11

「あの光景は、正しく悪夢だった」
 そう語るのは、右腕を負傷したマーレ兵だ。話を聞く内に、スラバ要塞攻略作戦に関わった人物だと分かった。彼は塹壕から見ていたという。数多の巨人が空から降り注ぎ、スラバ要塞を蹂躙していく光景を。
「ミョウジ軍医殿は、見たことないだろ?あれは悍ましいよ」
「……マーレ軍の専売特許ですから、話では聞いたことあります」
 先日マーレ軍は、中東連合軍と講和条約を締結した。待ちに待ったマーレ軍勝利の報道に、街の人々は連日沸き立っている。民衆の喝采は、マーレ本国大本営内の軍病院にもしっかり届いた。民衆と軍部の間には、見えない溝がある。
「その専売特許とやらも、時間の問題だな」
 マーレ兵は吐き捨てた。何故彼は、苦虫を噛み潰した顔をしているのか。理由は、この戦争が長引いた原因にある。
 人類の叡智が巨人を凌駕した。
 対巨人兵器が効果覿面だった。
 海外の新聞やラジオ各社は、中東連合軍を大々的に褒め称えている。中東連合軍は敗北こそしたが、結果的に諸外国へ勇気と希望を与えた。戦争の在り方が、変わろうとしている。
 巨人兵器は非人道的だ。
 巨人の襲撃を受けて、生き残った中東連合軍の兵達は、世界へ声高に訴える。マーレとエルディアは、共に孤立を深める一方だ。
 おまけにマーレは敵が多い。外だけでなく、なかにも敵を抱えている。一枚岩ではないのだ。マーレを潰そうと名乗りを上げる国や、義勇兵達が立ち上がって来る。クルーガーは、その一人だ。そうなった場合、マーレは一丸となって乗り越えることが出来るのか。

11.戦場

 巨人の力は絶対ではない。
 ようやく軍上層部も、その事実を認めたらしい。否、認めざるを得なかった――が正しいか。他国の脅威から自国を守るため、二つの準備が急務になっている。まずは軍備再編を急ぐ。そして、巨人の力に胡座をかいて、遅れを取った兵器開発に着手する。
「これからの時代は――」
 マーレ兵は人差し指を上に向けた。
「空、ですか?」
「陸は装甲列車や、対巨人兵器が台頭した。海は戦艦から、空母に変わるだろう。海上から航空機の運用が可能な軍艦だ。砲弾を搭載した航空機なら飛行船よりも殺傷力は高いし、戦艦よりも攻撃距離は格段に上がる。まずは、これらの兵器から着手するのだろうな」
航空機から攻撃されれば、塹壕ですら意味を成さない。制海権ならぬ、制空権を得られなければ生き残れないだろう。
「マガト隊長は、マーレ人の徴兵制度復活を唱えていると聞いた。一部の上層部は動き出すだろう」
「……総力戦、ということですか」
 これまでの戦争とは毛色が違う時代がやって来る。
 戦争をしながら兵器の開発、生産のために国民が動員される。社会全体が戦争へ突き進んでいく。今は丁度、その過渡期を迎えつつあるのだ。
 巨人からの脱却。軍部内で長年棚上げ状態の問題である。近い未来、エルディア人は用済みになる。しかし軍備再編成も、兵器開発どれ一つとっても、一朝一夕で達成するものではない。
「宙ぶらりんだった始祖奪還が、急務になったと聞きましたけど」
 傷口の状態を確かめ消毒する。新しいガーゼを被せ、包帯でクルクルと患部を覆う。
「一年以内にパラディ島へ出撃するらしい。未だ調査船が一隻も戻ってないのに、よくやるよな」
「パラディ島……」
