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※公安権力は捏造
Part C ≫罪滅ぼし梓さんがマンションの中に入るまで見送った後、僕は車を発進させる。
ポケットから取り出したBluetoothを片耳に嵌め、馴れた手つきでスマホのダイヤルを操作する。二回コール鳴った後、電話の相手はいつも通り規則正しく名乗った。
『降谷さん、お疲れ様です』
通話相手は、警視庁公安部所属の風見裕也だ。
彼は、
僕からの指令を直接受けられる数少ない公安警察官である。僕は車を運転しながら風見との会話を続けた。
「今日、喫茶店に探偵が訪ねて来た。名前さんのご両親から娘を探して貰うよう依頼されたようだ」
イヤホン越しで風見が強張ったような気がした。
『……降谷さんの予想した通りになりましたね。
しかし、彼女に関する情報は全て
公安で滞りなく処理しました。彼女の自宅マンションへ行って家財道具を運び出し、賃貸契約を解約。違約金を大家の口座に振り込んだ後、銀行口座、クレジットカード類からスマホ、ガス、水道全ての契約……何もかも解約しました。全て貴方の指示通りです』
「渋谷駅周辺の防犯カメラはどうした?」
『勿論、削除しました。それと、警察本部のデータベースも閲覧ロックをかけました。彼女に関する情報は何も出ないかと』
「相変わらず対応が早い。風見に任せて正解だった」
『…………い、いえ。仕事ですから』
僕が思ったままの気持ちを伝えると、イヤホン越しにいる相手が一瞬だけ息を詰まらせた。何だ、どうしたと問えば、褒められる何て恐縮ですと返って来る。
風見の声が少し嬉しそうに聞こえた。
これでは、僕が部下を褒めること自体珍しいみたいではないか。不服である。
全国都道府県の警察組織に散らばる公安部隊を統べるゼロである僕にとって、風見は立場上部下であるが僕より一つ歳上である。彼は今みたいに時々気持ちが漏れる節がある。
部下がしっかり仕事を遂行したら褒めているのだが、風見の反応を考えるとどうやら伝わっていないみたいだ。
僕の褒め方は解りにくいのだろうか。
だが、今はそんなこと気にしている場合ではない。今日、鷺宮邦夫という私立探偵が喫茶店ポアロに現れた。
彼は行方不明中の名前さんを追っていて、マンションの隣人が彼女の部屋から夜中にゴソゴソと物音を耳にしたという証言を得ている。
恐らく、風見達が家財道具を運び出した時の物音だろう。
公安の任務は相手に悟らせてはならないものが大半だが、僕は物音について言及するつもりはなかった。名前さんは組織の取引現場を一部始終目撃してしまった。不可抗力だとしても――全ては僕の責任である。
“名字名前は、組織が壊滅するまで失踪したことにする”。
あの場にはベルモットもいた。組織は名前さんを野放しにしない筈だ。例え無関係な一般人であろうと始末するのが、
組織のやり方である。
このままでは彼女の命が危ないので、僕は公安お得意の違法作業を風見に指示したのだ。
『それで、探偵が彼女の行方を追っているということですか。張り込みますか?』
「その必要はない。“安室透”と一緒に調査することになった。その方が上手く手綱を握ることが出来るし、色々と都合が良い。あくまでも協力するふりだから、ミスリードさせて煙に巻くつもりだ。そのために偽の証拠が必要だな」
梓さんが鷺宮さんに毛利小五郎のことを話した時は僕も焦ってしまった。
“眠りの小五郎”と共にいる眼鏡の少年――コナン君をこの件に介入させたくなかったからだ。あの少年は頭の回転が早い。
きっと真相に行き着いてしまうだろう。
“私立探偵・安室透”の裏の顔が、黒ずくめの組織の一員である“探り屋・バーボン”で――本当の正体は“公安警察官・降谷零”であることを。
コナン君の頭脳を借りれば組織を壊滅させることが出来るかもしれないが、大人の都合で危険なことに小学生を巻き込んではならない。
僕が守るべき
日本には、未来を担う子供達が必要不可欠なのだから。
『フェイク、ですか。こちらで用意しておきます』
「それと頼んでおいた偽装戸籍はどうした?」
『はい。丁度作業班から出来上がったと報告が上がりました。後は身分証明書、印鑑を作れば銀行口座が開設出来ますので、通信機器の契約が出来るかと。降谷さんの方は?』
「“みょうじなまえ”の設定は完成しているから、後は彼女に成り切ってもらうだけだ」
本人達の与り知らないところで着々と裏工作が進んで行く。
「彼らには申し訳ないが……黒ずくめの組織が壊滅するまでの辛抱だ。名前さんを知っている人間には接触させない。最悪彼女のご両親も狙われるようなら匿う必要があるな」
『しかし、本当にこれが正解なのでしょうか』
風見による問題提起。
違法による違法の上塗り。これから僕は、嘘で塗り固めた人生を名前さんに与えようとしているのだ。酷いことをしているのは自覚している。
