「はぁ…絵本にはもうあきちゃった」 とある夏の日、愛理は祖母の家に預けられていた。両親は共働きで仕事が忙しく、長い夏休みも中盤に差し掛かる頃、毎年のように訪れる。 母親が子どもの頃に使用していた部屋で絵本を読むのが毎度の楽しみであったが、その絵本も今となっては全て読み尽くし、愛理は退屈し始めていた。 「なにか面白いこと、ないかなー…」 畳の上から身体を起こし部屋を出て、愛理が家中を探索しようと歩き回っていると、階段の一番の段が少しずれているのを発見した。 「なにこれ?」 階段のずれは、実は引き出しとなっており、中は埃だらけであった。煙たいのを我慢して、愛理はその中身をそっと取り出した。 「おばあちゃん、おばあちゃん!」 愛理が古びた廊下をパタパタと駆けていく。愛理の手には洋風の本が抱えられており、早くその内容を突き止めようと、祖母を探し回る。 祖母は庭で花や野菜に水をやっている最中であり、愛理は周りの植物に気をつけながら、祖母に近づいていった。 「おや、また母さんの部屋に行っていたのかい?」 「ううん、階段のとこでね、こんな難しそうな本を見つけたの」 「おお…随分懐かしいものを…」 愛理の祖母ははそっとその本を手に取って、一瞬驚いて目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んだ。 愛理は何故祖母が微笑んだのが分からず、首を傾げてしまう。 「愛理、これは読めるかい?」 「なんか、ぜーんぶ英語で書いてあって私はぜんっぜん読めない」 「ほほ、愛理はまだ小学2年生だものね。読めないのは仕方がないわ」 「まだ、じゃないもん、もう2年生になったんだからね!」 「分かっているわ。さぁ、麦茶でも飲みましょう」 頬を膨らませる愛理をなだめ、祖母は作業を中断し、愛理が持ってきた本を持ち居間の方へ移動する。 老眼鏡を掛け、本のページをぺらぺらと数枚めくり、祖母の笑いじわは先へ進むごとにどんどん深くなってゆく。 「おばあちゃん、これ読めるの?」 「ええ。これはね、もともとおじいちゃんの本だったのよ。これはおばあちゃんが結婚するときに、貰って欲しいってくれたものさ」 「おじいちゃんが?」 「そう。おじいちゃんはとっても物知りだったからねぇ…でも、」 祖母が何かを言いかけて、窓から空を見上げる。愛理は同じように見上げるが、青に雲が気ままに浮かんでいる様子しか見えなかった。 「おばあちゃん、なにも見えないよ?」 「ふふ、愛理もいつか分かる日が来るわ」 「ふーん。ねぇ、それよりもなんて書いてあるの?」 「知りたい?」 「うん!」 「じゃあ、話してあげよう。もう、とても昔の話だよ…」 *********** まだ街灯や高いビルが街を埋め尽くす、ずうっと前。山奥にあるとても小さな村に、その女は暮らしていた。 女の家族は、村一番の長寿を誇る祖母と、たった二人きり。祖母の身体はもう強くはないので、畑仕事や、家の仕事は女が全て担っている。 女の服装はとても質素で、他の女達が華やかな衣装を着飾るのには興味を示さない。 「どうしてそんなに飾り気のない格好なの?」 「この格好じゃないと、畑仕事がしづらいもの」 「ねぇ、この髪飾り素敵でしょ?」 「そうね、夕日の日差しの方が素敵ね」 「その髪型どうにかしたら?」 「こうして結わないと、お料理作るときに邪魔になってしまうもの」 ーおかしなひとだ、と噂する他の女達の声には耳を貸さず、女はひたすらに仕事を続けた。着飾ることに全く興味がない訳ではなかったが、そのことに気力を費やす暇とお金が女の家にはなかった。 「おばあさま、ただ今戻りました」 「おかえり」 女が家に戻ると、彼女の祖母がお気に入りの腰掛けでくつろいでいた。その手には、中身が空のカップが握られている。 「私の身体がもう少し動いたら良かったんだけどねぇ…せめて、この足さえなんとかなれば…」 「仕方ないですよ。それに、無理をなさっては、もっと大変なことになります」 女はきっぱり言い切った後に、笑顔に変わり、空になっていた紅茶を入れ直す。祖母が返答の代わりに微笑むと、女も釣られて口角を上げた。 「最近の村はどうだい?」 「…とてもいい、とは言えないですが、悪くない、と思います」 「そう」 「それから、蕾だったチューリップの花が、やっと咲きましたよ。