 悪魔が住まう孤島。世界中の憎悪が集まる島。クルーガーの故郷は、どんな島だろうか。彼の大事な人達が暮らす、唯一の場所。私にとってのラクア基地と同じかもしれない。
 クルーガーの姿が目に浮かぶ。あの島で彼は育まれた。彼の故郷について、もう少し話を聞いておけば良かった。この感情は、後悔なのか。
「軍部内でも、意見が割れているらしい。士気が高くないのは、調査船が行方不明なのも影響しているだろうな。出来れば俺も行きたくない」
「元帥殿に聞かれたら大変ですよ」
「軍医殿はどうだ?あの島に行きたいか?」
 今頃パラディ島は、イェレナを中心とした義勇兵の手で武装しているかもしれない。例えば船が着岸する港。物資を運ぶ列車。古今東西の歴史を見れば明白だ。インフラが整備されると人が集まる。人が集まれば、様々な物資が集まる。交易が栄えれば、金が生まれる。自ずと栄えるものだ。
「……上からの命令があれば」
「狡い答えだ。俺も命令ならば行く」
 クルーガーは私に、パラディ島の現状や詳細を話さなかった。最重要機密事項なのだろう。考えれば、至極当然だ。私は彼にとって、敵国に所属する者だから。例え身体の関係を持ったとしても、私は最後まで信頼されなかったのだ。
「軍医殿、どうかしたか?」
「いいえ、何でもありません」
 お大事にと声をかけ、私は病室を出た。傷痍兵達の治療は、まだ終わらない。一年以内にパラディ島へ侵攻するなら、恐らく私も再び従軍するだろう。ラクア基地に帰る目処は、今のところない。

 背後から看護婦に呼ばれ、急ぎ足で別の患者の元へ急ぐ。
「身体が痛いから、鎮痛薬をくれって引かないんです。中毒死しますよと言っても、聞いてくれなくて」
「あの患者には、絶対に鎮痛薬を追加しないで。これ以上、モルヒネ中毒者を増やしては駄目よ」
「わ、分かりました」
「先生、来てください!私では手がつけられなくて」
 困った顔をした看護婦が、私に助けを求めてきた。
 閃光弾で両眼を失明しかけた者。砲弾に巻き込まれて、身体の一部が吹っ飛んでしまった者。モルヒネ中毒症状に陥ってしまった者。次から次へと、患者達が問題を起こしている。他の軍医達もてんてこ舞いだ。
「もう死にたい。今も戦場にいる夢ばかり見て、安心して眠れやしない。殺した敵兵がずっと俺を睨んでいるんだ……その顔が忘れられないんだよ……!」
 彼は戦争後遺症で、精神を病んだマーレ兵だ。気分が良い時は笑っているが、今は酷く鬱ぎ込んでしまっている。抑鬱の波が激しく、薬を処方しても快方の兆しが見えない。このままでは、精神病院へ転院する必要がある。
「先生、俺を殺して下さい……。どうか……どうか……後生ですから……!」
 患者の苦しみを取り除くことは出来ないが、一緒に苦しみを抱えることは出来る。涙ながらに懇願する彼へ、私は何度も何度も慰めの言葉をかけ続けてきた。例え本人が望んでいても、命を奪う行為は医者として出来ない。
 私の手は、人の命を救うためのもの。決して、人に仇を為したり――命を奪ったりしてはいけない。イェレナに言われた言葉だ。
「……どんなに辛くても、あなたに生きて欲しいんです」
 彼は縋るように、私の白衣を握る。その力強さは、言葉とは裏腹な気持ちが滲んでいた。患者にとって、私の言葉なんて薄っぺらいだろう。本当に慰めになっているのか、最早誰も分からない。
「煩い……煩い!お前に俺の気持ちが分かるわけない!綺麗事ばかり言いやがって……!」
