08

 あれからどうやって、寝台に行ったのか記憶が定かではない。
「……酷い顔」
 目の下にくっきりした隈と浮腫んだ瞼。鏡の中にいる私が、こちらを見返している。久しぶりに泣き疲れ、泥のように眠っていたらしい。車の走行音に混じって、人々の賑わった声が外から漏れ聞こえる。サイドテーブルにある時計の針は、十時過ぎを告げていた。既に世間は、日常生活を始めている。
 三週間働き詰めた身体は、未だに疲労が残っている。私はぼんやりしたまま、重たい身体を引き摺るように居間へ足を運ぶ。その奥にある台所に、クルーガーは立っていた。

08. 一時休戦

「やっと起きたか」
 酷い夜だった。クルーガーは、私との約束を破って外出した。本人から行き先の説明はされず、未だ詳細は不明だ。私は彼を悪魔と罵りながら、首を絞めて殺そうとした――。あんなことがあったのに、クルーガーは何もなかったように振る舞う。何を考えているのか分からない。
「軽食作ったから食えよ。腹減ってるだろ」
 ぐうぅぅ。私がどんな気持ちを抱えていようとも、腹の虫はお構いなしだ。体調はあまり良くない。おまけに最悪な気分でも、腹は減る。生きている証拠だ。私が無言で椅子に座れば、ほんのり湯気が昇るスープが目の前に置かれた。
 クルーガーは、向かい側に座って、バケット籠からパンを手に取る。私も彼に倣い、パンをスープに浸して口に運ぶ。いつもの食卓とは違う、気まずい沈黙が降りる。
「……美味しい」
「……母さんの得意料理だったんだ。これしか作り方を知らない」
 クルーガーが、ぼそっと言う。クルーガーの視線は、大小様々な大きさの野菜スープに注がれている。私はクルーガーが作った料理を見た。スープに浮かぶ野菜達は、大きさがまちまちだ。しっかり切れておらず、連なっている物もある。包丁に不慣れな様子が窺えた。コンソメ味のスープは、寝起きで空っぽな胃に優しい。
 スープに隠された、在りし日の母親との思い出。島の悪魔と謗られる者にも、母親という存在がいた。当たり前のことなのに、今まで一度も思い至らなかった。
 私はまだ何も、この男のことを知らない。荒々しく燃える紅蓮の瞳が嘘みたいに、今は静謐な湖面のように凪いている。クルーガーにも、大事な存在がいたのだ。かつての私と同様に。
「昨夜は……悪かった。あんたのことを知った口を叩いて」
 昨夜のことを思い出して、思わず身体が強ばる。努力することを止めて、マーレに迎合している。少なくとも、目の前にいるクルーガーに、私はそう見えるらしい。
「私こそ……ごめんなさい。あなたの首を絞めて殺そうとした」
 生暖かくて柔らかい皮膚の感触。首筋に走る脈拍の鼓動が、掌に生々しく甦る。脳裏にイェレナの姿が過った。私の掌は人の命を救うためのもの。人に仇を為したり、命を奪ってはいけない。人を殺しても良いのは、人の命を奪う覚悟を持った者だけ。
目の前に座っている男は、その覚悟でマーレに乗り込んで来たはずだ。徐々に掌が冷えていく。
「話し合えば分かり合えると――俺の幼馴染は言っていた」
 あんたも、そう思うかと問われた。
 分かり合う。手を取り合う。相互理解。
一七〇〇年以上途方もない時間を費やし、夥しい数の命を犠牲にしても、未だ世界は争いが絶えない。人間の本質を物語っている。それが答えだ。

