ふじみ

 消毒液と脱脂綿、新しい包帯を手に尾形さんの病室を訪れる。昨夜死にかけていた彼は一命を取り止め、病床の上で静かに眠っている。顎を割った時に頭も強く打った可能性が高いから、目を覚ますのも数日かかるだろうと先生も仰っていた。
「尾形さん、おはようございます。顎の傷、消毒しますね」
私は昏睡中の患者に、出来るだけ声をかけるようにしている。同僚からは無意味なことをするのね、なんて言われるが意識がないからこそ、早くこちら側に戻って来れるように――道標になるように――声をかけるのだ。だって暗闇の中で、一人きりなのは心細いでしょう? 幼い頃、病弱な妹が熱で寝込む度に声をかけていた癖が、未だに抜けないのだ。
 包帯を外すと両顎の縫合痕は、ミミズのように赤く腫れていた。幸い、化膿していない。消毒液に脱脂綿を浸して、優しく患部に当てがう。時折尾形さんは、痛みに耐えるように苦しそうな顔をした。くるくると新しい包帯を頭から顎にかけて巻き終わる。
「鎮痛薬はお昼頃に打ちます。また様子を見に来ますね」
そう言って私は、尾形さんの病室を後にした。他に受け持っている患者の様子を見に行くと、ご家族が面会に来ていた。
 二日目。経過は変わらず。湿らせた手拭いで身体を拭いて、清潔な患者衣に替える。点滴を補充。床ずれ防止に、体勢を変える。昼頃に鎮痛薬を処方。
 看護日誌に、それらを書き込んで婦長に提出した。看病の合間に先生と打ち合せ、カルテ作成の事務作業。尾形さんの見舞いや、面会を求める者は今のところいない。宿直担当の同僚に引き継ぎして、本日の勤務終了。
 三日目。午前中に尾形さんの病室を訪れるも、昨日と変わらず。鎮痛薬が効いているのか、寝息は穏やかだ。昼食を食べ終わり、医局室でカルテの整理をしていると、受付の方からすみませんと声がした。どこかで聞き覚えのある声だと思い、作業を中断して受付に向かうと一人の男性がいた。
 瑠璃紺の生地。挿し色である赤の襟と肩章が映える軍服。言わずと知れた北鎮部隊である。
「尾形上等兵の見舞いに来たのだが」
口髭の男性。確か――玉井伍長殿だ。尾形さんがここに運び込まれた時に一緒にいた。彼は革製の大きな鞄ひとつを私に見せて来た。
「彼の私物だ。あった方が良いと思って、兵営から持って来た。構わないだろうか?」
「鞄は構いませんが、肩にかけてるものは小銃ですよね? ここは病院なので、持ち込み禁止です」
私は、布で何重にも包まれた小銃らしきものを指さした。
「小銃に弾丸は入ってない。尾形上等兵は銃の手入れが日課なのだ」
婦長に見つかったら私が怒られる。溜息を吐いたが、玉井伍長殿は知らぬ顔を決め込んでいた。
「……しょうがないですね。どうぞこちらへ」
 案内がてら尾形さんの容態を伝えると、彼はぽつりと相槌を打つだけ。玉井伍長殿は、尾形さんの上官なのだろう。他の入院患者には家族もしくは軍の同僚、上官が見舞いに来るのだが尾形さんには来ない。あの時玉井伍長殿と一緒にいた数人の男性達は、尾形さんの同僚か部下だろうか? かなり狼狽えていた様子だったが、あれからうんともすんともない。お見舞いひとつで、患者を取り巻く人間関係が垣間見えてしまう。
「尾形さんにもお見舞いに来てくれる方がいて、ホッとしました」
私の言葉に、玉井伍長殿は黙ったまま。無視というより、部外者に必要以上のことは口外しない――無言でそう言われたような気がした。
「尾形さん、玉井伍長殿がお見舞いに――」
 病室の扉を開けて、目に飛び込んで来た光景に思わず足を止めてしまう。先ほどまで眠っていたはずの尾形さんが、意識を取り戻している。
「お、尾形さん……!?」
私達は慌てて病床脇に駆け寄る。尾形さんは、何とか力を振り絞って上半身だけ起き上がっていた。荒く呼吸を吐き身体に走る痛みに堪えながらも、震える手で近くにある机の表面をなぞっている。
 覚束ない指の動きが心許ない。机の木目をなぞっているのか? じっと観察すれば、それが何かの文字であることに気が付いた玉井伍長殿から、鋭い声が飛んで来た。
「君、何か書くものを!」
「は、はい!」
