「茜は天使みたいだな」――水鳥ちゃんは好きだけれど、貰った言葉はあまり嬉しくなかった。わたしは何も返さずに笑っただけだった。
 心の底では水鳥ちゃんとは正反対の事を考えていて、咄嗟にそうだと言えなかった。それを音声にすると、安っぽくなってしまうのではと恐れたから。しかし水鳥ちゃんの口から吐き出されたものは、わたしの心にじんわりと、かつ爽やかに沁みた。わたしが言ったところで、水鳥ちゃんにどう響くのかは知らない。
 水鳥ちゃんこそ、天使みたい。でも水鳥ちゃんが本当に天使だったら、いつか必ずわたしから飛び立ってしまう。だから、天使にはならないで。人間のまま、人間のわたしの、そばにいて。


「ガキん時にさ、やんなかった?明日天気になあれって靴飛ばすやつ」
「ううん。どういうの?」

 水鳥ちゃんが知っていてわたしが知らない知識を共有したかっただけだった。水鳥ちゃんはにやりと笑って、長い丈のスカートを気にせず、右足を大きく蹴りあげた。緑色の靴は勢いよく飛び出し、夕焼け空にきれいな孤を描いた。闇に染まった靴は先程の美しさを消し不格好に地面へ着地すると、バウンドして少し先の草むらの中に消えていった。

「げ、やっちまった」
「水に落ちる音しなかったし、川には落ちてないと思うの」

 懸命に探しても靴は見つからなかった。替わりの履物も無い、水鳥ちゃんは片足を靴下で帰らなきゃいけない。

「いや、あたしが自分でやったことだしさ。明日また探そうぜ。靴が消えたくらいなんだ、明日はきっと雲ひとつない快晴だな」

 水鳥ちゃんは笑っていたけれど、わたしは申し訳なさでいっぱいだった。やってみせてと言わなければこんなことにはならなかったのだ。今は詫びることしかできないのも情けなくて嫌気がさしたが、表情には出すまいと取り繕った。隣の水鳥ちゃんは特に気にもかけずに、今日の部活のことを話し始めていた。靴の分の高低差に、水鳥ちゃんのリボンがぴょこぴょこ揺れる。


 眠たがる身体に鞭打って、わたしは昨日の場所に来ていた。水鳥ちゃんの言った通り見渡す限りの空は青に支配されている。陽が昇っている分、靴も見つけられるはず。わたしの心配事も気に留めず、川の水は光り時間は過ぎていく。雷門の生徒もだんだんと数が増え、クラスの同級生が心配して助力を申し出た。いいの、大丈夫よ、同じような返答を繰り返した。サッカー部の朝練はすでに始まっている頃だ、無断で休んでしまった。水鳥ちゃんももう来てるかな。
 どこを探しても靴は見つからなかった。草むらとはいえそんなに生い茂ってはいないので、見つかると思っていた。どうしよう、大切なものなのに。無いと困るものなのに。ローファーよりもこっちのが好きなんだよ、と嬉しそうに話してくれた靴。夜のうちに何かあったのかしら。もし野良犬が銜えて持って行ったりでもしたら。

「ごめんね、水鳥ちゃん」

 呟いてもどうにもならなかったが諦めたくもなかった。草と土で汚れた手を気にせずに、携帯電話で時間を確認する。朝礼まで時間がない。焦りと罪悪感が頭を支配して、時計を表示したディスプレイが涙で滲む。もう学校も休んでしまおうか、適当に理由をつけて、ああでも皆に目撃されちゃったし。
 手で眼を拭おうとした時に、携帯が震えた。こんな時間に着信があるなんて、と確認したら涙は引っ込んでしまった。水鳥ちゃんからだった。

