見れば簡易ながら名前は身支度を済ませており、自分がまだ寝ていたうちに1階のパン屋で買って来たのだろうと予想がつく。
年下の叔父を訪ねるために杜王町を訪れるといつの間にか事件に巻き込まれ、スタンド使いの殺人鬼を追う羽目になるという非日常にありながらそれはあまりにも日常的な風景で、今さらながら昨日のことをつらつらと思い起こす。

アメリカに残してきたはずの妻が自分を追ってやって来た。
それもひと言の相談もなしに危険な事案に足を踏み入れてしまったせいで彼女は怒り狂っていた。幸い名前はジョセフから事情を聞きだしていたらしく、徐倫を日本の空条家に預けていたため妻に自分が怒鳴りつけられるところを娘に見られずには済んだが 。
勇敢だが情に引きずられやすい彼女を係らせないようにSPW財団に口止めを頼んではいたのだが、いつも名前の行動力は自分の予想の上を行く。

感情的なところのある女だが、それでも自分に対しては惚れた弱味だとかで怒りや苛立ちをぶつけてくることはあまりなかった。
しかしながら、あの時の名前は本当に凄まじかった。激情を迸らせる妻の姿を密かに美しいと思うこともあるが、昨日の彼女のそれは怒りだとかそういった物を超越していた。
あれならばオーガすら眼力で殺せそうな気がした。

悪かった、もうしない、約束すると謝ると「今度わたしにナイショで危ないことしたら口にクイック・シルバー突っ込んでベノムショック撃つからね」と空恐ろしいことを口にしながら も彼女は自分を許した。
こちらでもフィールドワークとして海に出かけていることを教えるとそれなら一緒に連れてって欲しいと強請ってきたのであった。

「ん、なに?」

ふと、名前が自分の視線に気が付いてこちらを向いた。調度コーヒーを煎れようとしていたところだったらしく、カップ片手に微笑んでいる。

「いや、何でもねえ」

本当に、機嫌が簡単に好転しやすい女だ。
昨日の鬼すら裸足で逃げ出しかねない怒気が嘘のようである。

「甘いな」

そう口にすると名前は手にしたコーヒーカップの中を覗き込んだ。

「これ、ブラックだよ?」
「そういう意味じゃあない」

だったら何なんだいと首を傾げる姿はどこか あどけなくて、自分と同い年とは思えないほどだった。
そのまま無糖ミルクなし、糖度ゼロのコーヒーをこちらに寄越してくる。

「てめーは俺に甘いって言ってんだ」

この杜王町は夏場ともなれば観光客でにぎわうちょっとしたリゾート地だ。そんなところに妻に嘘を吐いて高熱を出した娘を置いて出向いたとなれば、普通の家庭ならそのまま離婚問題に発展しかねない。
名前は自分の事情を知っていたとはいえ、彼女の性格が性格だ。
自分とは正反対に感情をコントロールしきれない面のある名前だったが、それ故に普段の快活さが嘘のように思い悩み、気が塞ぐこともあった。
自分がいない間、娘と夫のことでどれだけ彼女が独りぼっちで苦悩したかは出会い頭の顔でよくわかっ た。

自分の顔を見つめた名前は憔悴しきった顔から、一瞬泣き出しそうになっていた。
反射的に謝ってしまったのはその後の激怒が苛烈だったのもあるが、その表情にチクチクと罪悪感を刺激されたからだ。自分が言うのもおかしな話だが、よくお小言だけで許す気になったなと思う。

「そりゃあ、わたしはキミが好きだからさ。謝られたら許しちゃうよ」
「そういうものか?」

恥も臆面もなくコロコロと鈴が転がるように笑って、名前は好意を口にした。
結婚する前からそうだったが名前は感情表現が極めてストレートだ。受け取り手を配慮しない剛速球さは好ましくもあり、悩ましくもある。

「そういうものだよ。それにキミ、泣きそうな顔して謝るんだもん 。許さなかったらわたしが悪人みたいじゃない」

泣きそうだったのはお前の方だっただろうと口にする前に、楽しそうな妻の声が被さった。

「ひょっとして、わたしがいなくて寂しかったの?」

唐突に妻は己の口の中にクロワッサンを突っ込んできた。
眉を顰めて咀嚼すると軽い歯ざわりと仄かな甘みが広がるが胸中は正反対の状況だ。

「ねえ、正直に教えてよ。わたしはキミがいなくて寂しかったよ」

夫の本心くらい大体見透かしているくせに、時折名前はこうやって言動で示すことを求める。あるで遊びのように。
ややあってから1つ頷くと妻は満足そうに微笑んだ。その笑顔を見るたびに、敵う気がしないと思っていることを彼女は知っているのだろ うか。

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