良かった、目が覚めたんですねという一言を言う暇はなかった。
 尾形さんは今出せる力を振り絞って、私達に――玉井伍長殿に――何を伝えようとしているのだろう。多分、それ・・が鶴見中尉殿が知りたい事柄。
丁度、白衣のポケットから鉛筆と小さな紙を取り出したところで、彼は力尽きて再び意識を手放してしまった。病床から投げ出された腕は力を失い、だらんとしている。
「尾形上等兵!」
傍らで玉井伍長殿が尾形さんに呼びかけている。だけど尾形さんは、気を失い目を覚ますことはない。今ので回復した体力を酷く消耗してしまったようだ。
 震えた指先の跡を追い、辛うじて読み取れた三文字。彼が机になぞった文字を反芻して、紙に書き記してみる。

「……ふじみ?」
“ふじみ”とは一体? 山の中で起こった出来事なのだろうか? 私は隣にいる玉井伍長殿に、“ふじみ”と書き記した紙を見せる。彼はそれをじっと見つめ、何やら思案している。
「何かの暗号、でしょうか? 心当たりはありますか?」
「……ない。だが、やっとの思いで我々に伝えようとした言葉だ。無駄には出来まい」
そう言った玉井伍長殿は、意を決した様子で足早に退室してしまった。ものの数分の滞在だった。
 同僚が扉から顔を覗かせた。
「名字さん。あなた、カルテの整理途中じゃないの?」
「先生を呼んで来るから、その間だけ尾形さんを見てて」
「え、ちょっと名字さん!?」
 病院は今日も相変わらず賑わっている。楽しそうに談笑する声がどこかの病室から漏れる。窓からぼんやりと雪景色を眺める患者。我儘な患者にお小言を並べる婦長。受け持ちの患者の看護をする先輩。そんな中、戸惑う同僚をよそに私は足早に先生を呼びに行き、そのまま急いで病室に戻った。
 先生は聴診器をしまいながら、落ち着いた声音で言う。
「心拍数は正常だ。問題ないね」
「そうですか、良かった」
「頭部打撃の後遺症が心配だな。本人の意識が回復しないと分からないが」
引き続き、要看護ということになった。病室にぽつりと取り残された私は、尾形さんの病床を整える。青白い顔は、何やら苦しそうに眉根を寄せている。額に薄ら浮かぶ汗も手拭で拭いてあげた。
 紙に記された三文字。あれが何を意味するか分からないが、帰りに鶴見中尉殿へ電報を送らねば。恐らく玉井伍長殿から伝わっているだろうけど、私も自分の任された仕事をこなそう。



「まさか兄様から、鴨撃ちに誘って頂けるとは思いませんでした」
「……迷惑でしたか?」
「そんな、滅相もございません!」
 辺り一面、目が痛くなるほどの白銀の世界。雪化粧を施された白樺の森。川のせせらぎに混じる、勇作殿の無垢な声。嬉しさを微塵も隠そうとしない、柔で眉目秀麗なこの男は腹違いの弟だ。
 己の中に諾々と流れる血潮が、勇作殿にも半分流れているとは思えない。そう考えてしまうほど、何かが欠けた俺と祝福された勇作殿は対極の位置にいる。弟と話す度に狂おしいほどの劣等感と、嘲笑いたくなるほどの敗北感が湧き上がってくるのだ。だけど血に高貴もクソもない。道理さえ与えれば容易に堕ちる。
「さあ、この辺にしましょう。ちょうど目の前の湖に鴨の群れがある」
「もう少し拓けた場所の方が良いのではないですか?」
「鴨撃ちには二通りあります。湖で泳いでいる鴨を撃つ方法と、飛んでいる鴨を撃つ方法。ただ浮かんでいる獲物を狙うのはつまらない。俺は、飛んでいる鴨を撃ち落とす方が好きなのです」
 鬱蒼と繁る白樺の森を歩き続けると、土手に囲まれた場所に出た。冬晴れの澄み切った青空。動物の足跡すら見当たらない、まっさらな純白。空の色を映す湖面を見下ろせるこの場所は、死角としてうってつけだ。
「散弾では鴨が羽を閉じた状態だと、急所まで弾が貫通しない。ここに隠れて奇襲をかけ、飛び立つ鴨を撃つのが散弾銃での狩猟法です」
「そうなのですか、知らなかったです! 兄様の射撃の腕に敵う者は、師団内でいないと聞いています。私はあまり射撃が得意ではないので、出来るかどうか……」
「コツを掴めば勇作殿にも出来ますよ。……宜しければ教えましょうか?」
