/ / / /

※時系列は銀行強盗辺り〜夕張前まで。
※夢主は金塊や網走脱獄囚など知らされず、土方陣営の下女として働いている。


 雪深い如月某日。凍てつく冷気に悴む両手を火鉢で温めている私に、小樽の町外れの木造一軒家をしばらく使わせてくれと連絡があった。その家屋は数年前に年老いた夫妻が暮らしていたのだが、亡くなって以降無人であった。私は亡くなった老夫妻によく面倒をみてもらった縁で、家主がいなくなった一軒家の管理をしている。
 一軒家を借りるだけでなく、身の回りの世話もして欲しい。もちろん報酬はしっかり払う――。
 不可思議な依頼をしてきたのは、真横に腰を落ち着けている老人だ。名前を永倉新八といった。どこかで聞いたことある名前に、背筋が凍える。
女子おなご、名を何という?」
 八畳ほどの居間は、程よい緊張感に包まれている。机を挟んで向かい側に座る、もう一人の老人が声を発した。
 嗄れており腹の底からドスを効かせた声音なのに、嫌な威圧感は見当たらない。齢七〇は過ぎているだろうか。正確な年齢は分からない。艶のある肌。春に新芽が芽吹く瑞々しい雰囲気が、老人をより一層若々しく足らしめる。軽々しく触れれば、火傷しそうな危険な色香も滲み出ている。
 老人が発する眼光は、研ぎ澄まされた刃の如く鋭い。それなのに、どことなく茶目っ気も感じてしまう。視線がかち合っても、ちっとも痛くない。とても不思議な方だ。
 私から見て左側――縁側で控えている数名のガラ悪い男達とは、一線を画している。人生で踏んで来た場数が桁違いとでも言おうか。二人の老人達が醸し出す雰囲気は、生ぬるいものではない。只者じゃないことだけは容易に分かった。
「あぁ、すまん。先に名乗っていなかったな。私は土方歳三だ」
「ひじかた、としぞう……」
 四半世紀以上前に勃発した幕末の動乱。かつて蝦夷と呼ばれたこの土地は、明治新政府軍と旧幕府軍の最終決戦地だった。
 京で名を轟かせた新撰組鬼の副長。土方歳三は明治新政府軍へ投降した旧幕府軍要人の中で、唯一の戦死者だったと風の噂で耳にしたことがあった。まさか生きていたとは、誰も思わないだろう。

 私は譫言のように、男の名前を繰り返す。幕末の生き残り。得体の知れない雰囲気の正体に、自ずと納得してしまう。すると土方様は、苦笑しながらも再び私に尋ねた。
「それで、女子おなごの名前は?」
「し、失礼いたしました! 名字名前と申します」
「名前か、良い名だ」
 飛び跳ねるように答える私に、土方様は好々爺のように朗らかに笑う。目元の皺が濃くなり、更に人間としての深みが増して様になる。
「ところで、この家は名前が管理しているのかね?」 
「はい。二週間に一度、一日かけて掃除をしています。雨漏りなどの修繕は業者にお願いしてますが、それ以外は私が全部やってます。亡くなった老夫婦に、この家の管理を任されたので」
「なるほど。塵や埃がひとつもない。隅から隅まで行き届いておる」
「あ、ありがとうございます」
 土方様は私の仕事ぶりに、関心しながら室内を見渡す。
 陽の光が差し込む縁側から、深雪が降り積もる庭が見える。真白な障子。陽の光に当てられ、黄色く焼けた畳貼りの居間と床の間。押入れには布団一式が二組ある。長年使い込まれた箪笥と机。暖を取るための火鉢。居間の片隅に、小さな神棚も備え付けられている。床板貼りの広い台所には、ずっしり重たい大釜と古新聞に包まれた食器類が、そのまま残っている。
 部屋の至る所に、生活感が残っていた。ある程度の家財は揃っているから、買い手が決まればすぐに住める状態なのだ。
「お前ら。この家に、土足で上がり込むでないぞ」
