そして振り返らなくなるまで

 振り向くと、そいつはちゃんとそこに居る。
  つまり、振り向かないと居ることすらわからない。やつは口数が少ないという以上に自分のことをあまり表に出さないし、吐き出せばいいものを口のなかでずっと転がして、たまに飲み込んでは消化不良を起こしている。
「てめーは馬鹿か」
 とうとう口にしたそれに、やつは怒るどころか、なぜか笑った。

**

「おかえり」
 その声があんまり自然だったもので、僕の口もするっと「ただいま」なんて返してしまう。おかげで僕はきっちりとドアを閉めてから、ようやく違和感に気づいた。振り返ると、やっぱりソファには名前が居た。彼女の部屋は隣のはずなのに。名前は彼女のスタンドではない普通のペンを片手に、今まさに試験終了チャイム直前といったむずか しい顔をしている。
「なにをしてるんだい?」
「ナパーム・デスの能力研究」
「へえ。で、進捗は?」
 彼女が黙ってよこした手帳には、『爆』のつく語が几帳面な字面で並べられていた。一瞬なにかの呪いかな、と思う程度には物騒だ。
「承太郎は寝てるのか?」
「寝てるよ」
 名前は背のびをしながら、溜息じみた深い息をはいた。辞書がほしい、とうっそり呟いた彼女はいつから漢字と格闘していたのか、ずいぶんと肩が重そうだ。そのままソファの背に身を投げ出し、髪の毛をうっとうしそうに払いながらも、ばく、ばく、と口ずさんでいるから、なんだか面白い。
「……爆のつく字、花京院も思いついたら教えてね」
「努力はするよ」
「頼りにしてる 」
 彼女とは別のソファに身をゆだねて学帽を下げている承太郎は、よほど深く寝入っているらしい。長い脚がローテーブルとの隙間で窮屈そうだ。まだ夕方なのに、と、僕もまたソファに腰を下ろす。
「あ、そうだ。名前にもあげるよ」
「……なに?」
「キャラメル。疲れた脳には甘いものっていうのが定石じゃないか」
 名前は僕の差し出した小箱をしげしげと眺め、ちらりと僕を見て、「確かに」なんて頷いた。
 ホテルの売店で売られていたものだが、やっぱり日本のものと風味が違って、それもまた異国情緒というものかなとも思いながら舌の上でころがす。包み紙をなんとなく折りたたんでいると、名前がキャラメルの箱をなにやらじいっと見つめているので、「どうか した?」と声をかけると、彼女の顔が上がった。
「別に、ちょっと」
 彼女にしては、わかりやすい嘘だった。声がごわついたのを自覚したらしい名前は苦い顔をして、キャラメルを口に放り込んだ。「最近」、ぽつんと転がった声は、僕と彼女の間に落ちる。
「……これから、さらに遠くまで行くんだなと思って」
「うん」
「爆って字ひとつ、思い出すのも一苦労したり」
 メモ欄の四分の一も埋まっていないそれを一瞥し、「それだけ」、と彼女の瞳がゆったり細められた。白い指に包まれたキャラメルの箱には見慣れない異国の字が躍っている。
 僕や承太郎と比べてしまうと、彼女は華奢だ。なのに苦しいだとかつらいだとか、そういうことを見せないように上 手く隠してしまう。どこに隠しているんだろう、と注意深く見てみたって、そんなもの最初からありませんよーって涼しげな顔をする。元々彼女はおしゃべりな方ではないし、我慢にもなれているようだし、そういうのを発露させる機会が少ないというのもあるかもしれない。
 だから、こうやってたまにみせる不安のかけらみたいなものを見ると、ほんの少しだけほっとする。名前もちゃんとそういうものを抱えて、その重みで地に足をつけているんだと思える。
「名前。三人寄ればなんとやら、というだろう?」
「……言うけど」
「それと同じさ。僕らは六人だ」
 それと同じだよ。繰り返すと、名前は目を瞬かせていたが、やがて僕の言いたいことがなんとなくわかったのか、く しゃくしゃした情けない顔で笑った。いつもどこかしらを張り詰めさせた彼女の、ゆるんだ笑顔だった。
「……似たようなこと言うんだ」
「え?」
「空条と」
 名前がソファから立ち上がって、ずれたローテーブルが承太郎のすねを打ったけれど、彼はやっぱり起きない。警戒心の強い彼にしては珍しいな、と頭の片隅で思っていると、ふと僕に影が被さった。名前の静かに凪いだ瞳の奥で、なにかがゆらめいている。「花京院」と呼ぶ声は、先ほどより明るいが、ほんの少し硬かった。
「な、なんだい」
「……一つ。お願いが、あるんだけど」
「ああ、いいとも。僕にできることなら」
「ちょっと疲れるかも」
「君より体力はあるつもりだよ」
「痛かったらごめん」
「うん……?」
 不穏な空気が僕の頬をなでていった。名前は「ありがとう」と微笑んだが、その五文字の裏に、なにかが潜んでいる気がしてならない。勢いで引き受けたものの、もしかしてこれは。
 瞬間、彼女の手が、“何か”を握る。