「……うっ!?」
 突然激昂した患者が、勢い良く胸倉に掴みかかって来た。首を絞められそうになり、息が出来ない。近くにいた看護婦は、私達の間に入る。
「落ち着いて下さい! 誰か来て!」
 患者から引き離され、私はゲホゲホと咳き込んだ。今も患者は一人で激昂し続けている。
「大丈夫ですか、先生」
「……ええ、ありがとう」
 死にたいと思えば思う程、生きたいという願いは強くなる。何て生きづらい世の中なのか。相反する願いに、私も押し潰されてしまいそうだ。戦争が終わっても、慌ただしい毎日は変わらない。私達医療関係者にとって、病院は常に戦場なのだ。

 中東連合軍との戦争後。野戦病院から引き揚げた私は、マーレ軍大本営内の軍病院で勤務中だ。負傷したマーレ将兵を治療する傍ら、レベリオ収容区内の病院にも出入りしている。
 何故、レベリオに出入りしているのか。話は少し前に遡る。
 巨人科学会は巨人に秘められた謎を解くため、かねてからエルディア人の血液サンプルを欲していた。しかし学会の研究員達は、自らの手を汚したくなかったのだろう。血液サンプルを手に入れるということは、エルディア人と接触しなければならないからだ。
 そこで私に白羽の矢が立ったのだ。スラバ要塞の野戦病院で、エルディア兵を治療した話を耳に挟んだらしい。軍部内でも一部の口さがない輩が、私のことを色々噂している。噂話が巨人科学会にも届いたのだろう。
 エルディア人の血液を採取し、学会に持って来て欲しい。
 巨人科学会からの依頼は、私にとっても渡りに船だった。巨人化薬の保管場所を探るため、学会研究員と接触することが必要不可欠だったからだ。あいにく、学会員の知り合いはいない。どうやって接触の機会を持てば良いか、方法を思案していたのだ。互いの利害は一致し、私は二つ返事で承諾した。
「レベリオ区内の病院まで」
「軍医殿は変わり者だ。小便臭い収容区に出向かずとも、誰かに頼めば良いのに」
「門兵のあなたにまで、私の噂話が届きましたか。誰かに頼むにしても、この中に入るのは大半が嫌がるでしょう。だから私なんです」
「そうだな、違いねぇや。ほら、気をつけて行きな」
「お勤めご苦労様です」
「おう、軍医殿もな」
 境界線に立つ門兵へ通行許可証を見せ、少しだけ言葉を交わす。ここの門兵二人は、気前良い人だ。戦士候補生の子供達と、楽しそうに話す様子を見たこともある。きっと悪い人ではないのだろう。
 レベリオはマーレ本国内で、最大規模を誇るエルディア人収容区だ。負傷した大勢のエルディア兵達は、収容区内の病院で治療を受けている。血液サンプル採取のために病院へ通っているが、未だクルーガーを見かけていない。彼とはラクア基地の診療所で別れてから、一度も会っていないのだ。怪我を負っておらず、今もマーレ軍内のどこかに潜伏しているのだろうか。
「チクッとしますよ。力を抜いてください」
「は、はい……」
 注射器の針を穿刺し、サンプルを採取した。赤黒い液体が満ちる採血管達をケースに納め、病院を後にする。
 レベリオ収容区は、大きな壁が街全体をぐるりと囲んでいる。まるで大きな鳥籠のようだ。収容区には、日々の暮らしに欠かせない市場や食品店、カフェなどもある。ラクア基地の街と何一つ変わらない、どこにでもある風景が広がっている。
