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4.
事態は急展開した。
数分前、切迫した様子の降谷から着信が入ったのだ。

今から向かう住所に公安警察で保護中の男がいるという。その人物を、米花町に住むコナンの協力者の元へ連れて行けと命令が下った。

――既に先方に事情は伝えている!羽場に伝えてくれ!大事な人がこれ以上罪を重ねる前に協力してくれってな。良いから、早く行け!

「もう!本当、降谷さんって人使い荒いんだから……!」
大した説明もしてくれなかった。しかも、去年自殺した人間を迎えに行けというのだ。

意味が解らない。
そう質問したが事情は後で説明すると言われて、取り合ってくれなかった。

余程のことがない限り、降谷は声を荒げることはない。IOTテロもあったし、事態はかなり悪い方向へ向かっているのではなかろうか。悪い予感が過ったが、かぶりを振った。

とにかく、考えるのは後だ。
報酬として、何かしてもらわなければ働きに見合わない。
ヘルメットを被り、アクセルを目一杯踏み込んで名前は夜の街へと飛び出した。

幹線道路には――先程のIOTテロの名残なのか――多くの車がガードレールに激突した状態で横転したままの有様だ。IOTテロの混乱が色濃く残っている。

立ち往生している車やトラックの合間をバイクで縫って走る。
目的のマンションに着くと、男の部屋まで急いで向かった。

「貴方が……羽場二三一さんですよね」
「どうして僕の名前を……!あ、貴女は……一体!?」

本当に生きていた。
世間では死亡したとされている男が、呼吸をして目の前に存在している。

とにかく、本人確認が取れた。名前は問答無用で羽場の腕を掴んで部屋から引き摺りだす。

「ちょっと、何するんですか!?引っ張らないで下さい!離せ――、離してください!」
何が何だか解らなくて、羽場が抵抗する。
「貴方をここから連れ出せって言われてるのよ!私は公安警察官降谷零のパシ――、協力者!
羽場さんの“大事な人”がこれ以上罪を重ねる前に、協力して欲しいって!」

先程降谷が言ったことをそのまま羽場へ伝えた。すると、彼は目の色を変え抵抗をやめたかと思いきや、名前へ勢い良く問い質す。

「……あの人に何かあったんですか!?教えて下さい!」
「あ、あの人?残念だけど、降谷さんは私に詳しい事情を教えてくれなくてね。私は貴方を米花町のとある家に連れて行くよう命じられただけ。羽場さんが甦れば“大事な人”を助けることが出来るそうよ!」
「………解りました。僕をその方のところへ連れて行って下さい」

こちらを探るような視線の後、羽場が了承した。思っていたより上手く行ったので名前は拍子抜けしてしまう。

「……了解。かっ飛ばすから、舌噛まないように口閉じてなさい!」
“あの人”とは羽場にとって大事な人なのだろうか。

後は、阿笠邸に向かうだけ。マンションを出て、停めているバイクまで走る。エンジンをかけて、名前は羽場へヘルメットを投げた。




阿笠邸に到着すると、コナン経由で事情を聞いていたようで既に準備に取りかかっているらしい。
先に羽場を家の中に入れ、名前もお邪魔しようとすると鋭い視線を投げて来る少女の姿があった。

「こんばんは、灰原さん。まさか貴女がここにいるなんて思ってもみなかった」
「……何しに来たの」
「安室さんに頼まれたの。羽場さんの護衛役ってところ」

そう言っても灰原から醸し出す警戒した空気は消えない。
彼女に対して何か嫌なことをしたのだろうか。名前は考えてみたけれど、何も浮かばなかった。いっそのこと教えて欲しい。まあ、教えてくれないだろうが。

