願い事ひとつ

秋深まるあの夜に垣間見た、安室さんの泣き出しそうな表情が忘れられないまま年は明け――新しい一年が始まった。

今年は教育実習が控えているので、より一層忙しくなりそうだ。
私は寒いのが苦手だ。出来ればこたつに入って、ぬくぬくしていたい。だけど、初詣に行くぞと両親に無理矢理引っ張り出されたのだ。おせちを食べて、ゆっくりした後にでも行けば良いと言う私の意見は無視された。
こたつから引き摺り出された私は、両親と共に神社へ続く参道に並んでいる。境内に植わっている木々は、葉を付けていないので何だか寒そうに見えてしまう。
参道は多くの参拝客でごった返し、色とりどりの屋台から、美味しそうな匂いが鼻腔を擽る。お参りが終わったら、何を食べようかと横目で物色した。

「名前さん?」
「安室さん!」

ふと後ろから声を掛けられて、振り向けば安室さんがいた。
「まさか新年早々、名前さんに会えるとはびっくりしました」
「わ、私もびっくりです!あの、今年もどうぞ宜しくお願いします」
「……こちらこそ、今年も宜しくお願いします」

寒い中初詣に来て良かったと、新年早々思ってしまう。百八回鳴らして煩悩を消す除夜の鐘は、残念ながら私にはあまり効力がなかったらしい。
「あら、そちらの素敵な方はどなた?」
すると、母が私たち二人の会話に入って来た。

安室さんは母を見るなり、折り目正しくお辞儀をした後自己紹介をする。
「名前、こんな素敵な彼氏がいるの黙ってたの?」
「なっ、お母さんったら何言ってるの!?違うよ、安室さんは――」
「何?お前彼氏がいたのか!?」

“彼氏”。そのフレーズに、敏感に反応したのは父だった。余計面倒なことになった。
嗚呼、新年早々に私の彼氏だと勘違いされる安室さんが可哀想だ。内心、申し訳ない気持ちになってしまう。安室さんだって、恋人だと勘違いされて甚だ迷惑だろう。現に安室さん目当てで来店する女子高生達によって、梓さんが掲示板で炎上したことがある。あの時は、外野から見ていて二人を気の毒に思った。安室さんは、機嫌を損ねることもなく涼やかな笑顔で、父と母からの勘違いを華麗に躱す。

「僕は喫茶店・ポアロのウェイターをしていまして、娘さんは常連客なんですよ」
「あら、そうなの?早とちりしちゃったわ。ごめんなさいね」
そう言いながらも母はどこか残念そうな顔をしているし、父はホッと一息吐いている。そんな両親の反応を、娘として複雑な気持ちで眺めていた。
「安室さん、色々とすみません……」
「そんな謝らないで下さい。僕は気にしてませんので」

安室さんは本当に気にしていない顔で言うので、この話はここで終わりにしようと思った。
「それより、これから参拝ですか?」
同じことを思ったのか、安室さんがおもむろに聞いてきたので私は頷いた。
「丁度良かった!良ければご一緒しても良いですか?」
「は、はい……!喜んで!」

そんな訳で私は安室さんと――偶然とは言え――参拝することになった。
遠くの方から、カランカランと鈴の音が絶えず聞こえて来る。私達の様々な願いや祈願を、神様は黙って聴いている。余りにも膨大な量の願いに、御正月の期間は神様も休めないんだろうなと、そんなことを考えた。

「名前さん。何故参拝する時に鈴を鳴らすのか、その理由を知ってますか?」
「え?うーん……、私の願いを聞いてって神様に合図するためですかね?」
「あの鈴の音色は、僕達参拝者を敬虔な気持ちにすると共に、参拝者を祓い清めるものです。神霊の発動を願うものと考えられているんですよ」
「へえ〜、そうなんですか!知らなかったです。参拝する時は、住所と名前を唱えた方が良いっていうのは聞いたことありますけど」
「良く知ってますね!名乗る必要はないという意見もありますが、神社は人間でいうと神様の別荘みたいな所ですからね。自分の敷地内に入って、名乗りもせずに都合良いお願いだけ唱えられても、神様も良い気はしないだろうし……でも、結局は信じる心が大事だと思います。……そうこうしている内に、僕達の番が来ましたよ」
「信じる、心……」