「世界は……私は悪魔の島を、仮想敵にすることで平和と心の拠り所を保って来た」
 だけど昨夜同様、神経や精神を擦り減らすのは勘弁だった。
「俺達は何も知らない。だから――」
「今日から一週間休みなの。一時休戦……してみましょう」
 互いに話し合ったところで、マーレに敵意を剥き出した相手へ何かを見出すことが出来るのだろうか。更に深みへと、足を踏み出して行く。もう戻れない場所まで来てしまった。私とクルーガーを引き合わせたイェレナだって、こうなることは予期していないだろう。
 お互いの生い立ち。育った環境と境遇。これまでの軌跡。好きな物と嫌いな物。物の見方と考え方。私達は知らないことが、山ほどある。それらを知るために、共に過ごしてみることにしたが、何から始めれば良いか皆目検討がつかない。養父に引き取られて以降、本来の自分を封じ込んで生きて来たから。
「どこか行きたい所……ある?」
 我ながら覚束ない質問に対して、クルーガーは真面目に答えた。
「あんたがこの土地で、一番好きな場所はどこだ」
「……意外と酷なことを言うのね」
 侵略国に同化した亡国の民に対して、侵略国の好きな場所を聞くなんて。そう呟いた私に対して、彼は年相応の表情を垣間見せた。
「そ、そういうつもりで言ったわけじゃない。せめてここで好きな場所があるなら、」
 その言葉に、何ら悪意や他意がないことは明らかであった。
「ごめんなさい。意地悪な言い方して」
 好きな場所。ラクア基地に連れて来られてから、今日までのことを思い返す。マーレ人としての教育を受ける合間、養父は色んな場所に連れて行ってくれた。敵国の風景を目にするのは、嫌で抵抗もした。それらを美しいとも思わなかった。
 街全体が見下ろせる時計台。精巧なレプリカみたいに、石造りの建物が軒を連ねる。人々の営みが見れる活気溢れる市場。マーレの歴史的建築物や博物館。秋になると金色こんじきに輝く山々を歩いたりした。
 初めは憎くて仕方がなかったけれど、次第に負の感情は抱かなくなった。養父から施される教育によって、違和感や拒絶の感情は次第に抑えられ――マーレ人へと同化されていったのだろう。
張り詰めた毎日の中で、自然の風景は慰めになったのだと思う。
「……海」
 この基地から三時間程度、列車に揺られると港町に出る。海鳥の鳴き声。潮風の匂いとさざ波の音。そこに住まう人々の暮らし。縁もゆかりもないのに、失われた故郷を彷彿させる場所だ。
「そこに連れて行ってくれ」
 クルーガーは静かにそう言った。
 私達は手短に身支度した後、駅へ向かうことになった。始祖奪還計画が発足して以降、更に世情は忙しなく、休日でも心が休まることはない。軍関連の仕事以外で、遠出するのも数年ぶりだ。あの港町に行くのは、いつぶりだろうか。
 掌に転がるのは、マーレ軍憲章があしらわれたブローチ。いつも軍服や白衣の左胸に、付けているが今日はやめた。今は亡い故郷を彷彿させるあの場所に、このブローチは相応しくないと思ったから。マーレ軍医ではなく、一人の人間としてありたい。

 駅のホームにある売店で、飲み物を買って列車に乗り込む。発車時刻になるとエンジンがかかり、ゆっくりと動き出す。平日の日中なので、車内は空いていた。
「養父は私を引き取る前に、奥さんがいた。二人に子供はいなくて、奥さんが亡くなった後に私は引き取られた。マーレ軍医であった彼から、教育を受けたわ。初めは嫌だったけど……子供の私が生き残るには、それしか道がなかったから」
「あんたは養父について、どう思っているんだ」
 ガタン、ゴトン。心地良い揺れを感じながら、車窓から流れる景色に目を向ける。列車は、切り崩した山の斜面を走っている。町と町の合間から、太陽の光に反射して輝く水面が見えた。見晴らしが良い。
「養父は……私のことを自分の娘として、愛していたと思う」
「……愛していた?」
 訝しげな声が返って来る。
「私の希望的観測だけど。マーレの奴隷になるはずだった私に、生きる道を示してくれた。彼の行為は、れっきとした洗脳……だと思う。巨人の襲撃で、家族や友人をいっぺんに殺されなければ、こんな目に遭わなくて済んだのにって……何度も思った。だけど、結果的に養父と同じ軍医に就けて、こうして生きている。クルーガーさんには、理解出来ない感情でしょう」
 クルーガーは向かいの座席に座り、神妙な顔つきのまま、大人しく話を聞いていた。
「逃げたいと、思わなかったのか」
仕方なかった・・・・・・のよ」
 停車していた列車は、定刻通り走り出す。乗り込んだら最期。途中下車が叶わぬ、地獄行きの列車に思えた。

