悪童の精度

「月島軍曹。網走へ出発するぞ」
「はい。鶴見中尉殿」
 月島は馬車の御者台に乗った。そして手綱を握り、馬を走らせる。彼は振り切るように、まっすぐ前を見据えていた。もう迷わない。前へ進むしかないのだ。その先が地獄だろうとも。

 ※

 ざぁざぁと空から降る大きな雨粒が、月島の身体を一層冷やす。雨が地面に叩き付けられ、泥色の飛沫となり脚絆を汚す。月島は気にも留めず、厳しい表情のまま大股で歩く。彼は今、虫の居所が悪い。
 上官である鶴見は、アイヌが隠した金塊の手がかりである刺青人皮を集めている。網走監獄に収監された“のっぺらぼう”という囚人が、金塊の隠し場所を記した暗号を囚人達に彫ったものだ。刺青囚人集団が脱獄して以降、行方を探している。相手を騙し時に裏切り――出し抜く。血生臭い争奪戦を有利に進むため、一計を案じた。
 夕張にいる腕利きの剥製屋に、偽物の刺青人皮を作らせたのだ。
五枚の偽物が完成し――九死に一生を得た後、やっと鶴見に届け終えた。任務は無事に完了した。それなのに、月島の心境はすっきりするどころか、頭上に広がる黒く凄む空と同じくらい澱んでいる。
「芸術家の本懐は、作品を世に遺すことだ」
 五枚の偽物人皮に頬擦りする鶴見を、月島は感情を殺して眺める。本物と見間違う程の精巧な偽物が出来るまで、月島は数週間とある剥製屋の家で過ごした。
『集中、集中!』
『僕は鶴見さんの言うことしか聞きませんから!』
 監視という名目だが、言うことを聞かない幼子をお守りするようなものだった。剥製屋――江渡貝は、昨日起きた夕張の炭鉱事故で命を落とした。彼は死んだ母親と、墓場から掘り起こした複数の死体を剥製にして、静かに暮らしていた。
 狂気の安寧生活を終わらせたのは鶴見だった。江渡貝親子の歪んだ関係を断ち切らせ、刺青人皮争奪戦に関わらせた。おかげで江渡貝は、対抗勢力に狙われ――夕張炭鉱内へ逃げる最中、爆発事故に巻き込まれたのだ。
 無関係だった人間を、こちら側に引き込んで死なせてしまった。その事実が、月島の傷だらけの心に滲みるのだ。まるで、膿んだ傷口に塩を塗りたくられたみたいに。
 頭によぎるのは、偽物を託す江渡貝の顔。爆発で落ちた木材で脚が潰され、身動きが取れない彼は既に死を受け入れていた。自分に課せられた役目を終え、吹っ切れたように見えた。
『これを鶴見さんに! 鉄と伝えて下さい! 鶴見さんなら、あの人ならそれだけで分かるはずです!』
 もう少し上手く立ち回ることが出来たら、彼を死なせずに済んだかもしれない。既に終わったことを、無意味に考えてしまう。江渡貝の死を聞いた鶴見は、特に何も言わず顔色すら変えなかった。
 暫し沈黙した後、ご苦労と月島を労うだけだった。口封じの手間が省けたと思ったのか――定かではない。曲者同士が繰り広げる金塊争奪戦において、数歩先を見据える上官が何を考えているのか、月島が知る由もないのだ。
 遣る瀬ない気持ちを押し込み、降りしきる雨の中を歩く。鶴見にとって、月島も江渡貝も駒の一つにすぎない。月島自身はそれでも構わないと思っているが、江渡貝はどう思っていたのだろうか。それを知る術は、もうない。