他愛ない話をしながら参拝の順番を待っていると、いつの間にか順番がやって来た。
拝殿の中央には、賽銭箱の真上あたりに銅や真鍮製の大きな鈴が吊られている。この鈴に添えて麻縄や、紅白・五色の布が垂れていた。

カランカランと、涼やかな音が鳴る。お賽銭を入れて、パンパンと二拍手を叩く。神様の存在の有無は私には解らないけれど、先程の安室さんの話を聞いて、少しだけ神聖な気持ちになる。
何を祈願するかは前以て決めている。とは言っても、毎年同じことを祈願しているので変わり映えはしないのだけど。

参拝の後、両親とは別行動をすることにした。安室さんはこの後は予定はないと言うので、見兼ねた母に「二人で屋台でも見て行きなさい」と私は背中を押されたのだ。
「そう言えば、安室さんと初めて会った時も沢山の屋台が出てました」
「……そうでした。堤無津川花火大会でしたね」
私達は御神籤を引き、屋台を見て回ることにした。ちなみに御神籤は小吉だった。

美味しそうな匂いが辺りを包み、蒸し暑くて仕方がなかったあの夏の夜。キラキラと瞬いて、安室さんの灰青色の中で消えゆく瞬きが、とても幻想的だった。
あの夜は夏の風物詩である金魚掬いや簡素なお化け屋敷などがあったけど、今の季節は甘酒の屋台が境内のあちこちで振る舞われている。
食い気満々の私の右手には、紙コップに入ったホカホカのじゃがバターと、もう片方には甘酒を握っている。
寒い境内の中、空いているベンチに腰掛けた。さっそく熱々のじゃがバターを頬張れば、バターのまろやかさと塩気が熱いじゃがいもに絡まり、とても美味しい。身体がじんわりと温まる。

「安室さんは、何をお願いしたんですか?」
「気になります?」
隣で勿体ぶる安室さんは、悪戯っ子の少年のように笑う。
「質問を質問で返すのは狡いです」
「そうですねぇ…… 名前さんが何をお願いしたのか、教えてくれたら僕も教えます」
「えぇえ……。私のお願いなんて、大したことじゃないんですけど」
「それでも構いません」

これは私が言うまで絶対に言わない顔だと、直感した。初めて会った時。こうやって、軽口を叩ける程の仲になるとは思ってもみなかった。
これもひとえに、安室さんが話しやすい雰囲気を出しているからだと思う。思い返せば初めて出会った時から、安室さんは何かとお喋りが好きそうな気配があった。
改めて自分の口で誰かに言うのは、気恥ずかしい。私はそれを甘酒と共に飲み込んだ。少し舌を火傷した。

「“今年も私の周りの人が、何事もなく健やかに過ごせますように”とお願いしました。安室さんは?」
「素敵なお願いじゃないですか。僕も名前さんと似たようなお願いをしました。“皆が平和に元気に過ごせる一年になりますように”と」
「そうなんですか!それじゃあ、お揃いですね」
「……えぇ、お揃いです」

そう言う安室さんの瞳は、先程見せた悪戯っ子少年の雰囲気は微塵もなかった。灰青色の瞳には、孤高の狼のような美しくも残酷な強い意志を秘めている。
私がそれに触れることは、きっとこれからもないのだろう。ふと、そう思う。否――私如きが彼の内心へ、無遠慮に土足で上がり込む筋合いはない。思い上がるなと、自分に言い聞かせた。
 

