07

「娘さんが仕事のトラブルで、お迎えに来れなくなった?」
「ああ。だから一人で帰るんだと」
 午前の診察を捌いていると、白衣を着たクルーガーがそっと耳打ちしてくれた。私はカルテへ記入する作業を止めて、クルーガーを見上げる。
 話題は、私を可愛がってくれた脚の悪い老婦人のことだ。夕陽に染まる待合室で言われた“可哀想”という言葉は、小さな棘となり未だに心に刺さったまま。
「あの脚で帰るなんて危ないわ。他に誰か迎えに来れないのかしら」
「孫も娘の旦那も不在だ」
 老婦人は歩く度に、脚を引き摺っている。杖を突きながら、覚束ない足取りでよちよちと歩く姿は、まるで赤子のようだ。見ているだけで危なっかしく、ぶつかったら容易に転んでしまうのではないか。
 おまけにこの診療所から、彼女の自宅は少し距離がある。
「とりあえず、引き止めてある」
「そう……。困ったわね」
 私は一息吐いた。いつもなら娘が来るまで、待合室で待ってもらうのだが――今日は午前中の診療のみなのだ。まだ患者が残っているので私はここから動けないし、午後は診療所を畳む雑務が控えている。
「なぁ。俺がお婆さんを、自宅まで送るのはどうだ。受付時間も終わったし」
「……あなたが?」
クルーガーの提案は私も考えたが、すぐに首を縦に振ることは出来ない。

 クルーガーはマーレ人として、この街に馴染もうと努力していると思う。憎いであろう患者達や街の住民と朗らかに接しているし、私との約束もしっかり守っている。あれ以降、激情を滲ませることもない。会話が弾むことはないけれど、毎食共に食卓を囲んでいる。彼の住居を薄暗い地下室から、別の部屋に変えた。二人で外出した時も、問題を起こす言動はしていない。
 だけど彼のことは、完全に信用出来なかった。初めて二人で外出した時に、暴走しかけた彼の姿がどうしても過るのだ。生の憎しみを目の当たりにして、背筋が凍ったことを覚えている。頭のどこかで、やっぱり島の悪魔なんだと、冷めた目で見てしまう。そもそも、クルーガーは私の敵だから、信用も糞もないのだが。
 そうは言っても、今の問題を解決する術はクルーガーが彼女を自宅へ送り届ける以外ない。非常に悩ましいが、それ以外の妙案が思い浮かばなかった。思わず私は大きな溜息と共に頭を掻く。仕方ない。
「……分かった。外出許可を出すわ。彼女を自宅まで送って来て。だけど送り届けたら、寄り道せず帰って来ること」
「ああ、分かってる」
 クルーガーは私のことを一瞥した後、バサッと白衣を翻して診察室を出て行った。
 脱力した身体を、椅子の背もたれに預ける。窓を眺めると、一筋の雲の隙間から暖かな陽が降り注いている。憎らしいほどの晴天。小鳥は自由に空を飛び、平和そのもの。大陸の向こう側で、今も戦争を繰り広げているなんて嘘みたいだ。私はカルテへの記入を再開する。ささっと書き終えると、次の患者を呼んだ。

07. 加害者と被害者

「……戻ったぞ」
「お帰りなさい」
 午前の診療が終わり、後片付けをしていた時、玄関からクルーガーの声が聞こえた。腕時計を見ると、丁度一時間弱経っていた。私の言いつけをちゃんと守ってくれたようだ。
「帰りにこれを貰った」
 そう言って彼は、興味なさそうな仕草で一枚の紙切れをテーブルに放り投げる。反戦を声高に訴える文言が散りばめられたそれは、デモの案内チラシだ。今週日曜日に街の広場で、デモ集会を行うらしい。デモの内容は中東連合軍と停戦すること、度重なる重税の反対を訴えている。
「やっぱりデモがあるのね」
「何だ、知っていたのか」