 列車に揺られ、私達は目的地に到着した。懐中時計の針は、正午をゆうに超えている。
 港町は、私の記憶とそのままだった。
 駅前のロータリーに敷かれた馬鉄が、市中の奥へ延びている。ちらほら人影もある。右側面には切り立った丘に、青々と茂る雑木林。反対側から潮の匂いがする。
 海を眺めながら民家が軒を連ねる道を歩けば、温かい海風吹く市場に出た。港町ならではの新鮮な海の幸が、私達を出迎えてくれる。今朝水揚げされたばかりだと、店員が唾を飛ばす勢いで元気に捲し立てている。客の呼び込みに余念がない。それらの様子を横目に案内すると、クルーガーは大人しく着いて来る。
 彼の故郷悪魔の島にも、似たような市場はあったのだろうか。
 あちこち歩き、休憩がてら冷たい菓子を買った。乳白色でほのかに甘いバニラ味だ。
「アイスクリームは初めて?」
「いや、食べたことある」
「島にもあるのね」
「島にはない。マーレに来た時に食べた」
「私の診療所に来るまで、どこで何をしていたの?」
 一時休戦――。今日の私は、左胸にブローチを付けていない。マーレ軍人ではなく、マーレで生きる一人の人間としての質問である。クルーガーは手摺りに背中を預け、市場をじっと眺めている。
「マーレで暮らす人々を、眺めていただけだ。故郷を追われた難民と、夜通し酒盛りしたこともある」
「あなたは彼らと接して……どう感じたの」
 激情に燃えるあの瞳に、マーレはどう映ったのか。私は知りたかった。島の悪魔が一体どんな感情を抱き、どんなことを考えたのかを。
「……壁の中にも悪い奴はいるし、海の向こうにも良い奴がいる。ラクア基地の住民と接して実感した。あの人達も俺と同じ人間だってな。ガキの頃のあんたも、そう思ったんだろ」
 目に浮かぶのは、ラクア基地の住民達だ。
 海から運ばれた一陣の風が、私達の間をすり抜ける。重く閉ざされた彼の口から、語られる言葉に、何と言えば良いか解らなくて口を噤む。図らずしも私が幼心に感じたことを、島の悪魔も感じていたから。
悪魔達を仮想敵と見做すことで、言葉に出来ない感情の均衡を保って来たのに。認めてしまったら、私自身が迷子になってしまう。揺らぐ自尊心から目を背き、作り物の自負に目を瞑る。私はクルーガーの問いに答えられず、浜辺へと向かう。我ながら狡い。

 突き抜けるように澄んだ青空を映した大海原。単調に反復を繰り返す波の音。
人智が及ばない自然の中にいると、自分がちっぽけな存在に見える。悩んでいること自体が馬鹿らしく思えるのだ。私は波打ち際に行き、海水に足を浸した。冷たい波の飛沫が足首に纏わり付く。
「海はどこで見ても、変わらないんだな」
 遥か遠くまで広がる水平線の向こうに、彼の故郷がある。
「塩の湖。炎の水。氷の大地。砂の雪原。巨人を駆逐したら、世界中を冒険するのがガキの頃の夢だった」
 幼い頃に見た夢の先が、こんな地獄だとは思わなかったと、砂を弄りながらクルーガーは語る。灰色の瞳が微かに揺れたのを、私は見逃さなかった。島の生活について尋ねれば、クルーガーは掻い摘んで教えてくれる。
 それはあまりにも凄まじい内容だった。
 九年前の始祖奪還計画によって、生まれ故郷を追われたクルーガーは、今日まで屍を積み重ねて来たという。足がけ五年余り。巨人化能力を以って、マーレの戦士に奪われた故郷を取り戻すことが出来た。それまでの過程で、彼のために大勢の仲間が死んだ。これらの内容は、マーレ軍機密情報の辻褄とも一致する。
 目の前に聳える巨大な壁に囲まれた世界。いつもと変わらず、穏やかな一日だったそうだ。
母親との些細な口喧嘩は日常茶飯事。子供だったクルーガーは血の気が多く、近所の悪ガキと喧嘩ばかりしていた。二人の幼馴染と一緒に過ごし、壁の外の世界に胸を躍らせていたらしい。変わり映えしない毎日が、どんなに尊いものか――幼かった彼は気付けなかった。
 壁が壊された日。彼の母親は目の前で。
「食べられた……」
「世界から向けられる憎しみに、母さんも他の皆も無関係だ。あんたは家族が、何故巨人に喰われなければならなかったか分かるのか?」
 足首が冷えるのは、海水のせいだけではない。あの瞳に宿る炎の正体を垣間見る。砂浜に座る彼は――私の対となる存在だ。本来の自分を捨てて、マーレ人として生きようとする私は、クルーガーにとって牙を抜かれた手負いの動物に映るのだろう。昨晩吐かれた暴言の意味も、自ずと違う意味に聞こえるのだ。