「……どうやら私は、何故か貴女に警戒されてるみたいね」
名前が困ったように肩を竦める。
灰原としては、安室透ことバーボンとよくいる彼女も警戒すべき相手だ。

目の前の女は、ジャーナリストだと名乗っているが本当かどうか疑わしい。でも、組織の一員である確証もない。

灰原は、相手が組織の一員かどうか匂いで嗅ぎ分けることが出来る。しかし、彼女からはジンやベルモット達幹部から発する強烈な匂いがしないのだ。

微かに匂うような気がする――そんな程度だ。警戒してしまうのは組織から逃亡した者の宿命か。

「私は招かれざる客のようね。でも羽場さんを連れて帰らなきゃならないから。ここで私が勝手に帰ったら、安室さんに怒られちゃう。灰原さんが嫌なら、庭で待たせてもらうけど……良いよね?」
「良く言うわね。私が嫌だと言っても、そのつもりでいるくせに。……良いわよ、入って。でも、あの子達には手を出さないでちょうだい」
「……ありがと。大丈夫、何もしないから」

漸く家の中に入る許可が下りた。
灰原の言う通り、拒否されても庭で待つつもりではあったのだが。

「それで、羽場さんをどうやって甦らせるの?」
名前の質問に信じられないような顔をする灰原。

「あ、貴女……、本当に何も知らないの?安室透の使いで来たんでしょう?」
「大した説明もされずに、急かされてここに来たのよ。残念だけどここで何をするのか安室さんに聞く時間がなくって。この間のエッジ・オブ・オーシャンの爆破と関係があるのよね?」

灰原は大きく溜息を吐いた。目の前の女は嘘を言っているようには見えない。
そもそも、嘘を言う利点がない。

灰原もコナン同様、小学一年生の割に所作や言葉遣いが、随分大人びていると名前は思う。時折、本当に六才の子供なのかと疑問である。
子供に溜息吐かれるなんて、側から見たら滑稽だ。

「子供達には内緒よ、怖がらせてしまうから。今日地球に戻って来る“はくちょう”が何者かによって、NAZUに不正アクセスして警視庁に落とそうとしているのよ!」
「えっ……!?」

東京サミット会場の爆破と、IOTテロは繋がっていたという。
既に犯人の目星がついているようで、コナンと降谷が犯人を確保するために奔走しているらしい。

もし東京のど真ん中に無人探索機が落ちたら。首都圏の機能の大部分がダメージを負ってしまうし、被害は計り知れない。

「降谷さん、秘密主義にも程があるわよ……!」

一応協力者なのに。
悲しいとか、悔しい感情よりも怒りに似た気持ちが湧き出る。唇を強く噛むと、口内にほんのりと血の味がした。ポアロの新作ケーキだけでは感情が収まりそうにない。

「灰原さん!“はくちょう”が大気圏に突入するまで後どれくらい?上手く行けば、ここのネット環境を借りて不正アクセスしている端末をハッキング出来るかもしれない」
「後三十分程度ね。NAZUに不正アクセスしている端末を探り当てるには時間が足りないわ!とにかく、貴女は何もしないで大人しくしてて」

小学生にピシャリと言われてしまい、名前は素直に従うことにした。自分の役割は、羽場二三一をここに連れて来た時点で終わっているのだ。

リビングに向かうと、子供達が出迎えてくれた。何やら両手にゲーム機のようなものを手にしている。

「あー!なまえお姉さんだ!」
「どうしたんですか?怖い顔して」
「えっと、皆は何してるの?」
「ドローンを飛ばしてんだぜ!良いだろ??」

歩美、光彦、元太が嬉しそうに話している。
「このお兄さんが困ってるから、歩美達がお手伝いするよう博士に頼まれたの!」
「困っている人を助けるのも僕達、少年探偵団の仕事ですから!」

リビングの奥にはグリーン色の垂れ幕がかかっており、羽場が立っている。そしてビデオカメラも設置されていた。

「これって合成映像……?」
「ええ、あの子達が飛ばしたドローンの映像と合成するのよ」
「哀君!準備出来たぞ!」

阿笠の一声で、それは始まった。
サミット会場爆破から始まった一連のサイバーテロ。その犯人の正体も。
名前が必死になって羽場をここに連れて来た理由も、漸く全てが判る。