「私はラクア基地所属の軍医よ。とっくに軍部は情報を仕入れている」
 ラクア基地上層部が事前に入手した情報によれば、今回のデモ集会の参加人数はこれまでよりも多く、約三〇〇人程度と見込まれている。治安当局も取り締まりに意気込んでおり、ラクア基地と連携して対処にあたる手筈となっている 
 デモ集会に参加した市民達が、興奮して暴動を起こす可能性もある。私は地下室へ行き、ベニヤ板と工具を引っ張り出す。クルーガーは傍らできょとんとしている。
「さぁ、突っ立ってないで手伝って」
怪訝な表情をしたクルーガーを伴って、私は外に出た。
 この診療所は軍施設ではないが、私は軍関係者だ。ここが襲撃される可能性は十分ある。午後の作業は、診療所の窓にベニヤ板を打ちつけることから始まり、数日分の食料も買い溜め――いつの間にか夕方になっていた。

 デモ集会当日。治安当局から、不要不急の外出は控えるようにと注意報が発令されている。ここ数日間、継続的に緊迫した空気が街を包み込んでいる。
「こんな日に軍病院へ往診なんて大丈夫なのか」
 身支度を済ませた私に、珍しくもクルーガーが声をかけた。そんなことを言われても、仕事は待ってくれない。今も苦しんでいる負傷兵達が、軍病院で待っているのだから。だけど彼なりに、心配してくれているらしい。
「あなたは大人しくしてて。お昼頃に帰るようにするから、絶対に外出しないように。デモに巻き込まれたら、何もかも終わりよ」
暗に脅すような意味合いを持たせ、念押しすればクルーガーは首を縦に振った。
 歩き慣れた道を通る。せっかくの日曜日だが街は静かだ。いつもなら市場は賑わい、テラス席で珈琲を楽しんだり――それぞれが日曜の朝を満喫しているのに。
 街の各所に、銃器を武装した治安当局員の男達が立っている。何かあればすぐに現場へ駆けつけられるよう、待機しているのだろう。警戒態勢の中、彼らは私の姿を確認すると、小さく敬礼した。数日間張り詰めた緊張は、今極限状態だ。今日は何が起こっても、おかしくないだろう。
 ラクア基地軍病院での診療が終わった。溜まった仕事も捌いていたら、思ったよりも時間がかかってしまい、時刻は正午をとっくに回っていた。デモ集会のことを考え、早めに診療所へ帰った方が良いだろう。自分の身の危険もあるが、何よりクルーガーの方が心配だ。心配事は後を絶たない。急いで帰り支度をしていると、呼び止められてしまった。
「ミョウジ軍医。司令がお呼びです」
「……今行きます」
 司令の部下について行く。今日の軍基地内も、些か殺気立っていた。
「近々、エルディア人特攻隊を補充することになった。日程は決まっていないが、ラクア基地近くの居住区で徴収する予定だ」
「私のスラバ要塞行きも、そろそろということですね」
 司令は頷いた。診療所の後始末はどうかと聞かれたので、問題ないと簡潔に答えた。
「戦況は未だに膠着状態ですか」
「ああ。だが次回の補充で、カタを着けると大本営が決めた」
 兵力補充の催促に、腰が重かった大本営が決断した。理由は様々だが、反戦派の声が日増しに高くなっているのが要因だろう。
「デモはここだけじゃない。他の都市にも広がっている。収拾がつかなくなる前に、中東連合軍をぶっ潰す!」
ダン、と大きな音が部屋に響く。司令の拳は、スラバ要塞の地図を叩き潰していた。

 クルーガーを軍部内へ潜り込ませる。当初の目的が、ようやく動き出そうとしている。診療所に帰ったら、そのことを伝えなければ。進展がない日々に、苛立ちを抱えているだろう。
「戦争反対!すぐに停戦しろ!」
「これ以上税金を無駄遣いするな!」
「俺達の生活を犠牲にするな!」
