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※ポアロの営業時間、マスターについて捏造あり

1.
「え?あのポアロが最近女子高生に人気なの?」
「そうなんだよ。お前がイギリス留学している間にな」

父は運転しながら嬉しそうに言った。
推理小説が大好きな父が切り盛りしている喫茶店“ポアロ”。
命名した理由は至極簡単。
アガサ・クリスティの小説に登場するエルキュール・ポアロ名探偵から採ったものだ。

挽きたてのコーヒーの香ばしい匂いが漂う落ち着いた店内は、読書や勉強に打ってつけで常連さんの憩いの場になっている。
それはさておき。父の話をよく聞いてみると、私が留学中に新しいアルバイトを雇ったという。

その人物が働き出してから、お客の口コミで徐々に喫茶店の知名度が上がり……今では大繁盛しているらしい。
客層が若返ったため、デザートメニューやサイドメニューを増やしたようだ。勿論、相変わらず常連さんも来店してくれるそうで。

「ふぅーん……以前は常連のおじさんとおばさん達しか来なかったのにねぇ」
「たかが一年、されど一年。日本を留守にしていれば、変わったこともあるもんさ」
「ねぇお父さん。ポアロ以外で何か変わったことってあるの?」

車は羽田空港国際ターミナルを出発し、首都高湾岸線を通っている。
車窓から、倉庫やコンテナ街が流れ去る。

「そうだなあ……、そう言えば毛利探偵いるだろ?ここ半年くらいで“眠りの小五郎”として有名人になったよ」
「え、あのおじさんが?有名人?」
「ああ。どんなに難解な事件でも名推理で解決してしまうんだよ。おかげで依頼人も増えたみたいでね、たまに依頼人の方とポアロでお茶することもあるみたいだよ」
「そうなんだ……」

あのおじさんが“名探偵”ねぇ。
あんまり想像つかない。ポアロに来たら、競馬新聞片手にラジオ中継を熱心に聴いている姿ばかり見て来たから。

「蘭ちゃんも元気かな?あと、工藤君も」
「工藤君か、そう言えばここ最近見かけないなぁ……」
「え?そうなの?」
「ああ。難事件で引っ張りだこなんだろう。すごいよなぁ、まだ高校生なのに」

運転しながら父が感心した。
工藤君は蘭ちゃんの幼馴染。二人がお店に来る時に話したりするけれど、彼らの両片想いはいつ実るのだろう。

「それで、イギリスはどうだったんだ?」
「歴史的な建物が多いし、ロンドンだったから不便に感じることはあまりなかったかな」

私は大学で英文学を専攻している。今回は、大学の留学プログラムに参加したのだ。学んで来たことをまとめた後、学部発表会の場で発表することになっている。

現地では勉強以外にも、しっかりと遊びも楽しんで来た。
寮室の子達と街に繰り出し、ギグというライブハウスでバンドの生ライブを聴いたりした。ロンドンでの一年間の生活で、何度かホームシックになったけれど、今思えば良い思い出だ。

「肝心の英文学はちゃんと学んで来たんだろうね?」
「勿論、ちゃんと勉強して来たよ。リーディングリストにある文献を読んで毎日皆で討論して、レポートもわんさか出たわ」
「それなら良い。名前、大学は来月からか?」
「うん。それまで時間もあるから、ポアロのバイト復帰しようかと思って」
「梓ちゃんもお前に会えるの楽しみにしているよ」
「私も楽しみ!お土産渡さなきゃ」

車のトランクに収まっている私のスーツケースには、イギリスから持って来た沢山の思い出が詰まっているのだ。

車は湾岸線から中央環状線を通り、新宿を抜けたところで一般道に降りる。
特に渋滞もせずスムーズだった。少し進むと、懐かしい光景が目に入った。

「わあ、久しぶりの米花町!ここは相変わらず変わってないねぇ」

やっと帰って来た。
時差ボケでぼんやりする頭が少しだけ覚醒した。

やはり八時間の時差と約十二時間程度のフライトで、私の身体は思っていたよりも疲れていたらしい。翌日は寝るだけで終わってしまった。
何だか勿体ない一日の使い方である。週明け月曜日から、ポアロのバイト復帰が決まった。

2.
週明け月曜日。時差ボケもすっかり直った私は、早朝六時過ぎにポアロに出勤した。
一年ぶりの出勤なので気合いを入れ過ぎてしまった。
さぁ、頑張るぞと自分で喝を入れながらお店に向かう。入り口の取っ手を掴むと、チリンと可憐な鈴の音と共にドアが開いた。

あれ、鍵は……?何故開いた?

