陽が沈んで電灯が点き始めたというのに、円堂の姿が夕闇にまぎれることはなかった。五メートルくらいだろうか、前にいる円堂の手は、拳を作って高く掲げられている。位置が良いのか拳の上には一番星が煌々と輝いていて、その偶然に俺は小さく笑った。

「やった!また俺の勝ち!」

 ぐ、り、こ!
 三歩進んで振り返る、円堂の表情は勝ち誇った笑みを浮かべていた。ゴールに設定した電灯まで、グーで一度、チョキで一度勝てば辿りつける位置にいる。
 円堂の一歩は大きい。一つひとつが力強く、もし円堂が負け続けても俺には追いつけないんじゃないかと思うくらいに。歩幅だけじゃない、勝負に強い所はサッカー以外にも発揮された。単なるじゃんけん遊びにも。
 あいつは遠い。絶対に追いつけない所にいると、いつも実感する。それでも俺は、あいつの手を取れない理由がある。

「お前は強いな!」

 また距離が広がったので、俺はいつもより少しだけ声を張り上げた。

「そうかー?豪炎寺なかなか強い方だぞ!ほら、前みんなで雷雷軒までやった時、二着だったし」
「一着は円堂だろう」
「にひひ、そーだったなー!でも豪炎寺、負けたら肉まんおごりだからな!」

 じゃん、けん、ぽん!
 円堂の掛け声で腕を振り上げ、手で思い思いの形を作った。円堂がパーをすると必殺技を出す時みたいだ、と心の内で思って、俺は鞄を背負い直して歩を進める。ちよこれいと。円堂との距離が少しだけ縮まった。チョキかパーで一度勝てば、並ぶことができるだろう。

「なんか、豪炎寺が後ろにいるって変な感じ」
「いつもは円堂が後ろにいるもんな」
「変な感じだけど、ちょっと嬉しい」
「肉まんに近付いているからか」
「違……くはないけど、うーん、なんていうのかな。豪炎寺は俺の目標なんだ」
「え」
「ほら、じゃんけん!」

 話を逸らされた。なんだ、目標って。腑に落ちないまま手を構えた。円堂の掛け声が黄昏に響いて、そのすぐ後に「よっしゃー!」と雄叫びをあげた。対して俺は自らが作ったチョキを恨めしげに黙視した。
 円堂の三歩に合わせて、俺は声に出さない言葉を吐き出す。大股で距離を取る円堂と同時に、静かに気持ちをぶつける。

(好、き、だ)
「ん?なんか言った?」
「いや、何でもない」

 俺が微笑むと円堂はふくれっ面をした。俺は円堂への誤魔化しが下手で、それをよく諌められる。

「豪炎寺は嘘つくの下手だな!何て言ったんだよ!」
「何でもいいだろう」
「よくない!」
「……じゃんけんするぞ」

 そのふくれっ面が可愛らしくて、言ったらいいことでも黙っている時がある。円堂はそれをすぐに言えと言うけれど、拗ねている円堂を見られて悪い気分じゃなかった。真実を言うと、またふくれるかもしれない。次はその時に、両頬を手で挟んで、口の中の空気を出してやりたい。
 俺がグーで勝って、円堂の先程の歩みを相殺する。続けてやったらまた俺が勝ち、六歩分駒を進めた。ぱ、い、な、つ、ぷ……まで来て、次の一歩を踏み出そうとした時だ。

「豪炎寺!」

 円堂が手を伸ばす。ただ手を伸ばすだけでは届かない距離がある、俺が跳べばなんとか届く。満面の笑みで俺を待っている。
 単なる遊びの中のできごとだ、難しいことではなかった。が、その手を取ることに躊躇した。その手を取ったら終わってしまう、まだその時ではないと直感した。俺の前を行く円堂は遠い。それでも。
 助走は出来ないので両腕振り勢いをつけて、固いコンクリートを蹴った。高さもなければ距離もない、それでも存在する滞空時間で、右手を円堂に伸ばす。右手が同じ手で掴まれ、パシッ、と軽快な音がしたかと思うと、円堂に思いっきり引っぱられた。