 朝の張り詰めた空気と打って変わり、街中は騒々しい。各々がプラカードを掲げて、反戦を唱えているデモ隊を避けるように、急ぎ足で診療所に向かう。軍服を見られたら、彼らに何をされるか分からない。回り道をしなければならず、余計に時間がかかってしまう。いくつかのデモ隊を掻い潜り、あと少しで診療所に着くところで、怒号と喚き声が聴こえた。
 硝子が割れる音と発砲音。興奮したデモ隊の一部が過激な行動を取り、見兼ねた治安当局員と闘争が起こったのだ。マーレ人同士がぶつかり合う。治安を乱す者と、正す者のせめぎ合い。数日間、ギリギリのところで保っていた均衡は破れ――街は真っ赤な狂気に呑み込まれつつある。
「良かった、無事だったみたいだな」
 聞き慣れた声がしたと思ったら、目の前には診療所で待機しているはずのクルーガーがいた。はぁはぁと息を弾ませている。恐らく、この混乱の中を駆け抜けて来たのだろう。
「何であなたが、こんなところに……」
「昼過ぎても帰って来ないから、もしかしたらと思ったんだ」
「危ないじゃない!怪我したらどうするの!?」
 私は思わずクルーガーに掴みかかった。彼は私の言葉に目を白黒している。
「あ……」
今、私は何て言った?クルーガーを心配したのか?思わず口から滑った言葉の意味は、深く考えなくても明白だ。ひとまず私は手を離した。
「……今のは忘れて」
「……勝手に約束を破ったことは謝る。悪かった。でも、あんたが暴動に巻き込まれたんじゃないかと思って」
クルーガーは精悍な顔に、安堵感を滲ませる。
 居ても立っても居られなくなったクルーガーは、避難する住民にラクア基地の場所を聞いてここまで走って来たと言う。今度は私が目を白黒させる番だった。クルーガーが敵である私を心配した?どういう風の吹き回しだろうか。
「ここも危ない。一旦、裏路地に隠れるぞ」
 クルーガーは問答無用と言うように、ぐいっと力強く腕を引っ張って来る。私は引き摺られる形で、裏路地に身を潜めることになった。

 お互い無言のまま、時間だけが過ぎる。遠くから、不穏な騒音が止まない。次第に陽が落ち、裏路地の影が色濃くなる。二人で息を潜めて物陰に隠れたものの――暴動はなかなか収まりそうにない。治安当局員も手こずっているのだろう。暴動が長時間も続けば、当然怪我人が出る。いつまでも、こんなところで隠れていたって意味がない。
「怪我人救護のために、診療所に戻る」
「は?あんた、正気か?暴動が収まるまで待て」
「正気よ。悪かったわね」
「あんたはマーレ軍医なんだろ?反戦デモは軍にとって、目の上のたんこぶみたいなもんじゃねえか」
だから助ける必要はないはずだ、と言いたいらしい。
 クルーガーは、立ち上がろうとする私の手首を掴んで離そうとしない。あの暴動の渦中には行かせない、と言う強い意志を感じさせるものだった。だけど私には、どうしてもやらなければならないことがある。
「……私は腐っても一人の医者だから。反戦派だとしても、彼らもこの街の住民。あなたも言ったでしょう。私には、この街の住民を守る姿勢が大事だって」
 ユミルの民抜き打ち調査後、クルーガーが私へ言い放った言葉である。クルーガーはしばらく黙した後、大きく溜息を吐いて手短かに承諾した。
「……分かった」
「もしかしたら、診療所も襲撃されているかもしれないけど……」
「俺が外に出た時、あの辺りにデモ隊はいなかった」
デモ集会場所は診療所から、二キロほど離れた広場で行われていた。反戦派の暴動は、軍関連の建物を襲う。今回どこの施設が襲われているのか、まだ情報を得られていないから分からない。
