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※企画サイト「remedy」様へ提出済み。
(通常企画「天国と地獄」にて※修正したものを再掲)
※死ネタ。時系列は無限列車編直後。

 鬼を世界の隅へ追いやるように、東の空から眩ゆい光が昇る。長かったようで短かった死闘が終わりを告げた。
 暁の薄明けの中、煉獄杏寿郎は亡き母の姿を見た。幼い頃の記憶のまま、凛とした佇まいと慈愛に満ちた表情を浮かべていた。
 地面に広がる夥しい血の海が、太陽の光を浴びて艶やかに反射する。杏寿郎の左目から光は失われ、折れた肋骨が内蔵に突き刺さる。貫かれた鳩尾から、とめどなく命が零れていく。

 突如上弦の鬼が強襲し圧倒的不利な状況にも拘らず、彼は満身創痍になりながらも誰ひとり死なせなかった。杏寿郎は両手で全てを守り切ったのだ。母から教えられた、強き者の務めは今日まで杏寿郎の心の支えでもあった。
 共闘した三人の少年と一人の少女を遺して、彼は穏やかな表情で眠りに就いた。唯一、掌から零れ落ちたのは――己の命。



「……とても御立派でした」
 かつて師と仰いだ男の終幕を見届けた名前は、唇から尊敬の念を紡いだ。物音も誰かの気配もない、墨で塗りつぶしたような不思議な空間。どこまでも広がる闇の中に浮かぶ下界の様子。もう、どれくらいここに一人きりでいるのか分からない。
 彼女は死んだ後、師範だった杏寿郎を見守っていた。無事をずっと祈っていた。誰よりも強く心を燃やす彼の幸せを願っていた。だけど今この瞬間に、終わりを迎えてしまった。
黒の布地に白糸で刺繍された『滅』という文字を背負う者ならば死は覚悟の上だ。かつての名前も同じだった。

「……母上」
 ふと、懐かしい声が聞こえた。そこには、炎柱・煉獄杏寿郎がぽつんと立っていた。
「お久しぶりです、煉獄さん」
「む? その声は……名字君か!」
「はい。炎柱の元継子の名前ですよ〜」
 第一印象は派手な人。腹式呼吸でもしているのかと思うほどの声量。墨一色に塗られた空間に、金色の御髪が一際目立つ。相変わらずどこを見ているのか解らない双眼。炎柱の象徴ともいえる、上等な白地の羽織に映える炎の揺らめき。
一目見れば忘れない容姿の青年は、名前と同じようにここにやって来たのだ。
 最後に誰かと言葉を交わしたのはいつだったか。名前は、自分が死んでからどれくらいの月日が流れたのか分からなかった。もう随分昔のことのように思えるし、つい最近のことのようにも思う。
「母上は……見なかっただろうか?」
薄れゆく生前の記憶を名前はたぐり寄せた。
煉獄家の仏壇に、凛とした美しい女性の写真があった気がする。
「ご母堂ですか? 見ていませんねぇ」
名前がそう言うと、杏寿郎は幾ばくか寂しそうな表情をした。

 あれは幻だったのだろうか。己の責務をしっかり果たすことが出来たか。その問いかけに母は穏やかな笑みを浮かべ、杏寿郎を労ってくれた。ずっと欲しかった言葉をかけてくれた。
柔らかな朝陽がまるで後光のように差し、母に導かれた気がしたのだが――。
「よもや、よもや……。ここは一体どこだ?」
「さあ……? 私もよく分かりません。おそらく生と死の狭間、なんでしょう」
「そうか、俺は死んだのだったな」
杏寿郎の口調は、どこか覚束ない。死亡した自覚が持てず、迷子の子供のようだった。
「死ぬと生前に負った怪我もなくなるみたいです」
「言われてみれば、身体が軽いな!」
 隊服と羽織には一滴の血痕すら見当たらない。まるで新品のようだ。杏寿郎の潰れた左目も、風穴が開けられた鳩尾も跡形もなくすっかり元通りだった。呼吸をする度に全身を貫く激痛も、いつの間にか消えている。