 エルディア人が住まう街で、マーレ人がいるのは珍しい光景だ。道行く彼らは、私を見ると顔色を強ばらせる。遠巻きにチラチラ見たり、道を譲る者までいるのだ。危害を加えるつもりはないが、彼らはそう思ってくれない。
 私を見る度に、ビクビクしている。難癖をつけられて酷い目に遭うかもしれないと、怯えているのだろう。収容区の外に出たエルディア人は、マーレ人からの迫害を甘んじて受けている。それらが身に染みているのだ。
 ふと背中に、視線を感じて足を止めた。キョロキョロと周囲を見渡しても、それらしき人物は見当たらない。エルディア人の怯え切った視線ではない。上手く言い表せないが、私のことを観察するような――落ち着きながらも、堂々とした類だったと思う。不穏な気配を感じながら、足早に収容区を出た。

 採取した血液サンプルを巨人科学会に持ち込むと、研究員が出迎えてくれた。どうぞこちらへ、と中に促される。私は大人しく着いて行くことにした。
「これから軍部は、疎かにしていた兵器開発に力を入れると耳にしました。我々学会が生き残る道は、未だ謎に包まれた巨人の力を解明し、巨人を兵器として使用し続けてもらうことに限ります。軍医殿に協力頂けて、助かりました」
「その血液サンプルで、何か分かったりするのですか」
「おや、興味がおありですか?」
「まあ……血液サンプルを届けている身としては、どんな研究に使われるのか知りたいですけど」
「……そうですね。せっかくだから、あなたにも教えましょう」
 眼鏡をかけた男性研究員は、感情を込めずに淡々と説明してくれる。
「巨人化薬は空気に触れると蒸発してしまうので、特殊加工の硝子瓶に保管しています。注射器に取り込んだ巨人化薬に血液サンプルを混ぜれば……エルディア人の体内で、どんなことが起こっているのか再現出来るのです」
 巨人化薬と混ざった血液サンプルに変化はなさそうだ。目には見えないレベルで、何か変化が起こっているのかもしれない。
 私は研究員へ、更に説明するよう促した。
「これを応用して遺伝子組み換えした脊髄液を作れば、更に強い巨人が作れるかもしれない……。兵器開発せずとも、まだまだ巨人には未知の力がある……私はそう考えています」
「九つの巨人とは違う、新しい巨人を創るということですか?」
「その過程で、かつてアッカーマン家が誕生しました。ですが私は、新たな能力を持った巨人を生み出したい。始祖をも凌駕する、強くて美しい巨人を」
 自然の摂理に反している。どうしても、複雑な心境になってしまう。
「エルディア人には、まだ利用価値があると?」
「勿論です。巨人は神秘だ。軍部内で囁かれている、エルディア人の処分は反対です」
 再び人間が神の領域を犯そうとしている。目覚ましい技術の発展は、時に人間を傲慢の道へと暴走させるのだ。命を弄って操る。新たな個体を生み出す行為は、神の特権で然るべきだ。安易に人が手を出すべき領域ではない。
 背筋からぞわぞわと、本能的な不快感が襲ってくる。ましてやこの研究員は、自らの欲望のために命を弄ろうとしている。収容区に住まうエルディア人の気持ちを意に介さない。そしてこの計画の一助を担う私も、同じ穴の狢だと思う。
 クルーガーがこれを知ったら、紅蓮の瞳が憎悪に燃えるだろう。今までの私なら、この話を聞いて何も思わなかったと思う。もしくは賛同せずとも、嫌悪感は抱かなかったかもしれない。
 命の尊さに優劣はない。当たり前のことを、私はクルーガーに気づかされたのだ。