(ほら、なんともない。これは現実なんだ……)
「追いついたな!」
「いいのか、勝利が遠くなって」
「あ。……まあいっか!」

 あはは、と笑いつつも、円堂は右手を離そうとしなかった。俺が手を引けばそれで済む話だろうが、自分でも離そうという意思はない。まあいいか、と円堂の真似をした。

「円堂、さっきの。俺が目標ってどういう意味だ?」
「ん?そのままの意味だぜ」
「ポジション違うだろう」
「でも目標なの!なんだろうな、ポジションとかそういうんじゃなくて、人?」
「ひと、って……」
「うーん違うかな。そうだ、心だ、こころ!目標っていうかさ、道しるべ?とにかく、豪炎寺とは近くにいたいんだ」
「とにかくの後の結論が繋がっていないぞ」

 自分の胸を、円堂の拳が軽く叩いた。服の上からなのに、心臓が適温の湯に浸ったような、じんわりと温かさが広がっていく。

「グリコの最初の方、豪炎寺のが前にいただろ」
「ああ。俺が運よく連勝した」
「そん時に思った、いや、思い出したんだ。出会った頃から俺は、豪炎寺の背中を追いかけてた。さっき嬉しかったのは、目標に追いついて抜かしたからかな」

 照れ隠しに視線を逸らす円堂に、俺は驚きつつも顔には出さなかった。それでもやっぱり漏れ出してしまう嬉しさに、口角を少しだけ上げた。

「俺も」
「え?」
「俺もだ、円堂」

 まるで、太陽の後を追う感覚だった。行けども追えども距離は縮まらない。手を伸ばすと掌がじりじりと焼かれ痛む。膨大な熱を追っているのに、熔かされる、というよりかは、焼かれる感覚だった。
 弱小サッカー部のキャプテンと、元名門校のストライカー。最初こそ人々は、俺自身も、円堂との間に大きな差を感じていた。その差がどんな名前なのかは分からない。実力の差なのか、しかしポジションが違うのに実力と言っていいものか。大会を勝ち進むにつれその差は段々と埋まっていった。俺と円堂は互いにいつまでも差がある≠ニいう錯覚を、無意識に埋めようとしてきた。それは日々の練習や特訓の影になって、後から離れずに着いてきた。
 雷門のグラウンドに立って、初めて円堂に背を預けた時。あそこからじゃんけんのない、遊びでもない、心の追いかけっこが始まっていた。
 皆は円堂が俺を追いかけるように映っていただろうが、俺は今まで円堂の前に居たことがない。サッカーをやめようとしていた俺の前に、いきなり現れた。俺が円堂を追いかけていた。円堂守という強い光を目指して。その光に触れたくて。

「同じところにいたんだな、俺たち」

 ニカッと笑ったその顔は、追う俺の様子を窺って、振り返る時に覗くものとそっくりだった。早く来いよ、サッカーやろうぜと、散光の中でさんざん促された。
 一緒の空間にいることじゃない。俺の中の円堂は随分と前を走っていた。それと同じで、円堂の中の俺も先を走っていたんだろう。
 追う自分も、追われる自分も同じだった。円堂とはお互い様だった。スタート地点も、距離も。

「でも、このままでいい」

 フォワードがキーパーを目標にするなんておかしな話だが、円堂はそういった個である目標じゃなくて、うまく言葉にできないが、ひとつの終点であると思う。俺が円堂という終点に追いついたからといって、俺と円堂の関係は変わらないことは分かっている。円堂に追いついて手を繋いで、一歩踏み出せば、好きなだけサッカーができて円堂とずっと一緒に居られる楽園が広がっている。
 楽園だけれども、決して楽しいことばかりではない、となんとなく感じている。だから幼い俺たちが苦難に押しつぶされないよう、円堂に対する気持ちじゃなくて、俺自身の心が育ってから、その手を取ろうと決めていた。たった今までは俺と円堂、円堂と俺の距離は同じだったが、円堂はせっかちなところもあるから、もう俺の手を取ってグラウンドへ走り出しているかもしれない。
 このままでいい、と言った俺の顔に円堂の顔が近づく。丸いきれいな瞳には俺のつり目が映っている。

「ごーえんじっ!」
「……近い」
「俺、まだお前に追いつけない!だからもうちょっと俺の目標でいてくれ!」
「なんだそれ」
「でさ、追いついたら、一緒にサッカーやろうな」

 そうだ、この眩しさ。これに俺は魅せられた。どんな闇をも照らそうとする光に焦がれた。こいつの中でこいつの前を走る俺は、どんな光を発しているんだろう。円堂も、俺に惹かれて俺に追いつこうとしている。はっきりとした道のない光の中を、ちゃんと先導しているだろうか。

「ああ、約束だ」
「へへ、豪炎寺!」
「何だ」

 あの時俺が円堂の歩みに被せ発した言葉を、円堂から受け取った。


20120323
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