「へ、へい」
 土方様は、縁側に控えている男達へ鋭い視線を向ける。蛇に睨まれた蛙達は慄いているのに、凍てつく眼光に私は魅入ってしまう。何故か目を逸らすことが出来なかった。

 私の一日は、東の空に朝日の筋が見える頃から始まる。
 住み込みではないため、寒さに身を縮こませながら土方様達の根城に向かう。一番初めにやることは朝食の支度だ。それが終わったら洗濯と、昼食の準備。お昼は軒下の掃除や、縁側の雑巾掛け。食材の調達だ。
 息つく暇もない日々の中で、ふと目を奪われる時がある。
 黙々と愛刀の手入れをする土方様のお顔や指先は、厳かでありながらも美しくもある。
 ポンポンと打ち粉を塗す。懐紙で拭く。ひとつひとつの所作だけで、土方様が愛刀をとても大事にしているのだと、素人目でも分かった。私は洗濯物を畳みながら、その様子をそっと眺めるのが好きだ。ささやかな束の間の休息である。
 つい最近、新たに牛山様が加わった。とても大柄な方なので、私は彼と話す度に大空を見上げるような按配だ。
 永倉様や土方様は口を揃えて「牛山にあまり近づかない方が良い」と言う。理由を聞いても、土方様は「名前の身の安全のためだ」と言うだけで、明確な理由は教えてくれなかった。牛山様は紳士的で、とても悪い人には見えないのだけど。
 牛山様が加わったことで、食事の量が増えた。次の日の仕込みが終わり自宅に帰る頃、既にへろへろだ。土方様は「いつもご苦労様」と声をかけてくれるだけでなく、家賃と共に賃金だと言って大金を渡してくる。
「こんな大金……! 大したことはしておりませんので、受け取れません」
「名前は与えられた仕事をして、私はその対価として賃金を払うのだ。何もおかしくはない。受け取れ」
「で、ですが――」
「男所帯だから、食事も洗濯の量も大変だろう。それなのに文句ひとつ言わず、いつも助かっている。これは私の気持ちなのだ。好きなものでも買いなさい」
「……土方様は狡いです」
「歳を取ると狡賢くなるものだ」
 喉奥で笑う土方様は、私の反応を楽しんでいる節がある。
 気持ちと言われてしまうと、受け取らなければ失礼になる。私は何度も御礼を言って、ありがたく受け取ることにした。土方様は満足したようで、相好を崩す。
 土方様は不思議な方だ。私にはにこやかに接してくれるけれど、永倉様と数名の男達には、厳しい顔つきで何やら話し込んでいることが多い。
 この一軒家を活動拠点にして、何か計画を立てているようだ。どうやら私には聞かせたくない話らしい。だから土方様達が、何をしようとしているのか分からない。彼らが居間で話し込んでいる時にお茶を持って行こうとすると、気遣い無用と言われてしまうからだ。そういう時は外の掃き掃除や、買い出しの時間に当てている。そもそも私の仕事は、彼らの身の回りの世話をすることだ。下手に首を突っ込むつもりは毛頭ない。一応、私なりに線引きしているつもりだ。
 今夜の献立は艶々の白飯と、わかめと豆腐の味噌汁。付け合わせは、野菜と身欠けニシンの漬物だ。
 牛山様はよく食べる。お茶碗によそった山盛りの白米が、既に無くなりかけていた。
「名前が作った飯でないと、食べた気にならん」
 ありがたいことに、土方様からお褒めの言葉を頂いた。口元をモゴモゴさせながらお礼の言葉を返す。褒められることに慣れておらず擽ったい心地だ。面映いけれど、嫌ではなかった。
「沢山作ったので、お代わりありますよ」
「お代わり良いか?」
「もちろんです」
 牛山様が空になったお茶碗を差し出したので、私はそれにご飯を目一杯よそう。頑張って作ったかいがある。