世間一般の尺度で見れば真っ黒であるが、目的を達成するためならば清濁併せ呑むことも必要だと僕は思う。己の行いを正当化する理由付けだと言われてしまえば、それまでなのだが。
「……愚問だ、風見。憎まれてでも対象者を守るのが公安だろう」
『すみません……。それが我々公安の責務でしたね』
「いや、君が言いたいことも解っているさ。だけどこれ以上無関係な人間を、黒の組織関連に巻き込ませる訳にはいかないからな」
鷺宮さんを煙に巻くのも、彼を守ることに繋がる。愛車のハンドルを握る両手の力が自然と強くなった。
僕は風見に偽の証拠を作らせるよう指示した後、通話を終えた。後十分程度で目的の場所に到着する。
ワイパーがフロントガラスに流れる涙をせっせと拭いていた。雨足が強まり、今夜は土砂降りのようだ。
あの夜から数日後、ベルモットには名前さんもとい――ネズミの始末は完了したと報告している。
――あら、あの場にネズミなんていたかしら?
ベルモットは化粧で施された自身の綺麗な顔をコンパクトミラーで確認しながら、とぼけた返答をした。公園内のどこかに潜んで、こちらの様子を陰から見ていたくせによく言う。
本当良い性格してますねと僕が皮肉で返すと、褒めたつもりはないのに彼女はありがとうと宣った。
――ネズミよりあの男が気に食わないわ。政財界のパイプ役だか何だか知らないけど、失脚するきっかけが起きれば良いんだけど。
どうやらベルモットは、安良川さんに利用されそうになったことに腹を据えかねている様子だった。助手席に座る彼女に、僕は当たり障りのない言葉で慰めておいたのは記憶に新しい。
麻薬密売組織の内部抗争は、安良川さんのスパイが情報を得るよりも先に僕から警視庁組織犯罪対策部へ情報を流しておいた。今は機が熟すまで泳がせているに過ぎない。
ここ数日の出来事を思い返しながら車を走らせると、目的の場所に到着した。閑静な住宅街の中に佇むスタイリッシュな十階建てのデザイナーズマンションである。
地下の駐車場に車を止めて、マンションのエントランスに向かう。オフホワイトを基調にした開放感のあるエントランスには誰もおらず、静かだった。
大きく息を吸って吐いた。今から僕は“公安警察官・降谷零”だ。
別に難しいことではない。“安室透”や“バーボン”を演じるよりも簡単ではないか。
二人のキャラクターは元を辿れば降谷零なのだ。解っているものの、ここには何度か訪ねているがその度に――まるで儀式の如く――深呼吸をして眼を閉じるのだ。
このマンションにいる人物は“安室透”を知っている。存在しない男の幻影を見る女の姿は、僕には痛々しく映った。
彼女が自身の境遇に混乱していれば“安室透”なら、口当たりの良い甘い台詞で安心させるのだろうが、降谷零は糖度の高い言葉は吐かない。
例え甘い言葉によって彼女が安心したとしても、現状は何一つ変わらないと解っているからだ。
それよりも組織壊滅のために奔走した方が日本のためになる。僕は閉じていた眼を開けた。
感情に流されるな。己の責務を全うするんだ。
ポケットから部屋の鍵を取り出してオートロックを解除する。エレベーターで最上階へ昇り、角部屋のインターホンを押した。ピンポーンと来客を告げる人工的な音が、やけに廊下に響く。
ほんの少しだけの静寂の後、目の前のドア越しから微かな人の気配。カチャリと鍵が外され、ゆっくりとドアが開いた。
僕は挨拶と共に、目の前の人物の名前を口にする。
「こんばんは、“なまえ”さん」
僕の目の前には、鷺宮さんが必死で探している件の女が立っていた。
あの日以来、買い出し以外の外出はしないよう言い付け、公安の人間――風見やその他の公安警察官――に見張られる生活を余儀なくされていた。彼女は律儀に言い付けを守ってくれている。根は素直な女性なのだ。
僕の姿を確認した“なまえ”さんは硬い口調ではっきりと否定した。
「……“なまえ”じゃない。私は名前よ」
※
平々凡々な私の人生が突如狂ったのは、五月十九日――日付が変わり、土曜日のことだった。
丁度、二ヶ月程続いた仕事の繁忙期が終わったこともあり、会社を定時で上がった私は同僚数人と共に、夜の街へ繰り出すことになった。繁忙期の間は遅くまで仕事をしていたから、呑みに行くことも、週一のペースで通っている喫茶店ポアロにも顔を出すことも出来なくて。
ポアロ特製のオムライスとカプチーノが恋しくて仕方がない。暫くマスターや梓さん、安室さんにも会っていないけど元気だろうか。来週行こう。
漸く繁忙期が抜けて、元の生活に戻れる。ホッとした心地と解放感に心が満たされた私は、会社の同僚とへべれけになるまで呑みまくった。
もっと呑もうよ!と、端なら見たら面倒臭いことこの上ない絡み方の同僚達と共に、お店を二件ハシゴした。アルコールが徐々に体内を蝕んで行く感覚。
私はぼんやりとした心地良さを感じていた。今日は花金!TGIF!
