02

 眼が覚めると部屋は薄暗かった。カーテンの隙間から、朝焼けの光が一筋入って来ている。夜が明けるのも時間の問題だ。世界が新しい一日を迎えようとしているのに、私の未来は一歩も先が見えないほど闇が広がっている。脅されて否応がなく、敵をこの診療所に招き入れてしまった。
一体いつになったら、この暗闇に光が差すのだろう。はあ、と大きく溜息を吐いた私はごろんと寝返りを打ったものの、これ以上眠れそうになかった。仕方ない、起きるとしよう。私は寝巻きを脱ぎ捨て、軍服に袖を通した。今日はラクア基地内の病院へ定期往診の予定だ。
 昨晩は、あまり眠れなかった。寝起きにも関わらず妙に覚醒した脳は、昨夜の邂逅を未だに引きずっている。理由は考えるまでもない――この診療所の地下室で匿うことになったエルディア人が原因だ。
クルーガーと称したあの青年は、遥か海の向こうにあるパラディ楽園の島から悪意と共にマーレに乗り込んで来た。彼は軍部に潜伏して、何をするつもりなのだろう。あの瞳からは、彼の真意すら――何も読み取れなかった。
 どうにか阻止出来る手立てはないだろうかと考えてしまうのは、きっと私があまりにも愚かだから。同じ巨人の力を持つマーレの戦士ならいざ知らず、ただの軍医に出来ることなんてない。この思考こそ、我が国の問題を如実に物語っている。結局私達は、悪魔の力を憎みながらも頼るしか他ならない。まさに、忌むべき力がなければマーレは立ち行かない。
 簡単に朝食を済ませ、湿っぽい地下室へ続く階段を降りる。流石に食事を与えないのもどうかと思い、クルーガーにも簡単な軽食を作ってやった。お盆を持ったまま、地下室の扉の前で立ち止まる。
扉の向こうに残虐非道な悪魔の末裔がいる。島から飛び出して海を渡って来た事実に、身体が強張ってしまう。
 凡そ約百年近く前の巨人大戦後、穢れた島に籠ったフリッツ王は三重の大きな壁を創ったという。エルディア人の楽園の島は、それ以降誰一人として壁から出ることはなかった。世界を恐怖に陥れた罪を受け入れ、漸く平和が戻って来たというのに。今だって信じたくない。だけど、夢でも何でもない。正真正銘の現実である。
私が扉の前で突っ立っていると、気配を感じたのだろうか――いつまでそこに突っ立っているのかと声をかけられた。どうやら、私は上手く気配を消すことが出来なかったらしい。
このままどうしようかと考えあぐね、結局何も思い浮かばなかったので部屋に入ることにした。

 嘗て義勇兵達が、夜な夜な秘密裏に集まり熱心に議論を交わしていた場所。簡易ベッドと本棚があり、長机と照明器具が一つずつ備え付けられた簡素な部屋だ。心許ない明かりの中で、ベッドの上に胡座をかいたクルーガーがいた。
相変わらず感情が読めない眼差しで、部屋に入って来た私を見ている。
「……これから基地内の病院に往診して、いくつか情報を持って夕方頃戻る。ここから絶対に出ないこと」
「ああ。解っている」
ふいと、視線を外された。もう用がないとでも言わんばかりの仕草に、私は特に何も思わなかった。お互いが相容れない敵同士の立場。イェレナの策略で一時的に屋根の下で過ごすことになっただけ。
彼女の掌で踊らされているのは私なのか――それとも、この男も同じなのか。
「それと、これ。毒は盛っていない」
「………」
「餓死でもされたら私がイェレナにどやされる」
長机に軽食を置いた。イェレナは私の秘密を唯一握っている人物だ。彼女の希望通り、この関係を遂行出来なければ私の命はない。

