預言と神に関する対話



「私たちは、どこへ行くと思います?」
「どこへ?」
「どこから来た?私は誰?どこへ行く?」四季はきいた。
「貴女は、貴女から生まれ、貴女は、貴女です」犀川は答える。「そして、どこへも行かない」
四季はくすくすと笑いだす。
「よくご存じですこと。でも、その三つの疑問に答えられることに、価値があるわけではありません。ただ、その三つの疑問を問うことに価値がある」
「そうでしょうね」犀川は頷いた。「価値がある、という言葉の本質が、それです」
「リカーシブ・ファンクションね」四季は言った。「そう、全部、それと同じなの。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。本当に、なんて退屈な循環なのでしょう、生きているって」
(森博嗣/有限と微小のパン THE PERFECT OUTSIDER)




まえがき
筆者は、この対話を通じて、読者の皆様に、預言(者)に関して様々なことを考えるに当たり、その取っ掛かりとなる幾つかの素材や切り口(視点)を提供したいと考えている。もちろん、対話の内容に対しては、忌憚のない反論や疑問を抱いて頂いて構わない。預言(者)という事象(人物)に対して、いかなる態度を選択するにせよ、その決定の一助となれば幸いである。



「(歴代の)預言者が、あるいは預言者を記述した者が、『神の意志に基いて』というレトリックを用いるのはなぜか。それは神が実在するからなのか、それとも、神は不在であるけれど、そのレトリックによって、もっと別の効果を企図したものなのか」
「そもそも、僕の感覚からすると、全く神(のようなもの)を知らなかった、意識したことが無かった人間が、『神の意志に基いて』預言し、民衆を指導した、という事実(?)や、そういう預言を行う預言者に遭遇したとしても、神の存在を信じるに至ることはないと思うのですけれど」
「核心的な疑問だな。しかし、まずは、今の君の言葉の中にあった、『神の存在を信じる』という部分について、少し詳しく論じる必要があるだろう。『神が実在するか否か』というのは一つの問題である。しかしこの問題は、適切な問題として、つまり解答可能な問題として成立していると言えない可能性がある。それは、文章の意味が不明確であるということである。『神』の意味も、それを含む『神が実在する』という文の意味も、まだ明らかにされていない。私の冒頭の発言がミスリードであったと言えるが…。まず神の定義を、一応ではあるが済ませておこう。この定義を曖昧にすることによって、様々な神が生じ得るところが、面白い部分ではあるのだが…。
辞書では『神』とは、一般に、『人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与え、信仰・崇拝の対象となるもの』とある。この定義は、主に宗教的なものとしての『神』を視野に入れているが、哲学などでは、『世界や人間の在り方を支配する超越的・究極的な最高存在』とされたりする。そして、君の言葉にもあった通り、『神(の存在)を信じる』という言葉遣いが為される。信じている人間にとっては、神は、あたかも月のように、『実在』するものであって、それは信じていようといまいと、その『存在の有無』には何ら影響を及ぼさないものなのかもしれない。というか、通常、『存在』とはそういう意味であって、『信じる』という人間の個人的な行為に左右されるようなものであるならば、それは通常の意味で『存在している』とは言えない。果たして、月が存在しているように、神は存在しているのか。
少なくとも、月の存在のように、神の存在を認識することは普通の人間には難しい。しかし、人間が道具無しに認識することが困難な物質(存在)は幾らでもある。神も、道具(=適切な方法)があれば、その存在を誰でも認識できるのかもしれない。
神の存在の問題への考察はひとまずこのくらいにしておきたいと思う。というのも、神の存在を考える為には、その実在を主張する人間とその主張内容について吟味しなければならない。その筆頭が預言者(及びその記述者)である。一見当たり前のことのように思えるが、大事なことなので確認しておくと、神は、実在を主張する人間が皆無であるならば、その存在が問題にされることはないものなのである。そして、『存在』というものは、立証が待たれるものではあるが、立証そのものは、先ほどの『信じる』と同じく『存在の有無』に影響を及ぼさない。※(及ぼさないのが原則だが、神の場合はどうだろうか)」
「しかし、たとえば、神が概念であるならば、『信じる=想起する』ということが、『存在の有無』に影響を及ぼすと言えるのではないでしょうか」