今年は特に、おばあさまの大好きな、赤が一番綺麗に咲いてくれました」 「それはよかった。早くこの目で見たいものだね」 「もう少ししたら、お部屋に飾りますね」 家の経済は決して満足といえる暮らしではなかったが、こうして祖母と話す時間が女が心から楽しいひと時となっていた。 「…そういえば、もう何日も雨が降っていないようだね」 「ええ、村の農夫さん達も困り果てています。今年も凶作にならないと良いのですが…」 「…今年は、大丈夫さ」 「え?」 「明日には大雨が降るからね。崖の近くに住んでいる者には、出来るだけ今夜中にそこから離れるように伝えておきなさい」 「は、はい」 女はこの晴れ晴れとした天気の中、どうして雨が降ると言いきれるのか不思議に思ったが、祖母に言われたとおりに崖の周辺に住む人々に伝達をしに行った。 一軒目、この家には祖母の次に長生きをしている夫婦が暮らしており、女の言葉をすぐに受け入れて、彼らの知人の家へ向かった。夫婦曰く、 「あの大ばあさまの仰ることならば、きっと降るのだろう。なにせ、あの方の勘は昔からよく当たっていたものだよ」 「最近は私たちもお会いできていなかったから、少し心が踊りますわ。教えてくれてありがとう」 二軒目、この家には子どもが何人もいる家庭で、母親は忙しそうに家事に明け暮れていたので、一番上の少女が代わりに話を聞いてくれた。 少女はとてもしっかりしていて、女の話を聞き漏らさないように、きちんと耳を傾ける。 「まぁ! まだ小さな弟や妹が逃げ遅れてしまうかもしれないわ。すぐに母にも伝えます。お姉ちゃん、ありがとう」 三軒目、今度は家の外装がとても派手で、とても裕福そうな家庭だった。その家には自らを巫女と名乗り、村の政を仕切る親族が住んでいる所で、女は訪ねるのを躊躇ったが、勇気を振り絞って門の鐘を鳴らす。 「何のご用事で?」 家の中からきらびやかな衣装をまとった女が現れると、そのさまはまるで巫女のようだと女は思った。早く済ませようと、女は緊張しながら口を急がせて説明をする。 「あ、あの、明日から大雨が降って、崖が崩れるかもしれないので、こちらを少しお離れになった方が良いとお伝えしに参りました」 「は?…どなたがそのようなことを仰ったの? 」 「私の、祖母です」 女がそう口にした途端、元から鋭かった巫女の目が更に険しくなり、女を睨みつける。女は怖じけづくのを巫女に悟られないように、真っ直ぐその瞳を見る。 「…貴女、まさか私の預言に背くというの?!」 「そ、それは」 「この巫女に逆らう者が現れるなんて! 自分の言っていること、分かっているのでしょうね?!」 「承知の上、です」 最近、この村に訪れ巫女を名乗る一族の預言はむやみに覆したり、混乱させたりすることを禁止されている規則が作られたのを、女もよく知っていた。 「本来ならば、ここで今すぐにでも貴女を処してやりたいところだけど、そう告げた当人がいないならば話は別。1日だけ待ってあげるわ。この結果次第で、その処罰を無くしてやってもいいわよ」 「で、では」 「もちろん、外れたら私の指示に従ってもらうわ。いいこと?」 「は、はい!」 「じゃ、もう帰りなさい。その預言が当たることを祈って眠ることね。オーっホッホッホッ!」 巫女は高笑いをしながら、門の扉を勢い良く閉じた。女はあっけに取られたが、自分は罪を問われていることを思い出し、急いで家路に着いた。 「おばあさま、おばあさま! 大変です!」 「おや、どうしたのかい?」 女は息を切らせ、寝床に就いている祖母の元へ駆け寄り、巫女からの残酷な伝えを説明する。しかし、祖母はそれに全く動じず、不安な表情で話す女の言葉に耳を傾ける。 「…大丈夫さ。私を信じなさい」 「で、でも、もし雨が降らなかったら…!」 「さぁ、顔を私の方へお寄せなさい」 「はい…」 女が祖母の方へ顔を近づけると、祖母のしわがれた手が女の頬に添えられる。女も自分の手を祖母の頬へ同じように添える。 「お前さんは、1人でなにもかもを抱え込みやすいから、もっと自分に自信を持っていいのさ。それにお前は1人じゃない。私がいつまでもお前の心でこうして寄り添っている」 「はい…」 「それから、お前にだけ、とっておきの『預言』をしてあげよう」 「え…?」 「…お前さんの心を支え、お前さんを大事に思う男がいずれ現れる。だから、今が辛くても、精一杯生きるんだ。