02. 賭け

「先生、おはよう。今日は診療所は休みかい?」
「おはようございます。今日は基地内の病院へ往診なので、診療所はお休みですよ」
「町医者しながら軍医の仕事もあるとは先生も大変だなぁ。あまり無理するなよ」
「ありがとうございます」
 街中は市場の準備に勤しむ人で賑やかだった。国が戦争中であっても、当たり前に人々の営みがここにある。戦争に行くのはエルディア人で事足りる。軍人以外のマーレ庶民にとっての戦争とは、新聞の活字の世界で繰り広げられる出来事に過ぎない。
基地へ向かう途中で、瓦礫の山を撤去している集団があった。九つの星を形取った、悪魔の末裔の象徴を腕に付けている。
マーレ人は収容区に住まう全てのエルディア人に、仕事という名目で街の清掃や瓦礫撤去作業、そして軍事工場での労働などを低賃金で課した。マーレから仕事を与えられるだけでもありがたいと、恭しくこうべを垂れる悪魔達もいると聞く。
 ガシャンと何かが割れる音がして、次に口汚い野次が飛び交った。どうやら瓦礫撤去をしている悪魔達に、マーレの若者集団が空き瓶を投げ付けたようだった。
「ホラ、お前らもゴミだからこれでお似合いだな!エルディア人!」
「さっさと作業を終わらせて壁に帰れよ、俺らの街が穢れるだろ!」
どんなに罵詈雑言を投げられても、黙々と瓦礫をリアカーに積むエルディア人の様子に若者達の行動は更にエスカレートする。エルディア人達は、世界から受ける酷い行為を甘んじてその身に受けていた。
慎ましやかに目を閉じて、奴隷のように従う態度。それこそが、先祖が犯した罪を雪ぐことに繋がると信じているから。次第に騒ぎが大きくなると、見兼ねた治安当局員の男達が数名走って来て騒ぎを鎮圧させるべく、悪魔の末裔達を連行して行く。
「あんな小さな子供まで……」
「エルディア人じゃなければ良かったのになあ」
その様子を口では憐れみつつも、誰一人手を差し伸べようとしないマーレ庶民達は野次馬に徹している。そして、目の前で連行される彼らを目にして、何も感じない私はおかしいのかもしれない。この街では、あれが日常茶飯事の光景なのだ。

 ラクア基地内の病院に着くと、私はさっそく患者達がいる病室へ向かった。
この病院には中東連合軍との戦争で負傷したマーレ歩兵部隊が療養している。戦争の最前線を経験している彼らから、現状を聞くのは拷問に等しいだろう。病状を悪化させる可能性を高める行為は、医者として出来ない。
「先生。俺の目はもうだめなんですよね?」
包帯を取ると、手術痕が痛々しく残った左目が露わになった。最前線で敵と交戦中に、手榴弾の破片が飛んで来たという。診察でライトを翳してみても、濁った瞳孔は反応しなかった。
「小さな破片で網膜が傷付けられていた。今の医術では、もう治療法はありません」
「そう、ですか……。はははっ、やっぱり失明したんですね」
乾いた笑い声だった。ここにいる患者達は身体以外に、心も傷を負っている。
 戦争は人を狂わす。凄惨な戦場で、極限状態に追い込まれながら敵を殺し続けたのだ。戦争後遺症で不眠に苦しむ者や、知力が低下した者も多数いる。
苦しみ続ける彼らが、戦場から遠いラクア基地内の病院で抜け殻のまま、日々を過ごしている。
「あなたは十分戦った……。御家族も誇りに思っているでしょう。これからはマーレのためではなく、自分のために生きて下さい。ここにはあなたを戦場に向かわせる上官はいません。ゆっくり……、休みましょう」
「これで、俺はやっと……戦争から解放されるんですね。視力と……引き換えにっ……」
彼の両目から涙がポロポロと零れ落ちる。私は、その雫を優しくハンカチで拭き続けた。彼の他にも、身体が欠損した兵士もいれば精神的におかしくなってしまった兵士もいる。
 四年も続く戦争で負傷の度合いが酷くなったのは、ここ一年くらいだ。兵士達の状態を見れば、マーレ軍がかなり苦戦していることは容易に解った。
中東連合軍も、長引いた戦争を早く終わらせようと本腰を入れて来たのだろう。看護師に呼ばれて次の患者のベッドへ向かう。
「この薬を夕飯後に服用させて下さい。ぐっすり眠る筈ですから」
私は睡眠薬が入った紙袋を看護師に渡した。カルテに診察内容を書き込んでいると、ベッドに横たわる彼が天井に視線を向けたまま語り出す。
 その瞳は、遠い記憶の彼方を見つめている。
「僕はマガト隊長に率いられ、爆弾が飛ぶ下で塹壕を掘っていました。鼓膜が破れる程の大きな爆撃音を聞きながら、死に物狂いで掘り進めました。爆撃で仲間が沢山死に、動けない仲間は切り捨てた……」
「動けない仲間を置き去りにしたことは、あなたの責任ではありません。そうしなければ、あなたの部隊は壊滅していた。どうか、自分を責めないであげて」
私の声は、彼には届いていないだろう。悪夢は醒めることなく、彼の精神を蝕んでいる。ベッドの上に横になっていても、未だにスラバ要塞陥落に向けて、塹壕を掘っている真っ最中なのだ。
「いつ、この戦争は終わるのでしょうか?身も心も削られて、満足に眠れなくなって……。前線で戦うのは、悪魔達だけで良いじゃないですか。先生も……、そう思いますよね?」
途中から自棄やけ気味な口調だった。虚ろな目が私へ向けられる。
 ドクリと、心臓が厭な音を立てた。脳裏に過ぎるのは、地下室に匿っている青年の姿をした悪魔。
「……マガト隊長は、私達マーレ人を見捨てる方ではないと思います。巨人を投入しないのも、きっと何か考えがあってのことかと」
「……だと、良いんですが」
最前線の現場を知らないくせに、と私を詰りたい彼は現実逃避するかの如く布団の中に潜ってしまった。後のことは看護師に任せ、残りの負傷兵達のベッドを回って診療を続ける。皆一様に疲れ果てた顔をして、この戦争の――マーレの行く末を案じている。
 不安なのだ。自国のことを想い、敵国と戦った彼らは自分達の行いが報われることを、今でも願っている。身体の一部を失い、正常な精神すら麻痺してしまったのに何一つ報われることはない。
彼らにとって本当の治療法は、こんな病院場所で最新医術の手術を受けることでも、診察を受けることでもない。況してや薬を服用することでもない。特効薬は――ただ一つ。