「その通りだ。しかし、預言者は、決して、神が概念だ、とは言わないだろう。というのも、それでは、人間の方が主体になってしまう。つまり、先ほどの定義に適う存在を『生み出したもの』が、人間である、ということになる。これは、先ほどの定義の『人間を超えた存在』という部分に抵触する。だが、この問題には解決方法もある。すなわち、人間は、人間を超えた存在を想起できる、と考えることだ。想起した瞬間に、それ(暫定的な神)は人間を超えないものになるはずだが。ここでの問題は『人間を超える』という言葉の意味だ。あくまで一つの仮説だが、未だ想起できない段階ではあるけれども、人間が漸近する対象として(漸近しようとはせず、あくまで距離を取ろうとする者もいるかもしれない。それは信仰や崇拝、対等なパートナ、もしくは無関心となるだろう)、無限遠点に『存在』を据える。そして、人間は、人間を超える為に、運動を繰り返す、その運動を起こすための概念、あるいは起こった結果に当たる概念が『神』であって、その運動そのものが『預言』ではないか、と考えることはできるだろう」
「私はこういう概念を想起した、と単純に語ってしまっては、その概念は発言者の域を出ないし、新たな『存在』も『運動』も生み出されない。『存在が語った』とするならば、発言者以外の者が自然と想起されるが、『概念が語った』は意味を成さず、結局そこで語られた言葉は、発言者自身の言葉として理解される。神の存在の問題もまだまだ先がありますが、どうして、預言や預言者を通じて、神を信じるに至る人間がこれほどいるのか、僕にはよく分からないのですが…」
「君の感覚は、現代の少なからぬ日本人が持つものだろう。しかし、実際には、世界の少なからぬ人間が、預言的な逸話や言葉を契機として、神を信じるに至っている。そもそも人間というのは、拠り所を欲していると言える。言うまでもなく、人間には、自分を導いてくれるものとして、産まれたままの状態では、人間以外に側に誰もいない。そして、周りの人間は概してそれほど当てにできない。現代に比べれば、ほとんど人的ネットワークが発達していなかったと評価できる古代においては、自分と対話してくれる存在を誰もが欲していた。それが、神を信じる人間をこれほど生み出してきたことの最も大きな要因ではないか」
「仰られる通り、人間は、産まれながらにして神を知っているわけではありません。幼少時から神に関する教育を受ける者もいるでしょうが、神を信じるか否かは、対話の相手を欲していたか否かということに尽きるのでしょうか」
「人間は、人間を取り巻く様々な法則、関係、因果を完全に把握することができない。物理学を始めとする最先端の自然科学に深く通じている者でも、世界の推移を大まかに予測することはできても(その精度がこの100年で著しく上がったことは特筆すべきではあるが)、ひとたび微細な部分に足を踏み入れると、とりわけ人間に関する部分に踏み込むと、ほとんど予測がつかなくなる。未来の予測だけではなく、『何が正しいのか』という問題も、人間の抱える永遠の問題である。この2つに関して、人間の能力を遥かに超越したところから(どのように超越しているか、というのがそもそも大きな問題ではある)、判断を下せる存在、それに『神』と名を与えるかはともかく、そういった超越的存在を欲しているか否か、ということは、神を信じるか否かを分ける重要な分岐点ではあるだろう」
「現代では、誰かが素晴らしいことや正しそうなことを言った場合、それが神の意志に基づくものだ、とはされず、純粋に彼自身の能力や人格に起因するものであるとされるのが普通です。むしろ、それを言った人が後から『これは神の意志に基づくものなのだ』と付け加えたならば、信用度は一気に下がる。それ位神の地位は下がっている」
「軽々に神の名を語る者が多かったせいだろう。古代においても、そういう輩は沢山居たはずだ。現代と古代の違いについて、一つだけ述べるなら、そこでの『神』の厳密な同一性はともかく、人々の間で『判断主体としての神の存在を肯定する』という習慣・振る舞いが、主流ではなくなった、ということだ(地域差はあるので、主流が何か、という問題はもちろんあるが)。語弊を恐れず端的に言えば、神は駆逐された、のである」
「そもそも、預言というものの凄さはどこにあるのでしょうか。そういった似非預言者が跳梁跋扈した中で、なぜ一方の預言者には絶対的権威が認められ、他方は歯牙にも掛けられず、歴史の闇の中に消え失せてしまったのか」
「未来のことを語る予言という側面も持つ預言(予言的預言)であるならば、それは、端的に、時間的に先のことを言い当てるからだろう。しかし、未来のことではない預言、現在のことや過去のことに関するものであっても、予言的預言との共通性はある。それは『先行性』であって、通常人(つうじょうじん)が知り得ないこと、判断し得ないこと(それは主として情報の不足によるものであると一応考えられるが)に対して、『正しい』ものを提示できるということだ。メカニズムはともかく、正しいものを誰よりも早く提示できる。ここが預言(者)の凄さであると考えられる」
「正しさはどうやって決まっているのでしょうか」