「……ところで、巨人化薬は普段どちらに保管されているんですか」
「密閉ケースに入れて、この保管室に厳重管理しています」
 部屋を見渡すと、大きな棚が幾つもある。棚の扉は施錠されており、研究員の腰に幾つもの鍵がぶら下がっていた。
「この部屋の棚は特注ですので、盗難防止もしっかりしてます」
「お忙しいところ、ありがとうございました。研究の邪魔になると思うので、そろそろ軍病院に戻ります」 
「こちらこそ、ありがとうございます。またサンプルをお待ちしてますよ」

 今日は朝から、分厚い雲が空を覆っていた。いつ雨が降り始めてもおかしくない。病院内は陰鬱な雰囲気が漂っている。
「なあ、聞いたか? 悪魔が自殺したって話」
「私も門兵から聞いた。看護婦が目を離した隙に、病室から飛び降りたって」
 窓辺で深刻そうな顔で、同僚二人が話し込んでいた。コソコソ話だろうか。
「何の話をしているの?」
「あ、いや……。別に大した話じゃない」
「ええ。雨が降りそうだねって話してただけ」
「下手な嘘吐かなくて良いから」
 彼らは私を交互に見ると、黙り込んでしまう。何か隠している。同僚の様子に不信感を抱いていると背後から、忙しない足音と共にもう一人の同僚が駆け寄って来た。
「おい! あの悪魔が飛び降り自殺したって本当か!?」
「お前っ、馬鹿!」
「――あぁ!」
 駆け寄る同僚は私を見ると、目を大きく見開いて顔を強ばらせた。しまった、という顔をしている。二人の同僚も、頭を抱えていた。何を隠しているのだろう。私に知られて、まずいことでもあるのか?背を丸めて小さくなる同僚三人へ、説明を求める。
「どういうことか、説明して」
 悪魔。その言葉を指し示す者が脳裏に過ぎる。飛び降り自殺とは、どういうことか。絶対的な意志を持つ、燃える紅蓮の瞳。自由を得るまで立ち止まらない、熾烈で激情な彼が――。
 違う。クルーガーは、自殺なんかしない。数ヶ月間、共に生活して分かったことだ。それでも、胸に巣食う嫌な予感は何だ。脳内で警鐘がガンガン響く。ドクドクと脈打つ心臓が痛い。
「……お願い、教えて。悪魔が……何?何があったの?」
 喉から絞り出された声は、今にも泣き出しそうで、悲壮感漂うものだった。同僚達は、尋常じゃない私の様子に面を食らう。三人は気まずそうに顔を見合わせた後、ぽつぽつと話し始めた。
「スラバ要塞で、あなたが手術したエルディア兵が……病室の窓から飛び降りたって……」
「え……?」
 スラバ要塞の野戦病院にいた患者だ。破傷風が進行していたから、止むなく脚の切断手術を施したのだ。
「その患者、レベリオの病院で療養してたみたい。看護婦が目を離した隙に……」
 瞼の裏でエルディア兵の顔が浮かび、暗闇へと消えていく。頭から血が引いて、クラッと立ち眩みした。同僚の声が、どこか遠くから聞こえてくる。
 生温い血に塗れながら、肉と骨を絶ったのだ。あの時の感触は、今でも覚えている。患者は布を噛みながら、声にならぬ悲鳴を上げていた。忘れることなんて出来やしない。
「どうして……自殺なんて……」
 口腔内が乾き、上手く発音出来ない。唇から零れた声は震えていた。
「……さあな。悪魔のことは俺達に分からん。きっと絶望したんだ」
「それ……どういう意味?私のせいだってこと?」
 私の選択は――間違っていたのだろうか?彼の自由を奪ったから?生きる希望を切断したから?
