10

 夢の中で緩く揺蕩う意識が、眩しい光に導かれる。ぱちりと目を開けると、洗い立てのような清らかな光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。私を夢の世界から引き摺り出したのは、どうやら朝日だったようだ。暗闇に慣れた寝ぼけ眼に、容赦ない朝の光は堪える。
 喉が渇いた。水を飲もう。起き上がろうとするが、どうも上手く身体が動かない。身体が重いのは、どうしてだろう。起き抜けで上手く働かない脳内を必死で動かす。すると、後ろから寝息が聞こえた。身を捩って確認すると、クルーガーは私を抱き込んで眠っている。
 何故。どうして。彼が私と。何をした。
 焦る私をクルーガーは知る由もなく、穏やかに眠りこけている。初めて見る彼の寝顔は、年相応のあどけなさが残っている。昨晩の記憶を掘り起こす。クルーガーは悪魔ではなく、私と同じ人間だということ。認めてくれるだけで、十分だと言われたこと。抱擁され、嫌悪感がなかったこと。それから――。
 嗚呼、そうか。勢いに任せて、しちゃったのか。通りで腰が重たい訳だ。自分でも聞いたことない、あられもない声を上げた気がする。駄目だ。羞恥で消えてしまいたい。思わず脱力してしまう。下着は身につけているが、事を終えた後に着たのだろう……。多分。

10.出立

 とにかく水が飲みたい。シャワーを浴びて、頭をスッキリさせたい。私はクルーガーを起こさぬよう、慎重に腕の中から這い出した。水を飲んだ後、怠い身体を引き摺り脱衣所に向かう。鏡に映る自分自身の身体を見て、絶句した。首筋や胸元に、鬱血痕が咲いている。
「……参ったな」
 頭を抱えながら、重たい溜息を吐き出す。一週間の休暇は今日が最終日。明日から軍病院で、患者達が待っているというのに。コンシーラーで誤魔化し、痕が消えるまでハイネックで凌がなければ。
 シャワーを浴びて、少しだけ冷静になれた。トーストを焼き、付け合わせのスクランブルエッグとベーコンを焼く。コーヒーを淹れる。香ばしい匂いが鼻腔を擽ると、腹の虫が鳴った。どんな状況であろうと、生きている限り腹は減るのだ。私は寝室で眠っているクルーガーに声をかけた。
「朝ご飯、出来てるけど」
「……食う」
「じゃあ早く起きて。冷めちゃうから」
 美味しそうな朝食の匂いに誘われて、彼はのそのそと布団から身を起こした。
 ナイフでベーコンを切る音。スプーンでスクランブルエッグを掬う音。トーストを齧る音。二人で囲む食卓は、いつもと違う沈黙が支配していた。気まずくて、食事の味がしない。聞こえるのは、カトラリーが擦れる音だけ。いつもの食事だって、大して会話しないのに。どうしても、今だけは耐えられなかった。
「私がスラバ要塞に行く前に、あなたの偽装マーレ戸籍に死亡届を出しておいた。これで三週間後のエルディア徴兵も、問題ないと思う」
「手間をかけさせて悪かった。だけど今、その話はしたくない」
「え……」
 今、何て言った?そもそも、この診療所に乗り込んで来たのは、マーレ軍に潜入するためだろう?私が寝る間を惜しみ、準備をしたというのに。思いもよらないクルーガーの言葉に苛立ちを覚える。
 抑えようと努めても、口調の端々に棘が表れてしまう。
「じゃあ、何の話をすれば良い?」
「何で怒ってるんだよ」
「何でって……」
 私が苛立っていることは、流石にクルーガーも感じたらしい。困惑する彼の姿に、私は食事の手を止めて閉口する。
 手酷く抱かれれば、まだ救われたのに。独りよがりな行為であれば、詰る余地があった。あろうことか、クルーガーは私を傷つけることはしなかった。身体の中で弱い部分を攻められ、触れる口づけで心を愛撫された。
 傷の舐め合いで構わないと思っていたのに、大事にされてしまった。そう錯覚してしまう自分自身に、苛立っているのだ。たった一晩の行為で、クルーガーに心乱された事実が気に食わない。つまり、ただの八つ当たりだ。
 お腹が空いていたのに、食欲は失せてしまった。私は立ち上がり、片付けを始める。すると背後で、クルーガーが近寄る気配を感じた。
「身体、大丈夫か? その、昨日……無理をさせちまった、から」
「……腰が痛い」
「わ、悪い……」
 苛立つ己が馬鹿馬鹿しく感じ、脱力してしまう。身体を重ねた事実は変わらない。もう後の祭りだ。後悔しても知らないぞと言われ、今更でしょうと答えたのだから。
「見える所に、こんな痕つけて困るわ」
 ハイネックを下げ、情を交わした痕跡を見せつける。クルーガーはそれらを見て、大袈裟に溜息を吐いた。
「……憎まれ口が叩けるなら、大丈夫じゃねぇか。心配して損した」
 そして食卓に戻り、食べかけのトーストを齧る。もそもそと食事を再開する彼は、ある意味肝が据わっている。
 だけどお陰で、妙な空気は一掃された。そう、これで良いと思う。男と女に纏わりつく、色気はなくて良い。互いに憎まれ口を叩く方が、私達らしいのだ。