灰原のPCには警視庁ヘリポートの映像が映し出されている。ドローンによる撮影は順調のようだ。

「日下部さん……!」
羽場が男の名前を叫ぶ。名前は、その悲痛な声を聞き漏らさなかった。
日下部と呼ばれた男の驚愕した顔がPC画面に映し出される。

『羽場……!?ど、どういうことだ!?』
『拘置所で彼を取り調べた公安警察は、彼を自殺したことにしてこれまでの人生を放棄させたんだ。公安検事が協力者を使っていたという事実を隠蔽するために。そして……公安検事が二度と協力者など作らぬよう、そのことはあなたにも伏せられた』

今回のサミット会場爆破事件は、一年前のNAZU不正アクセス事件が発端だった。

IOTテロを起こした動機として、公安警察の権力で犯人に仕立て上げられた毛利小五郎の容疑を晴らすためだったという。

『誰かが犠牲になったかもしれないのに!?』
スピーカーからコナンの声が聴こえる。
真相が解き明かされて行く中、羽場が哀しそうに下を向いた。

『自らした違法作業は、自らカタをつける。貴方にはその力がない。公安警察がそう判断したんだ』

降谷が言い放つ。一点の曇りもない正義。
しかし、彼の正義が今回の事件の引金になったも同然。警察組織が抱える闇の部分が浮き彫りにされた瞬間であった。

「日下部さんが、私を人生のどん底から救い上げてくれた。たった二年間の関係でしたが、日下部さんは“お前のおかげで公安検事として戦える”と言ってくれた。だから私は今もこうして戦えるんです」

ビデオカメラの向こうにいるであろう、協力者日下部へ向けている羽場の視線はとても柔らかい。

そして、彼は日下部の協力者になったことを今でも後悔していない。それどころか、恥じだと思ったことは一度もないようだ。彼自身の口振りにそれが表れている。

羽場の目を見た名前は、思わず自分と降谷の関係を重ねてしまった。
「……同じだ、私と」
公安の協力者は、違法で危険な調査を余儀なくされるので、ビジネスライクな関係ではないのだ。

名前は、公安警察の降谷から――時には黒の組織のバーボンから情報を求められることも多い。その度に様々な手段を使って情報を集めている。
使いパシリだろうが全ては協力者のために。

日下部は、常日頃から公安警察と公安検察の権力の差を痛感していたらしい。協力者の羽場が公安警察の尋問を受けた後、自殺したと聞いて憎しみが爆発したという。
それ程、協力者とは深く――強い繋がりを持っているのだ。

五月一日。羽場の命日に、無人探索機“はくちょう”が帰還すると聞いて、この計画を思い付いたのだと日下部が言った。公安警察の威信を失墜させるために。

公安組織を正すため、今回の一連の事件は、曲がりなりにも日下部自身の正義によって引き起こされたものであった。

降谷が名前のことを、協力者としてどう思っているのか真意は解らない。
彼女がぽつりと呟いた言葉を拾ったのは、PCと睨めっこしている灰原だけだった。

『警視庁の屋上に落ちれば、羽場も無傷ではいられない!』
『汚いぞ!これが公安警察のやり方か!?』
「日下部さん……それが貴方の、正義なんですか?」

縋るような瞳で。
相手の一番弱い部分を突いた言葉が、日下部に残された良心を揺さぶる。涙声のまま、彼はコードを吐露した。
親子同然の羽場を傷付けることは出来なかった。

書き換えられたコードを手に入れたものの、結局落下地点を修正出来たか確認が取れなかったようだ。最悪のケースを想定して、阿笠邸で第二次作戦が決行された。

公安が押収した爆薬をドローンで運ばせ、“はくちょう”本体へぶつけるという荒業である。
ドローンを操作している子供達は、自分達が爆薬物を運んでいるとは知らない。
ドローンを操縦する嬉しさを顔いっぱいに表している。間近でカプセルの撮影をする気満々だ。

そして、“はくちょう”から隔離されたカプセルの軌道は警視庁から東京湾へ逸れ、危機を脱することが出来たのだ。
ドローンからシグナルが途絶えてしまい、子供達はがっかりした様子であった。

