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※2021年鯉登少尉誕生日
※「柿の実、ひとつ」の新婚夫婦設定
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
木造二階建ての入口に掲げられた、大きな暖簾を潜って中に入る。すかさず
手代の若い男性が、こちらに挨拶してくれた。
「着物を仕立てて頂きたいのですが」
「お安い御用です」
この店は師団通りの中で、一番大きな呉服屋である。私以外にも数名の客で賑わっており、店内は様々な反物が披露されていた。
紋衣装の灰桜。
緞子の白。他にも恋紅、杏、
黄金、青竹、
花緑青、竜胆、
紫紺など豪華絢爛だ。まるで空に浮かぶ虹みたいな様子に、見ているだけで気持ちが弾み、心が華やぐ。
「奥様のお着物ですか? 新作の反物が入荷しておりますよ」
「いえ……。私ではなくて、主人の着物を仕立てて頂きたいのです」
主人――音之進さんのことだ。
祝言を挙げて早数ヶ月。新婚生活には慣れてきたものの、他人から奥様と呼ばれるのは未だに慣れない。音之進さんのことを主人と呼ぶのも、照れ臭さが抜けないのだ。
爽やかな草木の薫りから、湿っぽくて物悲しい空気が混じり始めた晩夏。今日、私が呉服屋へ来た理由は一つだ。
音之進さんの誕生日をお祝いしたい。
新しい年の始まりと共に、おせち料理で誕生日を祝うけれど、それとは別にお祝いしたいのだ。彼が生まれた特別な日に。
結婚して初めて迎える彼の誕生日に、何か素敵な物を贈りたい。そう考えた私は、着物を贈ろうと思いついたのだ。
音之進さんは、この呉服屋で着物を仕立てているため、注文履歴や採寸などの情報が揃っている。だから本人に内緒で、着物を仕立てることが可能なのだ。
「鯉登様ではないですか!」
番頭は算盤を弾くのを止め、客商売が染み付いた笑顔で寄って来る。改めて来店目的を告げると、どうぞこちらへと通された。
「
袷の着物をお願いしたいのですが」
「かしこまりました」
番頭はてきぱきと、手代に指示していく。やがて手代は、両手に様々な反物を抱えて戻って来た。畳の上に広げられた生地は、どれも光沢と艶があり品がある。刺繍が施された物や、手描きの模様など種類も様々。番頭が、それぞれの生地について説明してくれる。
ああ、どうしよう。迷ってしまう。
音之進さんが持っている着物は、西陣や大島、博多などの上質な代物だ。出来ればそれらと引けを取らない物が良い。彼の健康的な褐色肌が映える色か、紫がかった髪色に似た色にするか――悩みが尽きない。
音之進さんの好みも、加味しなければならないのだ。一人で唸っていても、仕方ない。この店なら彼の好みや、傾向が分かるから幸いだ。
「主人の注文履歴を、見せて頂いても宜しいでしょうか?」
「鯉登様の着物は、紺や黒のお色で仕立ててますね」
番頭と一緒に、注文履歴を確認する。生地の種類、採寸、色など事細かに記されていた。
「奥様からの贈り物ならば、こちらの西陣の深緑はいかがでしょうか? 溌溂とした若々しさの中に、上品な印象を与えてくれますよ」
手代が深緑の生地を見せてくれた。生地は申し分ない西陣織だ。黒味がかって見える深緑は、一見すると地味かもしれない。だけど、音之進さんの褐色肌に映えることだろう。
「履歴を見ると……当店ではまだお作りしてないお色でございます」
「それなら、このお色でお願いします。せっかくなので、八掛は――」
仕立てたばかりの着物に、袖を通した彼の姿を想像しながら、深緑の生地に辛子色を重ねてみる。ちょっとした所作で、見え隠れする辛子色は、着物に立体感を生み出してくれるはずだ。
あぁ、きっと似合うだろう。粋で素敵な音之進さんが、想像出来た。
「奥様が悩んで選んだのですから、きっと喜んでくれますよ」
番頭がそう言ってくれた。
身嗜みに気を遣う音之進さんに、喜んでもらえますように。そう願いを込めて、着物の仕立てを依頼した。
着物の仕立てを依頼して、三ヶ月後。
窓を開けると視界の色彩は失われ、全て真白に塗り潰された景色が広がっている。火鉢を見ると、炭は役目を終えて白茶けていた。