「名前も、ここで食べろ。帰宅してから飯の支度をするのは大変だろう」
「でも……、宜しいのでしょうか……?」
 土方様の提案に、永倉様と牛山様が頷く。
「構わん。自宅で一人で食べる食事は味気なかろう。老ぼれじじい二人と、野郎に囲まれた食事で良ければな」
「滅相もございません!」
「ならば早く膳を持って来なければ、牛山に全部食べられてしまうぞ」 
「……はい、ただいま!」
 こうして私も、土方様達と夕食まで共にするようになった。自惚れているかもしれないが、仲間に迎え入れてくれたような気がして嬉しかった。

 この家で彼らの世話を始めて三ヶ月ほど経った。気が付けば雪は溶け、若葉薫る皐月へと移り変わっていた。
 数日間姿を見せなかった牛山様が、家永様という方と共に戻って来られた。家永様は酷い怪我をしていたので、私が看病しようとすると、牛山様が止めに入る。
「嬢ちゃんは近付かない方が良い。あいつの看病は俺がやる」
「……かしこまりました。では、お願いします」
 そう言って私は牛山様に、出来立ての温かいお粥を渡すことに留める。土方様の元に集う方々は、どうやら訳ありらしい――と察することが出来るようになっていた。
 今日は朝早くから、土方様は永倉様と共に外出中だ。ちなみに牛山様は森の中で、朝の鍛錬中だ。縁側の雑巾掛けをしていると、牛山様とおぼしき雄叫びが聞こえた。
 土方様達は夕方頃までに戻られる予定なので、お湯を沸かしつつ――せっせと夕飯の仕込みをしていると、表から人の声が聞こえた。どうやら帰って来たらしい。私はお湯がたっぷり入った桶を足元に置き、三つ指を着いて、玄関先で出迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、名前」
「ひ、土方様。お召し物に……」
 ひやりと冷たいものが、背中に一筋流れる。
 赤黒いシミの正体。羽織の至る所に、血痕がべったり滲んでいたのだ。
「ああ、これか。安心しろ。返り血だ。怪我はしておらん」
 まるで泥が飛び散っただけ、みたいな軽い物言い。私の心配をよそに、土方様は何とも思ってなさそうだ。一緒にいる永倉様も、普段と変わらない様子なので、本当に何ともないのだろう。ホッとしたけど、一瞬だけ肝が冷えてしまった。私は小さく震えた両手を摩る。
「お洗濯しますから、どうぞこちらに」
「そうか。悪いな」
 土方様から羽織を受け取る。血痕を落とすのは骨が折れるが、私の腕の見せ所でもある。
 私が意気込んでいると、永倉様の後ろから一人の男がするりと姿を見せた。外套の隙間から、紺色の服が見える。永倉様が私に紹介してくれた。
「この男は尾形だ。今日からここで、一緒に暮らすことになった」
 私も簡単な自己紹介をしたが、尾形様はじろりと視線を寄越す。妙な威圧感に、思わず後退りしてしまいそうになる。
「この隠れ家を管理する娘だ。名前に手を出したら、私がタダじゃおかないぞ」
「小娘に手なんか出すかよ。趣味じゃねぇ」
 土方様の牽制の言葉に、尾形様は鼻で嗤う。そして猫のように音もなく、居間へと行ってしまった。目の前で失礼なことを言われた気がするが、唐突だったので反応が出来なかった。「彼奴め」と永倉様は悪態を吐きながら、尾形様の後を追うように居間へ行く。

 玄関には私と土方様の二人が取り残された。
「ところで、その桶は何に使うのだ?」
 土方様は、湯気が昇る桶を指さす。すっかり忘れていた。
「足湯はどうかと思いまして」
「足湯か。気が利くな」
 土方様は上がり框に腰掛け、長靴と靴下を脱いでお湯が張った桶にゆっくり足を入れた。ちゃぷ、とお湯が跳ねる心地良い音がした。