塵も積もれば山となるとはよく言ったもので、仕事をしていればいつの間にか気付かない内にストレスだって溜まる。
私達は、客先での理不尽な要望、他部署の嫌な部長の話や、隠れて社内恋愛中の先輩のことなどアレコレ――を酒の肴にして語り合った。盛り上がってしまい、気付いたら終電ギリギリの時間になっていて。急いでお開きし、同僚達と渋谷駅で別れた私は慌てて電車に飛び乗ったのだ。
久しぶりの同僚達との呑み会はとても楽しかった。下らないことを脈絡なく語り合い、疲れた身体に美味しいご飯とお酒が染み渡る。一週間の疲れと電車の揺れる心地良さにうたた寝してしまった。
「お客さん……、お客さん!」
「は、はい!?」
「やっと起きましたね……。終点ですよ」
呆れ顔の駅員に揺すり起こされて、初めて最寄駅からだいぶ乗り過ごしてしまったことに気が付いた。
「あー……、はい。すみません……」
ヨロヨロとした動作で電車を降り、今自分がどこにいるのか把握する。
駅名を確認すると、大分寝過ごしてしまったようだ。ものの十分程度寝てしまったと思ったのだが、結構な時間寝ていたようだ。体感時間は当てにならない。
アルコールが入っているから尚更だ。腕時計を見ると午前零時過ぎ。
反対側のホームを見ると既に蛍光灯が消されていて、上り電車は終わってしまっていた。
私は、やっちゃったなぁ何て思いながらも特に慌てなかった。
だって今日は土曜日!仕事の心配は無用だ。開放感を味わいながら、駅を出て始発時間になるまで適当に周囲を散策することにした。
国道沿いに倉庫街が立ち並ぶ、東都沿岸エリア。こんな真夜中なのに比較的車通りは多い。
適当に付近を散策していると、見覚えのある白いスポーツカーが公園の入り口に止まっているのを見付けた。
「あの車……どこかで見た気がする」
私は駐車している車に近付き、確認する。間違いなくポアロのウェイターである安室さんのRX-7だ。
どうしてこんな所に?と疑問を抱いたけれど――酔っ払いの思考はその先に進まない。
そう。この時の私はそんなことどうでも良かったのだ。安室さんが公園にいるなら。見付けることが出来れば自宅マンションまで送ってもらえるかも――なんて。軽い閃きだ。
今思えば正常な判断がつかなかったんだと思う。金髪の女性――“ベルモット”が安室さんのことを“バーボン”と呼ぶ場面も。
偶然、私が謎の取引現場に居合わせてしまったことも。
「……盗み聞きするとは悪い子ですねぇ。さあ、隠れんぼは終わりにしましょうか」
足がもつれて早く走れない。きっとアルコールのせいだ。
安室さんに追われ、挙げ句の果てに拳銃を突き付けられた恐怖も全部夢だったら良いのに。
「今日、ここで僕達に遭遇してしまった自分の運の悪さを嘆くんですね」
大人しくタクシーを拾って帰れば良かったのだと――意識を失う寸前に私は後悔した。
キャップを深く被った安室さんが、とても冷たい瞳で私を見つめていた。
・
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目が覚めたら、私の人生はそれまでと大きく一変してしまった。
大雨が降り頻る夜に訪ねて来た安室さんを部屋に入れた私は、飲み物くらいは出さないと失礼だろうと思い、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れた。
それを安室さんの前に置く。
彼は淹れたての湯気が昇るそれを、いつものように一瞥しただけだった。
安室さんは何度か私の様子を見にやって来るが、その度に私が淹れた飲み物を口にしたことは一度もない。
仮にも喫茶店ポアロの店員だから、素人が淹れたインスタントコーヒーなんて飲めたもんじゃないと思っているのかと私は考えたが、どうやら別の理由があったようだ。
このマンションの一室は、安室さんのセーフハウスの内の一つで、私のマンションから家財道具を持って来てくれたようだ。