お前は、人を信じ、愛し、思うことを胸に刻む人生を歩む」 女はこくりとひとつ頷いて、祖母の身体を抱きしめた。祖母はそれに満足したのか、ゆっくりと瞳を閉じた。 やがて、夕日が山に沈み、空が暗闇に染まり始める。女はまるで恋に憂うような表情と、時折ため息を吐きながら綺麗に浮かぶ月を見つめている。 (おばあさまは、信じなさいと仰ったのだから、私は信じるしかない。けれど…) 今夜はとても美しい夜空を楽しむ絶好の空。突きつけられた現実に、女はもはや絶望さえ感じ始めていた。それでも手を組み、必死で空に祈りを捧げる。 「私…どうすれば…」 女がそう呟くと、次第に雲が集まり、湿った香りを感じさせる匂いが外から流れてきた。女は眠い目を凝らし、窓の外へ手を差し出すと、冷たい雫が掌に広がった。 「雨…雨だわ! やっぱり、おばあさまの仰るとおりだった!」 翌日、まだ雨が降り続いており、村の住民達が上げる歓声で女が目を覚まし、祖母の方へ報告しようと寝床を見るとー 「おばあ、さま…?」 女は祖母の元へ寄ると、祖母はすっかり肌の色が白くなり、女が口元に手を添えると、既に呼吸をしていなかった。誰かに傷つけられた様子が見受けられなかったので、老衰だったのだと女は感じた。 「この雨は、おばあさまが降らせて下さったのですね」 女はひとつ涙をこぼし、祖母の身体を抱きしめた。きっと、祖母自身がこうなることを知っていたのだと悟り、そして、前日の夜に聞いた言葉を思い出す。 『私がいつまでもこうしてお前の心に寄り添っている』 その後、女は祖母の預言した通り、村に訪れた若者と結ばれ、祖母の元へ向かうまでの間を幸せに過ごした。 *********** 「愛理には難しかったかい?」 「ううん、そんなことないもん!」 「そう、なら良かった」 「それで、その女の人は幸せになれたんだね」 「そうさ」 愛理に語り終え、祖母はゆっくりと本を閉じる。背表紙に残っているほこりを落とし、麦茶を一口すする。 「でも、どうしておじいちゃんはこの本をおばあちゃんに渡したの?」 「そうだねぇ…どうしてだと思う?」 「そんなのわかんないよ〜」 「ほほ、そうよね。おばあちゃんも、最初はなんでこの本だったのか、よく分からずに読んでいたわ。けれど…」 そうしてまた、祖母は空の方を見上げる。晴れ晴れとした気持ちの良い青空に、思いをはせながら。愛理も同じように空を見上げる。 「…この本の意味が分かったのは、おじいちゃんが死んでからさ」 ふと祖母がこぼした言葉に、愛理は空を見上げ黙ったまま、耳を傾ける。愛理が聞いているのを感じたのか、祖母はそのまま話を続ける。 「きっと、おじいちゃんはおばあちゃんの心、愛理の心にも、ちゃんと、居てくれている。この本は、おじいちゃんがそれを伝えようとしてくれたものだって分かったんだよ。たとえ離れたとしても、ずっと一緒にって」 「そうだったんだ…でも、どうして英語なの?」 「おじいちゃんは私を思ってくれていたのと同じくらい、照れ屋さんだったからね」 「じゃあ、お母さんとそっくりなんだね!」 「そうね、そこが遺伝してしまったのにはびっくりしたけれど、そんなお母さんの姿も、おじいちゃんを思い出させるから、おばあちゃんは大好きなのさ」 「私も、おばあちゃんのこと大好きだよ!」 「それはありがとう」 愛理は祖母の胸に抱きつき、にっこりと微笑む。祖母もそれに答えるように、愛らしい孫の姿に微笑みながら愛理の頭を撫でる。 「そうだ、愛理にも、ひとつ『預言』をしてあげよう。 私が天に召される前に、愛理にはとても優しい男の人が現れて、愛理と幸せになるだろう。…そして、私はひ孫の顔を見てから…」 「お、おばあちゃん?!」 「ほほほ、生きる楽しみは多い方が、長生きできるものさ。それにしても、愛理がどんなお婿さんを連れてきてくれるか、今から楽しみだねぇ」 「えー、誰がってことまで教えてくれないの?」 「細かくはそう分からないものさ。『預言』は神さまの気まぐれだからね。どうしても知りたいのならば、今度は愛理が頑張らないといけないよ?」 「じゃあ、私が神さまに聞いたら、分かる?」 「どうだろうねぇ…愛理、呼んでごらんなさい」 「もしもーし、神さま?」 愛理が再び空を見ると、在りし日の女とよく似た人物が、天空で見つめる2つの雲と共に、優しく微笑み返したようなものが見えた気がした。 written by KIYOKA 作品集目次 |