 暴徒化した民衆が取る行動は予測不可能だ。人が取り巻く狂気は容易に伝播する。民衆の規模が大きければ大きいほど、人は考えることをやめてしまうのだ。
 私達は表の大通りを避け、路地裏を通って診療所に戻ることにした。診療所が無事であることを願うばかりである。
 建物が所狭しと建ち並んで出来た路地裏は、さながら迷路みたいだ。おまけに狭くて薄暗いし、砂埃が混じった空気のせいで視界もあまり良くない。それでも私達は夕闇の濃い影の中、走り続ける。カツカツカツと、石造の道路に二人分の足音が反響する。街の中心部に近づけば近づくほど、硝煙の臭いが強くなり、私は思わず顔を顰めた。耳に届く喧騒も、徐々にはっきり聴こえてくる。路地裏に転がる硝子の破片。建物の一部だったであろう細かい瓦礫が転がっている。
 診療所に戻るなら、ラクア基地の軍病院の方が設備も整っている。反戦派も、軍基地に襲撃するほど馬鹿じゃないから、寧ろ安全だと思う。しかしいくら何でも、クルーガーを連れて行くわけにはいかない。あそこはマーレ人の巣窟だ。万が一、彼がエルディア人だと露見したら――一巻の終わりなのだ。

 はぁはぁはぁ。自分の息遣いが狭い路地裏に響く。肺に上手く空気を取り込めない。ゴウンゴウンと、重たい音が腹の奥底まで響く。子供達が啜り泣く。怒号と悲鳴。重油の臭い。自決させないよう、口の中に手拭いを突っ込まれ、貨物船に詰め込まれる。
 私は今、何をしている?どこへ向かっている?私はどちら側だ?マーレ人?亡国の民?それとも――。
 必死に前へ進もうとしているのに、次第に足取りが重くなる。額から脂汗が流れ落ち、視界が霞む。気分が悪い。記憶が――混濁している。
 クルーガーを匿い、マーレを裏切ると決めてから、狭かったり暗い場所にいると強制輸送された記憶ばかり思い出す。裏切りの罪悪感が起因しているのだろうか。それとも、クルーガーと一緒にいることへの心理的負担が原因か。マーレ人という名の仮面が、少しずつ剥がれ落ちていく感覚に襲われる。どくどくと心臓が痛いくらい鼓動する。自分で決めたことなのにこのザマだ。
「おい、どうした?」
 クルーガーの慌てたような声で、はっとする。掌から石造の固くて冷たい感触を感じた。どうやら私は、足が止まってしまったらしい。
「……何でも、ない」
「あんた、顔色悪いぞ。どこか怪我でもしたのか?」
「どこも怪我してないってば」
「冷汗もすごいじゃねぇか」
 診療所に戻らなきゃ。
 譫言のように言う私の腕を、クルーガーが掴む。離して、と言っても見下ろされた挙句に睨まれ、大丈夫だと言っても嘘を言うなと言われる。無意味な押し問答を繰り返し、お互いに苛立ちが顔に表れる。こんなところで時間を無駄に出来ないのに。
「強情にもほどがあるぞ」
「……クルーガーさんこそ」
 クルーガーは不機嫌そうに顔を顰め、腕を離してくれた。どうやら彼も、無駄だと分かったらしい。そのかわり、苛立ちを表すように舌打ちされた。
 物陰から通りの様子を窺う。路地裏を走るのは、もう勘弁したい。私は顔に張り付いた冷汗を袖で拭う。
「もう少しで着くわ」 
 ここから診療所まで、あと少し。この通りはデモ隊が来ていないらしい。襲撃された痕跡や、治安当局員とぶつかった形跡もない。住民達は暴動が終わるまで、屋内で息を潜めて待っているようだ。
 一目散に診療所めがけて駆け抜ける。夕闇に紛れたおかげで、デモ隊に気付かれることもなく、私達は目的の場所に戻ることが出来た。診療所は朝に見た時と何ら変わらず、夜の帳に溶け込んでいる。街はひっそりしている。周辺を見渡すと、近くの建物も襲撃された痕跡はなかった。デモ隊はこの辺りには来なかったようだ。