謎の取引現場を目撃してから一カ月間、私はこの部屋に篭っているが近隣のスーパーに買い物に行く時だけ外出を許可されている。とは言っても、監視付きだが。
私が不自由な生活を強いられることになった元凶は、澄ました顔でとんでもないことを言い放った。
「名字名前さんは失踪。今、僕の目の前にいる貴女はみょうじなまえさんだ」
「意味が……解りません」
私はたったそれだけを口にした。
私がそう反応することも予想の範囲内だったようで、安室さん――もとい、降谷さんは驚く素ぶりもしない。
謎の取引現場を目撃したあの夜、目が覚めた私に安室さんは自らの正体を告げたのだ。
――こ、公安警察?安室さんが……?
――“安室透”は情報収集用の顔だ。貴女は知らなくて良かったんだが……知っていた方が貴女のためにもなると思ってな。
正体を明かすこと自体、本当は御法度らしい。
安室さんは、とある事情で私立探偵として身分を偽りながら、喫茶店ポアロでアルバイトをしているというのだ。
正直、信じられなかった。
口から出まかせが良く言えますね、と嫌味を言えば彼はこう言った。
――安室は嘘を吐くが僕は嘘を吐かない。今は何を言っても無駄なのは解っているが、貴女に手を出すつもりはないさ。
実際にこの一カ月間過ごしてみて、安室さんが私に危害を加えることは一度もなかった。時々この部屋に顔を出しては、何かと気遣ってくれる。
滞在時間はものの十分程度だったけど、それを繰り返していただけだ。
でも、あの晩目撃した金髪の女性や“バーボン”のこと、スーツを着た男性のことについて何度問い質しても彼は答えてくれない。
「あの晩、あの場所にいた貴女がこれからも生きていくには、別人に成りすますしか方法がない」
射るような目付きで私を見つめる厳しい表情の安室さん。
私がこの部屋で生活するようになってから――いや、彼が降谷零だと正体を明かしてから――私の前ではポアロで見せていた柔和な笑みを見せなくなっていた。
「別人に、成りすます……?」
「“みょうじなまえ”は貴女の偽名だ。何から何まで
公安で用意した」
全ては私の責任だから不自由な生活を強いられても、辛抱して過ごして来たのに。
今度は本名も奪われるのかと思うと堪らなかった。悔しくて、悲しくて。
私が何をしたって言うの?真面目に働いて、ただ呑み過ぎて終電を逃しただけなのに。
こんな仕打ち、神様は酷過ぎる。
「いつまでこの生活が続くんですか?両親や友達にも会いたいのに……!会社だって行かないといけないのに、無断欠勤してクビにされたらどうしてくれるの!?」
一カ月間、ずっと我慢して来た感情が爆発した。私は安室さんの胸ぐらに掴みかかった。
視界が滲んで、彼がどんな表情をしているのか判別出来ない。
「公安で何もかも用意した?私の人生って……代替え出来る程軽いものだったんですね。名字名前の人生は……っ、貴方達にとっては軽いかもしれないけれど、それでも――!偽の人生を用意された私の気持ちを考えたことあるんですか……っ!」
確かに大した人生ではないかもしれないけど。それでも“私”という存在を形作る土台を、安室さん達は簡単に切り捨ててしまえる。
彼は胸ぐらを掴まれたまま何も言わずに、じっと私のことを見つめているようだった。
安室さんが沈黙しているから、まるで肯定されたみたいで尚更辛い。
ポタポタと涙が無遠慮に落ちて行く。
「………やっと……、繁忙期が終わったからポアロに顔を出そうと思っていたのに。マスターや梓さんにも会いたい……、ポアロのご飯が食べたかった……っ」
安室であって安室でない男の口から発せられる温度のない冷淡な言葉。
「僕が貴女を始末したことになっている。生きていたことがバレたら、それこそ危険だ」
言葉は冷たいのに、安室さんの温かい手が優しく私の手を掴んで胸ぐらから引き剥がす。
「……安室さんと一緒にいた“ベルモット”っていう女性は何者なの?警察関係者――じゃないですよね?」