 翌日。私は一週間ぶりに、ラクア基地の軍病院へ出勤した。患者達の診療をした後、スラバ要塞行きの支度をしなければならない。休んだ分、やるべきことが溜まっている。
 クルーガーは、殺風景な診療所で留守番中だ。ちなみに外出禁止令は、とっくに解除済みだ。二人で何度も街に出かけているし、肉体関係を持ってしまった以上、もう意味を成さないから。三週間後は、エルディア人収容区で最後の徴兵が行われる。奇妙な暮らしに終わりが見えた今、クルーガーも妙な行動は取らないだろう。私はそう判断した。
 互いに一線を超えてから、変わったことがある。一つの寝台で、共に眠るようになったことだ。一人だとゆったり眠れるセミダブルのサイズでも、二人になると仰向けで寝るのが精一杯。寝返りを打つとなれば、やはり狭い。だけど、その窮屈加減が寧ろ心地良かった。
「冷たい。ちゃんと風呂で温まったのか」
「クルーガーさんが、子供体温なんでしょう」
 布団の中で互いに向き合う。足先を絡め取られ、手を握られる。本当に彼は温かい。ギシ、と寝台のスプリングが軋む。見上げると呆れ顔の男が、視界いっぱいに広がった。私達は何かから逃げるように、肌を重ねた。ひょっとしたら――現実逃避なのかもしれない。
 滑る舌先。熱を持った吐息。汗で湿り気を帯びる肌。意味を成さない単語の羅列。熱に浮かされて、とろりと蕩ける眦。奥を穿つ楔の生々しさ。打ち込まれる度、生きていると実感する。
 たった一度、人の温もりを味わってしまったから、たがが外れたのかもしれない。快楽と快感に支配されれば、煩わしいことは何も考えなくて済むから。少し前まで、憎み合っていたのが嘘みたいだ。私達は何て浅ましいのだろう。