まさか俺からそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。勇作殿はきょとんとした顔をした後、慌てたように口を開く。
「よ、良いのですか!? 是非、ご教示のほどよろしくお願います」
 礼儀正しくお辞儀をする弟。これではどちらが上官なのか分かりませんな。
 俺から教えてもらえることが、そんなに嬉しいのか、両頬を染め破顔する勇作殿は無邪気だ。ボンボン特有の純粋無垢さに、どれだけ鬱屈した気持ちを募らせてきたか分からない。
「簡単な話です。ようは、獲物が飛んで行く方向の少し先を狙って撃てば良い。先読みで撃った散弾の到達地点と、獲物の位置が合えば当たります」
「そんな簡単に当たるものでしょうか……?」
「まずはやってみることですな」
土手に身を潜め、目の前の湖へ指をさす。真鴨の群れが気持ち良さそうに泳いでいた。
「俺が奇襲役で先に撃ちましょう。勇作殿は、驚いて飛び立つ鴨を撃って下さい」
こく、と頷く勇作殿は緊張を露わにしている。
 散弾銃が轟く。奇襲の銃声に驚いた真鴨の大群が、慌ただしく逃げるように次々と湖面から飛び立とうとする。バサバサと羽音が響く。勇作殿が、真鴨の群れの中から狙える一羽に向けて引鉄を引いた。弾丸は大きく弧を描き、見当違いの方向へ消えてしまった。
「あぁ、外してしまいました……。やはり動いているものに当てるのは難しいですね」
散弾は真鴨に当たらず、大群は空を旋回し続けている。
 俺は銃口をとある一点に定めた。獲物までの射程距離。獲物が飛ぶ速さと放たれる散弾の速さ。引鉄を引いてから、着弾するまでの時間。目視だけで全ての情報を頭の中で組み立てる。獲物が動物でも人間でも何ら変わらない。狙撃手には、冷静で冷血な判断が求められる。

 鴨があれば、母はあんこう鍋を作るのをやめるかもしれない。少しは、俺のことを見てくれるかもしれない。
 子供じみた、いじらしい期待を込めて引鉄を引く。聞き慣れた発砲音が鼓膜を揺さぶった。一瞬、茨城の田園風景が目に浮かんだ後――日の丸を模した聯隊旗がはためいた。同じ母親の胎から産まれていれば、俺達は仲の良い兄弟でいられたのだろうか? 
「はッ」
己に対する自嘲が唇から漏れた。鼓膜を大きく揺する発砲音と振動が、森の中を瞬時に駆け巡った。
 呆気なく白い大地へ吸い寄せられる獲物。数秒前まで寒空を旋回して飛び、俺達を見下ろしていた鴨だ。瞬く間に鮮やかな命は色を失い、灰白色の世界に堕ちる。土手から立ち上がり、新雪を踏みしめながら、柄にもなく子供のように駆けた。
「これがあれば、母は鴨鍋を作ってくれるだろう」
 今、俺は何と口走った? 母親は――俺が殺しただろう。あんこう鍋に殺鼠剤を混ぜて。
 あの日もそうだった。“西のふぐ、東のあんこう”というように、母の実家である茨城の片田舎でも安価に手に入った。あんこうが獲れる時期、母は毎日飽きもせずの好物であるあんこう鍋を作り続けた。父がいつ来ても良いように。本妻に男児が産まれてから、こちらに一切姿を見せなくなった現実から目を背けるように。母は在りし日の父の幻影を見ていたのかもしれない。既に頭がおかしくなっていたのだ。
 ふわふわで厚みのある白身と瑞々しい皮やヒレ。コリコリした歯応えのエラ。野菜から出た旨味が濃厚な肝入り味噌出汁と合わさり、五臓六腑に染み渡る。父と遊んでもらった記憶は思い出せないくせに、長じた今でも母が作った鍋の味を思い出すことは出来る。俺の味覚は、母によって父の好物に侵されているのかもしれない。
 祖父の古い銃を持ち出して、鴨を撃ち獲るまで時間はかからなかった。幼いながらも、なんとなく分かっていた。毎日母があんこう鍋を作って待っていようとも、父はここには来てくれない。母子親子共々、捨てられたのだと。母にとっても――父にとっても俺はいない子同然。
 来るはずもない父を待つ母の姿に、俺は何を想ったのだろうか。孤独。羨望。同情。愛憎。それとも哀憫か。母が死ねば、父は逢いに来てくれるかもしれない。最期に愛した人に逢えるだろう。少しでも母に対して愛情が残っていれば。期待、していたのだろうか?