「あのまま放っておいたら、彼は……間違いなく死んでいた。ほんの僅かな希望に懸けて、助けたかった……」
「希望?エルディア人に?その患者以外にも、戦争で大勢死んでいるんだ」
「ちょっと、あんた言い過ぎよ。ナマエが気を病むことじゃない」
「じゃあ……自殺した彼が悪いというの?」
 私がそう問えば、三人は口を噤んでしまう。彼らも分かっているはずだ。自らの命に終止符を打つ行為は、余りにも悲惨で非情だということを。
 私は今、どの立場で物を言っているのか。同僚達には、どんな風に映っているのか。マーレ軍服を着るに相応しい、一人のマーレ人に見えるだろうか。
「……少し休んで落ち着け」
「あなたの受け持ち患者は、私が様子を診ておくから」
「悪魔達に肩入れし過ぎるな。俺達はマーレ軍所属の医者だ」
 去り際にかけられた言葉は、明らかに忠告の色を孕んでいた。その場から立ち去る同僚達を、ぼんやりと見つめる。私の問いに、三人は答えてくれない。身体の末端が徐々に冷えて視界も濁っていく。黒く凄む曇天は、大粒の涙を溢し始めた。まるで私の心情を映したみたいだった。

「いつになったら、俺を殺してくれるんだ!?」
「落ち着いて下さい!ナマエ先生、大丈夫ですか?」
「あ……」
 尻餅を着いた痛みと衝撃で我に返る。あの日以降、死んでしまったエルディア兵のことばかり考えてしまう。助けたくても助けられなかった患者は、今までマーレ将兵にも沢山いたはずなのに。エルディア兵の脚を切断する他に、助ける方法はあったのか。医者として模索すべきだった。
 己が最善を尽くしても、患者本人は望まないかもしれない。今まで自分のエゴを、患者に押し付けて来ただけではないか?来る日も来る日も、自問自答している。
「精神安定剤を投与しますよ!」
 今だってそうだ。再び患者から、殺してくれと乞われる。わぁわぁ泣き喚く声は、お前は無力だと責められる錯覚に陥った。一人の医者として大事な物が、ボロボロと崩れ堕ちていく。暴れる患者へ薬剤を投与する看護婦を、私は傍らで呆然と眺めるだけ。
 戦争は終わっていない。まだ戦場にいる。
 深夜。静まり返る軍医室で一人考える。
 あの患者にとって、本当の慰めは何か。生きて欲しい。その気持ちは、私のエゴだろう。
「うぅ、ああぁッ……!」
 勝手に漏れる嗚咽を噛み殺す。片脚を失ったエルディア兵の顔が忘れられない。助けたかっただけなのに。
 私の希望が誰かの絶望になる。
 私の絶望が誰かの希望になる。
 あの患者は死ぬことを望んでいる。苦痛を抱えながら、真っ白で殺風景な精神病院の中で生きる意味はあるのか。彼にとって生きるのが地獄というならば、主治医である私の手でいっそ――。
 私は両手を眺める。この手は命を救うため。人に仇を為し、命を奪う手ではない。そう言ったのは、イェレナだった。他人を殺した代償は己の命だ。
「……私はラクア基地で、住民の命を危険に曝した。地獄へ堕ちる覚悟だってした……」
 今更ではないか。
 私は碌な死に方をしないだろう。だけど、もう何も知らなかった頃には戻れない。窒死薬が入った注射器の針が鈍く光る。東の空が不気味な赤味を帯び、明るくなり始めていた。私は静かに立ち上がり、軍医室を出る。
 向かった先は、例の患者がいる病室だ。静かに扉を開けて中へ入った。病室は穏やかな寝息で満ちている。
「ミョウジ先生……。どうしたんですか、こんな朝早くに」
「起こしてごめんなさいね」
「……平気です。また眠れませんでしたから」
 気怠げな声だった。私は寝台脇の椅子に腰かける。不思議なことに、私も患者も恐ろしいくらい落ち着いていた。
「死にたいと……言いましたよね。今もその気持ちに、変わりありませんか」
「ど、どういう意味――」
「あなたを苦しみから解放する薬です。眠るように、安らかに逝けます。楽になりたいか、生きたいか……選んでください」
 人を誑かす悪魔になった気分だ。
 私は注射器を見せた。中身がトプンと音を立てる。患者の目が、みるみる内に血走っていく。ゴクリと生唾を飲み込む音が、朝焼けの病室に響く。彼にとっては、喉から手が出るくらい欲しい物だ。