「お湯加減はどうでしょうか?」
「丁度良いぞ」
「足裏を指圧すると良いと、お医者様に聞いたことがあります」
「ほう、どういった効果があるのだ?」
「お医者様が言うには、凝り固まった足裏全体が和らいで、血流が良くなるそうです」
「ではお願いしよう」
 失礼します、と一声かけてから屈み、土方様の御御足に触れた。ほんの数分間、お湯に足を浸けていただけなのに、ほんのりと血色が良くなっている。親指の腹を足裏中央に当て、端に向かって滑らせていく。足裏を広げるように、ゆっくりと押す。
「力加減はどうですか?」
「丁度良いぞ」
 そのまま続けて良いと受け取った私は、同じ動作を何度も繰り返す。
 居間の方から、牛山様と家永様、そして永倉様の声が聞こえた。この家も、様変わりしたものだ。
「随分賑やかになりましたね」
「名前には、また面倒をかけることになったな」
「構いません。大人数の方が賑やかですし、私も楽しいので」
 温かいお湯のおかげで、私の両手もほんのり赤く染まる頃、土方様がぽつりと言う。
「……何も聞かないのだな」
 何のことですか、とは聞かなかった。知らないふりが出来るほど、私は人間が出来ていない。かと言って、可愛らしく首を傾げて答えを待つことも出来ないのだ。
「……私の仕事は、この家の管理と皆様のお世話です」
「弁えているということか」
「もし私が、何をしているのかと聞いても、土方様は教えてくれないでしょう?」
「どうした。珍しく、拗ねておるのか?」
「……さあ? 土方様には、どう見えますか」
 土方様は私を揶揄うように笑った後、無言で私を眺めている。孫同然の女を御するのは、このお方にとって容易いだろう。
「拗ねるというより、強がっておるな」
 言い当てられてしまい、認めるのも悔しくて素っ気ない態度を取ってしまう。我ながら大人げない。
「名前。もっと素直になった方が良いぞ」
「世の中には、どうにもならないことがあるのも分かっております」
「一丁前なことを言うが、その通りだ。だが全てがそうとは限らないのが、世の中の面白いところだ」
 土方様は噛み締めるように頷く。目の奥には、未だに少年みたいな輝きが灯っている。今の言葉に、この方の人生が詰まっていると言っても過言ではない。
 肌に刻まれた皺。鈍色の眼光。物怖じしない胆力。幕末の動乱期を生き抜いた者だからこそ、言葉の重みが全く違うのだ。生きてきた年数の違いを見せつけられた気がして、ムキになった己が急に恥ずかしくなる。
「……下手に首を突っ込んで、足手纏いになりたくありません。自分の仕事を精一杯した方が、皆様のためになりますから」
 そう言って私は、土方様の足を手拭いで丁寧に拭いていく。土方様は何も言わず、鈍色の視線を私に寄越すだけ。私なりの精一杯の強がりが、通用するとは思わない。せめて怪我だけはして欲しくない――と、言う勇気が私にあれば良いのに。

 心の片隅に滲んだ寂しさも、一緒に洗い落としたい。
 血痕が染みた羽織を、石鹸水で漬けながら何度も揉み込んで、やっと落とすことが出来た。広い庭が洗い立ての洗濯物に埋め尽くされる光景に、私は達成感を覚えた。春独特の温い風が吹くと、洗濯物の裾がひらひらと踊る。
 日差しが少し傾いた頃。麗かな太陽光をたっぷり浴びた洗濯物を取り込んでいく。籠の中は、お日様の匂いで溢れている。
「良かった。ちゃんと落ちてる」
 赤黒い返り血が着いた箇所も、綺麗に元通りだ。汚れひとつない洗い立ての羽織を手に取り、達成感に頬を弛める。
 キョロキョロと辺りを見渡すと、私以外誰もいない。ほんの少しの出来心が湧く。私はそれをそっと羽織り、くるりと回ってみた。石鹸の香りとお日様の匂いに包まれる。深い青と黒みを帯びた深い緑色の裾が翻る。