**

 騒がしい。
 ふと目を開くと、部屋にはいつの間にやら花京院が増えていて、やつは床に蹲っていた。肩が激しく上下し、握りしめた拳はぶるぶると震え、どんと床を叩く。「花京院」反射的に呼びかけたものの、なぜか声が少し掠れた。
「…………っ」
「花京院!」
 ソファから立ち上がったところで、やつの傍に名前が立っていることに気付いた。悶える花京院を黙って眺めるだけで、やけに真剣な顔をしてい る。
 おい、と再び声を掛けようとしたところで、花京院がぜえぜえと息切れさせながら、「ひっ、あは、はははっ!」笑った。……笑った?
「はあ、名前、これ、つら……つらい!」
「……『爆笑』はアリなのか。発動するしないの差はなんだろう」
「名前! 聞いて、く、くるし、くく」
「結果がイメージしやすいから効果と直結してる……のかも。うん」
「…………何やってんだ、てめーら」
 まさしく、何やってんだ、だ。俺の問いに答える気があるのかないのか、名前は相変わらずの顔をして、「おはよう空条」なんて言った。相変わらず花京院はソファにしがみついて腹筋を痛めている。
「よく寝てたね」
「……てめーのおかげで、ぐっすり眠れたぜ」
 俺の言葉をそのまま受け取ったのか裏まで読んだのかはわからないが、名前は薄く笑うだけだった。

「てめーは馬鹿か」
 とうとう口にしたそれに、やつは怒るどころか、なぜか笑った。そうかも、とこぼして、姿勢よく伸びていた背すじを少し丸くした。そのせいでもともと細い彼女がもっと脆く、それこそ、次に振り向いたときにはその姿が掻き消えているような気さえして、なにを馬鹿なと思ったが、口は勝手に動く。
「お前は万能じゃねえ、使えるもんは使え」
 その言葉をどう取ったのか、名前は瞠目して、ぽかんと唇を開いた。部屋の灯りを映しとった目が潤んでいるようにみえたが、二つ瞬きをしてもやつの目からは何もこぼれない。やがて名前はマヌケな口元を取り繕うように 引き結ぶと、「困った」、隙間からころんとそんな呟きを落とした。
「……使い方がわからない」
 大真面目にそんなことを言うから、やっぱりこいつは馬鹿だと俺は結論づけて、帽子のつばをいじった。
「んなもん、使ってる内に覚える」
「……じゃあ、空条も、使っていいの?」
 目だけで見下ろすと、彼女は物怖じせずにしっかりと俺を見上げていた。
「好きにしろ」

 そこからの記憶が薄い。恐る恐るスタンドを使われたところまでは覚えているが、催眠作用のある能力だったのだろうか。沈み込むような深い眠りだったらしく、頭はすっきりしている。時計を見れば、三十分といったところだろうか。花京院がとうとう咳き込んだ。
「……大丈夫?」
「あ、ああ、や っと、おさまって、きたよ」
「思ったより爆笑だった……ごめん」
「いや、でも、確かにちょっと……疲れたかな……」
 名前は申し訳なさそうに花京院の背をさすっている。ぐったりした花京院は、さきほどの余韻か小さく笑って、ふと名前を見た。「そうだ、名前」やつの目は、子どもに向けるように優しげに細められる。
「爆のつく言葉、『爆走』とかもあるよ。今思い出した」
「……!」
「ほら、書き足さなきゃ」
 花京院が手帳を差し出す。それを呆けたように受け取り、名前は几帳面にその二文字を付け加えた。今までも移動中に手帳と睨みあっていたのは知っていたが、そんなことにも頭を悩ませていたのか。それこそ一人では限界のあることだろうに。
「 馬鹿だな」
「……うん。ばかだった」
 言葉の前後の空白を上手く読み取ったらしく、その双眸が俺を見て照れたように笑った。ばかだった。そう過去形にした名前は一人頷いて、手帳を閉じた。
「空条、花京院。……ありがとう」
 窓から沈みかけた陽が射し込む。橙色の光が名前の髪を梳いた。
「使えるようにするから、使ってね」
「……気が向いたらな」
 俺の答えに、名前は面映ゆそうに目を瞬かせた。でもこいつは馬鹿だから、きっとまた何度か隣に引っ張り上げてやらなけりゃならない。その時は道連れだ、と花京院を見れば、やつも俺と同じような目をして笑っていた。

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