「司令官。本日の診察が終わりました」
全員の診療とカルテへ内容を書き終えた私は、基地内の病院を後にして司令室へ顔を出しすことにした。
 この基地拠点を元帥から任されられている彼なら、戦士隊の動きやこれからの作戦など、一介の兵士が知り得ない内容も知っているだろう。問題は、彼がそういった内容を私に話してくれるかどうかだ。
「あぁ、ミョウジ軍医か。そんな畏まらんでも良い」
眩しい夕陽に満たされた空間の中、座り心地が良さそうな椅子にどっかりと座る司令官は、パイプを薫せている。バニラに似た甘い匂いが鼻孔を掠めた。
「それで……兵達の状態はどうだ?」
「負傷の度合いが、以前よりも深刻になっていると思います。ここにいる彼らは、戦争後遺症で苦しんでいます。皆疲弊しており、士気は下がっている。それに、精神的に追い詰められている者も多く、二度と兵士として復帰出来る兆しはありません」
「有効な治療法はあるか?」
「……この戦争に勝つことです」
 彼らは巨人の投入を望み、見返りを求めている。
「だがなぁ……“陸”を制しても“海”が陥せないのなら意味がない。現に海軍は、四年掛けても未だに制海権を奪えていないからな。それもあり、マガト隊長も巨人を易々と投入出来ないそうだ」
司令官は苛立ちを隠さずに、豊かなロマンスグレーの髪を掻いた。その雰囲気から、軍幹部達も苦慮している様子が見て取れる。軍全体に鬱屈した雰囲気が立ち込めていた。
「マガト隊長には、悪魔達で編成した八百人の戦士隊を任せている。“空”の準備が整うまで、奴らを最前線に立たせて凌ぐことは出来る」
「はい。我々マーレ人から、これ以上負傷者を出さないためにも」
治療に専念しても再起不能な負傷兵達を想うと、尚更強く願ってしまう。私は軍医で、彼らの命を救うのことが使命だから。