私の質問には一向に答える素ぶりを見せない安室さんに、私は再び溢れそうになる涙をぐっと堪えた。
「……質問に答えて下さい。あの金髪の女性は何者?麻薬密売組織と何か関係があるんですよね?」
「これ以上……、貴女が踏み込んで良い領域じゃないんだ。解ってくれ」
安室さんがきつく唇を噛み締め、苦しそうに答えた。
それだけ言うと、彼は椅子から立ち上がって玄関へ向かう。私は彼の後ろ姿へ質問を投げた。
「私が……名字名前が生きているのがバレたら、私の両親も狙われるんですか……?」
「……僕の部下達が貴女のご両親と周囲を確認しているが、そういった動きは今のところないそうだ」
「……そうですか。安室さんがポアロで働いている“とある事情”って“バーボン”として関係があるから――だから言えないんですね」
尋問のような言葉が止まらない。こんなこと言いたくないのに。安室さんはきっと、私のことを守ろうとしてくれている。
どうして口から出て来る言葉は、この人を傷付けることばかりなんだろう。
お願いだから。
ポアロで見せてくれる優しい表情で、たった一言でも良いから“安心して下さい”と言ってくれるだけで――それだけで良いのに。
安室さんは私の心境を知ってか知らずか――。
「貴女が知っている“安室透”という男は僕が創った虚像だ。そんな男、この世に存在しない」
「やめてよ、そんなこと……、言わないで下さい!」
最後の方は、まるで泣き叫んでいるような声が出た。
安室透そっくりの男が“安室透”を完全否定する。それは私にとって、行きつけであるポアロでの思い出全てを否定させるのも同然だった。
香ばしいコーヒーの匂いに仕事で疲れた心が癒される。美味しいオムライスと食後のカプチーノを持って来てくれる梓さんや安室さん。マスターも交えて、私の他愛ない話に付き合ってくれた。
仕事でヘマして落ち込んだ時も、仕事が上手く行っている時も。
いつだって安室さんは、オムライスとカプチーノをテーブルに運んで来てくれたのに。全部。全部が大事な思い出なのに。
「マスターや梓さん、安室さんとの思い出は――私が名字名前である唯一の証なんです。それすらも否定されてしまったら、私は……っ、本当に死んだことになっちゃう」
心が痛い。ズタズタにされた気分だ。
名字名前を知っている人間が誰もいなくなってしまう恐怖に、私の目からボロボロと涙が止まらない。
止めることが出来ない。
「名前さん……」
「安室、さん……っ?」
私の名前を呼ぶ彼の声。降谷さんの色ではなく、幽かに安室さんの気配を感じた。
一呼吸しない内に、私は彼の腕の中にいた。彼の左腕に腰を引き寄せられ。
あの夜拳銃を突き付けた右手は、私の頭を優しく撫でていて。
どうして安室さんが私のことを抱きしめているのか。
急過ぎて私の脳内処理が追い付いてくれない。
「名前さんの人生を狂わせてしまったことは、申し訳ないと思っている。怖い思いをさせてしまったことも。決して、貴女の人生を軽んじた訳じゃないんだが……全て明かすことが出来ないのは、それ相応の危険が伴うからだ」
この人は――、降谷さんは私の人生を狂わせた人なのに。
何故――こんなにも苦しそうに話すのだろう。
「だけど、いつか貴女が――名字名前さんに戻ることが出来る未来のために、僕は今闘っている」
こんなにも苦しそうに話す彼に、“私の人生を返して”何て言えない。
言える訳ない。
「ポアロのご飯が食べたいのなら、僕が毎日作りに来る。名前さんが好きなオムライスもカプチーノも何だって」
「安室さん……、いえ――降谷さん。ごめんなさい……、今は何も聞きません」
呆けたままの両手を降谷さんの背中に回す。
男性らしい筋肉質な背中。見た目よりもしっかりとした体躯。
「今日から“みょうじなまえ”になります。でも、いつか……全て終わったら話して下さい」
「――ああ……、それが僕の罪滅ぼしだからな」
そう紡がれた降谷さんの声。私は、彼が抱える孤独感の欠片を垣間見た気がした。
汚れるためにある右手