5.
『二三一……!』
「境子!」

PCの通信が再開された。画面に映し出された一人の女性に、羽場が反応する。

『まさか、生きていたなんて』
境子と呼ばれた女性は、羽場が生きていることに信じられない様子だったが、すぐに鋭い視線で日下部を睨み付ける。
そして憎々しげに言葉を吐き出した。

『貴方も協力者だったなんて!それも……、公安検事の!』

気まずそうな顔をする羽場をよそに、コナンが更に畳みかける。
『境子先生。貴女も協力者だったんですね、風見刑事の』
『坊や。何故、二三一を雇ったか尋いたわね?司法修習生を罷免された彼を、公安警察は要注意人物として目をつけた。そして私の事務所で彼を事務員として雇い、行動を逐一報告するよう命じられた。でも……彼と過ごしていく内に不思議と彼に惹かれた』

過ぎ去った時間を懐かしみ、慈しみながら語る橘境子。彼女の声音には、明らかに羽場に対する恋慕の情が含まれていた。

『そんな時、ゲーム会社で窃盗事件が起きた。彼が何故そんなことをしたのか解らなかった。公安警察に助けるよう必死に頼んだわ。それなのに彼は……!』
橘境子は、公安警察の協力者だったのだ。
公安彼らの誤算は、決して相容れない協力者同士が惹かれ合ってしまったということ。

羽場を助けることを聞き入れてもらえず、あまつさえ愛する男が自殺したという報せが届き、彼女は失意の中誓ったそうだ。

『……公安警察あんた達に復讐してやるってね』
そんな時に公安警察から、毛利小五郎を無罪にするよう頼まれたそうだ。

『彼らが何故そこまで無罪にしたがるのか解らなかったけれど、それなら有罪にしてやろうと思った』
『何の罪もない人を巻き込んで!?』
『仕方なかったのよ!それなのに、まさか生きていたなんて……。知っていたら、こんなことには……ならなかった』

公安の掌で踊らされていただけの哀れな道化師ピエロ
境子の心情を聞いて、羽場も悲痛な表情をする。

『彼は今、貴方達の協力者なんでしょう?公安は裏で私達のことを番号で呼んでいるのよね。私は2291だけど……彼は何番なの!?』
激昂した境子へ、降谷が静かに宣言した。

『橘境子。貴女を協力者から解放する。……良いな、風見?』
『自らの違法捜査は自らカタをつける。それが公安でしたね……。貴女はもう自由だ。羽場に会いたければ、ここへ――』

『思い上がるな!!』

散々彼らに振り回された彼女は、怒りを爆発させた。
『あんたの協力者になったのも私の判断!あんたを裏切ったのも私の判断!あの人を愛したのも、私の判断……!私の人生全てを、あんた達が操っていたなんて思わないで!!』

例え二人の出会いが仕組まれたものだとしても、羽場と出会い、彼を愛し、失った絶望も。
全てが公安警察の手の内だとしたら、橘境子の人生は誰かの作品になってしまう。

彼女の想いが名前に痛い程突き刺さる。橘境子という人物について何も知らないけれど、同じ協力者という立場だからこそ彼女の言葉が鋭利な刃となる。

全て吐き出した後、さようならと小さく呟いた彼女はヘリポートから去って行った。

「境子……」
去って行く境子の後ろ姿を見て、羽場は涙を流していた。




「羽場さん、着きましたよ」
羽場のマンションに到着し、名前はヘルメットを脱いだ。

「……ありがとう、ございます」
「部屋までお送りします」

名前がそう申し出ると羽場はやんわりと断った。
「でも――」
「それは協力者の指示だから、ですか?」
それとも、貴女の意思ですかと羽場の瞳が問う。

あの人降谷さんからの指示です」
「貴女は彼のことを、とても信頼しているんですね。それも危ういくらいに」

午後九時過ぎ。閑静な住宅街で、羽場の落ち着いた声がよく通った。
元恋人の橘境子に別れを告げられ、協力者である日下部誠が逮捕されて。羽場は憑き物が落ちたような、穏やかな表情を浮かべている。