 残りの三週間は、あっという間に過ぎた。
「荷物は全部まとめたの?」
「ああ。これで全部だ」
「意外と少ないのね」
「まあな。手荷物は少ない方が良いだろ」
 大きなリュックが一つだけ。この診療所へ来た時に背負っていた物だ。今夜クルーガーは、エルディア兵の徴兵を行う収容区に向かう。つまりイェレナに仕組まれた、奇妙な共同生活は終わりを迎えるということ。
 クルーガーは食卓に並ぶ料理を見て、目を丸くする。グリーンサラダとカルパッチョ。海老と蛸のオイル煮込み。ムール貝と白身魚の白ワイン蒸し。豆スープ。ライ麦バケット。
「何だよ、この料理」
「前に魚介料理が食べたいって、言ってたでしょう?料理人に比べたら、大した物じゃないけど」
 二人で食卓を囲み始めた頃。
 パラディ島の捕虜に、マーレ料理人がいたと話してくれた。味の保証は出来ないと伝えたら、食えれば良いと言われたことがあった。少し悔しかったから、私なりに頑張ってみたのだ。
 クルーガーは記憶を手繰り寄せ、思い出したようだ。
「わざわざ作ってくれたのか」
「今日で最後だから」
「……そう、だな。いただきます」
「いただきます」
 二人で食事を摂るのも最後なのに、会話も少なくカトラリーと皿が擦れる音だけ。湿っぽい雰囲気もない。いつもと何ら変わらない食事風景だ。
 クルーガーは盛りつけられた料理を、黙々と咀嚼している。目の前で料理が減っていく。どうやら味は――問題なさそうだ。不味ければ不味いと言うタイプだろうから。
「……美味い」
 ぽつりと零れた言葉。私は呆気に取られて、上手く反応出来なかった。クルーガーは表情を変えず、食事を口に運び続ける。聞き間違えたのかもしれない。彼は私が作った食事を、今まで一度も褒めたことがなかったから。だけど、胸に広がる温かな気持ちは嘘じゃない。
「……そう。良かった」
 私は初めて、自分で作った料理を美味しいと感じたのだ。私とクルーガーは、言葉を交わさず黙々と食事を進める。食卓に並んだ料理は、綺麗さっぱりなくなっていた。

 誰もが寝静まる深夜。いよいよクルーガーが出立する時間になった。この診療所から目的の収容区まで、徒歩で一時間程度。クルーガーは、ここに来た時と同じ格好をしている。マーレ人を演じる必要がなくなった証だ。
「この診療所から、収容区までの地図よ。収容区の東側は警備の目が手薄だから、裏道の排水溝から侵入しやすいと思う」
 街の地図を見せて、赤ペンで道順をなぞる。排水溝がある箇所に、分かりやすく丸を描いて彼に渡す。身元確認で提示する、エルディア人の戸籍も忘れずに渡した。私が出来ることは、全てやった。後はクルーガーが、難なくマーレ軍部に潜り込むだけ。
「これ、後で確認しておけ」
 するとクルーガーから、白い封筒を渡された。真白な封筒に、差出人は記載されていない。私は不審な気持ちでそれを眺めていると、大きな腕に引き寄せられた。
 大きな掌が、私の頭を撫でる。彼の手つきは優しい。長かったようで、短かった不可思議な共同生活。互いに憎み合い、いがみ合った。呪詛を吐き、相手の死を願った。軍医の立場でありながら、軍部と街の住民を裏切る覚悟もした。
 燃える紅蓮の瞳は、認めたくない事実を否応なく突きつけた。加害者と被害者は紙一重。クルーガーは悪魔ではなく、私達と同じ人間だということ。認めてしまえば、己の愚かさと向き合う他なかった。
 私はクルーガーの広い背中へ、両腕を回そうとして――やめた。不思議と涙は出なかった。色んなことがあったのに、それを明確に言い表す言葉が思いつかない。
 御礼でもない。かと言って、送り出すのも違う気がする。一つだけ聞きたいことがあったので口を開いたけれど――言葉を飲み込んだ。今更それを聞いて、何になると言うのだ。
「どうした」
「何でもないわ。……もし軍内で会ったとしても、知らないふりをするから」
「……ああ」
 温かな体温が、離れていく。扉を開けると、暗闇の中に街灯がぽつぽつと灯っていた。しばらく彼は黙り、私を見た後――。
「世話になった」
 暗闇へと足を踏み出した。私は無言で――彼の後ろ姿が宵闇に吸い込まれ、消えるまで――見送った。抱き締められて温まった身体は、とっくに冷えている。私は静かに扉を閉めたのだ。
 ふと我に返った私は、手に握られたままの封筒を開けた。一枚の紙ペラには、義勇兵の間で使用される暗号が記されている。
 巨人化薬の保管場所を見つけろ。
 イェレナとは違う、見たことない筆跡。だけど、明らかに次の指令だった。まだ私は解放されないらしい。
「いつの間に……」
 封筒の消印は、一ヶ月ほど前。私が一週間休暇中の頃である。あの時クルーガーは、私宛の手紙だけ先に渡したのだろう。では、いつ外界と接触したのだろうか。
 思い当たることが、一つだけある。彼は私との約束を破って外出したことがあった。消印の時期から、更に遡ること三週間前。私は反戦デモで怪我した患者達を治療するため、クルーガーの監視が緩んだ時だった。互いに罵り、詰り合って――マーレに来た真の目的を問い質した時、クルーガーは確かに、まだ話せないと言っていた。俺を軍部に潜り込ませたら、教えてやる――と。密かに彼は、次の指示をイェレナの仲間へ仰いでいたのだろう。
 クルーガーが去った診療所は、とても広く静かに感じる。模様替えはしていないのに。養父が戦死してから、一人で生活していたのが随分と昔みたいだ。一人だと十分なセミダブルの寝台も、スペースを持て余してしまう。クルーガーと共に過ごした痕跡は、胸元に散る鬱血痕のみ。肌を重ねる度に、同じ箇所へ痕をつけられるから中々消えないのだ。