それから私達は、色んな話に花を咲かせた。安室さんに、教育実習の準備具合はどうかと聞かれたので、私は素直に大変ですと答えた。

「安室さんが覚えててくれたことが、少し嬉しいです」
「いつもポアロで熱心にお勉強されてますから、ちゃんと覚えてますよ」

母校の小学校への教育実習は、四月以降の予定だ。だけど私の性格上準備は先送りしがちなので、ひとまず一通りの科目の学習から始めることにしたのだ。
どうやって解りやすくアウトプット出来るのか。家庭教師のバイトでシミュレーションをやっているが、これが思ったよりも大変だった。先が思いやられそう。

「あ、ありがとうございます……」
「日が傾いてきましたね。そろそろ帰りましょうか」
「そうですね。あ、ちょっと待って下さい」

じゃがバターも甘酒も美味しく頂き、私達は人混みでごった返す神社を後にする。
両親に連絡をしようとトークアプリを起動させると、先に帰宅したと母から連絡が入っていた。安室さんが「近くまで送りますよ」と言ってくれたので、私はお言葉に甘えることにした。
 

陽が西に傾くに連れて、気温が下がって来ており寒さが身に染みる時間だ。新春とは言っても、春の兆しは全く見えない。外気は相変わらず冷たいし、空気を肺に入れるだけで思わず身震いしてしまいそうだ。春が待ち遠しい。

白のRX-7に乗るのは去年の芋掘り以来だ。暖房のお陰で、冷えた身体が徐々に温まっていくのを感じながら、ぼんやりと外を眺める。エンジン音の振動が心地良い。
車窓から流れる街並みは普段と同じなのに、元旦だからだろうか――人々もどことなく浮き足立っているように見える。

「こんなに寒いと春が待ち遠しいですね」
「まだ春の気配はしませんね。梅が咲けば、春らしくなるかもしれません」
「そうだ!桜が咲いたら、子供達を誘ってお花見でもしましょう。お弁当作って皆で食べて、遊んで……きっと楽しいだろうなあ」

子供達が元気に走り回る姿が容易に想像出来た。
米花公園の桜並木は花見の場所として人気スポットだ。公園一帯が、淡いピンク色の衣を纏う光景は圧巻である。風が軽く吹けば、小さな花びらがひらひら舞い落ちて桜吹雪となる。
美しくありながら、儚げな花だと思う。元太君はお弁当に食い付くだろうけど。
「……そうですね。それは楽しそうだ」
隣で運転する安室さんは、柔らかな口調でそう言う。だけど、どこか遠くを眺めているみたいな声音だった。私は桜吹雪の中にいる安室さんを想像して、少しだけ感傷的な気持ちに浸った。
桜が似合うなと思った。

年末年始休暇が終わると、あっという間に学期末試験を迎えた。試験勉強や家庭教師のバイト。それから、教育実習の準備などで目まぐるしい日々を送っていた私は、叔父の家に行くことはおろか、ポアロに顔を出す時間すら取れなかった。

気が付けば梅の時期は終わり、少しずつ春らしい暖かい日と寒い日が繰り返す、春の兆しを感じられる季節になっていた。
桜は開花する気配はない。米花公園の桜は、日毎に小さな蕾が膨れている。後少しすれば、気象庁から開花宣言が出されてもおかしくないだろう。

三年次に必要な単位も無事取れたので、後は来るべき教育実習の準備に専念出来そうだ。漸くひと段落出来たので、私は久々にポアロに顔を出そうと足を向ける。美味しい珈琲を飲んで、ホッとしたい。
お店に入ると、梓さんがにこりと笑顔で出迎えてくれた。店内は珍しいことに空いている。いつもなら数グループの女子高生達がいて、キャイキャイと楽しそうに賑やかなのに。女子高生がいない日は、安室さんがお休みだと私は認識している。

「今日は安室さんお休みの日なんですね」
「え?安室さんなら、二週間くらい前に辞めましたよ」
「……え?」

頭を鈍器で殴られた衝撃を感じた。ぐらりと、三半規管が揺らめいて平衡感覚が歪むのを、私は必死に耐える。心臓が嫌に脈打ち気持ち悪い。浅く息を吸い込んだせいで、上手く呼吸が出来ない。