 その夜、ラクア基地から急報が届いた。
 デモ集会から派生した暴動は、軍部と治安当局との武力によって制圧された。詳細を聞くと、巨人科学施設の一部が襲撃されたらしい。他は現在も確認中とのことだ。そして軍人、治安当局員、デモ隊から大勢の怪我人が出た。私は休む暇もなく、軍病院に招集されることになった。不幸中の幸いと言えば、怪我人の中に無関係な市民はいなかったと言うことだ。

 鼻奥を突くような焼け焦げた臭いは一週間程度、街全体を包み込んだ。被害に遭った軍関連の施設は、巨人科学施設と兵舎の一部、ラクア基地の外壁であった。現在は、襲撃された箇所を急いで再建中だ。大通りのそこら中に、割れた硝子や瓶の破片、紙屑が落ちている。市民達は自分達の日常を取り戻すため、毎日街中を歩き回りながら塵拾いをしている。私は怪我人の治療をするため、軍病院に三週間ほど寝泊まりしていた。勿論、診療所は休診である。
 クルーガーを三週間ほど一人にする。今まで一度も、こんなに長く診療所を空けたことはない。私がいない間、クルーガーは何か不穏な動きをするかもしれない。どんなに彼が善良なマーレ人を装ったとしても、一番奥底に根ざしてしまった不信感を拭い切れずにいる。
 彼のことが信用出来なかった私は、隣人に様子を見てもらえるよう頼んだ。念には念を重ね、仕事の合間を縫って一週間に一度だけ、買い込んだ食材を両手に診療所へ帰る。
「ガキじゃねえから、俺のことは気にするな」
「そうはいかない。勝手に外出されたら困るもの」
玄関口で繰り返される短いやり取り。彼は指先で私の目元に触れる。
「隈が酷い」
「仕事が忙しくて」
 デモ襲撃での怪我人が多い。軍病院内は息つく暇もなく、治療と看護に追われている。骨折や打身などの外傷は勿論、重度の火傷や手術が必要な大怪我など千差万別。
 寝不足から招く医療ミスを防ぐため、交代で仮眠を摂っているものの、あまり意味がない。あと一週間勤務すれば、次の週は丸々休暇だから、もう少しの辛抱だ。

 デモ襲撃から三週間後。私はほぼ寝ずに勤務を終え、一週間の休みを貰った。ベッドへ横になる前に、クルーガーへ伝えることがある。エルディア人特攻部隊補充の件だ。本当なら三週間前に言う予定だったが、デモ襲撃でそれどころではなかった。補充予定の日程も、デモ襲撃の後処理で、ひと月延期になってしまったのだが。
 診療所に帰宅する途中、隣家に寄った。クルーガーの様子を聞くためだ。淹れたての温かいハーブティーが、私の目の前に置かれた。
「ナマエ先生。お疲れ様でした」
「頂きます。彼の様子はどうでしたか。三週間、ご迷惑をかけませんでした?」
「先生ったら、そんなに心配しないで。時々様子を見に行ったけど、クルーガーさんは元気そうでしたよ」
「……そうですか」
ほっと息を吐いた。隣人曰く、特に気になることはなかったらしい。
「あ、でも……」
「どうしましたか?」
 隣人は少しだけ言い淀む。何を隠しているのだろう。包み隠さずに、些細なことでも良いから教えてくれと言うと――。
「一度だけ、夕方だったかな……。クルーガーさんらしき人を街で見かけたの。声をかけたんだけど、そのまま人混みに紛れて見えなくなっちゃって。私の声が聞こえなかったみたい」
 あれだけ外出するなと、口を酸っぱくして言ったのに。ひやりと冷たい何かが胃の中へ、流れ込んだ気がした。やっぱり彼は、取り繕っても島の悪魔だ。