「い、良いんですか……?」
「一度だけです。二度はありません」
「楽にしてください」
 静かな答えだった。生きたいと願う気配すら見当たらない。普段は半狂乱で死にたいと泣き叫ぶのに、今は背筋が寒くなる程冷静な様子だ。
 諦めているのではなく、望んですらいないのだ。その様子が、酷く哀しかった。彼が生きたいと願っていると感じたのは、私のエゴが勝手に見せた幻影だったのだ。私は唇の端をきつく噛み締める。
「……分かり、ました」
 彼は無言で患者着を捲り、青白い腕を差し出す。私も静かに注射器の先端を当てがった。押し子に力を入れると、スルスルと死が血管に吸い込まれていく。全ての薬剤を打ち終え、彼は寝台に横になった。ゆっくりと、穏やかに――死がやって来るのを待つ。
「これで……やっと眠れる」
 満ち足りた顔で呟いた後、彼は意識を手放した。少しずつ身体の細胞組織が、侵されていく。トクトクトク。生温くて柔い首筋へ手を翳せば、穏やかな脈拍が掌に伝わってくる。トクトク。動脈の動きは次第に弱まっていく。トク、トク。命が散っていく。安らかな寝息を数回した後、彼は眠るように息を引き取った。
「……お休みなさい」
 命を救う手で、命を奪った。イェレナの施した呪縛が、解けた瞬間だった。
 彼が息を引き取ると共に、必死で繋ぎ止めていた呪縛の糸が、頭の中でプツンと切れた音がした。医者としての私は、今この瞬間――死んでしまったのだ。

 自身が手にかけた患者の遺体を清拭し、真白な布を被せる。遺族が駆けつけ、枕元で嗚咽を零す姿を見ても、何も感じなかった。遺族が遺体を引き取り――やっと肩の荷が降りた心地だった。何故か涙は出なかった。軍医の役目を放棄し、医者を名乗る資格も失った。
 生と死の境界線が、曖昧になってしまった。犯した罪の大きさを自覚出来ないまま、今日も軍医として病院で患者を診ている。あの患者が使っていた寝台は、既に新しい患者が使っている。患者と仕事は、待ってくれないのだ。
 心が戦場で迷子になってしまった。あの日から、胸にぽっかり穴が開いて虚しいまま。今の私をクルーガーが見たら、どんな反応をするだろう。糞野郎と罵られるかもしれない。
「ミョウジ。お前に手紙だ」
「……ありがとう」
 真白な封筒に、綺麗な文字で私の名前が綴られている。差出人は知らない名前だ。一体何だろう。開封して中身を確認すると、心臓が大きく鼓動した。手紙を握る手が、小さく震えてしまう。そこには、場所と時間が記されていた。
 宵が深まる頃。私は通行許可証を門兵に提示し、レベリオ収容区へ入った。硬い石畳に、ヒールが打つかる音が響く。逸る気持ちを抑え、目的地へ急ぐ。今日は病院ではなく、とあるアパートの地下室に向かっている。
 石造りの建物に彫られた番地を確認する。待ち人はここの地下室を指定した。緊張で息苦しいまま、急な階段を降って扉のノブを握る。扉がギギギと軋みながら開いた。薄ぼんやりした明かりが、暗闇に慣れた目に沁みる。
「よぉ……。久しぶりだな」
 懐かしい声が鼓膜に馴染んだ。
「クルーガーさん……!」
 私は寝台に座る彼に声をかけた。
 硬い壁には、外気を入れる小さな窓。洋燈が一つ。薄い布団が敷かれた寝台。木装の机と椅子が一脚ずつ。それ以外は何もない、殺風景な狭い部屋。診療所の地下室を彷彿させた。
「……何で……どうしたんですか、その姿……」
 久しぶりに再会したクルーガーに、私は言葉を失った。診療所で別れた時の面影が何もなかったからだ。髪は伸び放題で、顔半分を覆っている。左目は潰れて包帯が巻かれ、左脚は膝下から先がない。松葉杖が寝台脇に立てかけてある。彼の姿は、軍病院に入院中の傷痍兵と同じだ。
 共に暮らした時に感じた、クルーガーの温かさは見当たらない。あの夜から約半年間、一体何があったのか。
彼は私の質問に答えなかった。
「色々話すことがある。そこの椅子に座ってくれ」
 クルーガーは寝台前にある椅子へ目配せした。




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