 かつて月島は尊属殺人を犯し、死刑囚だった。彼を監獄から出すために、鶴見は世情を上手く利用した。
 当時の国際情勢では、日本と露西亜は敵対しており、近い内に戦争が始まるだろうと誰もが予想していた。おまけに鶴見は月寒の特務機関に所属しており、露西亜へ駐在する予定であった。月島を露西亜語通訳ということにして、監獄の外へ連れ出そうとしたのだ。
 来るべく露西亜との戦争を見据え、露西亜語に精通している者を、みすみす殺してしまうのは憚られる。鶴見はそういった事情を全て汲み取り、画策した。
 無論、月島は外国語など話せない。故郷の佐渡島でも勉強したことがない。露西亜語なんて以ての外だ。ならば死に物狂いで勉強しろ。嘘が真実になる瞬間まで、月島はやり遂げた。何も失う物がない人間ほど、怖いもの知らずだ。鶴見が行った裏工作・・・によって救われた命の使い道は、生まれて初めて死に物狂いで勉強したことである。
 それから九年の月日が経ったが、今も月島は鶴見の腹心として働いている。鶴見に謀れたと分かっていても、月島には帰る故郷はない。待っていてくれる家族も、愛する人あの子もいないのだ。
 いご草と呼ばれたあの子。
 悪童。荒れくれ者。糞ガキ。人殺しの息子。故郷の佐渡島で鼻つまみ者だった彼の名前を呼び、普通に接してくれた女性だ。彼女の癖っ毛が、いご草そっくりだと島の連中は揶揄った。だけど月島は彼女の髪が好きだと伝えた。
 日清戦争が終わったら、二人で駆け落ちする予定であった。
 極寒の満州という地で、繰り広げられる殺戮の日々。生きるか死ぬかの極限状態の中、故郷で待っていてくれる人がいる。帰る場所がある。月島にとって、生きる希望だった。たったそれだけでも、生き残って故郷へ帰るに値する十分な理由になる。
 幸せとは指の間から零れ落ちる、砂粒である。やはり人殺しの息子は、人並みの幸せを手にすることも難しいのか。せめて純朴な人生を送ることが出来れば良い。分不相応な暮らしは望んでいないのに、それすら求め過ぎなのだろうか。
 彼女は月島が帰郷する前に、忽然と姿を消してしまった。小さな狭い島から出て、自分達のことを誰も知らない場所で新たに生きていく。それが叶わぬ夢となってしまったのだ。

 月島基は日清戦争で戦死した。あの子は訃報デマを聞いて身投げした。島の崖に、あの子の草履が転がっていたらしい。毎日たらい舟を漕ぎ、彼女が岩礁に引っかかっていないか探す作業は気が狂いそうだった。むせ返る海の匂いで気分が悪くなる。粘つく感触の潮風が身体にべたりと纏わりつき、更に不快感が募る。海岸に打ち上げられたいご草を見る度に、腹の底が冷える感覚を何度も味わった。
 ふとした瞬間、我に返った。
 デマの出処はどこなのか。火がないところに煙は立たないと言うように、必ず出処があるはずだ。人の口には戸は建てられない。周囲を問い詰めると、出処が判明した。
 犯人は人殺しの噂がある、素行の悪い父親だった。父親のせいで島の連中に、幼い頃から悪童と謗られ嫌な思いを数え切れないほどしてきた。どこまで人生の足を引っ張るつもりなのか。気が付いたら月島悪童は、赤黒い血の海にまみれていた。
 固く握られた拳と着古した着流しは、洗っても落ちそうにない程べったりと血が付着している。鉄錆の臭いはもはや悪臭と言っても過言ではなかった。周囲に脳梁らしきものが飛び散り、父親は変な鼾をかいて脱力していた。放っておいても、その内勝手に死ぬだろう。父親という輪郭は喪われ、ただの物体へ成り果てていた。現場に駆けつけた官憲は、陰惨な光景を目にして顔を青ざめていた。
 あの子を死なせた父親を、この手で殺すことが出来て満足だ。もうこの世に何も思い残すことはない。陸軍監獄で死刑執行を待つ日々は、恐ろしいほど穏やかに過ぎ去る。月島は死刑を受け入れていたのだ。そんな時に、当時陸軍少尉だった鶴見が訪ねて来た。
 鶴見と二度目の邂逅で、微かな光を見い出すことになる。
えご・・草ちゃんは、自殺しとらんかったぞ』
 佐渡金銀山を見に来た財閥企業の男から、是非息子の嫁にと見初められて東京へ嫁いだという。彼女の両親にしてみれば、玉の輿か悪童だ。大事な娘を、悪評まみれな男に嫁がせるわけにはいかない。突如舞い込んだ縁談話を、両親は何が何でも破談させるわけにはいかなかっただったろう。
 島全体を巻き込んだ大芝居が始まった。月島の父親に大金を握らせ、息子が戦死したと吹聴させたのだ。そして彼女は極秘の内に東京に連れ出され、両親も娘の近くに揃って移住した――。彼女の両親に問い詰めたら真相を吐いたそうだ。鶴見は淀みなくそう語った。
 あの子は崖から身投げしていない。その事実に、月島は深く安堵した。生きている事実だけでも知れて良かった。遠く離れた東京で、彼女が幸せに暮らしているのなら良い。寧ろ結婚相手が、醜聞の悪い自分でなくて良かったとさえ思った。父親を殺し、陸軍監獄で過ごした毎日を通じて、月島は悟りの境地に至ってしまったのだ。
 鶴見は東京で暮らすあの子に会いに行き、月島の上官だと伝えたそうだ。すると彼女から、ひと房の髪の毛を託された。月島の遺骨があれば、一緒に埋めて欲しい。好きと言ってくれた髪の毛だから、と。月島は掌にある、いご草に似た彼女の髪を眺めた。あの子にとって、既に月島は戦死者なのだ。
『俺の名前を呼んでくれる、おめが好きらすけ。その髪も俺にとって、いとしげら。おめの髪をからかう奴は、俺がしゃつけてやる』
『だすけん、基ちゃんは嫌われたっちゃね』
 七瀬海岸にある夫婦岩。ゴツゴツした岩礁に波が打ちつけられ、真白い飛沫を上げる。海鳥の鳴き声と迫り来る波の轟音が鼓膜に響き、懐かしさを覚えた。かつて月島が手放した、大事な思い出の光景だ。