 近頃のクルーガーは、私の言いつけを守っていた。だからと言って、決して気が緩んでいたわけじゃない。信頼していたわけでもなかった。それなのに自分でも意外なくらい、ショックを受けているのはどうしてだろう?私はクルーガーに、何を期待していたというのか。
「そう、ですか……。ハーブティー御馳走様でした」
 気が付いたら私は、診療所の玄関口に立っていた。ここまでどうやって歩いて来たか朧げである。
「ただいま……」
心身共に疲れ果てた身体を引き摺りながら、リビングへ向かうとクルーガーが出迎えてくれた。私は彼を横目に、椅子に座った。
「腹減ってるか?軽食なら作れるけど」
「……いらない」
「そうか、だよな。早く寝た方が良いぞ」
 私が今どんな気持ちでいるのか、クルーガーは知らない。私はクルーガーへ、じろりと視線を投げる。
 久しぶりに見るクルーガーは、いつもよりやけに饒舌な気がする。私に隠れて外出したことへの負い目なのだろうか?それとも、私へのご機嫌取りなのか?三週間分の疲労が蓄積した脳で、考えれば考えるだけ厭な深みへと嵌っていく。
 あなたは一体、何を考えているの?
「クルーガーさん。ここへ帰る途中で聞いたんだけど、先日あなたが外出したって……本当?」
 私がクルーガーに向けて、問いかけの矢を放つと、リビングに沈黙が降りた。ジリジリと、電球の線が焼ける音がする。クルーガーがどんな表情をしているのか、電球の逆光でよく分からない。目鼻立ちに黒い影が落ち、彼の真意を窺い知ることは出来ない。
 しんと静まり返る空間に、私の声はよく通った。つらつらと力無く――唇から勝手に言葉が滑り落ちる。
「ほら。市場に買い物行くと、いつもおまけで野菜をくれるあの人。クルーガーさんも知っているでしょ?あなたに声をかけたのに、無視されたって言ってたわ」
 クルーガーは、身じろぎせず黙ったまま。鉛のような空気が身体に纏わり付き、胃の奥が痛い。沈黙だからこそ、余計に真実味を帯びてしまう。リビングに垂れ込む重たい空気に耐えられなかった。
「何で黙っているの?違うなら違うって……言いなさいよ」
 長い沈黙だったと思う。実際はほんの数秒かもしれないが、私には永遠に感じた。
「……それは紛れもなく俺だ」
ぼつりと呟いたクルーガーの言葉に、私の頭が真っ白になった。

 どういうつもりでクルーガーは、白状したのか分からなかった。誤魔化す理由が見付からなかったのか。それとも、私にバレても良かったのかもしれない。ひとつだけ分かっていることと言えば――違うと言って欲しかったということ。
 だけど紅蓮の炎を瞳に宿し、激情を滲ませた彼なら、やりかねないと思っていた。いずれこうなる時が、来るかもしれないと――頭の片隅にあったのに。
 私は飛び跳ねるように、彼の胸倉に掴みかかった。私より十五センチ以上高いクルーガーが、無言でじろりと見下ろして来る。
「何の目的で、許可なく外に出た?答えて」
「マーレに来た任務を遂行するためだ」
 いつにも増して、無感情で抑揚のない声が頭上から降ってくる。努めて冷静に問い正す。ぎり、と唇の端を噛む。
「……その任務とは?」
「悪いが、まだ話せない。俺を軍部に潜り込ませたら教えてやる」
「――ふざけないで!」
クルーガーが冷静になればなる程、私は激情に呑まれてしまう。まるで反比例だ。
 クルーガーをマーレ人に成りすませるため、寝る間を惜しんで様々な策を講じた。血液採取や偽装戸籍に診療録。島の悪魔に架空の人生を与えた。誰にも怪しまれずに、生きる術を示したのに。
 この世界で生きることは、即ち戦うと同義。