 どんなに強くても、永遠はない。上弦の鬼に「鬼になれ」と勧誘される程、技を極めたとしても人はいずれ老いて死ぬ。
それが人間の儚さ故の美しさだと杏寿郎は思う。鬼となって永遠の時間を生きる選択肢は、煉獄家に生を受けた瞬間から持ち合わせていない。戦国の世から続く由緒正しい鬼狩りの名家。その土壌と遺伝が杏寿郎をそうさせたのかもしれない。
 だからこそ、自分が人の理りから抜けてしまったことを実感した。それは杏寿郎の胸にストンと落ち、じわじわと馴染んでいく。死んだことをようやく自覚したのだ。

「私も同じです。ホラ、跡形もないでしょう?」
名前が隊服の詰襟を少し下にずらすと、白い首筋が露わになった。
 それを斬り落としたのは他でもない杏寿郎なのだが、首には刀傷ひとつもない。
滑らかな女のそれを確認して、少しだけ安堵する。死んだ後も、彼女の身体に傷があるのは忍びない。
「敬愛するあなたに――首を斬ってもらえて、鬼ではなく人として死ぬことが出来た。温かくて柔らかな炎に包まれて、私は幸せでした」
どこか懐かしむような響きだった。



 果てしなき渇き。名前が鬼堕ちした時、一番初めに感じたことだった。過酷な修業で、掌には血豆が出来て刀を握るおかげで皮膚が厚くなった。血も滲むような修業を積んで来たのに。
 満月の夜、鬼舞辻に遭遇して呆気なく敗れた。
鬼舞辻は形の良い唇の端を吊り上げて、地に伏せる女を嘲笑う。
「興が醒めた。己の力量すら分からず、私に挑んでこようとは……。お前は、私の血に順応するだろうか」
彼が名前に血を分けたのは、気まぐれだったのだろう。そして鬼の血が身体に馴染んだのも、偶然だった。

 一粒一粒の細胞が蝕まれ、真っ赤に塗り替えられていく。身体がグツグツと灼けるように痛くて熱い。息をするのもままならない。心臓が痛いくらい大きく鼓動して、脳内が軋む。地面に寝転んで首を掻き毟り、激しく身悶えた。結膜が充血して、涙の代わりに血が流れる。息苦しくて酸素を求めるよう口を開けば、締まりが悪くなった口元から唾液が溢れた。
 人の血肉が欲しい。視界に広がる真っ青な月が、夜闇の中から紅く浮かび上がり滲む。次第に暗闇が心地良くなり、これ程までに喉が渇いたことは初めてだった。
「……厭だ。鬼になりたくない……。れんごく、さん……っ」
悲鳴じみた譫言が夜の闇に上滑りした。このまま鬼舞辻の血に順応せず、潔く死ねたら良かった。生き恥は晒したくなかった。己の首筋に刃を当てがったが、鬼の本能がその先の動作を拒む。
混濁する意識の中、瞼の裏に柔らかな炎が過った。幻覚だったのかもしれない。

 あれが何だったのか、今となっては分からないが――彼女は瞼の裏に映る炎の後を追うように、フラフラと夜の闇を彷徨った。
 どうか、後生ですから。人を喰ってしまう前に。
「斬って、下さい。あなたの手で……っ!」
息も絶え絶えにそう言うと、杏寿郎は大きく息を吸い込み、受け入れるかのように両目を閉じた。



「そういえば、君は自ら俺のところにやって来たな!」
「……あれから、月日はどのくらい流れたのですか?」
「ふむ……二年くらいだな! いやはや、あっという間だった!」
 まだ二年。されど二年。死者には時間の感覚がない。生きていた頃の記憶は少しずつ抜け落ちて朧げになり、身体は冷たくて体温すら感じない。ただ、最期は温かな炎に包まれて逝ったことだけは覚えている。
「鬼殺隊に身を置く者として、最期まで人でありたかった……」
「名字君は、最期まで人間として生きた! 鬼になっても本能に抗い、鬼殺隊の一員として俺の元に帰って来てくれたじゃないか!」
「継子の私が鬼になったことで、煉獄家にとても迷惑をかけてしまったのではないでしょうか?」
 炎柱の継子が鬼舞辻無惨と遭遇し、鬼堕ちした。その報せは鎹鴉を通して鬼殺隊全体に知れ渡っただろうし、杏寿郎は名前の上官として責任を問われただろう。他の柱や一般隊士から、非難の視線に刺されたはずだ。
腹を詰めるまではいかないにしても、何かしらのお咎めがあってもおかしくない。