「こらこら、お嬢さん」
「ひ、土方様!」
 誰もいないと思っていたのに。
 いつの間にか、土方様が佇んでいた。気配を消すのが上手で、全く気が付かなかった。今の行動を見られてしまい、瞬く間に顔が火照る。土方様は私を咎めるどころか、面白そうに笑っている。
 かつては泣く子も黙る新撰組の鬼副長として京で名を馳せたお方が、目の前にいる好々爺と結びつかない。
「私の羽織の着心地はどうだ」
「……以外と大きいです」
 私は蚊の鳴くような小さな声で答えた。恥ずかしくて、どこかに穴があったら入りたい。
「そうだろう。私の羽織に、着せられているではないか」
 土方様の言う通り、袖も丈も一回り大きい。まるで、子供が大人の着物を着たみたいだ。袖口だって――。
「あ……」
「どうした?」
「袖口が綻んでます」
「直せるか?」
「もちろんです。綺麗に直してみせます」
 その夜、私は自宅で羽織の袖口を修繕した。チクチクと針を進める。土方様が、怪我をしませんようにと、願いを込めながら。
 皐月も下旬。爽やかな空気と共に、尾形様が数羽の鴨を撃ち取って来た。丸々と肥えた鴨だ。さっそく今晩の食事にしようと、私と家永様は準備を始めた。
 家永様は怪我が治ってから、時々食事の支度を手伝ってくれるのだ。彼女の手にかかれば、鴨があっという間に肉の塊になった。私はこんなに手際良く作業出来ない。
「家永様の包丁捌き、すごいです」
「こう見えて、私は医者ですので」
 にこやかに笑う家永様は、私から見ても綺麗な女性だ。口許の黒子が妖艶さを醸し出している。朗らかな物言いで優しい方だ。男所帯の中で、女性がいるとやっぱり嬉しい。
「お鍋はどこかしら?」
「あ、この棚にあります。あれ、ない」
 大きな鍋が見当たらない。この間使った後、しまい忘れてしまったのかもしれない。
「きめ細かい肌……欲しいわ」
 ガサゴソとお目当ての鍋を探していると、ふと小さな呟きが聞こえた――ような気がした。
「……家永様?」
 家永様から熱の籠った眼差しを向けれて、心臓がどきりとする。麗人に見つめられ、不覚にも頬に熱が集まってしまう。
「家永」
 声の主人は、眦を細めた厳しい顔つきの土方様だった。家永様は土方様を一瞥する。
「何でしょうか? 土方さん」
「話がある。良いか」
「ええ。構いません」
 土方様は無言で踵を返して、座敷の奥へ引っ込んでしまった。
「名前さん、ごめんなさいね。お夕飯の支度、お願いしても良いかしら?」
「いえ、お気になさらず。後はお任せ下さい」
 先程まで頬に集まった熱は、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。
 食材を切る音。台所が美味しそうな匂いで満たされる頃、玄関から物音がした。外出していた永倉様と牛山様が帰って来たようだ。夕飯の支度は整ったので、私は出来立ての食事をお皿によそった。

 別れは、呆気なくやって来るものなのか。
 尾形様が撃ち取って来た鴨を、みんなで美味しく平らげ、食休みをしている時だった。
「名前。お前に話がある。後で私の部屋に来なさい」
「……かしこまりました」
 永倉様や牛山様、家永様は神妙な顔をしており、尾形様に至っては我関せずを貫いていた。
 私に話したいこととは、一体何だろうか。もしかして、何かやらかしてしまったか。一抹の不安を抱えながら、私は食後のお茶をお盆に乗せて、土方様の自室の前で立ち止まる。一声かけようとして――言葉を飲み込んだ。胸騒ぎとでも言おうか。襖一枚隔てた向こうの部屋に行けば、今の生活が終わりを迎える気がしたから。