「すみません、今準備中でして開店は七時からなんですよ」
お店の中から、聞き覚えのない声がした。

健康的な小麦肌にさらりとした金髪。脚はスラッとしており、背が高い。
初めて目にする男性に、私は首を傾げた。

「いえ、私ここのマスターの娘の名前です。今日からバイトに復帰するんですけど……」
私がそう言うと、彼は合点がいったらしい。
「ああ、貴女がマスターの娘さんでしたか!失礼しました。お話は昨日マスターから伺ってます」
そう言った彼は、にこりと笑った。
褐色イケメンから漂うオーラがとても爽やかだ。朝から良いもの見た気がする。

いやいや、そうじゃなくって。
頭の中でセルフツッコミする。

「えっと……」
私が戸惑っていると何か察してくれたのか、解りやすく要領を得た自己紹介をしてくれた。

「僕は安室透です。本業は私立探偵ですが、半年前からここでアルバイトをしてます。ちなみに、毛利探偵の弟子をやっています」
「探偵さんなんですね」

……毛利さん弟子取ってたの?一年のブランクって恐ろしい。

「あれ、マスターから聞いてませんか?」
「あ……!貴方がJKに人気の……!」

数日前、父が車の中で近状報告をしてくれた内容を思い出した。
新しくバイトで入った人が男か女なのかも――名前すら――父は話してくれなかった。それに昨日だって、何も言ってくれなかった。
既に私に話したと思い込んでいるのか、はたまた忘れているのか判断つかないが。

「ごめんなさい、実は父から貴方についてあまり聞いてなくて……」
我が父親ながら酷いと思う。もっと事前情報が欲しかった。
いや、私が聞いとけば良かった。
私が慌てて謝ると、安室さんがクスクス笑う。
「いえ、気にしないで下さい。マスターらしいなと思っただけですから」

喫茶店ポアロは朝七時から夜八時まで営業する。時間帯によって常連さんが異なるので、人間観察にはもってこいだ。
勿論、しっかりとお客様のオーダーを取って、調理、会計、お見送りまでやっている。常連さんに、イギリス話とお土産のクッキーを配ったりした。
ランチタイムのピークが過ぎると、少し落ち着くので、隙間時間でまかないを食べることが多い。

「今日は私が腕によりをかけて、まかない作るわね」
一年ぶりのまかないは、梓さん特製のナポリタンだった。
スパゲティの麺がケチャップソースに良く絡み、トマトの酸味とまろやかさが口に広がる。玉ねぎやピーマンの食感も程よく残っているし、ソーセージの旨味もしっかりついている。

「梓さんの料理久しぶり!美味しいです」
「そう言ってもらえて良かった!安室さんが作るハムサンドも人気メニューなの。これを食べに来る女子高生が多いの」

そう言って梓さんがメニュー表を見せてくれた。一年前にはなかったメニューがチラホラある。
「へぇ。安室さんも料理が得意なんですね」
「この間なんてパン職人の方に、ハムサンドのレシピを教えてくれってせがまれたこともあったのよ。ね、安室さん」
「ありましたね、そんなことも。良ければ今度まかないで作りますよ」
「本当ですか?楽しみです!」

そんなことを話していると、チリンと鈴の音が鳴った。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
スッと立ち上がった安室さんが、お客様を店内に案内する。

ああ、なるほどと思いながら、私はカウンターから様子を伺う。見たところ、安室さん目当てで来店したJK達のようだ。

女子高生達からの熱い視線を物ともせず、営業スマイルでオーダーを取る安室さん。彼はオーダーを取り終え、キッチンでドリンクとデザートを作り始めた。

「安室さん目当ての女子高生達よ」
梓さんが、そっと耳打ちしてくれた。
一年前の光景の差を見せつけられた。

「名前さん、お久しぶりです!いつ帰国したんですか?」
「蘭ちゃんと園子ちゃん!元気そうで良かった!」

毛利探偵の娘である蘭ちゃんがやって来た。どうやら今日は部活がお休みのようで、友人の園子ちゃんと一緒である。
彼女達の春休みは来週から入るらしい。

「先週末に帰って来たの。あ、良かったらこれ。お土産ね」
私は、ショートブレッドが詰まった箱を渡した。
「わぁ、美味しそう!ありがとうございます」
「あ、これめっちゃ美味しいお菓子だよね」
赤と黒のタータンチェック模様の箱を指差す園子ちゃん。
「そうそう。バターと小麦の風味が――」