「……は?」
「貴女の協力者に何度か会ったことがあります。彼は非常に頭が切れる方だ。そして、目的のためなら手段を選ばない……ある意味冷徹さも感じた」
「……何が言いたいんです?」
「今から話すことは、僕の独り言だ」

こちらには目もくれず、おもむろに語り出す羽場。
「羽場二三一という男は、日下部誠を守るために死んだんです。彼を守ること……それが正しいことだと思ったから。
貴女も、協力者から詳しいことは殆ど聞かされていないのに、僕を引き摺ってでも連れて行こうと必死だった」

名前は無言のままバイクに寄りかかり、男の独り言を静かに聞くことにした。

「僕もそうだった。今夜、その意味は失われてしまったけど」
この男はこれからどうするつもりだろう。
今更、“実は羽場二三一は生きていました”なんて、そうは問屋が卸さない。これが協力者の末路。
まあ、公安警察でない名前がいくら考えたって意味がない。きっと降谷が何か考えているのだろうと、思うことにした。

「いずれ僕や境子のように、公安から解放される時が来るかもしれない。その時、貴女は今までの行いに後悔しないだろうか」
「羽場さんは後悔してるんですか?」
男の独り言なのに。名前は思わず質問してしまった。

「……日下部さんの行動は褒められたものじゃない。僕が自殺したという誤った情報が元だから……責任は感じている。果たして貴女は協力者降谷さんなしで生きていけるのか……今一度、覚悟しておいた方が良い」
「……ご忠告、ありがとうございます」
「忠告?これは僕の独り言ですよ」
「ああ、そうでしたね……。お部屋までお送りします」

羽場は微かに笑って、名前の申し出に素直に従った。
「ありがとうございます」

6.
羽場を部屋まで送り届けた後。
名前は胸の中に渦巻くモヤモヤした気持ちを誤魔化すために、バイクで夜の街を駆け抜ける。

いつも名前に付いて回る不安が、画面を通して現実となった。
橘境子が公安警察の協力者から解放されたのだ。明日は我が身という言葉があるように――いつの日か、降谷から協力関係は終わりだと告げられるのではないか。

彼との協力関係は、黒の組織を壊滅するまでと取り決めている。でも、彼女の存在が彼にとって不都合になるのなら――公安警察官として、黒の組織の幹部として――躊躇せず切り捨てるはずだ。

きっと羽場は一目で、名前が降谷へ向けた純粋過ぎる信頼に気付き、危惧したのだろう。自分と同じ轍を踏ませないために。

車のライトが輝く首都高をひた走り、改造車が沢山集まった大黒パーキングエリアで休憩することにした。エリア内にはエンジンをふかしたまま停車している車もあれば、大音量でEDMを垂れ流したままの車もある。
ここは、都内屈指の車好きの聖地だ。

色んなノイズが響く中、名前はぼんやりとそれらを眺めつつ煙草をふかす。リンゴのようなフレッシュな香りがほんのりと口の中に広がった。
吐き出した紫煙が夜の闇に吸い込まれる。

「おい、聞いたか!無人探索機墜落の話!」
「ああ。多くの人間が避難中のカジノタワーに向かって落ちたって話だろ?」

車の周りに群がっている集団の会話が聴こえて来た。
“無人探索機”というワードに、思わず耳を傾ける。

「え……?」
胸騒ぎがした。警視庁に落ちるはずだった無人探索機の軌道を、阿笠邸にいる子供達の力で修正したのに。一体、どうなっている?

