世界は偶然で出来ている

結局、卒業式の日までコナン君と哀ちゃんに再会することはなかった。少し冷たい春の風が桜の花びらを舞い上がらせる。

ひらひらと舞う薄ピンクの吹雪は、まるで子供達の卒業を祝っているかのようだ。カシャリと無機質なシャッター音の後、叔父は私達に撮れた写真を見せてくれる。私は少し離れた所から、彼らの様子を微笑ましく見ていた。
ワイワイと叔父の周りに集まる彼ら。背丈はぐんと伸びたけど、やっぱりまだ子供らしい一面は残っている。

「ほれ、どうじゃ?」
「すっげー良く撮れてる!」
「せっかくだから、もう一枚撮りましょうよ」

その後も、何枚か写真を叔父に撮ってもらった。シャッター音がする度に、今日という日の思い出が残っていく。すると、歩美ちゃんがぽつりと呟いた。
「……コナン君と哀ちゃん、元気かな」
彼女の言葉に、先程まではしゃいでいた光彦君と元太君を包む雰囲気は、しんみりしたものに変わった。

コナン君と哀ちゃんが転校してから、既に五年の歳月が経っている。突然の出来事だったから、送別会すら出来なかった。

当時、二人が転校したことを知った三人はとても寂しがっていた。光彦君も元太君もショックを受けていたし、特に歩美ちゃんは涙が枯れるまでずっと泣いていた。一時期、少年探偵団を辞めてしまう程に。あの時大学生だった私は、三人を慰めることに必死だった。
始めこそ子供達三人の間には、彼らについて話題を出さないよう暗黙に決めていた節があった。暫く経ってから、三人が少年探偵団としての活動を再開したと聞いて、ホッと胸を撫で下ろした記憶がある。

「コナン君と哀君じゃが、御両親の仕事が落ち着いたらしくてな。今はアメリカとイギリスに住んでおるそうじゃ」
「そうなの?二人とも元気かな?」
「連絡先を聞いといたから、今度メールでも送ってみたらどうじゃ?」
「うん!博士、ありがとう!」

歩美ちゃんは叔父からメモを受け取って、とても嬉しそうだった。
心にぽっかり空いた穴は、時間が解決してくれる。私はこの五年間で身を持って学んだ。安室さんがいなくなってから――心の整理が着くまでだいぶ時間を有した。

四週間程度の教育実習期間中は、毎日が新しいことの連続で目まぐるしい環境だった。教員の方々からの厳しい指導に、心が折れそうになった。その度に、教室にいる子供達の屈託のない笑顔に何度も救われた。

自分で授業を受け持った時は、チョークを握る手が震えたこと以外あまり正直覚えていない。
気が付いたら授業の終わりを告げるチャイムが鳴っていた。机上で繰り広げられる教育論と、実際の教育現場のギャップに戸惑うことも多くて、安室さんのことを考える心の余裕と時間はなかった。
今振り返れば、ある意味良かったかもしれない。将来の夢である教員の道が明確になり、次のステップが踏めたと思う。

問題は教育実習期間が終わってからだった。どうやら安室さんは、私の心の中に住み着いてしまっていたようだ。それに気付いたのは、何気ない日常の延長線上のふとした瞬間だった。

卒業論文の作成に行き詰まった時。街を歩いている時。友人の恋話を聞いている時。サンドイッチを食べる時。子供達と夏祭りに行った時。街路樹が色付いた時。ゼミ仲間から告白された時。雪が降った時。大学の卒業式の時。教師として初赴任した時。

季節が巡る度に、安室さんとの思い出が顔を出すのだ。そしてそれらは鋭利な刃物となり、私の心の一番柔らかい部分にしっかりと突き刺さって痕跡を残す。
じくじくと膿んだ傷だけが後に残るだけ。気が付けば、自然とポアロへ向かう回数は減ってしまった。温かい記憶で満たされた空間に行けば、否応なく在りし日の光景を思い出すだろうし、視界が滲んでしまいそうだったから。

最初は痛くて痛くて、堪らなかった。夜な夜な何度も泣いたし、安室さんの行方を探そうかと本気で思った。

だけど探したところで彼が見つかるとは到底思えなかったし、何より見つけたとして私はどうしたいのか、何をしたら満足なのか解らなかったのだ。
安室さんに、いなくなった理由を問い詰めたい?それとも、自覚した瞬間に散った想いをぶつけたい?寂しかったと泣きじゃくりたい?もうどこにも行かないでと縋り付きたい?
どの気持ちも合っており、違っているような気がした。全部私の独りよがり。そこに安室さんの意志は何一つないのだから。