「僕知ってるよ。スコットランドの伝統的なお菓子で、その歴史は中世まで遡るんだ。昔はとっても高価な物だったから、結婚式やクリスマスとか特別な時に食べられてたんだって」

「へぇ、コナン君良く知ってるのね!イギリスに行ったことあるの?」
蘭ちゃんが感心する。
「……って、新一兄ちゃんが言ってたんだ、あははは」
「えっと……蘭ちゃん、この少年は?」
「名前さん、メガネのガキンチョに会うの初めてだっけ?」
「ええ、そうなの。ねぇメガネの少年、良かったらお姉さんに自己紹介してくれる?」

「僕、江戸川コナンっていうんだ。帝丹小学校の一年生」
「コナン君は蘭ちゃんの弟?……そんな訳ないか」
私がそう言うと、蘭ちゃんが可笑しそうに笑いながら違いますよと否定する。

「阿笠博士の遠い親戚の子で、半年前からうちで預かっているんです」
「じゃあ私と入れ違いだったんだね。初めまして、私はここのマスターの娘の名前です。丁度先週末に留学から帰って来たの。よろしくね、コナン君」
「よろしくね!えっと――、名前姉ちゃん!」

コナン君が元気に挨拶してくれた。この年頃の子供って無邪気で可愛い。

「コナン君って結構物知りなんです。この子の助言で事件が解決したこともあるんですよ」
「小さな探偵さんって感じなんだね」
「え、あ、うん!同じクラスの子達と少年探偵をやってるんだ」
「そう言えば、コナン君は工藤君とも知り合いなの?」

そう質問すれば頷くコナン君から、工藤君のことを知っているのかと尋かれた。

「ええ、たまに来てたから。でもここ最近見かけないって父が言ってたけど」
「蘭を放っぽったまま今頃どこにいるんだか……」
「新一のやつ、厄介な事件に巻き込まれちゃったみたい」
「心配だね。何にもないと良いんだけど」
「時々電話がかかって来て、何とか元気にやってるから心配すんなって言うんです。本当、早く帰って来いっての……」

蘭ちゃんは気丈に振る舞っているものの、やっぱり心配しているようだ。
高校生探偵として脚光を浴びた彼は、難事件を次々と解決。
その様子が連日新聞を賑わせたこともあり「平成のシャーロック・ホームズ」と称され「東の高校生探偵」として名を轟かせている。
ちなみに「西の高校生探偵」もいるらしい。

「元気出して、蘭ちゃん!特別に、ショートブレッドに合う紅茶を淹れようか。メニューにはないからお代は気にしないで。他のお客様には内緒ね。それじゃ、準備して来るから待ってて」
ここはコーヒーを売りにしている喫茶店なので、残念ながら紅茶はメニューにないのだ。
私が軽くウィンクすると、蘭ちゃん達は嬉しそうだった。
「ついでにパフェもお願いします!」
園子ちゃんが注文した。

3.
キッチンに行くと、安室さんが洗い物をしていた。
私は戸棚から紅茶の缶を取り出して、封を開けた。ゴールデンチップを多く含んだ上級茶葉が入っている。
一日中、時間を問わず飲んでも最高のアッサムが楽しめるというキャッチコピーで有名なこのブランドは、私のお気に入りである。自分用のお土産として買って来たものだ。

お湯を沸かしている間に、牛乳をピッチャーに移して常温に戻しておく。温めた牛乳だと、紅茶の香りを損ねてしまうのだ。
水道水でたっぷり満たしたヤカンをコンロにかけた。

「嬉しそうですね」

安室さんがお皿を拭きながら話しかけくれた。
「一年ぶりに蘭ちゃん達と会ったので嬉しいですよ。あ、これお土産です」

私は、良かったらどうぞと安室さんにもショートブレッドの箱を渡す。
既に梓さんにもお渡し済みだ。

「バターの風味が濃厚なんですけど、それほどしつこくないから紅茶の香りの邪魔にならないんです。素朴なお菓子で美味しいんですよ。コーヒーより紅茶がおススメです」
「へぇ……イギリスですか」