そんな時、降谷から着信があった。名前が慌てて出ると、いつも通りの彼の声が聴こえた。

爆風に煽られた“はくちょう”のカプセルの軌道を、ほんの僅か変えるため、彼はコナンと共に建設中のビルから車で決死のダイブをしたらしい。

「無茶苦茶し過ぎですよ……!」
電話越しから報告を聞き、思わず呻いた。
どうやら、コナンを庇い負傷してしまったようで。

『少し出血したが大した怪我じゃない……』
これから治療しに警察病院へ行くので、後で迎えに来いとのことだった。
『それに現場で指揮を採ろうとしたら、部下に止められた』
「あ、当たり前です!」

前回は赤井秀一と大観覧車の上で殴り合っていたようだし、これでは命が幾つあっても足りやしない。ちなみに愛車はダイブした際、目も当てられぬ状態になったらしい。

「とりあえず今出先なので、そちらに着くのは少し時間がかかるかと」
『構わない。待っている』

どきっとした。
恋愛的な意味ではなく、橘境子に言ったように協力関係を終わらせるためなのではないかと。

せっかく心を落ち着かせたのに、一抹の不安が再び名前の心を覆う。
吸いかけの煙草を雑に揉み消して、バイクに跨った。




首都高を北上し、警察病院に着いたのは既に午前様になりかけていた。
「……何してんだか」
名前は人気のない駐車場にバイクを停めた。病院の周囲は街灯の明かりだけで、車通りも少ない。

表向きフリージャーナリストとして情報収集活動をしているが、クラッキング、盗聴、乗っ取り、ウィルス拡散。その他諸々のサイバー攻撃もお手の物。
そして――コードネームこそないけれど――犯罪シンジゲートの構成員でもある。

警察病院にのこのこ来るなんてどうかしている。自分が置かれている立場を考えると笑えた。
実際、名前は力なく笑ってしまった。
今更ながら、降谷零は警察官だと――自覚する。

病院の入り口を覗いても目的の人物の姿はない。まだ治療に時間がかかるのだろうか。
手持ち無沙汰になったので、再び煙草に火を付けた。

「美味そうに吸うんだな」
何本目かの煙草を燻らしていると、待ち人の声がした。怪我をしたと聞いていたけれど、いつも通りの降谷がそこにいた。
「そう見えます?」
ふぅ、と煙を吐き出す。
口の中がリンゴの香料にまみれて不快だ。もう吸いたくなくなって、携帯灰皿にそれを押し付けた。

「久しぶりだから美味しくなくって」
「その割には結構吸ってたように見えるが」

降谷が携帯灰皿を指差す。
日本橋付近で別れた時とあまり変わらない彼の姿に、何だか拍子抜けする。

羽場二三一や橘境子のように、公安から解放されてしまうのではないかと、弱気な自分が顔を覗かせた。ぐちゃぐちゃに混ざった不安と焦燥は、全部煙草のせい。
こうも心が掻き乱れるのは、甘ったるいリンゴ味のせいだ。
「怪我したって聞いたから、急いで駆け付けたのに」

彼の登場の仕方がいつも通り過ぎて、色々と聞きそびれてしまった。怪我の具合はどうだったのか、心配して損したとか、どうしていつも何も言ってくれないんだとか。

降谷の本職上、秘匿にしなければならない情報で溢れていることは、名前も頭で理解している。

「…………本当、心配したんです」
降谷さんには解りませんよ、とは言わなかった。かわりに名前は、彼から視線を避けるように背を向ける。拗ねた子供みたいで、更にバツが悪くなる。
ふいに、背中に人の温かさを感じた。

7.
「…………離して下さい」
「嫌です」

口調は柔らかく。だけど、きっぱりと。降谷は拒否する。
そして、女の細い身体を抱き締める力を強めた。仄かに漂う煙草の苦い匂い。

「煙草には、不安感を取り除いて充足感を高める作用があるんだが……もしかして、僕が名前さんを協力者から解放するんじゃないかと?」

腕の中にいる名前の身体が、少しだけ強張ったのを降谷は見逃さなかった。どうやら図星らしい。
彼女が何故そう思ったのか何となく検討が付く。

あの時、警視庁ヘリポートと阿笠邸はビデオ通信で繋がっていた。羽場を阿笠邸へ連れて行った彼女は、ビデオ通信を介して橘境子が公安警察から解放された瞬間を目にしたのだろう。