「真っ先に考えられることとして、『神の意志だから』正しい、という論理が考えられる。しかし、数多の『神』が存在するならば、神同士の優劣の問題が浮上する。これは簡単には決着が付かない問題だ。我々からすれば、『幾つかの神がいるようだが、どれが最も正しいのか(優れているのか)』と素朴な疑問を抱くのが普通であるように感じられるが、宗教の多くは、他の神・預言(者)の存在(正当性)を端的に否定する。したがって、他の神や預言(者)を否定する宗教を含む幾つかの宗教(預言(者))と真摯に向き合うためには、並列する世界認識を肯定・実行しなければならない。また、そういう者においては、『神の意志だから』という理屈の他に、預言の正しさを基礎づける論理が必要になる」
「ある神を信じる者が、端的に他の神・預言(者)を否定することを可能ならしめるものとは、一体何なのでしょうか」
「この点は、正直よく分からないブラックボックスな部分だ。一つ言えるのは、神を信じる者は、『それが本物の、唯一無二の、超越的存在だ』という深い確信を持つに至っているということだ。そこに至る思考過程は、決して科学的なものではない。科学的ではないけれども、あるいは、人間的であると言えるかもしれない。なぜなら、人間というのは、自分の考え方や感じ方に絶対性や客観性を認める傾向があるからだ。
加えて、一つの宗教は、一つの体系として、完全性・統一性を有していることが多い。最初にある体系に接したものは、あたかも言語における母国語のように、その体系にどっぷりと浸かってしまって、その中で世界認識に必要なものは粗方揃うために、あるいはその体系に沿って世界認識を構築するために(『結果的な』完全性・統一性)、他の体系に対しては原則として見向きもしない、そういう状況が多いのではないか、とも推測されるだろう」
「預言(者)の言葉、その内容と、それが神などの意志を代弁しているということが、これほど信じられ、人々に対して影響力を持つのは、『人間の対話者として、人間は自己よりも優れた・正しい存在を欲する』ということ、つまり、預言を受ける側にのみ、主として原因があるのでしょうか。預言や預言者の側の持つ性質に、影響力を生み出す原因は存在しないのでしょうか」
「預言者及びその記述者は、実際に、ものごとの法則性や関連性を、通常人よりも遥かに深く見通す力を有していた、と考えられるだろう。現代においてさえ、科学的には把握が難しい因果律に対して、預言者達はそれを読み取る能力があったのかもしれない。すなわち、預言者達は、通常人よりも、視野が広い。単純に広いというより、見ている『高さ』や『場所』が異なる(それは正に、彼らの言うところの『神の視座』なのだろう)。その言葉は、一歩逸れると、いんちきな占い師のようなものと大差無いものになるかもしれないが、これは踏み込みの深さの問題だ。人間一般の普遍的側面、及び受け手となる個別具体的人間の本質的性質の抽象化、そういうものを、どのような言葉に乗せて表現するにせよ、受け手に最も適切に解釈される形で提示する。洞察の力に加えて、言葉選びの点でも通常人よりも遥かに優れていると言える」
「予言的預言が為されるメカニズムはどういうものなのでしょうか」
「予言的預言は、結果(未来)から遡って、その凄さを初めて裏付けられた、という側面がある。つまり、古代において、様々な人が様々なことを言った。その中には、未来を遠く見通すものもあった。それらは、一方で、厳密に言えばその時点で『未来を見通す』と評価するのは難しいものであったが、言葉となり共有された時点で多くの人間の内心に刻み込まれ、結果としてそれに適合した『未来が構築され』、外部から見れば、あたかも未来を見通したのと同じことのように見える、という現象である。これは予言一般についても同じことが起こり得る現象だな」
「預言(者)には、まだまだ解明し切れないところが沢山あるようですね」
「私が考える一番大きな謎は、預言者(の記述者)が、数千年前の段階で、あれほど大きなスケールのことを、しかも大局的な視点に関することだけではなく、『人間の本性(≒本質)・在るべき姿』に関して、微に入り細を穿つ言説を残し得たのはなぜか、ということである。積み重ねという、人間の営為の原則に著しく反しており、わずか数百年単位の期間で、後世までに甚大かつ決定的な影響を残す一連の体系を組み上げている。そういうことができる人間達がいる、その非人間的とも言えるところが、神の存在の傍証であるともされたりするが。
今回は、具体的な預言(者)についてはほとんど取り上げず、預言(者)について、できるだけ抽象的に論じることを心掛けた。具体的な預言から、様々な意味を読み取ったり、預言者(及びその記述者)の人格を推し量ること、あるいは存在するかもしれない神に対して、考えを巡らすことももちろん有意義ではあるが、預言に接するに際しては、今回のような、預言に関する抽象的な思考を忘れてはならないと考えている。
以上で、今回の対話は終わりとする。」



written by Yoichi yokoyama
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