私が何も反応出来ないでいると、彼女は何かを察したようだ。気まずそうな表情のまま、こちらを気遣いながら窺う。

「えっと…… 名前さん、知らなかったんですね。てっきり、安室さんから聞いてたとばかり思ってたんですけど」
「……いいえ。何も、聞いてないです」
「そうですよね……。名前さん、ポアロに来るの久しぶりですし」
「……このところ忙しくって」

入口で呆けている私に、カウンターへどうぞと梓さんが案内してくれる。
適当に珈琲を注文してそれを口にするけれど、全然味が解らない。味覚を認識出来ない程、安室さんがポアロを辞めた事実に、思いの外混乱している。

「安室さんが急にシフトに穴を空けるのは、常習的だったので気にしなかったんですけど……辞めると聞いた時は驚きました」
「急だったんですか?」
「そうねぇ……辞める前からシフトに穴を空けていたし、珍しくも疲労が顔に出てたから、のっぴきならない状況だったのかも」

梓さんは、お皿を洗いながら当時のことを話してくれた。
思い返せば安室さんとは御正月の初詣以降、一度も会っていないのだ。おまけに私は、彼の連絡先すら知らない。その事実が、私と彼の関係が喫茶店・ウェイターと一介の常連客という現実をまざまざと突き付けられる。
大人気の彼と、連絡先を交換しても良いものかという遠慮もあった。今まで別に連絡先なんて知らなくたって、お店に行けばどうにでもなった。だから、互いの連絡先を交換する必要性を感じなかったのだ。
こんなことになるのなら、連絡先くらい交換しておけば良かった。
その時、心にぽっかり穴が空いた理由が漸く解った。鼻奥がツンと痺れた。私は安室さんのことが――。

相手が姿を消してしまった後で、自分の気持ちを自覚したところで後の祭りなのだ。心ここにあらず状態でも、時間は止まってくれやしない。

安室さんと過ごした期間のことを思い返すと、知らず知らずの内に涙が溢れて来る。
紳士で優しくて、穏やかな人だった。一緒にいるだけでホッとしてしまう程、安心感を感じてしまう人だった。時々垣間見る孤高の狼みたいな厳しい眼差しや、物悲しそうに揺れる灰青の瞳にいつの間にか心奪われていた。
手を伸ばせば触れられそうな位の距離にいたのに、今は彼と過ごした何気ない日常の痕跡が愛おしい。

初めて出会った花火大会。ポアロの美味しい珈琲とハムサンド。一緒に土塗れになった芋掘り。そして、初詣で同じ願い事を掛けたこと。どの記憶にも安室さんは、とても柔らかな顔をしていた。
今の私はそれらの記憶を、そっと指でなぞるだけで精一杯だった。
学期末試験が終わると、大学生には長い春休みがやって来る。あまり考えると気が滅入ってしまうので、私は安室さんのことを頭から追い出すために教育実習の準備に明け暮れた。何かに追われていると、考えなくて済む。気持ちが不安定にならないための防御装置である。

久しぶりに叔父の家を訪れると、歩美ちゃんは大きな目に涙を浮かべて泣いていた。光彦君も、元太君も所在なさげに肩を落としている。

「どうしたの?皆、元気ないけど何かあった?」
「名前お姉さん……、コナン君と哀ちゃんが転校しちゃったの!」
「あいつら、俺達に黙っていなくなったんだぜ」
「御両親の仕事の関係で、急遽海外に行くことに決まったそうです……」

安室さんがポアロを辞めてから、今度は子供達からコナン君と哀ちゃんも去ってしまった。
傍らで叔父は神妙な表情で子供達を見ている。何と声を掛けて良いのか測り兼ねているのかもしれない。

「……叔父さん、それって本当?」
「ああ、急に決まったらしくてな」

哀ちゃんと暮らしていた叔父がそう言うなら、本当のことなのだろう。例え嘘を吐いたところで、何のメリットがあるというのだ。
奇しくも、気象庁から桜の開花宣言が発表された。テレビからレポーターの嬉しそうな声が、リビングに虚しく響いた。
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