「それは杞憂だ。僕は名前さんを解放するつもりは毛頭ない」
降谷は否定するが、彼女は沈黙し続けている。背を向けられたままでは話しづらい。

「こっちを向いてくれないか」
「嫌です」

即答された。こんなに頑固な彼女を目にするのは初めてである。
仕方がない。本当は、ちゃんと面と向かって伝えたかったのだが。

「今回の事件、名前さんも協力してくれてとても助かった。ありがとう。いや……、今回だけじゃないな」

始めは、名前の両親が構築した組織のネットワーク技術が欲しくて取引を持ちかけたはずだった。
彼女は自分が欲しい情報以上の情報を持って来てくれる。思っていたよりも使えたのだ。

彼女が自ら進んで、犯罪スレスレな手段を使って情報を集めて来るのを、降谷は知っている。
「降谷零として……時にはバーボンとして。貴女は僕の大事な協力者だ」
公安警察と協力者の関係は、一方的な忠誠心だけでは成り立たない。

「こう見えて、僕は名前さんのことを信頼している。だから捜査資料を送ったし、組織の動向調査も羽場の送り迎えも任せた。バーボンとして裏で組んだ時、貴女の真面目な仕事ぶりを何度も目にして、自分の正体を明かしても問題ないと判断したからだ」
「あの時は、公安の潜入捜査官だったとは思いもしなかったですけどね」

身分を偽った関係なんて遅かれ早かれ破綻してしまう。
協力者作りでは、信頼関係が重要なのだ。

名前の刺々しい口調に降谷は苦笑する。そして、ぽつぽつと彼女が気持ちを吐き始めた。

「たまに、解らなくなる。貴方が降谷さんなのか、安室さんなのか……バーボンなのか。三人とも知っているから、余計に。私の協力者は秘密主義者で何を考えてるのか解らない」
「僕は“安室透”にも“バーボン”にもなる。
この国を守ることに繋がるのなら手段は選ばない」
それだけははっきり言える。

「私が持って来た情報で降谷さんの使命が全う出来るなら――それでも良いと思っていた……でも、言える範囲で構わないから言って欲しかったことも沢山あって。降谷さんと私は対等じゃないんだなって実感した」
彼女がそんな風に思っていたとは知らなかったし――何より、今まで知る必要もなかったから、降谷は目を見張る。

「僕が公安からの潜入捜査官であると貴女に明かしたことで、対等な関係だと考えていたんだが……」
これは私のワガママだと、名前が言った。

「僕は名前さんが危険な行為で集めてくれた情報を受け取っても、しっかりお礼を言ったことがなかった。貴女を影から守ることで、お互いの役目は果たしていると思っていたからだ。だが……ちゃんと言わないと、伝わらないな」

橘境子が風見――ひいては公安警察に対して憤っていたではないか。
“全て支配した気になるな”と。だから“思い上がるな”と心から叫んだのだ。

協力者だって一人の人間――ちゃんと感情だってある。使い勝手の良い駒ではないのだ。

「名前さん。こっちを向いてくれないか」
降谷は抱き締める力を緩めると、今度こそ彼女は素直に従った。
やっとこちらに顔を合わしてくれた名前は、あまりにも寂しそうな顔をしていた。こんな表情をさせたかった訳ではなかったのだが。

「安室透もバーボンも平気で嘘を吐くが、今から言うことは本心だ。僕は名前さんを手放したくない。いつも力になってくれて感謝している。組織を壊滅させるために、これからも貴女の力が必要だ」
「それは……、公安として?それとも降谷さん個人として?」
「両方、と言ったら?」

寂しそうな顔から一転した彼女は、泣いているような、笑っているような――どちらとも取れる表情をした。

「………欲張り」
「ああ。僕は欲張りだよ」
「でも……、降谷さんの気持ちが聞けて良かった」
紡がれた彼女の声音は柔らかさを帯びている。降谷には、そう聞こえた。

「そう言えば、怪我の具合はどうなんですか」
「数針縫った程度だ。痛み止めも貰ったし、明日から“安室透”として支障はないさ」
そう言って、怪我をした肩に手を添える。この分だと、ポアロでバイトしても問題なさそうだ。