遥か昔の女流作家が、冬の情景について述べていた。燃え尽きて放置されたままの火鉢の中身に、趣がないと記している。温かい炭の匂いすらない燃え滓に、彼女は物悲しさを感じたのかもしれない。白茶けて灰になりかけた炭を見て、私はふと思った。
北海道の冬は、長くて厳しい。既に春が待ち遠しい。庭に面した縁側は、凍てつく空気が立ち込めている。私は手拭いを持ち、足早に縁側を歩く。雪化粧が施された庭先で、音之進さんは朝稽古中の素振りをしていた。
「おはようございます」
「おはよう、名前」
音之進さんは、ふぅふぅと息を弾ませていた。精悍な顔には汗を滴らせ、両手は木刀を持っている。寒さを物ともしない様子の彼でも、鼻先だけは赤く染まっていた。
汗ばむ身体を拭かなければ、風邪を引いてしまう。私は手拭いを彼に渡した。
「ありがとう」
こめかみから汗が伝い、首筋へ垂れていく。音之進さんは稽古着の前襟を寛げ、手拭いで汗ばむ身体を拭いた。しなやかな筋肉で覆われた上半身が露わになる。私は反射的に、視線を縁側の床板へ向けた。
「朝飯は何だ?」
「ご飯とお味噌汁。焼き魚と胡瓜のお漬物です」
「……お腹空いた」
「準備しますから、その……早く着替えて来てくださいね」
「名前? ないごて、視線を逸らすのだ?」
無骨な指が、私の顎先に添えられる。くっきりした目元の音之進さんが視界に入った。少しだけ息が荒く、ほんのり紫がかった黒髪は、額に張りついている。全身から醸し出される健康的な色香に当てられ、頬へ熱が一気に集まる感覚。
「あの、えっと……目の、遣り場に……」
困ります、とまで言えず途切れてしまう。
「恥ずかしがらずとも、もう何度も見ちょるんに」
「ご飯が冷めちゃいますから、早く支度してくださいね」
そう言って私は、台所へ駆けて行く。
音之進さんは、私の気持ちを知ってか知らずか。それとも、ただの戯れか。
音之進さんの一挙手一投足に、私はこんな翻弄されているのに。当の本人は、どこ吹く風で余裕そうだ。
早く炊き立てご飯を米櫃に移して、お弁当も詰めないと。頬に集まる熱を冷ますため、別のことを必死に考える。火照る頬を冷気が撫ぜ、丁度良かった。
朝食を済ませ、私は玄関で音之進さんを見送る。将校の帽子を被り、枯草色の外套を羽織った彼へ、お弁当を渡した。
「今日のお帰りは、いつも通りですか?」
「その予定だが、どうかしたんか?」
「いいえ。お夕飯を作って待ってますね」
「ああ。行って来る」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まり、音之進さんは兵営に向かった。懐中時計を見れば、まだ時間に余裕がある。仕立てた着物が届くまで、あらかた家事を片づけておこう。
朝の家事を終わらせ、火鉢に新しい炭を焚べる。悴む両手を火鉢に翳していると、玄関先から呼びかける声が聞こえた。呉服屋の手代が、行李箱と共にやって来たのだ。
「奥様。着物をお届けに参りました」
「ご苦労様です。寒かったでしょう」
「いやぁ、今日は一段と冷えますね」
「どうぞ、上がってくださいな」
奥の座敷へ通してから湯呑みを差し出すと、手代は一口飲んでくれた。世間話もそこそこに、さっそく行李箱の蓋を開てもらう。真新しい生地の香りと共に、パリッと仕立てたばかりの着物が姿を現した。
「こちらがご注文の品です。念のため、ご確認ください」
皺がつかないよう
掛衣桁に着物をかけて、全体を確認してみる。目が醒めるほどの深緑色だ。きっと音之進さんの肌を、より綺麗に見せてくれるだろう。
正絹の生地には、皺や綻びは一つもない。きっちり綺麗に仕立てられている。
「ありがとうございます。とても素敵です」
「良かったです。また贔屓にしてくれると嬉しいです」
手代はホッと胸を撫で下ろし、呉服屋へ帰って行った。この着物を目にした音之進さんは、どんな反応をしてくれるだろうか。帰って来るのが待ち遠しい。
午後になると、気温は更に下がった。午前中は天気が良かったのに。いつの間にか鉛色の雲が空を覆い尽くし、牡丹雪が降り始めたのだ。
「大変! 雪が降って来た。音之進さん、傘持って行かなかったわ」
