珊瑚のような髪は、水の中だと花のようにゆらゆら揺れた。褐色の肌と桃色の髪は、わたしから少し離れた所で水底を目指していた。赤い水着もよく映えている。
ゆっくりと、少しだけ、空気を吐き出すと、わたしの目の前が泡で歪む。シュノーケルではない、普通の水泳ゴーグルをつけて、二メートルプールを潜っている。
理夢がこちらを向いて、わたしの名を呼んだ。「パンドラ」……懐かしい名前は声にならずに気泡になった。理夢の顔を、吐き出された気泡が遮る。わたしも彼女を昔の名で呼んだ。
「リーム」
言葉は泡になったが、わたしたちはくすくす笑った。
ゴーグルのゴムがきつくて、こめかみが痛んだ。目を瞑ってそれを取る。理夢が見れない、彼女を見たい。目をうすく開けると、理夢はちゃんといた。いたけれど、水の中で極端に下がった視力は、いつもの理夢をとらえてくれない。
「パンドラ」
理夢が名前を呼んでくれる。それだけで幸せを感じるときがある。底を蹴って、わたしの手を取って、上へ上へと昇っていった。水面が近くなって、酸素がたくさんわたしの肺に飛びこんで、足がつかないから立ち泳ぎをして。
プールサイドで一息つくと、理夢はまた潜っていった。しばらくして戻ってきたとき、片手にはわたしのゴーグルがあった。
「びっくりした。いきなりゴーグル外すなんて」
「ありがとう。水中でね、視力が下がってもいいから、理夢を見たくなって」
理夢が首をかしげる。そんな彼女に、「なんであの名前で呼んだの?」と質問した。
「な、ん……となく」
「なんとなくなの?嘘」
「……嘘だ」
ふむ、と軽く顎を引いて、理由を言うための言葉を選んでいる理夢。それを隣りで黙って見ているわたし。プールに来てまで、何をやっているんだろう。理夢が、そうか、と小さく声を上げた。
「人からもらった名前は、どんなものであろうと消えない。大切なものだ、けど」
お父様のことを指しているのか、それとも別の人のことなのか、理夢は言わなかった。相槌を打つ。
「希望だろうと、パンドラだろうと、名前が変わっても、私はあなたが好きなんだ、と思った」
理夢の髪は水を吸って垂れていた。片方の瞳が、鋭くわたしを射ぬく。ゴーグルで保護していたというのに、理夢の目は潤んでいる。
「……わたしも」
理夢はこくりと頷いた。「もう少し泳がないか」と、手を差し出した。迷わずその手を取る。ぐん、ざばん。プールサイドから水の中へ、世界が変わる。
わたしも、あなたが好きよ、理夢。
音のない世界で、言葉は丸く輝いて昇っていった。
20110922
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