安室さんはユニオンジャック柄の箱を眺め、意味深にぽつりと呟く。彼のスカイグレーの瞳が少しだけ細められた。

「……安室さんもイギリスに行ったことがあるんですか?」
「……どうしてそう思われるんです?」

質問を質問で返されてしまう。
安室さんは人好きするような笑みを浮かべているが、何というか……その先を踏み込ませないような、そんな雰囲気をまとっていた。

イギリス、と呟いた安室さんの姿を見た私は、単純に行ったことがあるのかな?と思っただけなのだ。
だけど、少しだけ細められた瞳に何かを回顧しているような彼の姿を見てしまって。安室さんの望む回答は何だろうと、余計なことを考えてしまった私は言葉に窮する。

「お湯、沸きましたよ」

ピーッと――ヤカンの内側に発生した蒸気が、注ぎ口の内側で振動する音が鳴る。安室さんがコンロの火を消して、熱々のお湯が満たされているヤカンを手渡してくれた。

「あ、ありがとうございます」
ヤカンを受け取った私は、ポットとティーカップにお湯を注いだ。
こうしてあらかじめ温めておけば、茶葉がジャンピングして更に香り高くなるのだ。

「昔の知り合いを思い出しましてね。そんなことより、イギリスのどちらに行かれてたんです?」
絶妙なタイミングで沸いたお湯を口実に、何だか上手い具合にはぐらかされたような気もしなくもない。

もしかしてヤカンに入れた水の量、コンロの火力を確認して沸騰する時間を予測していたんじゃないか。初対面の相手に対して、勘繰ってしまう自分の思考がものすごく気持ち悪い。

今日初めて会った安室さんがどういう人物なのか解らないけれど、どこからどう見ても怪しい人物ではないのに。

何より、相手の腹を探る趣味なんて私は持ち合わせていない。気を取り直した私は、平然としたまま安室さんとの会話を続けることにした。

「ロンドンです。英文学を専攻してて、大学の留学プログラムに参加したんですよ。シェイクスピア時代から現代までの演劇、詩、小説を読んで皆と討論して、論文を書いたりしてました」
「なるほど。名前さんは東都大に通ってるってマスターから聞きました。優秀なんですね」
「ありがとうございます……」

こんなイケメンから褒められるなんて。
地味に――いや、かなり嬉しい。幾らでも論文が書けそうな勢いだ。我ながら現金である。

「ちなみに安室さんはコーヒーと紅茶、どっち派ですか?」
ふと、そんなことを聞いてみる。
初対面の相手と腹の探り合いはしないが、リサーチは別である。

「僕は緑茶派です。毎朝抹茶入りの緑茶を急須で淹れてるんですよ」
「緑茶派なんですね……意外。てっきりブラックコーヒーかと思いました」

小麦色の肌と金髪。そして、スカイグレーの瞳。ハーフ、だろうか?
コーヒーを嗜んでそうな雰囲気なのに緑茶派だったとは。
これがギャップというものか。
「ははは、よく言われます。コーヒーも飲みますけどやっぱり緑茶が一番ですね」

温めたポットにティースプーンで茶葉を入れる。蓋をしてティーコジーを被せ、三分蒸らせば美味しいアッサムティーの出来上がり。
そのままストレートで飲んでも構わないが、牛乳を入れてミルクティーで飲んだ方がアッサムの良さが引き立つのだ。

オーブントースターで軽く焼いたショートブレットも食べ頃だ。お皿に載せると、バターの香りがふわっと鼻腔をくすぐる。

「そうだ、安室さんもミルクティーいかがですか?」
「ありがとうございます。でも蘭さん達の分がなくなってしまいますから、僕のことは気にしないで下さい。お土産も頂いたので自宅でやってみます。美味しい紅茶の淹れ方は……今覚えましたから」

4.
あの日から早いもので三週間近く経った。春休みが終わり、桜も散り始めた今日この頃。大学の授業も始まり、私はポアロのバイトと授業を上手く調整しながら日々を過ごしている。

「安室さん、今日もお休みなんだね」
「探偵業が忙しいみたいでしばらくは出勤出来ないみたいです」
「安室さんも大変だよねぇ。毛利先生の弟子、ポアロのバイト、本業の探偵……三つも掛け持ちしてるんだもの」