もし、私から行動を起こしていたら――。何か変わっていたのだろうか。あったかもしれない未来に、何度も目を向けて自問自答ばかりしてしまう始末。安室さんがポアロを去ってから、五年の歳月が過ぎた今なら解る。私が何かしら彼にアクションをしたところで、結末は何も変わらないのだ。
涙が溢れる感動話なんて、ドラマや映画の中の世界にしか存在しない。女の子が憧れるヒロインみたいな存在に、私はなれない。だって私はどこにでもいる小学校の教員だ。秀でたものは勿論、特別なものも何一つ持ち合わせていない。当時の安室さんはポアロのウェイターで、私はただの常連客。それ以上でも以下でもない。
五年経った今でも変わらない、私達の明確な距離感である。

季節は何度もぐるぐる巡る。大学生から社会の一員となり、生活も一変した。

自分の不甲斐なさで自信を失うことも多く、安室さんのことを思い出すことは徐々に少なくなっていった。正直、それどころじゃなかったというのが理由だった。
気が付けば教員になって五年経ち、安室さんとの思い出も綺麗な記憶となって、今では涙を流すことはない。歩美ちゃんや光彦君、元太君が帝丹小学校を卒業するタイミングで、私も漸く一区切り付いたような心地だった。

「卒業おめでとう!皆、中学校に行っても元気でね」
「先生、一年間ありがとうございました!」
「元気でな!」
「名前先生、新しい学校でも頑張ってね!」

三人の子供達は笑顔で手を振りながら、それぞれの保護者の元に走って行った。式典中は泣いていたのに、もうすっかりケロッとしている。私も彼らを見習って、前に進まなければ。





四月。桜も少し散り始めているが、今日から新学期が始まる。いつもより早めに家を出た私は、久しぶりにとある場所へ向かっていた。

そこは五年前の記憶と寸分変わらないまま、朝の慌ただしい雰囲気の中、静かに佇んでいた。
目の前には【喫茶店・ポアロ】とレトロな書体で書かれた看板が出ている。取手を引けば、カランと耳に優しい鐘の音が鼓膜を揺する。来店を知らせる音に、新聞を読んでいたらしいマスターがこちらへ顔を向けた。久しぶりに見るマスターの姿は、幾分背中が丸まって見える。

「おや。これはこれは……久しぶりだねぇ、名前ちゃん」
「お久しぶりです、マスター」
「いらっしゃい。カウンターへどうぞ」

マスターは私の姿を認めると、穏やかに破顔する。促されるまま、私は久しぶりにポアロへと足を踏み入れた。
店内は私以外にも二、三人の客がいた。それぞれが静かに朝食を摂っている。

長年使い込まれてしなやかになったテーブルと椅子。窓から差し込む朝日が、店内を柔らかく照らす。珈琲の香ばしい匂い。店内は私が通っていた頃のまま、時間が止まっているかのようだった。

だけどそこに梓さんの姿はなかった。考えてみれば、当時の私と同じ大学生だった彼女も、大学を卒業して社会に羽ばたいているのだ。当然、卒業と共にバイト先であるこのポアロも辞めている。
もう、あの頃には戻れない。時の流れを感じてしまった。
カウンターに座り、メニューをパラパラと眺めていると、あるページに目が留まる。そこには安室さんがいた痕跡が残っていた。

「何にするかい?」
「アメリカンと……ハムサンドをお願いします」
「はいよ。今作るからちょっと待っててね」

マスターが目の前で調理を始めた。ふと、かつての光景が太陽の光に滲む。記憶の彼方に押し込んだ安室さんの笑顔が眩しい。

『ハムサンドですね!かしこまりました』

元気にしているだろうか。安室さんのことだから、私の預かり知らぬどこかで元気に過ごしているのだろう。
「……まさかハムサンドが、メニューとして残っているとは思わなかったです」
「あぁ、それね。他の常連さんにも人気だから、安室君が辞めてからもそのまま通常メニューに残しているんだ。……はい、付け合わせのサラダ」

コトンと、目の前にレタスとトマトのサラダが盛られたお皿が出て来たので、私はそれを口に運ぶ。

ふと、カウンターの隅に畳まれた本日の朝刊が目に入った。見出しには、【またもやお手柄!大学生探偵・工藤新一】と大きく出ており、整った顔立ちの青年が写真に載っている。