 クルーガーが、診療所を去ってから一週間後。私は殺風景な診療所兼住居を見渡す。診察室の薬品棚。食卓や椅子、ソファや寝台には埃が被らぬよう、大きな白い布を被せてある。患者のカルテも全て処分したし、床板には埃一つ残さず掃除もした。暖炉に溜まった灰も捨てた。
 養父と暮らし、患者達を診た時間。クルーガーと過ごした束の間の時間。広くてがらんどうな空間に、一人取り残された私は少しだけ感傷に浸る。
 ここには、色んな記憶が詰まっている。
 目を閉じれば、瞼の裏に思い出が浮かぶ。スラバ要塞に赴いた後、果たして再び帰って来れるのだろうか。玄関先から、馬の呻き声が聞こえた。
「馬車が来た」
 私は感傷に浸るのを止めた。軍行李を持ち、思い出溢れる住居を後にする。外に出ると、複数人の住民が集まっていた。
「先生。無事に帰って来て下さい。待ってますから」
「寂しくなっちゃうわね」
「先生が戻って来るまで、健康でいないとな!」
「あんた何言ってるの。ミョウジ先生が帰って来ても、健康でいないと駄目よ」
 皆、口々に声をかけてくる。送り出してもらう筋合いなど、ないのに。
「ナマエちゃん……」
 私の名を呼んだのは、脚が不自由は老婦人だった。彼女は巾着袋から何かを取り出す。
「良かったら食べて。ナマエちゃん、このチョコレート好きでしょう」
「……良いんですか?」
「戦地まで遠いでしょう? 小腹が空いたら食べるのよ」
「……ありがとう」
「絶対に、帰って来てね」
 私はチョコレートが詰まった袋を、ありがたく受け取った。御者台の男が、出発の時間ですと急かす。
「ごめんなさい。今、行き――」
 視界に入った光景に、私は足を止めてしまう。見送りに来てくれた住民は、私へ敬礼していたのだ。私は軍行李を足元に置き、彼らへ敬礼した。
「行って参ります」
 馬車に乗り込み、ゆっくりと動き出す。正方形の窓から見える、住み慣れた街の光景が徐々にぼやける。マーレに連れて来られて、十年以上この街で暮らした。ぎゅうっと両目を固く閉じ、ぼやける景色を視界から締め出す。この街の住民は、良い人ばかりだった。
 大きく息を吸い込み、溢れそうになる嗚咽を押し殺す。何度か肺へ酸素を送り――ようやく瞼を開ける。涙の膜は引っ込み、私は前を見据えた。その先に映る光景は、どれほど悲惨だろうか。
 軍部と合流し、マーレ軍大本営行きの列車に乗り込む。二十両編成の二両目に、私は腰を落ち着けた。後方車両には、徴兵されたエルディア人も乗り込んでいる。どこかの車両に、クルーガーもいるのだろう。