梓さんがエプロンを着けながら、感心した口ぶりで言う。
安室さんはここ最近欠勤中だ。何でも、彼がよくお休みするのは今に始まったことではないらしい。

本職の探偵業と掛け持ちをしているので休むこともあるだろうが、自分が出勤する時は出来る限り最大限やるつもりだと――バイト面接の時、あらかじめ父にそう伝えてたようだ。つまり、父もそれを承知で採用した訳だ。

「安室さんって欠勤した後は決まってどこか怪我をして出勤するのよね。心配だったから前に聞いたことあったんだけど、教えてくれなくて。探偵には守秘義務があるから何だとか理由つけて」
梓さんがため息混じりに続ける。
「……ホント、心配するこっちの身にもなって欲しいわ。それに安室さんがいないと、JK達があからさまに残念がるから」
梓さんが苦笑いする。私もその場面に居合わせたことがある。

数日前、学校帰りの女子高生達がポアロに来店したのだが安室さんはお休みだと伝えると、また今度来ますと言って帰ってしまったことが数回あった。

安室さんは、ポアロにとってなくてはならない存在になっている。ここは彼の居場所なのだ。

「シフトが入ってなくても急にふらっと来るから、安室さんって猫みたい」
梓さんが優しくクスクスと笑う。
「安室さん、次の出勤はいつなんだろ……」

私は彼と中々シフトが合わなくて、まだ片手で数える程度しか会っていない。
色々お話ししてみたい。
いつの間にか、私も安室さんの出勤を心待ちにしていたのだ。

5.
今日は午後からポアロのシフトが入っている。午前中の授業が終わると、私はそのまま米花町にあるポアロに向かった。
父がお店にいるから、そんなに急ぐことはないのだけど。

「お久しぶりです、名前さん」
「安室さん!」

店内に安室さんがいた。
確か、今日は梓さんがお休みで午後から閉店まで私のシフトだったと記憶しているが。

「あれ、今日って安室さんシフトに入ってましたっけ……?」
「いいえ、入ってませんよ」

さらりと答える彼の後ろから父が顔を覗かせる。
「ああ、名前か。安室君は今日からまたシフトに入れるそうだ。急に休んでふらっと現れるのはいつものことさ」
「マスター……、いつもすみません」

安室さんはタジタジな様子だ。
急な欠勤をしてもお咎めもなく、自由にやらせてもらえるので、彼も父には頭が上がらないらしい。
店内は数名の常連さんがコーヒーを愉しんでいた。

「長い間お休みしてしまってすみませんでした」

開口一番、安室さんが申し訳なさそうに謝って来たので私は萎縮してしまった。
どう見たって安室さんの方が歳上なのに。
大学生の小娘に謝っている光景は、側から見たら奇妙なことこの上ないだろう。

「父と梓さんと私でお店を回してたので大丈夫です。探偵業は落ち着いたんですか?」
「はい。お陰様で」

本当に探偵業が片付いたらしい。
「……どうかしましたか?」
私が黙って安室さんをまじまじと見ていたので、困ったような声が返ってくる。

「梓さんから聞きました!安室さん、長期欠勤後は必ず怪我してるって」
「大丈夫ですよ、特に怪我はしてませんって。梓さんも名前さんも心配症ですね」
「それなら良かったです。安室さんがお休みの間、JK達も寂しがってましたよ?」
「そうだったんですか。休んだ分、しっかり働かないといけませんね」
それと、と彼は付け加える。
「この間のショートブレッド、ご馳走様でした。ミルクティーと良く合いますね。美味しかったです」
「……そう言ってもらえて嬉しいです」

ランチタイムが落ち着くと、束の間の昼食時間となる。父から二人とも休憩取って良いよと言われたので、そうすることにした。

「今日は僕が作りましょう。ハムサンドはいかがですか?」
「お願いします!」

安室さんは、いつぞやの約束を覚えてくれていたようだ。サンドイッチは手軽に食べられるので、隙間時間に丁度良い。

キッチンに立った安室さんに何か手伝うことはないかと尋ねると、そのままカウンターで座って待つように言われたので、お言葉に甘えることにした。

安室さんは蒸し器を温め始め、その間にハムにオリーブオイルを塗る。お湯にレタスをつけることで、シャキッとした歯応えになるという。
「結構簡単で手頃なんですよ」
手際良く食材を調理する安室さんの姿を私は見つめていた。