「工藤君、最近また出るようになりましたよね。一時期全くメディアに姿見せなかったのに」
「数年間厄介な事件に付きっきりだったようで、最近漸く解決したとか言ってたよ。たまに毛利さんの娘さんと、ここに御飯食べに来るんだ」
「ふぅん、そうなんですか」
「まだ大学生なのに、難事件を解決してしまうなんて工藤君は凄いよ」

マスターはサンドイッチを作りながら、感心したように言う。
そう言えば、叔父の隣家が件の青年の自宅だったと思う。いつの間にか沖矢さんも姿を消していた。ここ数年、私の周りにいる人物がいなくなる率が高いのは気のせいではないだろう。
サラダを食べていると、ハムサンドが出て来た。三角形に切られたパンにハムとレタスを挟んだ、一見、何の変哲もないサンドイッチだ。
一口頬張ると、食パンはモチモチしていた。シャキッとしたレタスの歯応え。ハムの濃厚な風味とマヨネーズのまろやかさがマッチしている。懐かしい、私の好きな味。

「……美味しい」
「そうかい。そりゃ良かった!安室君がこのサンドイッチのレシピを残してくれたお陰だ」
ハムサンドの味は、かつて食べた頃の記憶そのままだった。
「マスターがお元気そうで、安心しました」
「お陰様でね。まあ、安室君がいた時と比べたら大分店も落ち着いてしまったが」
安室さん目当ての女子高生達は、彼が店を辞めて以降、瞬時に来店しなくなったとマスターが教えてくれた。安室さん効果、恐るべし。
「安室君が来る前の静かさが戻って来たと思えば、別にどうってことないさ。昔からの常連さんも、変わらず来てくれるしな」
そう言うマスターの表情は穏やかだ。

「ところで……名前ちゃんは仕事何しているんだい?」
「小学校の教員です。今日から、異動で新しい学校に赴任します」
「おぉ、そうかい!夢が叶ったんだね」
マスターは、まるで自分のことのように喜んでいた。

それから他愛ない会話をした後、私は席を立った。腕時計を見ると、そろそろ良い時間である。
「御馳走様でした。美味しかったです」
「はい、毎度あり」
お会計を済ませ、退店しようとするとマスターから声を掛けられた。
「また気が向いたらおいで。いつでも待ってるから」
「……はい!」
「仕事、大変だろうけど頑張ってな」
「また来ます」

マスターの笑顔に見送られ、軽やかな鐘の音を聞きながら私はポアロを後にした。

さてと、お腹もいっぱいになったのでそろそろ学校に向かわなければ。帝丹小学校から異動して、新しい小学校での教員生活が始まる。いつもと違う通勤経路は少し新鮮だ。電車に揺られ、真新しい駅で降りる。ここから少し歩けば赴任先の小学校だ。

「わっ……!?」
「す、すみません、大丈夫ですか!?」

気持ち小走りしていると、前から走って来る男性がぶつかって来た。強く押されたため、踏ん張ることが出来ずに私はアスファルトに尻餅を着いてしまった。
その衝撃で、鞄の中のものが道端に散らばる。ぶつかった男性は、スーツを着ていても体格の良さがひと目で解る。おまけに強面だ。だけど眼鏡の奥の瞳には焦りが見て取れた。

「前方を疎かにしていました。御怪我はないですか?」
「あ、大丈夫です……私こそごめんなさい」

男性は、道に散らばった私の荷物をテキパキと拾い、鞄の中に入れてくれる。御礼を言えば、男性は申し訳なさそうな顔をする。もう一度「大丈夫です」と言うと、漸くホッとしたようだ。ぺこりと会釈して、彼は駅の方へ走って行った。

「降谷さん!お待たせしました」
「風見、早く朝飯を食べに行くぞ。今日は僕の奢りだ」

ふと、そんな会話が耳を掠める。懐かしくて優しいテノールの声にドキリとした。思わず後ろを振り返ると、人混みの中に思い描いた人物の姿はなかった。

「……まさか、ね。こんな所にあの人がいる訳ないか」
この青い空は、どこまでも繋がっている。安室さんもこの世界のどこかで、同じ青空を見上げていれば良いな――と、私は思った。私は新しい日常へと、漸く足を踏み出すことが出来た。

(了)
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