『遺体が見つかったんだ』
 日露戦争末期。満州にある奉天という地で、日本と露西亜は最後の陸上戦を繰り広げていた。月島は野戦病院で、佐渡島出身だと言う男と出会った。濁った魚みたいな色の目をした男だった。
 月島がずっと信じていた内容とは真逆の情報。あの子の骨が、殺した父親の家の下から見つかった。骨が掘り返されるのを、島の連中が見ていた――。
 その言葉によって、月島は絶望の底に叩きつけられたと同時に、腹の底から怒りが湧き上がったのだ。
 あの髪は、埋まっていたものなのか?
 彼女は生きている。東京で幸せに暮らしている。そう信じることで月島は、自分の感情を上手に折り合いをつけていたのに。頭の中でプツンと、糸が切れる音が聞こえた。
『どうしても助けたかった。誰よりも優秀な兵士で、同郷の信頼出来る部下で、そして私の戦友だから』
『あの子で、俺を騙して欲しくなかった……!』
 心の底から上げた悲痛の叫びは、露西亜側から振り落ちる砲弾と共に砕かれた。
 月島を監獄から助け出すためには、露西亜語の通訳という方便だけでは弱い。裁判を行なっても、上手くいかないだろう。だから鶴見は更に一計を講じた。
 殺されても当然の父親像が若干足りなかったので、島の連中の前で月島の実家から遺骨を掘り出してみせた。幼い頃から虐待され、過去に殺人も犯した噂もある素行の悪い父親によって、出征中に婚約者を自殺に見せかけて殺された。月島は逆上したあまり、殴った末の過失致死だった――。鶴見が企てた工作は、情状酌量の余地があると判断された。
 だから月島は、今も生きているのだ。
 あの子は月島の聖域だ。例え鶴見が月島を助けるために取った行動だとしても、冒涜行為に他ならない。穢されたと思った。心の一番柔らかい部分を、鋭利な刃物で滅多刺しされた気分だった。
 結局あの子が生きているのか、死んでいるのか今も分からない。真相は深い海の底に沈んだまま。もう、どうでも良い。今更真相を知ったところで後の祭りである。
 激昂の末、父親を殴り殺した瞬間。鶴見が施した甘い嘘を信じた瞬間。救われた命を無駄にしないために、月島は足がけ九年間鶴見の期待に応え続けた。
 人生の分岐路を誤った結果、今があるのだ。
 あの子にまつわる真相を解明する気力は、鶴見が注ぎ込んだによって根こそぎ削がれてしまった。ならば彼が目指す未来を、かぶりつきで見届けたい。
 滅私奉公ではない。崇拝や信奉でもない。怨恨とも違う。月島が抱く鶴見への感情は、例えるなら大きな鍋の中でそれらの感情がごちゃ混ぜにされて、ぐつぐつ煮詰められたものだ。一言で簡単に言い表せるものではない。鶴見が織り成す甘い嘘にかぶりつく。この表現が月島にとって、一番しっくりするのだ。
 月島に出来ることと言えば、それくらいしかない。後生大事にしていた――あの子の髪の毛だと思っていた物が、小樽運河の底へ沈みゆく。余生は鶴見劇場のために使うと決めた瞬間だった。
 だから、汚れ仕事は何だってやった。今まで、鶴見が目指す野望の邪魔になる者は全て葬って来た。江渡貝の死を、今更哀しむ理由はないのだ。もし彼が不慮の事故で死ななかったら。口封じのために手を汚すのは、月島だったかもしれない。

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