『あ、茜?まだ学校行ってないのかよ』
「うん。水鳥ちゃんも?」
『……茜、泣いてる?何かあった?』
「なんでもないの、ごめん水鳥ちゃん、ごめん」
『ほんとに大丈夫か?いや、あたしが大丈夫じゃないんだ。茜さ、今からあたしんち来れるか。学校は……ああもう、それどこじゃねえ』
「水鳥ちゃん?」

 通話が切れたのを皮切りに、わたしは置いていた鞄を引っ掴んで走り出した。焦燥した水鳥ちゃんの声なんて初めて聞いた、男子と喧嘩して負けた時だって、泣き事ひとつ言わなかったのに。


 水鳥ちゃんに羽が生えていた。
 息も絶え絶えに、瀬戸家の玄関に上がりこむ。水鳥ちゃんの部屋のドアを勢いよく開けると、変貌した姿に息を呑んだ。
 学校のこととか見つからない靴のこととか、言わなければいけない言葉も用意していたけれど、そんな台本が全て吹っ飛ぶくらいの衝撃だった。絶句。ベッドの上にあぐらをかいて、困窮している水鳥ちゃんを余所に、わたしは彼女の姿を目に焼き付ける。どこにも汚れのない純白と、広げたらだいぶ大きくなるだろう翼、触り心地の良さそうな羽は、一枚一枚かたちが整っている。
 頭に輝く輪は無いけれど、水鳥ちゃんは、

「おい茜!見惚れてる場合か!」

 怒声で我に返る。水鳥ちゃんは先程のわたしよりも泣きそうな顔をしてわたしを呼んだ。

「どうなってんだコレ、羽が、は、生え、て」
「水鳥ちゃん落ち着いて」
「無理だろ!こんな、くそ、なんであたしが」
「ちょっとごめんね」

 なるべく冷静さを持って、ベッドに乗って背中に回る。畳まれた翼はしっかりと水鳥ちゃんの背中から生えていた。触れた羽毛は柔らかく、ひとつを手に取ると滑らかに指からするりと抜けた。羽から発している甘ったるい香りが鼻孔を襲う。砂糖が焦げたようなにおい。殴られること覚悟で、水鳥ちゃんのパジャマをたくし上げようとした、ら、怒られた。

「起きたら生えてたんだ。背中に違和感があったから、手さぐりで触ったら羽があって」
「うん」
「あたしが起きた時には家にもう誰もいなかったし、パジャマに穴開くんじゃねえかと思うと着替えられねえし、でも、でもな、鏡に映んなかったんだよ、普通の背中だった」
「パジャマに穴は?」
「開いてない」

 愛用のカメラを鞄から取り出して、水鳥ちゃんをファインダーから覗く。肉眼で見えていたはずの羽は忽然と姿を消している。半泣きでパジャマ姿な水鳥ちゃんは貴重なので一応シャッターを切った。
 鏡に映らない。被写体にもならない。他の人の眼に映るかも分からない。消えながら存在するそれは、水鳥ちゃんに、よく似合っている。
 少しだけ落ち着いたのか、それとも疲れるのか、慌てふためくことはやめて、どんよりと肩を落として短い間隔でため息を繰り返している。

「これ、飛べんのかな。あたしからは動かせないんだけど」
「でも感覚はあるんだよね?」
「うん、なんか触られてるのは分かるけど、動作ができないんだ。神経通ってんのかな……」

 畳まれている翼を強めに掴んで前に持ってくる。触られている受け身としての感覚はしない、今のように伸ばしても羽の付け根も背中も痛くもかゆくもないらしい。

「ふふ。やっぱり」
「なんだよ」

 笑い事じゃないんだ、とぎろりと睨まれた。わたしは気にせずに続ける。

「水鳥ちゃん、天使みたい」
「はあ?」
「最初見た時、わたしに、お迎えが来たんじゃないかって。ちょっと本気で思っちゃった」
「おいマジで勘弁してくれ。それ茜死ぬじゃん。あたしも人じゃねえし」
「水鳥ちゃんになら連れてかれてもいいよ、天国でも地獄でも」
「あたしは絶対に嫌だけどな、茜が死ぬなんて。第一さ、……茜の方が、こういうのは似合うんだし」
「それは外見の話でしょ?わたしは――」
(ずっと前から、水鳥ちゃんが天使みたいだと)