 黄昏時が居間を橙色に染め上げる中、母はもがき苦しんで――最期は口から赤黒い血を吐いて死んだ。苦しむ母を祖父母が介抱する傍ら、俺はじっと正座していただけ。結局母が死んでも、父は葬式に来なかった。
 愛という言葉は神と同じくらい存在があやふやだ。愛情の無い親が交わって出来る子供は、何かが欠けた人間に育つのだろうか。みんな、俺と同じ。この世に、愛し合って生まれた子供などいない。
『初めまして、尾形上等兵。私は花沢勇作と申します』
背筋をしゃっきりと伸ばし、屈託のない笑顔。差し出された滑らかな手を取ることはしなかった。ひと目見ただけで分かってしまった。腹違いの弟は存在自体が眩しかったのだ。

 足元に転がっているものへ手を伸ばしたが、それを掴むことは出来なかった。土埃に混じる鉄錆の臭い。夥しい数の死体。硝煙で汚れた聯隊旗と、見覚えのある少尉帽。
「ゆ、う……」
 ドボンと大きな音と共に弾ける水飛沫。堕ちる身体。
揺れる水面。楕円上に滲む赤黒い何か。それが血だと理解したのは、骨まで染みる冷たさが身体に馴染んだ頃だった。
 何だ、あれは? 川底に沈みつつある俺を、眉間からしとどに血を流し続ける勇作殿が川岸から覗き込んでいる。血がお構いなくボタボタと落ちて、勇作殿の姿が血に溶けていく。
『では、この男を殺して下さい』
『兄様……、捕虜ですよ』
『自分は清いままこの戦争をやり過ごすおつもりか?』
『……出来ませんッ』
 勇作殿は、甘い。なのに何故こちら側へ誑し込まれない? 早く堕ちろ。俺と同じところに堕ちてくれないと、証明出来ないだろうが。思い通りにいかない弟に対して募るのは焦燥感か、はたまた苛立ちか。さっきまで一緒に鴨撃ちに出かけていたではないか。鴨を撃ったつもりだったのに、何故腹違いの弟を手にかけた? 
 否、俺は何を言っているのだ。
 記憶と意識が――混濁している。勇作殿と鴨撃ちに出かけたことは一度だってない。兵営内では勇作殿のことを避けていた。二人で出かけたのは鶴見中尉の指示で夕食を共にした後、遊廓に行った時だけ。
『呪われろ』
父に呪詛の言葉をかけられた瞬間、何かが欠けた人間は完成した。満州の冷たい地に何かを置いて来る前から――言うなれば、俺は物心つく頃から心に穴が空いている。ぽっかり空いた穴に、その言葉はすんなりとはまったのだ。穴を埋めてくれたのは、他でもない父だった。
 軍服はたっぷりと水を吸い込み、身体にへばりついて上手く身動きが取れない。空気を取り込もうと口を開ければ、冷たい水が肺に流れ込んで息が出来なかった。
『あの戦争で拾った命は金に換えられんぞ』
自身が放った言葉が跳ね返る。早く川岸に上がらなければ死ぬ。“不死身の杉元”に手負いにされた右腕は使い物にならないが、川の流れに逆らうようにもがいてみた。やっとの思いで水面から顔を出し、大きく息を取り込むと苦しくて咳き込んだ。身体がかじかみ、指一本も動かすことが出来ない。
『寒くありませんか? 兄様……』
勇作殿の労るような声が、どこかから聞こえた気がした。ええ、寒いですよ。凍え死ぬくらいに。
 ごろんと仰向けになって空を仰ぎ見る。広がるのは、憎らしいほどの冬の晴天。
 朝陽が、眩しい。身体中が、痛い。寒くは――ない。目の前に広がるのは、見知らぬ木目調の天井。ツンとした薬品の匂い。白衣を着た知らない女が目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。
「尾形さん、目が覚めたのですね!」
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