色素の薄いスカイグレーの瞳。垂れ目がちな双眸と整った容貌は目立つだろう。
物腰の柔らかさも相まっていかにも優男なのに、筋肉がついた身体は男らしい色気もある。それでいて、気遣いにも長けている。
……これは女が放っとく訳がない。
女子高生だけでなく、女子大生からOL、ひいてはマダム達も贔屓にするのも頷ける。

「さっきからどうしたんですか?僕の顔に何か付いてます?」
「……へ?」
「名前さんにそんな熱心に見つめられたら照れちゃいます」
「えっ、あ、すみません……!何だか楽しそうに作ってらっしゃるので」
「楽しいですよ。美味しいご飯は人を幸せな気持ちにさせてくれる。僕が作った食事で、笑顔になるお客様を見るのが何よりもやりがいを感じるんです」

ポアロは笑顔になれる場所である。
美味しい食事とコーヒー。それと甘いデザート。口にすれば、強張った心も解けていく。

「……私、不安だったんです。ポアロが女子高生に人気だと聞いて、私の知っているポアロじゃなくなっていたら嫌だなって」

確かに、一年前と比べてメニューも客層も変わっていたけれど。
でも、変わらないものだってある。

「常連さんにも女子高生達にも――誰にでも分け隔てなく接する安室さんの姿を見て、それが取り越し苦労だったことが解りました」
「それなら良かった。お待たせしました、ハムサンドです。それと……」

お皿に載ったハムサンドと、紅茶で満たされたティーカップがカウンターに置かれた。

「これって……」
「和紅茶です。日本の柔らかく小さな茶葉を使っているので、海外製のものより苦味や渋みも少ないんです。ハムサンドの味を邪魔することなく、飲めるんじゃないかと思いまして。勿論、この間名前さんがやっていた淹れ方を真似てみました」

頂きますと言うと、召し上がれと返って来た。
ハムサンドを咀嚼する。パンのモチッとした食感にレタスの歯応え。
ハムの濃厚な風味とマヨネーズのまろやかさがマッチしている。
安室さん、料理も上手だなんてスペック高いよ、何て思いながら食べているのはご本人には秘密だ。

「このハムサンド、やみつきになりますね。美味しい!」
「良かった。紅茶も飲んでみて下さい」

甘さの中に、ほのかな渋みもあってバランスが良い。国産の紅茶は飲まないので、こんなにクセがないなんて知らなかった。

「サンドイッチならコーヒーだと思ってたんですけど、紅茶とも合うんですね。美味しいです!」
「この紅茶も仲間に入れてあげて下さいね」

小ぶりで可愛らしい紅茶の缶を安室さんから渡された。
つまり、これって……。

「紅茶派の名前さんにプレゼントです。急に休んでしまったので、そのお詫びも兼ねて」
「そんな……大したことしてないのに、良いんですか?でも、どうして私が紅茶好きだと思ったんですか?」

私は紅茶が好きだなんて彼に一言も言っていないのに。
すると、安室さんが不敵に笑った。

「ダージリン、アッサム、セイロンからスパイスとブレンドしたフレーバーティーの紅茶の空き缶が棚にありました。マスターはコーヒー派だし、梓さんに尋いても違うと言う。
ここは紅茶のメニューがないから、誰かの私物だろうと思っていたんです。ならば残る可能性として、留学中であるマスターの娘さん……貴女だ。蘭さん達に淹れるミルクティーを用意する時、迷わずこの棚から缶を取り出していましたし、何より……紅茶を準備している時の貴女の顔はとても優しかったので。確信しましたよ」

無駄のない所作と隙のなさ。常にアンテナを四方に張り、僅かな差異も見落とさない。
鋭い観察眼と洞察力は、探偵業のなせる技なのだろう。

……果たして探偵だから出来る芸当なのだろうか。安室さんはいやに完璧過ぎると思うのだ。

私は“安室透”という男に感心してしまう。
それと同時に感じた、形容しがたい違和感を紅茶と共に流し込む。

「…………さすが探偵さん」
「僕なんてまだまだ修行中の身です。毛利先生には……及びませんから」

穏やかに微笑む安室さんと過ごす、束の間の昼休みは女子高生達の来店と共に終わった。

紅茶と共に飲み込んで

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