 私達は加害者でありながら――被害者でもあった。もしかしたら、養父に拾われなければ、私は義勇兵に志願していたかもしれない。
「憎しみには憎しみを。イェレナを利用して、マーレに報復すること?」
「やられたらやり返すのはガキでも出来る。もう十分、殺し合った。これ以上、俺やあんたと同じような子供達を増やしたくない。俺はこの世から巨人を駆逐するだけだ」
 どうやって巨人を抹殺するのか。手段と方法を聞いても、クルーガーはだんまりだ。
「……目的のために、大勢が死ぬことになっても?私達と同じように……ある日突然、訳も分からないまま家族や友人が殺される子供達がいても――」
「それでもだ。承知の上でやる。あんただって、マーレ軍として他国侵略の片棒を担いでるだろ」
 痛い所を突かれてしまう。巨人が町を襲い、大勢が喰われて死ぬ。生き残った者達は、マーレ兵として徴用する。私は負傷した将兵達を治療して、戦場へ送り出す。送り出した先で、どんなことが行われているか承知の上で。
 既にクルーガーは非情な覚悟を決めていた。私は与えられた職務として加害者側に与している分、かなりたちが悪い。
今更綺麗事でも言うつもりか。クルーガーに指摘されなければ、矛盾を抱えている自身に気付くことすらなかっただろう。
「一七〇〇年のしがらみを解くには、相応の代償は必要なんだ。それでもあんたは、マーレ軍に密告でもするか?」
 私が乗り込んだ地獄行きの列車。その行き先は裏切り者に相応しい、九層の地獄で最下層の所だ。
「今の私はマーレ軍医でもない、ただのマーレ人よ。ここで聞いた内容は、聞かなかったことにするわ」
 私は波打ち際から、クルーガーの隣に腰を下ろす。彼は掌の上でもぞもぞ動く小さな蟹を、黙って観察していた。私は冷たい波の飛沫をハンカチで拭く。
「でも……クルーガーさんのこと、少しだけ知れて良かった」
「……そうかよ」
 広大な海と比べたら、私達の歩み寄りは針の先っぽ程度だ。今でもマーレ軍は中東連合軍と殺し合いをしているし、いずれパラディ島に艦隊を派遣する。世界を取り巻く状況が、劇的に変わることもない。

 私達は何も言葉を交わさず、寄せては返す波の音に耳を澄ませていた。クルーガーとは沈黙することが多いが、これまでの彼の言動を思い返すと、口数が少ないタイプでないことは如実に表している。
 水面に橙色の夕陽が反射した頃、漸くクルーガーが簡潔に言う。
「そろそろ帰るか」 
「そうね」
 私達は立ち上がり砂粒を払い落とし、元来た道を歩いて駅へ向かう。夕陽の照らされた市場は、店終いをする人々や自宅へ帰る人々で溢れていた。隣を歩くクルーガーは、彼らの日常を壊そうとしている。だけど私には、それを非難する権利がないのだ。
 ホームに展示された列車の時刻表に、お互い呆けてしまう。
「十分前に最終列車が出ちゃったみたい」
「どうする。歩いて帰るか?」
「……無理よ。ここからラクア基地は遠い。近くの宿に泊まって、明日の朝に帰りましょう」
 幸い一週間休暇を貰っているので問題ない。この港町は海水浴場として栄えているから、宿はいくらでもある。今はオフシーズンなので、飛び込みで行っても部屋は空いているだろう。
「満室だと?」
「ええ。本日は予約で一杯です」
 考えが甘かった。
 何件か宿を当たってみたが、どこも空いていない。どの宿も口を揃えて、学校の宿泊旅行で貸し切りだと言う。オフシーズン故に、手頃な金額で学校行事が出来るのだ。勢いのまま港町に着てしまったから、何も調べなかったのが仇になった。
 私は深い溜息を吐く。また宿を探さなくては。受付の男性が交互に、私とクルーガーを見遣る。
「一部屋なら空いてますが……如何されますか?」