 刻一刻と、戦場へ近づいて行く。私の配属予定地は、最前線の野戦病院である。
 戦場における医療施設は二つある。一つは野戦病院だ。ここで傷病兵は治療され、回復したら原隊へ復帰させる。野戦病院での治療が難しい場合は、戦場から離れた兵站へいたん病院に移送される。そして更に治療が必要な場合、マーレ本国の軍病院で治療を受けるのだ。つい最近まで、私はラクア基地の軍病院で傷病兵を診ていた。最後方の医療施設から、前線へ送られるということになる。
 どれくらい列車に揺られただろうか。結構な長旅に、私はうんと伸びをして凝り固まった筋肉を解す。野戦病院から迎えに来たジープに乗り込み、緑豊かな山々の景色が次第に移り変わる。
 砂埃が舞う一面茶色の景色の中に、幾つもの天幕が軒を連ね、視界の端まで続いている。衛生兵や看護婦達が忙しなく働いていた。遥か上空には、数機の飛行船が飛んでいる。
「ミョウジ軍医少尉。待っていたよ」
「軍医大佐殿。遅れて申し訳ございません。診療所を畳むのに、時間がかかってしまいました」
 野戦病院全体の位置など、簡単に説明してもらう。重軽傷の度合いによって、患者の収容地区を分けているという。
「悪魔達の野戦病院には、急拵えに作った柵で囲んでいる。間違うなよ」
「……はい」
 私がいる所は、マーレ人専用の野戦病院だ。エルディア人専用の野戦病院は、遥か向こうにある。目を凝らせば、天幕の先端に揺らめく五芒星の旗が見えた。マーレとエルディアの境界線は健在のようだ。
「今日から、しっかり働いてもらう。今は一人でも人員が必要だ」
「分かりました」
 私は今まで通り、マーレ軍所属の軍医なのだ。軍服と白衣を着ている限り。そう自分に言い聞かせる。
 さっそく私も業務を振り分けられ、勤務が始まった。野戦病院にはひっきりなしに患者が運び込まれ、休む暇はどこにもない。重傷者が多くて、中東連合軍に苦戦している様子が肌で感じ取れる。命を扱う最前線では、ピンと張り詰めた空気が緩む気配は微塵もない。他の軍医や看護婦達も、手術、診察、看病に駆り出されていた。
 スラバ要塞は、四方が砂で囲まれた乾燥地帯だ。それ故に風が吹けば、砂埃が立ちやすい。医療環境として、絶好な場所とは言えなかった。
殊更ことさら、衛生面は気を配らなければいけない。

 鉄錆と消毒液の臭いが、すっかり鼻奥にこびりついた。問診を行い、点滴や血塗れの包帯を替える。痛みに呻く患者へ、モルヒネを処方する。それでも回復しない患者は、兵站病院へ移送する。それを何度も何度も繰り返す毎日。
 マーレ兵だけではない。怪我を負ったエルディア兵達が、柵の向こう側へ運搬される様子を何度も目にした。私がここへ赴任してから、ひと月経っても戦況は何ら変わらない。相当数の兵力を投入したのに。
「さっさと戦士隊を、投入すれば良いんだ」
「マガト隊長は、一体何を考えているのか」
 傷付いた将兵達は口々に大本営を批判し、戦士隊の投入を強く望んでいる。泥沼の戦況を打開するには、それしかないと言わんばかりに。
 鎧。獣。アギト。車力。彼らの力は最強だ。マーレ軍屈指と言っても良い。おまけに獣は、無垢の巨人を昼夜問わず操れる。戦士隊を投入して敵を疲弊させた後、息の根を止めるため無垢の巨人を投入させる。マーレ軍が他国に勝ち続けた方法だ。
 無感情の巨人が町を跋扈する。人々の営みの地を、まっさらな更地にする。嗚呼、また繰り返すのか。私の故郷も、それで滅亡した。
「戦士隊が無理なら、無垢の巨人でも良い。とにかく、戦争が終わるなら何だって良いさ。軍医殿も、そう思うだろ?」
「……それくらい話せるなら、もう大丈夫そうですね」
 私は静かにその場を後にする。当時感じた恐怖が蘇って、気分が悪い。胃から込み上げる吐き気を、何とか抑えた。
 戦争に勝てれば良い。ほとんどのマーレ人は、巨人が投入されることを期待している。物言わぬ巨人が人を喰うことに、恐怖と憤りを感じこそすれ、巨人を戦闘に使うなと声を上げる者はいない。
 私も同じだ。巨人に戦闘行為を委ねることへ、何ら疑問も浮かばなかった。マーレ人として、当たり前だと思っていたから。一度マーレ人の仮面を外した後、再び仮面を被り直す行為はしんどい。クルーガーと過ごした時間は、私の中で――良くも悪くも――大きな変化をもたらしたのだ。