 口から紡がれる言葉は、養父による教育の賜物だった。幼かった私は、彼から施されるそれらを頭へ叩き込むのに必死だった。そのおかげで、街の人も兵士達も目の前の司令官ですら、私をマーレ人だと信じて疑わない。
その後、司令官からいくつか有益な情報を仕入れることが出来た。胸の中に抱いたこの情報が、クルーガーが欲する内容であるかは解らないけれど。私は、自分の務めを果たさなければならない。
もう誰にも――自分でさえも、止めることは出来ない。進み続けなければならないのだ。
「あぁ、そうだ。君の周辺で、何か変わったことはないかね?」
軍の内情を持ち帰って、クルーガーにどう伝えようかと思案していた私は、司令官からの質問の意味を理解するのに一呼吸分遅れた。意味を理解した時は、息が止まるかと思った。ドクドクと心臓が鳴り、口の中が乾く。
 どうして。今そんなことを聞くのだ。誰かが、診療所の入口でクルーガーの姿を見たのだろうか。それとも、私とのルールを破って彼が外出したのだろうか。厭な想像ばかりが浮かぶ。
「変わった……こと、とは?」
ごくりと生唾を飲み込んだ私は、顔色を変えないように必死に努める。司令官はそんな私の様子を訝しむこともなく、質問に答えてくれる。
「治安当局から、反戦争主義者の取り締まりを厳しくすると通達が来た。軍施設を執拗に破壊したり、軍関係者だけを襲撃したり……活動がエスカレートしている。奴らも君が軍関係者だと知っているだろうからな」
 イェレナとクルーガーの件を密告するのなら――今だ。私の耳元で、悪魔が囁いた。
簒奪された知性巨人を取り戻すきっかけにもなるし、私がマーレ人だと偽っている罪も軽くなる。口を開いたものの、結局閉じた。クルーガーは、私だけでなく何の罪もない街の人々の命を人質に取ってしまっている。今ここで密告すれば、街に住まう無辜の民を危険に曝すことになってしまう。
「御心配頂き、ありがとうございます。今のところ、特に変わったことは起きていません」
「それなら良いが……用心するに越したことはない。ところで、君の診療所は早めに畳めそうなのか?」
 スラバ要塞従軍の件は、前々から言い渡されていた。だけど、養父が遺した診療所をそのままにする訳にもいかなかったから。ここ数ヶ月は診療時間を縮小しながら、建物の処分を進めていた。そんな折に、イェレナが彼を――送り込んで来たのだ。
「……なるべく早めに処分出来るよう進めています」
「野戦病院から医者と看護師が足りないと要請が来ている。その内スラバ要塞へ従軍してもらう。それまでにはどうにか処分をしろ」
明らかに命令だった。私は了承の意を示すために、敬礼した。今は何よりも、私が野戦病院に派遣される前にクルーガーを軍部内に潜り込ませるのが急務となった。

 悠長に構えていられない。やるべきことが増えて、目眩がする。
「君は実際の戦場に行くのは初めてか?」
「はい。昨年、軍医見習いとして二ヶ月間だけ歩兵部隊の演習に参加したくらいです」
 演習とは言うけれど、私は歩兵部隊に混じって起床から就寝まで彼らの規律に従い、共に過ごした。数人一組のペアとなって、塹壕の掘り方から手榴弾やライフル銃など、様々な武器の扱い方を学んだことを思い出す。
「そうか。厳しい戦況だが君の働きに期待している」
「父の代わりに、私もマーレに貢献したいと思っています」
「うむ。お父上が生きていて、君が従軍すると知ったら――きっと誇りに思うだろう。親子揃ってマーレに貢献出来るのだからな」
「はい。きっと父も空の上から、喜んでいると思います」
は今、マーレと養父を――裏切っている。




 街に戻って来た頃には、空には墨を流したような夜空が広がっていた。既に市場は畳まれ、街は静かだった。今夜は新月なので月明かりはなく、代わりに大通りにある街灯がぼんやりと灯っているだけ。
薄ぼんやりとした明かりは心許なく、私の一歩先、二歩先程度しか照らしてくれない。まるで、私を取り巻く状況と同じ有り様だった。私が向かう先は破滅の道。
 診療所の地下室に行くと、クルーガーが椅子に座って私の帰りを待っていた。彼は遅れて来た私を責めることもなく、開口一番に情報提供を求めて来た。長机には朝作った軽食が、手付かずのまま残っている。それが私達の関係を如実に物語っている。
「それで、収穫は?」
ひとまず私は、戦争とエルディア人の状況について話すことにした。照明の明かりが二人分の影を壁に色濃く映し出す。
「マーレは今、中東連合軍との戦争で苦戦している。パラディ島に構っている場合ではない。対巨人兵器の開発が目覚ましくて、軍部内は焦燥感に駆られ、マーレの負傷兵は心を病んでいる。巨人の力に胡座をかいて、兵器開発をして来なかったのが仇になっている。いずれ巨人は兵器として機能しなくなり……、エルディア人の利用価値は変わろうとしている」
「……どう変わるんだ」
「軍部内では、全収容区内に住むエルディア人の処遇について、長年議論することを棚に上げて来た。昔から安価な自動殺戮兵器として、利用価値があったから私達は彼らを生かして来た。価値がないのなら――っ、」
「お前らの都合で、『死ね』と言うのか?」
 ぞくりとした。
目の前に座っている悪魔から、禍々しい雰囲気が放たれる。両目に憎悪を燃やし、静かに怒りを現していた。悪意がこの部屋に満たされて行く。
昨夜感じた、内に秘める激情の正体は怒りだった。
文字通り、悪魔の末裔は死ななければならない。エルディア人は、そう遠くない未来に処分されるだろう。だが、兵器開発には多くの時間と莫大な資金が必要なのも事実。
「……巨人の代わりになる兵器が登場するまで、マーレは今のままエルディア人を飼い殺し続ける筈」
全収容区にいる悪魔達を巨人化させる、と諸外国に睨みを効かせるだけで攻められることもなかった。
全ては四年前。島の悪魔達に返り討ちされてから狂ってしまったのだ。
「と、とにかく……、戦争が終われば次は島に全勢力を注ぎ込む予定よ。こんな所に潜伏するよりも、早く故郷に帰ってマーレを迎え撃つ準備をした方が良いと思う」
クルーガーは私に乱暴を働く気配は全くないけれど、大きな瞳には狂気が宿っていた。