「どうした? 入りなさい」
「はい。失礼いたします」
 人の気配に敏い土方様には通用しなかった。私はおずおずとお部屋に入り、静かに襖を閉める。
 土方様は新聞を読んでいた。淹れたてのお茶を文机に置き、私も腰を落ち着ける。二人きりの部屋に漂う妙な緊張感。私だけがそわそわしてしまう。土方様はお茶を一口含んだ後、静かな口調で簡潔に用件を言った。
「明朝、私達は夕張へ立つ」
 それだけの言葉で、私は全てを察した。
「…… 小樽ここには、戻らないということですね」
「連れて行って欲しい、とは言わないんだな」
「私がお手伝い出来ることはたかが知れてますし、お供しても邪魔になるだけですから」
「そうか……」
 土方様は腕を組み、黙り込む。
 文机に置かれた洋燈が、土方様を橙色に照らす。光の加減で、濃い陰影が揺らめく。
「名前。そろそろ本音を言ってみろ」
「本音、ですか?」
「お前は察しが良い。我々が何かを企んでいることは、何となく解っているだろう」
 土方様は何でもお見通しなのだ。このお方は、どんなことがあっても、どっしりと腰を据えて動じない。鋭い鈍色の瞳には、何が映っているのか。私が男だったなら、土方様の背中を追っていただろう。
「もっと素直になった方が良い、と言ったことを覚えておるか」
 幼子に言い聞かす物言いに、私は小さく頷く。
「この家で過ごした月日は、とても楽しかったです。しがない下女なのに、皆さんにとても良くして頂きました。きっといつの日か、終わりが来るんだろうなと、ぼんやり感じてました。ここでの生活が終わる日が来るのが怖くって――皆さんとお別れするのが、やっぱり寂しいのです」
 蓋をした感情。隠していた気持ちを曝け出せば、もう抑えることが出来ない。
「本音は――土方様と、一緒にいたいです……! でも、私がお役に立てることは家事以外ないのも解っています」
 我ながら支離滅裂な言い分だし、烏滸がましいと思う。だけど土方様は横槍を入れず、耳を傾けてくれる。涙の膜で視界がぼんやり滲み、鼻奥がツンと痺れる。

「名前。こちらへ」
 私は堪らず、土方様の腕の中に収まった。老人とは思えない程がっしりした体躯に、安心感を覚える。背中を優しくあやされて、余計に涙がボロボロ溢れてしまう。
「我々はこれから、血みどろの争いに身を投じる。我々の話し合いから名前を遠ざけたのは、お前を巻き込みたくなかったからだ――と言えば聞こえは良いか。私のエゴで、疎外感を与えていたことは解っていた」
 土方様は、相手が欲している言葉を解っている。共に来て欲しい。ずっと一緒にいよう――とは絶対に言わない。今まで何人もの女性が、涙を流したのだろうか。狡いと思う反面、土方様らしいと思ってしまうのだ。私も大概である。
「土方様は喧嘩ばっかりしているから、バラガキと呼ばれていたと永倉様から聞きました。これから土方様は、誰と喧嘩をなさるおつもりですか?」
「永倉め。余計なことを吹き込みおって」
 背中をあやす手が止まる。土方様は、口許の皺を深くして苦笑いした。
「……老いぼれの世迷い事だと笑わぬか?」
「いいえ。笑いません」
「かつて目指した夢の続きを、実現しようと思ってな。この歳になっても私は、無類の喧嘩好きなバラガキらしい」
 函館戦争で敗れ去った夢は、四半世紀以上経っても色褪せることなく――尚、燻っているのだ。
 精悍な顔つきで語る土方様。瞳には、少年のような輝きを灯している。浅葱色の羽織を翻し、燃ゆる剣を握る土方様は、遥か彼方を見据えていた。孤高の狼の姿に、私は目を奪われ――息を呑み込む。