 通された部屋は、二人が泊まるには明らかに狭かった。一台のクローゼット。ユニット式のバストイレ。窓から覗く夜の帳。部屋の隅には一人用のソファ。そしてセミシングルサイズの寝台に、サイドテーブルだ。
「どう考えても、一人客用だろ」
「仕方ないでしょう。空きがあるだけ良かったと思わないと」
 文句を言いそうなクルーガーに、私は先手を打つ。夜通し歩いたり野宿するよりマシだ。一夜の宿は確保出来た。あとは一人客用の部屋で、どうやって身体を休めれば良いか。
「クルーガーさんは寝台を使って。私はあっちのソファで良いから」
「いや、おかしいだろ。俺がソファで、あんたが寝台を使えよ」
「仕事柄、ソファで寝るのは慣れている」
 ついこの間も軍内の執務室で座ったまま、仮眠を摂っていたこともある。
 上着や手荷物をクローゼットに入れ、代わりにバスローブを引っ張り出した。バストイレを覗くと、石鹸と洗髪剤も揃っている。蛇口を捻り、バスタブにお湯を張る。ソファに座り、ルームサービスのメニュー表を眺めていると、未だにクルーガーは部屋の扉の近くに立っていた。
「……何しているの」
 この部屋がお気に召さないのか。
「や、やっぱり他の宿を見てみねぇか?二部屋空いてるかもしれない」
「もう八時よ。下手に歩き回るのは、得策じゃないわ。お腹空いたでしょう。何を頼む?」
「……この状況、分かってんのかよ」
 サイドテーブルの洋燈が照らす狭い部屋は、橙色に染まっている。クルーガーの顔がほんのり赤みを帯びているのは、それだけではないだろう。いつも落ち着き払ったクルーガーとかけ離れている。初めて見る等身大の姿に、思わず私は目を丸くしてしまう。
「えっと……もしかして、」
「あんた、俺を何だと思ってるんだよ」
 クルーガーは苛立ちを隠さずに、頭をグシャッと掻く。初心な反応をされるとは思わなかった。これがいわゆるお年頃・・・というやつか、と冷静に思った。
「私は軍の夜間行軍教練で、歩兵と雑魚寝したことは何度もある。体術も習得してるから、仮に何かあっても対処出来るわ」
 案の定クルーガーは、何か言いたげだ。今の言い方は、配慮が足りなかったかもしれない。ちょっと反省する。
「慣れてるってことだけど……」
 何を言っても裏目に出そうだ。やめよう。
 埒が明かない。私は気を取り直して、部屋の壁に取り付けられた電話器でルームサービスの軽食を注文する。
「三時間だけ外に出てるから、ご飯食べてお風呂入ってさっさと寝なさい。これで良いでしょう?」
 私は財布だけ手に持ち、クルーガーの返答を聞かず狭い部屋を出た。そもそも同じ屋根の下で、暮らしているのに今更な気がする。成り行きで外に出てしまったものの、さすがにお腹が空いた。近くに屋台があるか探さなければ。左右両脇のガス灯が足元を照らす中、私は町へと向かう。
 海岸から流れる湿った夜風は、冷たくて気持ち良い。
 昨日の今頃は、クルーガーと口論になった。私は彼の首に、手をかけたというのに。彼と二人で海を見に来た挙句、宿に泊まるとは思わなかった。今日だけでも、クルーガーの色んな顔を見た。思わず大きな溜息を吐いてしまう。
「調子、狂う……」
 頬が熱い。日中に溜め込んだ太陽の熱を放出しているからだ。そうに決まっている。




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