触覚をもがれた蟻


 昔、よくやっていた遊びがある。
 プリンカップに水や消毒液、ジュースなどを入れて、地面を這う蟻を捕まえて放り込むのだ。しかも、触覚をちぎって。
 蟻は自分がどこにいるのかもわからないままもがいてもがいて、でも自力で出てこれることはなくて。
 ぷかり、と溺れ死んだ蟻が水面に浮かんでくるのを、幼い私は何を考えながら見ていたのだろう。
 そこまでは覚えていないが、あの遊びに熱中していた事だけは覚えている。
 今の私は、あの蟻だ。


「別れよう」
 彼に告げられたその言葉を理解するのに、数秒の時が必要だった。
 珍しいと思ったのだ、喫茶店に呼び出しだなんて。
「なん、で……」
 悲しみよりも、驚きが上回っていた私の声は少し上ずり、動揺を隠しきれずにいて滑稽に響く。
「……お前より、好きな人ができた」
 ふぅ、と煙草の煙を吐き出しながら微笑む彼。
 少し頬が緩んだのは、きっとその女性のことを考えているのだろう。
 もう、彼の心の中に私はいない。
 その事実を突き付けられたような気がして、精一杯明るい表情で、傷ついていないような
そぶりで、声を絞り出した。
「そっか、良かったね。いいよ、別れよう」
 彼は怪訝な表情を見せたが、なんの追求もしなかった。
 きっと私の愛は彼に届いていなかった、そう思うと自分の不甲斐なさに涙が出そうになる。
 好きだった。確かに、好きだった。
 ……今だって、大好きなのに。
 表情のバリエーションが少ない私は、自身を嘲るような笑みを漏らす。
 きっとこの顔も、彼には喜んでいるように見えたのだろう。
「……お前、オレと別れるの嬉しいの?」
 不機嫌そうな声。イライラと煙草の火を消す彼から目を逸らして、私は立ち上がる。
 これ以上この場にいたら本当に泣いてしまうだろう。
 それでも、意地っ張りな私は作った笑顔を張り付けた。
「さぁね」
 うまく、笑えていたのだろうか。
 彼は今までに見たことのないような、面食らった顔をして俯いた。
 そんな彼を置いて、私は喫茶店を出る。
 最後なのだ、勘定を彼に任せたってばちは当たらないだろう。

 自宅に帰る途中にふと公園に立ち寄ると、数人の子供がしゃがみこみ蟻をいじめていた。
 触覚をもがれて、行き先がわからなくなってしまった蟻はふらふらと歩く。
 ふと、昔よく残酷な殺し方で蟻をいじめていた事を思い出す。
 今の私は蟻だ。あの蟻と、一緒だ。
 これからどこに向かえばいいかわからない。
 ぶくぶくぶく、どこからともなく水音が聞こえる。
 触覚をもがれた私は、きっとこのまま溺れて死んでしまうのだ。
 



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