 はあ、と水鳥ちゃんの頭がわたしの肩にもたれかかる。わたしたち二人の中ではよくある光景の中に、白い羽はぎらぎらと異彩を放っている。見張られているような感覚だった。瀬戸水鳥はお前のものではない、じきにお前の手を掻い潜って飛び立つんだ。ほの白く光る羽は、威嚇と警告をわたしにぶつけてくる。だめ、水鳥ちゃんはわたしのそばにいるの。あなたには渡さないわ。

「……邪魔だよ、水鳥ちゃん。そんな羽いらないよ」
「どうしたんだよ急に。そりゃあたしも邪魔だと思うけど」
「人間の水鳥ちゃんが好きなの」

 不意に身体をずらすと、支えを失った水鳥ちゃんはそのまま横に倒れる。背中の翼があるから仰向けにはなれず、うつ伏せの姿勢から起き上ろうとするしかない。それよりも速く、わたしは水鳥ちゃんの腰に跨って、両手で羽の根元を強く掴んだ。

「ちょっ、と、待て!茜!」
「……痛みもないから、平気だよ?」
「心の準備が!」
「今からしてね」
「なあ、これ、もし取れなかったら」
「取れるよ。大丈夫。絶対取ってあげる」
「でももし取れなかったら」
「……うーん。その時はねぇ、実験でもしようか」
「じっ、けん」
「水鳥ちゃんが飛べるかどうか、学校の屋上から落ちてみようよ。わたしも一緒にやるから、ふたりいっしょに。ね?」


 両翼はあっけなく取れてしまった。力強く握っていた根元から、きゅぽん、と音を立てて背中からもげた。取れた羽を見ようとしたら、「えっ」「えっ、って何があったんだよ茜!あたしの背中は無事か!?」「わたあめ」「は?」「わたあめになっちゃった」、羽と同じくらいの大きさの綿菓子がベッドに転がっていた。わたしの掌にはべっとりと溶けた砂糖がこびりついてる。

「背中、なんともないか?」
「うん、見た限りでは」

 パジャマに穴も無く、今度は許可を得て上着を捲った。手の甲で背中を撫でても違和感は無かった。

「良かった……。はあ、騒いだら腹減ったよ」
「朝ごはん、まだなの?」
「あんな状況で食えないっての。あー、学校も午後から行くか。それまでゆっくりしようぜ。茜もなんか食う?」
「うーんと、まず手を洗いたいな」


(天使なんか、いない)
 水鳥ちゃんはわたしにとって天使のような存在だけど、天使になってほしかったわけじゃない。これで良かったの、無理にでもあの翼をもがなければ、水鳥ちゃんは消えてしまう気がした。あの翼が動き出して、水鳥ちゃんを空の向こうへ連れて行くはずだ。
 右手の中指を口へ運んで、指の腹を舐める。やっぱりただの砂糖で、粒を噛み砕く。生まれて初めて「ざまあみろ」を言葉にした。かみさまの思い通りになんかさせないんだから。水鳥ちゃんに呼ばれたので、急いで手を洗う。使った蛇口も、砂糖が残らないように洗い流した。

「茜、靴探してきてくれたのか?」
「水鳥ちゃんちに来る前に、ちょっと探してた。でも、見つからなかったの。ごめんなさい」
「え……」

 右足の形の靴を掲げて振り返った水鳥ちゃんの表情が、みるみるうちに強張っていく。視線はわたしの顔じゃなくて、身体の、ちょっと横に向けられていた。そういえばさっきから、背中が重い。


企画『忘却』さまに提出
ありがとうございました


20121025

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