密命

 紫色や赤色の美しい花々が花壇を埋め尽くす。花弁が散ると楕円の実から溢れるのは乳白色。薬は使い方を誤れば毒になり得る。人の命を預かり、世話をする看護婦もまた然り。



 尾形百之助という軍人が、瀕死の状態で軍病院に運ばれて来たのは、雪深い真冬の夕刻のことだった。私は洗い立ての病床用シーツや枕カバーを畳み終え、薪ストーブで暖を取りぼんやりとしていた。カチカチカチ。懐中時計が時を刻む音。今日も特に何もなく平和に終わりそう。今夜は私が宿直当番なので、引き続き勤務なのだが。
 そんなことをつらつらと考えていると、何やら昇降口から複数名の声が聞こえて来て騒々しい。
 急患でも来たのだろうか?
「何してるの、重傷患者が来たのよ! 手伝ってちょうだい」
のんびりと寛ぐ私を見兼ねて声をかけて来たのは同僚だった。彼女は乱雑に声をかけた後、そのままパタパタと慌ただしく足音を立てながら駆けて行った。
 同僚の後を追って昇降口に向かう。強張った顔をしたままの数名の軍人。そして、婦長と同僚、先生が毛布で簀巻きにされた男の周りを囲んでいた。婦長が訝しげに質問する。
「こんな怪我……一体何をしたのですか?」
「わ、我々にもよく分からんのです。玉井伍長が応急処置を施しました」
「見つけた時には、もう……」
「尾形上等兵は、山の麓の川岸で倒れていました。我々の発見が遅ければ、低体温症で死んでいたことでしょう」
玉井伍長と呼ばれた軍人が先生に容態を伝えている。
 彼の説明通り、簀巻きにされた男の顔色は青白い。顔面は原形が分からない程に膨れ上がっており、右腕に添え木も施されていた。同僚が男に呼びかけると、顎が腫れて上手く喋ることが出来ないのか、小さい呻き声だけが聞こえた。どうやら意識は失っていないらしい。体温計の目盛りを見れば中度の低体温症だ。急激に加温すれば、逆に男の命が危ない。
「両顎の手術もしなければ、顎も後遺症になるぞ」
 その場で触診した先生がそう言った。手術に入る前に、まずは冷えた身体を緩やかに温めるのが急務だ。婦長から、追加の着物と湯たんぽを用意するようにと指示されたので、私と同僚はその準備に取りかかった。早く対処しなければ、死んでしまう。何事もなく一日が終わりそうだったが、一人の男が運び込まれた瞬間、現場には緊張の糸が幾重にも張り巡らされた。

「ふぅ、これでやっと帰れるわ。名前さんは今日宿直だっけ?」
 ひとまず男の容態が落ち着き、次は骨折した両顎と右手の手術に移る頃、気が付けば陽は沈み空には星が小さく瞬いていた。医局室で同僚がうんと伸びをした。一仕事終えたような口振りだ。簡単に相槌を打つと、彼女は帰り支度を済ませていた。
「夜の見回りでまた転ばないでよ? 足元ちゃんと見なさいね」
「名前さんの包帯姿見て驚いたんだから」
「……えぇ、気を付けるわ。ありがとう」
男の手術が終わるまで、病室の準備をしなければならない。同僚を見送った私は、洗い立てのシーツや枕カバーを手に病室へと向かう。
 六つの病床が設えられた病室に、患者は誰もいない。
 終戦後しばらくはどの軍病院も怪我を負った軍人で溢れていた。軽傷の者はほとんど退院し、登別温泉で療養中だと聞く。今も病院に入院している患者は、心や身体に大きな傷を負った者達だけだ。あの頃に比べたら、病院も比較的落ち着いている。あの男は久々の入院患者なのだ。
 黙々とシーツと枕カバーを付け替えていると、婦長に呼びかけられた。
「婦長、どうかされました?」
「鶴見中尉殿が昇降口にいらっしゃってるわ」
わざわざ中尉殿が病院ここに来る理由。考えるまでもない、手術中のあの男絡みだろう。
「……分かりました」
「相変わらず中尉殿に気に入られてるのね」
 擦れ違い様、耳許で小さく囁かれた言葉。思わず足を止め、振り返る。彼女は何事もなかったかのように、廊下の端へ消えて行った。意味深な一言で、容易に胸騒ぎを感じている私を一人残して。