「では定例会議を行う。それぞれ報告してくれ」
 週に一度、病床使用率や重傷患者の数、物資の残量など現状確認を行う。エルディア人の医者達も隅っこで参加しているが、彼らに発言権はない。説明を求められた場合のみ、発言が認められているのだ。
 今の現状として、包帯や治療薬などの物資、衛生兵や看護婦などの人員に問題はない。だが一つ懸念があった。マーレ兵へ医療物資を多く回しているため、エルディア兵に満足な治療が出来ないまま、原隊復帰させているのだ。誰一人、異議を口に出さない。否、おかしいと感じていないのだろう。
 会議が終了しかけたところで、私は挙手した。
「軍医大佐殿。恐れながら、意見を述べさせて下さい」
「何だ、ミョウジ軍医」
「戦場の最前線は、エルディア兵が戦っていると伺ってます。……今の現状ですと、結果的に兵を無駄死にさせているだけです。ならば、彼らへの治療を最優先すべきかと思います」
 私の意見に周囲は不可解な顔をしている。エルディア人の擁護とも取れる意見に、エルディア人の医者でさえ怪訝な顔だ。
「エルディア人の治療を優先しろ?まさか君は、彼らに肩入れしてるのか?」
「失礼いたしました。そんなつもりで言ったのではありません。このままでは、エルディア兵を殺すようなものです。彼らが死ねばマーレ将兵にも、多大なる犠牲が出てしまいます。満床になりつつあり、野戦病院ここの収容員が溢れてしまったら、新たに増設しなくてはなりません」
 限られた時間と軍費、人件費、物資は無駄に出来ない。
「マーレ将兵の犠牲を避けるために、まずはエルディア兵へ治療をしっかり施すべきかと」
「エルディア兵を治療することは、全て我々マーレ人のためになる……。そう言いたいのかね?」
 悪魔も私達と同じ人間。クルーガーが私に教えてくれたことだ。
「……はい。我々マーレ人のため、彼らには礎になってもらうのです」
 軍医大佐は、じっと私を覗っている。二心がないか、押し測っているのかもしれない。ここにいる誰しもが、固唾を飲んで軍医大佐の答えを待っている。
「……そこまで言うなら、君がエルディア兵達の処置をしなさい」
「分かりました」
「しょ、正気か!?」
 まさか私が承諾すると、思っていなかったらしい。周囲から、息を呑む空気を感じた。
「言い出したのは私ですし、軍医大佐殿のお手を煩わせる訳にはいきませんから。私が診療所で使っていた物資を、持って行っても構いませんよね?」
「あぁ……構わない」
 驚きで目を見開いた軍医大佐を尻目に、私は席を立つ。そして天幕の片隅にいるエルディア人の医者に声をかけた。
「先に戻って下さい。物資を持って、そちらに伺いますから」
「わ、分かりました……」
 エルディア人の医者は、驚きつつも指示に従ってくれた。他の軍医、看護婦達、マーレ将兵からの視線を背中に感じながら、私は天幕を後にした。