心を擦り減らし、精神を病んでしまった負傷兵達のそれとは全く違う、確固たる自我を持つ瞳。彼は狂気を孕みながらも、しっかりと理性を保っている。それが堪らなく恐ろしくて怖い。クルーガーの怒りを全身に受けた私の身体は、冷や汗が止まらなかった。
「俺達にはもう時間がないが……、時間を作ること・・・・・・・だけは出来る」
「リスクも高く、回りくどい方法を取って何をするつもりなの?イェレナに……何を吹き込まれた?」
 イェレナとは、あの日から三年程会っていない。『パラディ島始祖奪還計画』が失敗に終わった後、軍部は島に調査船を派遣した。
第一回目の調査船に彼女は乗船していた筈だ。その後調査船は合計三十二回もパラディ島へ送り込まれたものの、結局一隻も帰還することはなかった。現在も行方不明のままである。イェレナは島に上陸して、クルーガーと接触を果たした。
一度放たれてしまった弓矢は、止まることが出来ない。壁と海を越え、遥かここまで飛んで来た。
「敵のあんたに全て言うとでも?」
「私は敵であるあなたに軍の内情を流している。何もせず欲しい餌が与えられるのを、口を開けて待っているのは雛鳥と同じ」
「……何が言いたい」
「私ばかりリスクを背負わされるのは、フェアじゃないってこと」
クルーガーから目を逸らさず、睨み返した。

 この関係はイェレナによって仕組まれたものだが、そもそも何故『特別な人』を診療所敵国のど真ん中に潜伏させようと企てたのか。知性巨人持ちの人間を、敵国マーレに単身で送り込むのはあまりにもリスクが高い。
でもパラディ島側はやらざるを得ない程、切羽詰まっているのだろう。
 こんな回りくどいやり方をせずとも、直接マーレ軍に潜入させようと思えばイェレナであれば出来た筈だ。でも、それをしなかった――いや、したくても出来なかったのだろう。
「きっとイェレナは、あなたをここに送り込むまでに時間が掛かることを見越していた。情報は鮮度が大事だから、彼女が知り得る数年前の古い情報だけでは、『特別な人あなた』をマーレに送り込むことはあまりにも危険だと考えた。それには、最新のマーレ軍情報が手に入る人物の協力が不可欠だった」
そこでイェレナは思案したのだろう。
 マーレ軍に所属しており、義勇兵では手に入れることが困難な軍内部の情報を、簡単に入手出来る立場の人間を。そして、イェレナ側が上手く立ち回ることが出来て、尚且つ御し易い相手。
弱味を握られている私はかっこうの的だったのだ。私の言葉を、クルーガーは口を挟まず静かに聞いている。
「あなた、知性巨人の能力者でしょう。傷が瞬時に治るのを見て、すぐに解った」
「……そのことをマーレ軍に密告でもしたか?」
「していない」
「証拠は?」
「今、あなたと私が誰にも邪魔されずに、この地下室で密談出来ているのが何よりの証拠」
「だめだ、俺はあんたのことを信用していない。対等になりたいのなら、それ相応の何かを示せ」
最もなことだと思う。ここは敵地のど真ん中で、彼にとっては孤立無援の地。私が密告して、治安当局員が診療所の周囲を囲み、待ち構えているかもしれない――と、疑心暗鬼になっても何らおかしくない。
 今から口にしようとする言葉の恐ろしさに、自ずと身体が震えてしまう。だけどこのままでは、クルーガーの目的すら解らず私は良いように使われるだけ。どんな状況であろうと、何かを得るにはそれ相応のリスクを支払わなければならない。
背に腹は変えられなかった。私は懐からナイフを取り出して、長机に置く。この世で一番怖いのは、もう何も捨てるものがない人間だろう。
「信じないのなら……、私と街の人達の命を賭ける。ナイフを使って巨人化し、この街を吹っ飛ばせば良い」




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