 ほんの僅かな一瞬。洋燈の灯りが見せた幻影だったかもしれない。土方様が醸し出す、若々しさの源が垣間見えた。
 夢のままで終わらせない。このお方なら、今度こそ――。私は決心するように、目尻に溜まった涙を拭う。泣くことは子供だって出来るのだから。
「……土方様が帰って来るまで、私はこの家ここで待っています。それが私に出来る、唯一のことだから」
「名前がこの家を守ってくれるなら、安心して任せられるな」
「土方様。決して無理はしないで下さい」
「私が怪我をするとでも?」
 小首を傾げる土方様に、私は慌てて真意を伝えようと口をパクパクさせた。
「いいえ、滅相もありません! 土方様が簡単に怪我をするとは思っておりません。ですが今までのように、お側にいることが出来ませんから、とても心配なのです。私の知らないところで――」
 その先を口にすることは憚られた。寒気がした。厭だ、考えたくない。
「この歳になっても、心配されるとは思わなんだ」
 土方様は喉奥で低く笑う。鈍色の瞳と洋燈の明かりが重なった。
「私を誰だと思っている? 泣く子も黙る元新撰組鬼の副長だぞ。敵に劣るほど、まだ老いちゃいない」
 驕りではない。自らの力を過信しているわけでもない。そこにあるのは、辛酸を舐めた幾十もの経験と確固たる燃ゆる意志のみ。
 それに、と土方様は言葉を続ける。
「名前がここで待っていてくれるから、私は前に進めるのだ」
「はい……!」
 少しでもお役に立てているのなら、これ以上ないお言葉だ。
「明朝、見送りは不要だ。久しぶりに、ゆっくり寝てなさい」
「せっかくの出立を、お見送りしたいのに」
「……そう言うな。男児はいくつになっても、格好つけたいのだ」
 土方様は、それ以上何も言わずに黙った。
 真意や本音は解らないけれど、聞くのも野暮だと思い、聞かなかった。だけど私を抱き締める土方様の両腕の力が、少しだけ強まった。
「行ってらっしゃいませ。御武運を」
「……ああ、行って来る」
 
 小鳥が囀り、良く晴れた翌朝。賑やかだった一軒家は、物音一つせずひっそりと佇んでいた。周囲に生い茂る雑木林に馴染んでいる。
 玄関から入り、居間へ向かう。床板が軋む音が妙に大きく聞こえた。
 いつもなら、永倉様、牛山様、家永様が談笑していたし、尾形様は火鉢を独り占めしていた。柔らかい太陽の光に照らされた縁側へ目を向けると、長椅子がぽつんと残されている。土方様はこの椅子に座り、静かに新聞を読んでいた。
 今朝は――人の気配が微塵もない。当たり前だった光景が既に懐かしい。
 土方様達が夕張へ、出発してしまったという現実。彼らと出会う前の日常に戻るだけなのに。こんなにも寂しいなんて。
 一人きりで感傷に浸っていると、机の上に一枚の和紙が置かれているのに気が付いた。その代わりに、急拵えで作った人数分の塩むすびの包みが無くなっている。
 朝食や昼食に、腹の足しにして欲しい。そう思った私は、皆さんが寝静まった昨晩、支度をしていたのだ。
 置き手紙は、土方様から私宛だった。達筆な毛筆を、私は指先で何度も撫でる。簡潔に記された文言が愛おしくて堪らなかった。私は手紙を丁寧に折り畳み、宝物を扱うように、そっと襟元に仕舞い込む。
「さて、掃除を始めましょうか」
 土方様達が、いつ帰って来ても大丈夫なように。
 私は縁側の窓を勢い良く開け放ち、爽やかな空気を目一杯吸い込む。青空は高く澄み渡り、遥か彼方へ――広がっている。土方様も、同じ青空を見上げているかもしれない。離れていても、きっとどこかで繋がっている。北の大地にも、短い夏がやって来ようとしていた。

かくも美しき狼の矜持
- ナノ -