 診療所で余った医療物資を箱に詰め、私はマーレとエルディアの境界線を越える。柵の向こうへ足を踏み入れる時、躊躇うこともなかった。
「治療薬や物資を持って来ました」
「こ、こちらです。軍医殿」
 案内してくれるエルディア人の看護婦は、困惑した様子だ。まさかマーレ人自らが乗り込んで来るとは、思ってもいなかっただろう。
 床に臥せる患者達の診察を行う。怪我を負ったマーレ将兵と比べて、ここの現状は厳しかった。満足に治療が施せないため、病状が進行している患者が多いのだ。
 頭に包帯を巻いた者。高熱を出して唸っている者。目を負傷した者。痛みに呻き、堪える者。見ず知らずの顔を見る度、クルーガーの姿が脳裏にチラついてしまう。どうやら彼は、この病院には運ばれてないようだ。別拠点の病院にいる可能性もある。安心するには、まだ早い。
 安心?私が?胸に灯る、この感情は何と呼ぶのだろう。分からない。私は腑に落ちないまま、エルディア兵の診察を続けた。ざっと診察を終わらせ、エルディア人の医者と現状を共有する。
「南の天幕にいる患者ですが、破傷風の症状が進行してます。抗生物質だけでは、もう手遅れです。脚を切断しないと、彼の命が危ない」
「ですが……外科手術が出来る医者はいないのです」
「……ならば私が手術を担当します。補佐は可能ですか」
「か、可能ですが……良いのですか?」 
 何故そこまでしてくれるのか。言葉に出さずとも、彼の目を見れば分かる。そう思うのも、至極当然だろう。マーレがエルディアを気にかけるなんて、絶対に有り得ない。私自身にも分からない。だけど、何もせずにはいられないのだ。
 瞼の裏に残る、熾烈な炎を滲ませた紅蓮の瞳。クルーガーの激情が、私にも乗り移ったのか。今の私を彼が見たら、何と言うだろう。驚くだろうか。それとも――。いよいよ、焼きが回ったのかもしれない。口端に自嘲が滲み出てしまう。
「モルヒネを打ってるので、痛みはないと思いますが……念のためこれを口に入れて下さい」
 一枚の布を患者に渡す。本気で痛みに耐える時、人間はものすごい力で歯を食いしばってしまう。歯や舌を傷付けないために、柔らかい物を噛ませるのだ。既に患者の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
 まるで何かに突き動かされるように、私は血塗れになりながらも手術を行う。腐った肉と硬い骨を断ち、傷口を縫合していく。患者は苦悶の表情だ。痛みよりも、目の前で自身の脚が失われる光景に、堪えているのだろう。

 私がスラバ要塞に従軍して、四ヶ月が過ぎた。とある情報が野戦病院を駆け巡る。それは戦争終結を、告げるものだった。
「遂にマガト隊長が、戦士隊を投入したぞ!その後は無垢の巨人が、要塞を蹂躙したらしい!」
「スラバ要塞を制圧した後、獣の投球で軍艦を海に沈めたと報せが来た!」
 天幕は歓喜の声と、安堵の溜息で溢れた。将兵達は涙を流し、痛む身体で互いに抱擁し合う。今までの苦しみが、報われた瞬間だった。衛生兵や看護婦達も、ホッと肩の力を抜く。喜び合う彼らの傍らで、私は吐いてしまった。
 あの光景が頭を過ぎる。
 逃げ惑う人々の叫び。大地が揺れる振動と音。そして訳も分からぬまま、喰われる恐怖。十年以上経っても、昨日の出来事みたいに蘇るのだ。温度と湿度を持ち、生々しいほどに。
 中東連合と開戦して四年。長きに渡り泥沼化した戦争は、ようやく終結した。表向き勝利したものの――大国マーレの軍事力低下を、諸外国に露呈する結果となったのだ。果たして、本当に勝利したと言えるのだろうか。




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