 数ヶ月前、宇佐美さんと組んだ造反者炙り出し任務で、私は造反者疑惑の入院患者に攫われた。どうやら私が鶴見中尉殿の差し金だと気付かれてしまったようで、宇佐美さんに間一髪で助けられた。
『……ご無事で何よりです』
 宇佐美さんが造反者である男らを捕らえ、私は隠蔽するために退院手続き処理として片付けた。後日、処理内容を不可解に思ったらしい婦長に問い詰められたけど、適当に誤魔化してどうにか事なきを得たが――それ以降、私に対して厳しく目を光らせるようになった。患者の看護日誌、処方した薬と処方量のカルテの確認、先生との打合せ内容、日々の患者対応から雑務まで。こればっかりは仕方ない。相手が飽きるまでの持久戦。白旗を挙げて来るまでだと腹を括っている。
 何食わぬ顔をした婦長の後ろ姿が憎らしい。納得してはくれないだろうと思っていたけど、あからさまにもほどがある。油断ならない。今度はヘマをしないようにしなければ。
 ちなみに、造反者疑惑の男達は宇佐美さんによって鶴見中尉殿に差し出されたが、その後どうなったのか知らない。聞けば教えてくれるだろうけど、聞かなくても容易に察してしまう。私の役目の範疇は造反者を炙り出すことだし、それ以上藪を突いて蛇が出て来てしまったら得策ではない。私は任されたことを淡々とこなすだけで良いのだから。
 鏡を見る度に――思い出す。攫われた時に殴られた痕は綺麗に消えることはなかった。滑らかな皮膚に混じるざらついた感触。額の端に薄らと残った傷痕をそっと撫でる。ある種の願かけみたいなものだ。
「鶴見中尉殿。お待たせしました」
 外に出ると、ひんやりした空気が襲ってきた。ぶるりと身を震わせてしまうほど、冷え込んでいる。辺り一面雪で覆われた景色の中で、鶴見中尉殿は寒さをものともせず一人で佇んでいた。病院の窓から、明かりが僅かに漏れているだけでとても静かだ。生き物もひっそりと息を潜める静謐な世界。そこに混じる鶴見中尉殿は、まるでこの世のものとは思えない神秘的なものに見える。
 寒いので中に入るように言ったが、長居はせんと言ってきいてくれなかった。
「忙しいところすまない。私の部下の容態はどうだね?」
「低体温症で、一時はどうなるかと思いましたが安定しました。今は骨折の手術中です」
「そうか。彼の意識が戻ったら私に知らせるように」
「あの、尾形さんは川岸で倒れていたって聞きましたが……」
 両顎と右腕の骨折。低体温症気味の顔色。山の中で雪に滑って負った怪我といわれてしまえば、それまでかもしれない。例えば雪山行軍訓練だったら、玉井伍長や他の男達があんなに狼狽えるだろうか? 首を捻っても釈然としない。どう考えても、尾形さんは仲間のあずかり知らぬところで怪我をした――そう考えた方が据わりが良い。
「……尾形上等兵は、昨夜から行方が分からなくてな。単独で山に行き、何が起きたのか我々も知らんのだよ」
「つまり彼が何故単独行動を取ったのか、そしてそこで何があったのか探れば良いのですね?」
「特に前者を入念に探って欲しい」
私がこくりと頷くと、鶴見中尉殿は満足げに微笑む。

 その仕草ひとつで件の男が、造反疑惑をかけられていることが分かった。今はまだ決定的な何かが足りないから、泳がされているだけかもしれない。造反者なのか否か――白黒つけるために私がいる。
「それと…… 例の件・・・はどうなっておる?」
「近々、調べ物をするために実家の旭川へ帰省する予定です」
「そうか。結果を期待しているぞ」
鶴見中尉殿の大きな手が、ポンと優しく私の肩に添えられる。
 生前の兄上が記していた日記。とある事柄の真偽を確かめるために、鶴見中尉殿の元で調べ物をしていた形跡が残っている。妹である私が後を受け継ぐ。それが亡くなった兄上のためになるのなら、私は構わない。
 鶴見中尉殿が病院を辞して数時間後。手術室から執刀医の先生と共に、包帯で顔中ぐるぐる巻きにされた尾形さんが運ばれて来た。手術は成功し、彼は一命を取り留めた。あとは意識が戻るのを待つだけ。
「今は鎮痛薬の効果で、大人しく眠っている。今夜は名字さんが宿直かい?」
「はい。尾形さんは私の受け持ち患者になりました」
「そうかい。後のことは名字さんに任せるよ」
執刀医の先生から引き継ぎして、私は宿直室へ向かった。