 治安当局や軍部に露見したら、私は偽証罪として捕まり――命はないだろう。それを承知の上で、イェレナの策略に手を貸した。否、そうせざるを得なかった。軍事大国・マーレを内部崩壊させるということ。生きるか死ぬか。リスクを背負わされるなら、全部道連れにしてやる。
 医者と助手を上手く演じても。食卓を共に囲んだとしても。私とクルーガーは、結局いがみ合って、更に負の感情を増長させるのだ。まるで世界の縮図そのもの。こうやって二〇〇〇年間、途方もない怨嗟の念を繰り返している。
「悪魔め。マーレここに来たのは、敵情視察じゃない。私達を叩き潰すつもりでしょう?」 
「ならば俺を、軍に突き出すか?出来るならやってみろよ」
 クルーガーは、じりじりと躙り寄る。紅蓮の炎に気圧されて、私は後ろへ一歩下がってしまう。
「イェレナに脅されて、俺を匿っているんだろう?エルディア人を匿ったことが露見したら、困るのはあんたの方だ。違うか?」
 身体に怒りを内包するクルーガーは、静かに私を詰る。蔑む瞳の色と声。
「あんたのことは、イェレナから聞いている」
「私のことを、どこまで知っているのよ」
「全部だ。マーレに祖国を潰された亡国の民が、運良く軍医に拾われた。そいつは何食わぬ顔で、マーレ人に成りすまして生活しているってな」
クルーガーの大きな掌は、強い力で私の手首を掴む。指を怪我して処置をしてくれた時は、とても温かかったはずなのに。今は見る影もない。
 ミシミシと骨が軋み、唇の端から小さな呻き声を上げてしまう。高圧的な態度で、この場の主導権を握ろうとしているのだ。私は痛みに耐えながらも、負けじと睨み返す。
『俺達がどうやって巨人になるか……知らないのか?』
 血だらけの掌を突き付けられたことを思い出す。戸愚呂を巻いた憎悪を身体の奥底に宿し、お互いに睨み合ったあの夜のことを。だけど私がクルーガーへ抱く感情は、当時と少しだけ違う。だからこんなにも、心が掻き乱されているのだ。
「あんたは努力することを止めて、マーレに迎合している。加害者と被害者――俺達は似たような立場なのに島の悪魔と蔑み、自分の優位性を保つことに必死だ……。俺はあんたのことが分からねえ」
「私とあなたが……似たような立場?冗談じゃない」
 悪魔の言葉を吐き捨てた。私が掴みかかる力を入れれば、クルーガーの服に深い皺が広がった。まるで私達の溝を表しているみたいだ。
「マーレに祖国を蹂躙されて奪われたにも関わらず、何の疑問を持たないで迎合するあんたに、俺達エルディア人を悪く言う筋合いはない」
 私が放った矢を、クルーガーは倍にして放って来た。
 どくんと大きく心臓が跳ねる。彼が放った矢は、私の心の奥底に深々と突き刺さった。マーレ人として生きるために、努力して来た過去を否定するものだった。
「俺はパラディ島で、あんたと同じ境遇の義勇兵達を見て来た。失われた故郷を取り戻すために、一矢報いるために命を賭ける奴らばかりだった。この診療所の地下室を義勇兵に貸して、彼らの行動を目の当たりして――何も感じなかったのか?」
 イェレナが私の秘密を密告しない代わりに、義勇兵の集会場所を提供していた。夜遅くまで繰り広げられる弁論と密議。イェレナは義勇兵の結束を固めるため、離反しようとした仲間を粛清することもあった。

 失われた祖国を――故郷を――取り戻す。
 耳障り良く聞こえるかもしれない。だが彼らも一枚岩ではなかった。流れた血の量は多い。
 それでも義勇兵達は、活動を辞めようともしなかった。イェレナは烏合の衆を、上手く纏め上げたのだ。私は彼らの様子を、扉の隙間から静かに眺めていた。
「何も……感じなかったわけじゃ、」
