ぐっ、と力を込めて爪先立ちをする。いつもより少しだけ高く見渡せる世界は、足が疲れて踵が地につくまでの数秒間しか味わえない。この世界が彼女の標準なんだ、今の私じゃ追いつけないや。秋は踵を下ろすと同時にため息をついた。土と汗のにおいと、埃っぽい空気の中に、秋の吐息が混じる。外では雷門イレブンが、次の試合に向けて特訓を続けている。

(そうだった、おにぎりの準備)

 他のマネージャー二人はまだ来ていない。ひとりでも準備をするべく、秋は先に部室へ向かった。春奈は学年も違い新聞部のこともあるので、少し遅くなるだろう。夏未は……分からない。最近はサッカー部によく顔を出してくれるが、理事長の娘としての仕事もある。秋には見当がつかない。

(夏未さん、今日は来てくれるかなあ)

 机を運びながらぼんやりと考える。夏未が部活に来てくれると、どこか安心できる自分がいた。実際マネージャーが三人になって、個々の仕事が分担しやすくなり、動きやすくなったのは事実だ。雷門中の理事長の娘が味方になってくれたのは有難いことだが、秋の、夏未に対する安心感は、そんな権力からくるようなものではないことは、秋自身も理解している。
 それでも、グラウンド脇のベンチで夏未がメガホンを持ち、その横でストップウォッチを握っている自分は、部活の中の緊張感を感じつつ、精神的にリラックスしている。

「机はこんなもんかな!」

 少し赤茶けた机に手をついた。少し手に体重がかかって、足が浮いた。目線が少しだけ高くなる。

(夏未さんの、視界)

 体勢を一度直立に戻して、もう一度爪先立つ。机に手を置いて支えようとしたが、身体が少し前に傾いて、いつもの世界には届かない。手を離して、いつも通りの何の補助も無い爪先立ちをした。
 自分の身長にコンプレックスを持っているわけではない。自分ではどうしようもないものを欲しがることも、仕方のないことだ。夏未は女性的な美しさを持っている。羨ましい、しかし、それを夏未から奪おうなどという気は毛頭なかった。
 せめて、私が、夏未さんと同じ世界を見られたら。

(見られたら……なんだっていうの)

 もっと夏未さんに近づけるのに。



「……木野さん?」

 ドアノブが回る音と、滑りが少し悪い扉の開く音とともに、部室に入って来たのは夏未だった。秋は驚いて慌てて彼女の方に向き直った。踵も下ろす。秋の慌てっぷりに、夏未は怪訝な顔を見せた。

「少し学校のことで遅くなってしまって……どうしたの?そんなに慌てて」
「あ、いや、なんでもないよ!それより、今日はおにぎり作ろうと思って、先に準備してたの。まだ机しか出してないけど」
「そう。なら、塩と海苔とお手拭きと、炊飯器をとってきましょう。……あら、音無さんは?」
「まだ来てないの。たぶんもうすぐ来るとは思うけど……」

 もう、と夏未は頬を膨らませた。それが可愛らしくて、自然と笑顔になってしまう。行きましょ木野さん、ドアの近くで立っていた夏未は翻って部室から出る。秋も、先に行ってしまった夏未に追いつくべく、急いで部室を後にした。太陽の光を浴びて輝く長い髪と、しゃんとした背筋、しっかりとした足取りで歩く夏未を追いかけた。

「で、どうしたの?木野さん」
「どうしたって、何が?」
「部室で深刻な顔して爪先立ちしているんですもの。なんでもないことはないと思うけど」

 しっかりとバレていたうえ、その様子も見られていた。赤面した秋を「何か悩み事でもあって?」と真剣に夏未が尋ねる。
 夏未さんに憧れていて、もっとお近づきになりたいんです。言えるわけがない。そもそもこの感情を、単に「憧れ」と表現していいのだろうか。秋の中でも、それを「憧れ」と呼ぶのには違和感があった。心に靄がかかる。焦る。普段なら落ち着ける、夏未が隣にいるというのに。
 とりあえず秋は、このもやもやした感情は言うまいと、爪先立ちの理由だけを述べた。火照った顔を手で扇いで。

「その……夏未さん、背高いなぁって。私もそれぐらい大きかったら、見えるものが違って見えるのかなぁ」
「あら、高すぎるのも困りものよ」
「そうかな、背の高い女の人って素敵だよ」
「私たちはまだ成長期よ。これから伸びるわ」
「でも、夏未さんに追いつくことはできない……」

 苦笑いする秋の横で、くすくすと夏未は小さく笑っていた。

「ふふっ、木野さん、目標は私なの?」
「え!あ、その、そうじゃないの!」秋の顔がさらに赤くなった。分かりやすい変化を見て、夏未はまた笑いだす。

「もう!夏未さん!」
「ごめんなさい、なんだか嬉しくて。木野さんがそんなふうに思ってくれるなんて。ありがとう、木野さん」
「うう……」
「本当に嬉しいのよ、木野さんだからこそ。そうだ、お礼と言っては何だけど」

 とんとん、と夏未が自分の両肩を叩いて、秋に目配せする。訳が分からず頭に疑問符を浮かべる。

「え、肩たたき?」
「違うわよ!私を支えにして、爪先立ちしてもよくってよ」
「そんな!」

 拒んだ秋の両手を掴んで、夏未は自分の肩に置いた。いつでもどうぞ、と目で訴える。秋の手は夏未の肩に、さらに夏未の手が重なっている。逃げ場はない。

「じゃあ……」

 意を決して、手に力をかけて踵を上げた。夏未が重さに対して顔を歪めたが、「大丈夫よ」と返ってきたので、遠慮しながらも爪先立ちを続ける。
 すぐ目の前に、夏未のきれいな瞳が見える。動いた時、ふわりと良い香りが鼻孔をかすめた。いつも見ている景色より、数センチだけ高い世界。これが夏未がいつも見ている世界だ。心臓が高鳴る。昔、父親の肩車で見た、自分の目に映る、普段とは違った世界を味わった時の高揚感に似ている。
 一通り見回して、秋は視線を目の前に戻す。自分の力の支えになっている夏未は、文句ひとつ言わず、微笑みながら秋を見ていた。見つめ合う形になる。夏未の頬も心なしか色づいている。見つめられている、と意識した夏未は、恥ずかしそうに目線を下げる。

(夏未さん、やっぱり、きれい)



「木野さん、そろそろ」
「あっ、ごめんなさい!」

 我に返って、急いで踵を地につけ、肩から手を離す。

「どうだったかしら」
「やっぱり、ちょっと高くなっただけでも違うね。ありがとう夏未さん」
「木野さんったら、小さい子みたいに目が輝いてたわよ。可愛らしかった」
「は、恥ずかしい……。でも、本当にありがとうね、夏未さん」
「必要になったらおっしゃって、いつでも貸すわ。でも、私はそのままの木野さんでも良いと思うの。私ぐらい背の高いのもいいけど、今の秋さんでも十分に魅力的だし、好きよ」
「……夏未さん」
「さ、炊飯器を取りに行きましょう」

 歩き出した夏未をよそに、秋は呆けて突っ立っていた。夏未のはるか前からは「夏未さーん木野せんぱーい!遅れてすみませーん!」と、春奈が大声で駆けてきた。
 視界が歪んでいるように感じた。まだ夏未の高さを引き摺っているのだろうか。遅刻のことで春奈が謝罪している。よく分からない、思考が停止している。そうだ、おにぎり。いや、夏未さん。私はしっかりと地に足をつけて、自分の高さでものを見ている?
 憧れじゃないなら、なんなの。


20110817
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