暗い暗い闇の中で、ボクと天馬はパンケーキを食べていた。四角い机には黒いテーブルクロスが掛けられている。ボクたちを挟む一つの燭台には、蝋燭が五本立てられてはいるが、その光では心細いほど、周囲の黒ははっきりとボクらを取り囲んでいる。
ボクの向かいにいる天馬のパンケーキには、水色と緑色をしたアイスが乗せられていた。対してボクのは、赤と黒が混ざりあったアイスが乗ったパンケーキ。食欲が減退しそうな色だが、味がない。口の中にアイスの冷たさと、どろりとした触感があるだけ。パンの味は可もなく不可もなく。
「シュウ、おいしい?」
「うん、案外食べられるよ。天馬のは?」
「オレのはちょっと……食べてると、胸が苦しくなるんだ」
「味が重いとか?そのアイス、爽やかでおいしそうそうに見えるけど」
パンケーキの上にちょこんと乗ったアイスからは、到底毒を持っているようには見えなかった。天馬のはどんな味がするんだろう。甘いのか酸っぱいのか。嫌な味でつらくなってくるのか、食べるのがつらいのか。
ボクのには何もない。ボクの味覚が無いのか、元々味が無いのかすら分からなくなってきた。天馬とはベクトル違ったつらさを味わっている。
「シュウのやつ、一口ちょうだい?」
「あ、いや、これは天馬は食べられないんだ。多分、天馬が食べたらお腹壊しちゃうよ」
「……それもそうだね、それ、すごい色だし」
多分それは天馬じゃなきゃ食べられないし、これはボクしか食べられないよ、とは言わなかった。
無理言ってごめんね、と天馬は渋々自分の分を食べ始める。眉間に皺を寄せたり、涙を浮かべたり、たまに顔をほころばせたりして、天馬は頑張って食べている。その百面相を微笑ましく眺めながら、ボクもこの苦行を終わらせまいと、ナイフとフォークを扱う。
(はっきりと見える距離にいるのに)
ボクと天馬の間に立ちはだかる蝋燭の火が、ボクに威嚇するようにゆらゆらと揺れている。ボクと天馬が手を伸ばせば触れ合える距離にいるというのに、そんな簡単なこともできなさそうだった。松風天馬が、遠い。天馬はこの距離をどう捉えているのだろう。
「天馬、ボクのこと、遠く感じる?」
質問したのはボクだけれど、天馬の凝視になんとなく堪えられなくて、目を伏せてしまった。
「ちょっと、遠いかな」
天馬のちょっとが、ボクにとってはものすごくなんだけれど。
「……最初会った時さぁ、オレ、シュウの考えてることよくわかんなかった。けど、サッカー好きなやつに悪いやつなんていないし、シュウってばすごくうまかったから、ややこしいことは後からでいいかなーって」
「ふふ、天馬らしいや」
「そういう遠さはあったよ。でも、だんだん近くなっている気がする」
「ボクと天馬が」
「うん。だからさ、誰と仲良くなるにもまずサッカーだったから、相手の内面とか悩みとか、気付かないことが多くて。ねえ、シュウ、悩みとか、あるかな」
蝋燭越しの天馬は笑ってはいたけれど、相当つらいのか、脂汗が滲んでいた。人々に希望を託され、サッカーの未来を抱えて、悩みを吸いこんで、それらは天馬の胸の中で暴れまわる。アイスはもう無いが、残っているパンの大地には、地球に似ていたアイスの残滓が染み込んでいるんだろう。
自分の身を削って、他を受け入れる。ボクがそのやり方をどう思っているかは置いといて、その方法で必死に戦う天馬が、ボクは好きだ。
「ねえ天馬、ボクが見えなくなってもボクのことを覚えていてくれるかい」
パンケーキのかけらが刺さったフォークを静かに置く。天馬の手も、合わせて止まった。
「え、どういうこと?」
「ボクは天馬が思っている以上に遠いところにいる。ボクから見ても天馬は遠いところにいる」
「ゴッドエデンのことじゃないの?」
「うーん、そういう物理的なものじゃなくて……」
住んでいた世界は一緒だった。けれども、住人の変化に合わせて、住む世界も変わっていく。同じ空間にいるのに、天馬とボクがずっと一緒にいられることは、おそらくない。天馬がボクと同じになって、こっちに来てほしいとも思っていない。それはあってはならない。
「シュウ、ゴッドエデンに住んでるんだよね」
「うん。ボクはずっと、あの島で暮らしていると思う」
そこにずっといると決めたわりに、違う世界の天馬に会いたくなってしまうのは、ある種の病気なのかもしれない。
「なんだあ!じゃあ、オレが会いに行けばいいんだよ!」
ボクの意地悪な質問に、快活に答えてから、残りのケーキを口に運んで咀嚼している。まあ、そうなんだけど……。ボクの腑に落ちない表情を窺って、天馬は首を傾げた。
「そうじゃないの?」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
「船舶免許取ろうかな」
「ボクに会うためだけに?」
「良いと思ったんだけど。いつでも会いに行けるから」
天馬の笑顔につられて、ボクもついつい笑ってしまう。無尽蔵の闇の中だけど、ボクたちの笑い声は楽しそうに跳ねている。
メインディッシュはボクたちの腹へ消えた。味がそこそこのパンに、無味のアイスを食べさせられた胃腸は、透明な満腹感とでも称そうか、ボクにも言い知れぬ気持ち悪さを残していった。
天馬は数多のサッカーファンの夢と希望を食べ尽くし預かった。一方のボクは何を食べていたんだろう。夢でも、希望でもない。ボクの星は何だったんだろう。人間にとって何だったのか。どこに、消えたんだろう。いるんだ、いるはずなのに、ねえ天馬。ボクのこと見える?
「見えるよ、分かるよシュウ。シュウのこと忘れないし、いつか、シュウのところへ遊びに行くね」
「天馬……」
彼の笑顔をしっかりと記憶に刻み込む。天馬が覚えていてくれれば、他の人がボクを忘れても、ボクは存在したんだ。
「じゃあ、お開きにしよっか」
「うん、そうだね」
「ごちそうさまでした」
惑星のパンケーキは一体誰が用意したのか、わからない。それでも、作り手に感謝を表す慣習として、天馬は瞳を閉じて合掌する。なんだかボクに向けられているようだと思った瞬間に、ボクの視界は全て闇に溶けた。
まばたきをしても天馬もテーブルも、間の五星の燭台も見えることはなかった。暗くなる視界に構わず目を閉じる。ボクが生きていた星と、そこに住む彼を想う。天馬の心の片隅にでも、ボクが存在するのなら、押し潰されそうになっている天馬の、手助けぐらいはできるのだろうか。
20121226
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