 三時間おきの夜間巡回に行くのに躊躇して、寝台から起き上がるまで十分くらいかかってしまった。足先に当たる湯たんぽの温かさに浸っていたい――と、本当の理由をしょうもない理由で誤魔化す。
「患者に何かあったら大変……」
入院患者が少ないとはいえ、急患で運ばれて来た尾形さんもいるのだ。私は意を決して寝台から起き上がり、真冬の寒さに震えながら宿直室を出た。
 淡い明かりを灯す洋燈ランプを手に持ち、病院内を回る。風音すらしない寝静まった夜に、自分の足音だけがやけに響く。後ろから、誰か来たら? 襲われた時の夜を思い出すだけで、呼吸がいとも容易く浅くなる。どうしても頭から離れないのだ。額に走った衝撃と痛烈な痛み。鮮烈に蘇り、目眩がしそうだった。
 やっとの思いで尾形さんの病室に来た。静かに扉を開けて中に入ると、彼は苦しそうな寝息を立てて眠っている。規則正しい呼吸で上下する掛け布団。病床脇の机に洋燈を置き、椅子に腰掛けて眠る男の顔を覗き込む。
 男性にしては色が白い。青白い、といった方が近いかもしれない。ここに運ばれて来た時よりも、顔色はだいぶ良くなっている。顔面は両顎の縫合で更に腫れてしまっていた。痛むのだろう、時々小さく眉根を寄せて息を吐く。だけど、麻酔が効いているようで目覚める素振りはない。足元の布団に手を乗せると、まだ湯たんぽも温い。
「……一体、何があったんですか」
問うても男から何も返ってこない。
 今度は宿直室に戻るのが億劫になった。三時間おきの仮眠。布団の中でうつらうつらしているだけで、休息が取れるとは言い難い。ここで夜通し尾形さんの看病をしながら、見回りの時間になったら再び見回る。そっちの方が効率が良い気もする。
『夜の見回りが無事に終わったら外に向けて洋燈を三回振って下さい。何か異変があれば、一回だけ振って』
私は洋燈を手に取って、三回振ってみた。
 外に向けて洋燈を三回振る癖がどうしても抜けない。この動作も願かけに近い。これをやれば、未だに宇佐美さんが近くにいるのではないかと思ってしまうのだ。彼は網走監獄潜入の準備で小樽を離れ、旭川の師団本部にいるというのに。

「……しまった!」
 下の階からガタゴトと音がする。下働きの女性が、賄い処で食事の準備をする物音で目が覚めた。病室は薄暗く、机に置かれた洋燈の灯りが寝ぼけ眼にじんわりと滲む。真冬の朝は、日の出が遅い。
 窓かけを開けて、凍雲の隙間から漏れる暁を眺める。あのまま宿直室に戻らず、尾形さんの病床脇で椅子に座ったまま眠りこけてしまった。どうりで身体の至るところが軋むわけだ。寝不足な私とは対照的に、尾形さんは相変わらず眠り続けている。
 ひとまず宿直室に戻って顔を洗えば、冷たい水のおかげで眠気は飛んだ。
「おはようございます、名字さん。宿直お疲れ様でした」
「おはようございます……」
朝ごはんの美味しそうな匂いに導かれて、賄い処に向えば下働きの女性がテキパキと食事の支度をしていた。渡されたお盆には麦飯と味噌汁、付け合わせの沢庵。炊きたてほやほやの麦飯を味噌汁で流し込む。黙々と朝食を摂っていると、下働きの女性が今日のお昼は白米よ、と嬉しそうに教えてくれた。
 宿直室で、替えの筒袖の上に制服である白衣を纏う。髪は三つ編みで纏めた英吉利イギリス結び。白衣と同じ色の帽子を被る。鏡の中から見返す私の目の下には、薄らと隈があるけれど、宿直明けだから仕方ない。化粧で誤魔化した。
 医局室に行くと、既に婦長は出勤しており黙々と事務作業をしていた。私は彼女に一声かけて、宿直日誌を提出しがてら尾形さんの経過報告をした。
「先生と今後の看護打ち合わせもしておきなさい」
「分かりました」
 まずやることは傷の消毒と点滴。身体を清潔に保つために、清拭と患者衣の着替え。意識が回復したら、食事内容と機能訓練リハビリ計画を立てなければならない。頭の中でやることを組み立てていると、同僚達が出勤して来た。看護日誌の表紙に“尾形百之助”と名前を書く。
「はい、それじゃあ各自で今日やることを確認するわよ」
婦長の一声で、今日も一日が始まった。
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