「安静にしないといけないのに、ポアロに出勤するんですか?」
「元々シフトが入っているし、毛利さんに何か差し入れでもしようと思って。お陰でコナン君の本気の力が借りられたからな」
「始めからコナン君に協力して貰うよう頼めば良かったんじゃ……」
「それじゃ意味がない。彼は僕とは違った正義――信念を持っている。それを最大限引き出すには、あの方法しかなかったのさ」

自分にとっての正義は善だとしても、誰かにとっては悪になる。
今回、降谷の行動はコナンには敵のように見えただろう。敢えて露悪的に振る舞って彼を煽ったりした。

正義とは生きている人間の数だけ存在し、ゼロではない。
善と悪の線引きは曖昧だ。だから信念が大事なのだろう。
信念があれば――きっと、何があっても迷わない。

「それにしても、羽場さんを連れ出す目的を教えて欲しかったです。連れ出せなかったら、あの作戦は出来なかったですよ」
「あの時は説明出来る余裕がなかったんだ。でも、きっと名前さんなら上手く連れ出せると思っていた」
「………ホント、ズルい人」
小さく呟いた後、名前は何故か降谷から視線を逸らした。

「ちょっとだけ弱気になっていたようです。でも、降谷さんの気持ちを聞いて吹っ切れました。私も自分の信念を大事にします。これからも貴方に振り回されたとしても」
「そう言ってもらえて安心したが……最後の一言は余計だ」

するりと、降谷の腕の中から逃げた彼女は、もうすっかりいつも通りの様子だ。

「でも、今回は降谷さんに何かしてもらわなければ働きに見合わないです」
「それなら、ポアロの――」
「ポアロの新作ケーキだけじゃ足りないですよ!勿論、ケーキは食べに行きますけど」

一言も言い終えていないのに、先を越されてしまった。
「それじゃあ、ケーキと他には何が良いんだ?」
降谷がそう尋くと、名前も少しだけ考える。

「降谷さんとドライブがしたいです。その時は――公安でも探偵でもスパイでもない貴方と」
「……それだけで良いのか?例えば、そうだな……好きなブランド物の服やアクセサリーとか色々あるだろう」
「確かに形に残る高価な物も考えたんだけど……、いつも忙しい降谷さんの時間を私が独り占め出来る。これ以上ない贅沢でしょ?」

悪戯っ子のように笑う彼女。
「貴女って人は……」
「私も降谷さんと同じで欲張りなので」
降谷は目を見張った後、少しだけ笑った。

「どうやら僕は、名前さんのことを少し勘違いしていたらしい」

一見、無欲とも思える要望。
だけど裏を返せば、降谷零個人の時間が欲しいという。目の前にいる協力者は、降谷が思っていたよりもしたたかで――ちゃっかり者の女だった。

つい先程まで――まるで迷子の子供のような――とても寂しそうな顔をしていたのに、今ではそれすら微塵も感じさせない。
「解った。お互い知らないことが多過ぎる。今後のために、僕も名前さんのことを良く理解する必要がありそうだ。
だが、あいにく車が廃車になってな。購入するまでしばらく時間がかかりそうだ」

国産高級スポーツカーである愛車は、既にメーカーから生産終了となっているので値が張るのだ。しかも維持費も修理費もかかる。
とは言っても公用車なので、購入費、維持費から修理費は国税で賄われている。

わざわざ生産終了になっている車でなくても、他の物に変えれば良いのだろうが――ハンドルにギアとアクセル。車体の感覚と重心は、既に降谷の身体に馴染んでしまっている。

「構いません。降谷さんを待つのは慣れてますから」
「僕がそんなに名前さんを待たせていたとはね。聞き捨てならないな」

目の前にいる彼女が他にどんな一面を持っているのか。
降谷は目の前にいる女のことをもっと知りたいと思った。協力者としての彼女と、名字名前という一人の女について――興味が湧いた。


空っぽな僕らの始まり(後編)


Title By 朝の病
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