懐中時計の針は、音之進さんの定時を指している。もしかしたら、雪塗れで帰って来るかもしれない。私は夕飯の支度を中断し、兵営まで迎えに行くことにした。
師団道路は、とても静かだ。雪は物音を吸収してしまう。しんしんと降る雪の粒は大きくて、すぐに止む気配はなさそうだ。明日の朝は再び雪掻きが、必要かもしれない。
そんなことを考えながら、兵営前で音之進さんを待つ。門兵から、寒いので中で待つように言われたが、お勤めの邪魔をしたくなかったから断った。十分ちょっと経つ頃、待ち人がやって来た。
「名前! 迎えに来てくれたんか?」
「傘持ってないと思いまして。一緒に帰りましょう」
ズンズンと勢い良く、近づいて来る音之進さん。すると、大きな掌で頬を包み込まれた。温かさがじんわり沁みる。いつの間にか身体が冷えていたことに、私は気がついた。
「ああ、頬と鼻が赤いし冷たいではないか。結構待たせたか?」
「いいえ。十分くらい前に来たばかりですよ」
「すまん。はよ帰ろう。身体を冷やしたら大変だ」
行きの時は寒かったけど、帰りはそんなに寒くない。きっと、隣に愛しい人がいるからだろう。二人で一つの傘に入って肩を並べ、雪の中を歩くのも良いかもしれない。
「音之進さんに、見て欲しい物があるんです」
「おいに? 何だ?」
「帰ってからのお楽しみです」
隣で怪訝な顔をする音之進さん。私は彼の様子を見て、口許が勝手に緩んでしまう。
自宅に戻ると、さっそく奥座敷へ彼を手招く。
掛衣桁で広げられた深緑色の着物が、彼を出迎えた。音之進さんは、びっくりした顔をしている。
「どげんしたんじゃ、こん着物は?」
「私からの誕生日の贈り物です」
「まこち? ほんのこて綺麗な色や」
「お色も豊富で、とても悩んだんです。音之進さんの肌に映える色か、髪色に馴染む色か……。深緑色ならば上品な印象だと、番頭さんからも助言を頂いて選んでみました」
音之進さんは、生地の手触りや色味を確認している。
「おいのために、選んでくれたんか?」
「はい」
「試しに着てん良か?」
「勿論です」
茶褐色の軍服を脱ぎ、肌着の上から真新しい着物に袖を通す。一緒に注文した黄八丈の帯を、音之進さんの腰元に巻いていく。
小麦色の肌に、深緑が馴染む。元から滲み出る育ちの良さ。西陣織の上質な生地。それらが合わさり、音之進さんから上品な雰囲気が醸し出されている。
袖や裾から見え隠れする八掛も、主張しすぎず纏まっている。色のない白銀の町中で、この深緑は綺麗だろう。色味がある着物の方が、冬の季節は良いかもしれない。
頭の中で幾重にも想像した音之進さんが、今私の目の前にいる。やっぱり似合っていると、見惚れてしまう。
「どうだ?」
「とてもお似合いです。着心地はどうですか?」
「温かって、わっぜ良か。通し裏じゃないんだな」
「胴裏と八掛を、別々に付けてもらいました。動いた時にチラッと見える辛子色が、素敵だと思ったので」
例え八掛が擦り切れても、胴裏はそのまま使える。修繕する時も助かるのだ。合わせて、背縫いに補強するよう頼んだ。長く着れる一着に、仕立ててくれたのだ。
「音之進さん。お誕生日、おめでとうございます」
「ほんのこて、ありがとう。名前に誕生日を祝うてもれて、おいはわっぜ嬉しか」
大きな両腕が背中に周り、私は音之進さんの胸元へぎゅうと閉じ込められる。喜んでくれて良かった。彼の温かい体温に包まれ、私も幸せな気持ちになる。広い背中へ両手を回した。
私は彼の抱擁が、好きかもしれない。子供体温だから
温いのだ。それ故に身体からホッと力が抜け、いつも安心してしまう。
「明日は休みじゃっで、これを着てどっか出かけよう」
「お疲れではないですか?」
「この着物で出かけて、名前との思い出を作ろごたっど。やっせんか?」
音之進さんは私が贈った着物で、思い出作りをしたいようだ。そういう純粋なところが、音之進さんの良いところで――とても愛おしい。私はとっくに彼に絆されているのだ。
「……ふふ、駄目じゃないです」
「うん。ならば決まりだな」
相変わらず外は寒く、牡丹雪は降り続いている。音之進さんと過ごす初めての冬は、きっと寒くないのだろう。だって、こんなに心が満たされて、温かいのだから。
色彩流転、君と毎日を生きていく