口腔内が乾いて、上手く声が出せない。腹の底が冷えるに連れ、頭に熱い血が昇る。
「マーレ人でいることに拘っているくせに、さほど忠誠心はない。戦わなければ勝てないのに、戦いもしないで悪魔呼ばわりするな。あんたはマーレ人でも亡国の民でもない」
 クルーガーは私に、大きなとどめを刺す。
「俺がこの世で一番嫌いなのは、何だか知っているか?あんたみたいな奴隷だよ」
「私のことを、全部知った気になるな!」
 いつの間にか、視界がぼやけていた。クルーガーの顔も、どろどろに溶けてよく見えない。心臓が早鐘を打ち、呼吸も荒い。頬を伝う熱い何かが涙だと気が付いた時、私はクルーガーを組み敷いていた。
「いってぇ……」
下から情けない呻き声が聞こえる。
「悪魔が……!マーレの使い捨て兵器になることしか存在意義がないくせに、偉そうな口を叩くな!!」
 ある日突然、巨人が現れて――家族も友達も全て喰われた。人間の尊厳すらない惨たらしい最期を見せ付けられて、私は泣きながら逃げることしか出来なかった。逃げて、逃げて。逃げ続けて――マーレ軍に捕まった。残された人生は、マーレの奴隷として生きるしかなかった私に、手を伸ばしてくれたのは養父だった。
 世界の全てが敵だった。養父に引き取られてからも、ひたすら憎悪を膨らませる生活を送る中、それでは駄目だと諭された。私はマーレ人として、生きる術を叩き込まれたのだ。本来のアイデンティティを奪われた結果、今の地位を手に入れた。
 初めは養父の洗脳だったかもしれないが、最終的に選んだのは私なのだ。結局どちらの道を選んでも、マーレの奴隷と詰られるとは皮肉にもほどがある。
「巨人が私達の祖国を襲った!マーレは憎い。憎いけど……マーレ人になると決めた私の気持ちを、あなたが非難する筋合いはない!」
 馬乗りのまま、クルーガーの首元に両手をまわす。力を込める。生温くて柔らかい皮膚の感触。生々しい頸動脈の振動。生きている証拠だ。
「俺を、殺せるのか」
無味乾燥した声。見上げて来るのは、無機質な灰色の瞳。この後に及んで、クルーガーは冷静だ。彼は分かっている。私が殺せないことを。マーレ軍人であれば、厄介な巨人の赤子継承は無視出来ない。
「うるさい……黙って!」
 クルーガーの言葉を振り払う。掌に冷汗が纏い不快だ。掌に力を込めようとしても、上手く入らない。おまけに冷汗のせいで掌が滑ってしまう。
「私は生きたかったから……!生き永らえようとすることの何が悪い!?」
 私は半ば泣き叫んだ。力が抜けて、冷たい床にへたり込む。クルーガーはゲホゴホと、苦しそうに咳き込んでいる。
 クルーガーに指摘された部分は、私が抱える自己矛盾の正体かもしれない。
「何で生きたいって思っているのに……その気概があるくせに、戦わないんだ……!」
「私の戦いは、マーレ人であり続けること。そうやって……今までずっと戦って来た。この世界に生まれたからには、生きるしかない。だからマーレに迎合しただなんて、言われたくない!」
結果的に、大勢の見知らぬ人間が死んでいった。かつて被害者だった私が、加害者に移り変わっている。立場が変われば全て紙一重。生きるとは、罪深いものだ。
「俺は……生まれた時から自由だ」
 彼が戦う理由は知っている。
 自由を手に入れるため――だろう。
私の戦いは彼の戦いと、ほど遠い。でも根っこの部分は同じかもしれない。
「俺達はまだ何も……分かり合っていないんだ」
クルーガーの声は、思いのほか落ち着いていた。




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