 彼女はずっと気がかりだったのだ。自分の不甲斐なさで、杏寿郎のみならず煉獄家に何かあったら、死んでも死に切れない。杏寿郎は何かを察して、きっぱりとした口調で否定する。
「気に病む必要はないぞ! 炎柱である俺が君の首を斬ったことで、落とし前は着けた。鬼舞辻に遭遇した状況は、君の鎹鴉を通して既にお館様も聞き及んでいた!」
例え継子だとしても、名前が一人で鬼舞辻を斃せる訳がない。柱でさえ、束にならないと難しいだろう。だから彼女が鬼舞辻と遭遇した瞬間、既に運命は決まっていたのだ。
 杏寿郎はその後、より一層鬼殺しに精を出した。全て守れるなら、この手で守りたかった。今まで鬼に肉親を殺されて哀しむ人間や苦しむ人間を間近で見てきたが、大事な弟子を自らの手で葬ったことで杏寿郎の中では、何かがパチンと弾けてしまった。

 生きたまま鬼にされて、苦しかっただろう。首を斬られて痛かっただろう。鬼舞辻や鬼に対する憎しみというより、自分の不甲斐なさが腹立だしかった。
 他に道は――なかったのだろうか。どんなに考えても結局一つの解答しか導き出せない。あの時、杏寿郎が名前にしてやれたこと。それは彼女が人を喰う鬼になる前に、人として終わらせてやることだった。
「ここであなたを見ておりました。汗水垂らして修練に励み、鬼狩りで夜を駆け抜けて、時に弟君を慈しみ……お父上から冷たくあしらわれても、心を燃やし続けた。いつの日か鬼舞辻を斃して鬼のいない平和な世を迎えて、天寿を全うするその瞬間まで……見守りたかった。だけど、あまりにも――早過ぎますよ……!」
「そうだなぁ。俺はあまりにも早く来すぎたものだ!」
杏寿郎はいつものようにワハハと快活に笑った後、己の掌を物憂いげに眺める。
 刀を握った分、ところどころ出来た豆が潰れて厚くなった掌だった。彼が鬼殺隊として鍛錬に明け暮れ、数多の鬼を葬って来たことを物語っていた。
守り切った命もあれば、零れ落ちた命も数え切れない。
「俺の両手で守れるものには限界がある! あの時名字君を守れなかった分、自分が出来得る最善を尽くそうと行動しただけだ。死んだことは後悔していない! 乗客全員が無事だったのも、彼らが懸命に戦ってくれたからだ。だが、欲を言えば……」
そう言って杏寿郎は視線を下界に向けた。

 鬼の時間が終わり、人間の時間が顔を覗かせつつある黎明の朝。線路から脱輪した列車の車体が横転して辺りに散らばっていた。悲惨な状況にも拘わらず、乗客は――多少の負傷者はでたものの――命に別状はなかった。杏寿郎を除いて。
「それが……あそこにいる彼らなのですね」
 三人の少年達が杏寿郎の亡骸を囲んで泣いていた。その様子を眺める彼は、幾ばくか寂しそうに眉根を寄せる。
「彼らの成長をそばで見届けたかったものだ……」
たった一晩の共闘で彼ら三人の技量を間近に見た。未だ完成されていないものの見込みは十分だった。これから成長して、どれ程化けるのだろうか。
次世代の柱を育てるのも、柱の務めでもあると杏寿郎は心得ていた。
「……俺の継子達だ!  一度も指導してあげられなかったがな」
「継子が欲しいと仰ってましたもんね」
 名前は鬼舞辻の呪いに順応した瞬間から、炎柱の継子の資格はなくなったと自覚していた。
だから杏寿郎が、度々継子が欲しいと言っていたのをここから見ていて、申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだ。
「名字君も俺の立派な継子だぞ! 鬼舞辻に臆することなく挑んだその心意気は、さすが俺の継子だな」
「煉獄さん……っ、」
「うむ! 君はよく頑張った!」
わしゃわしゃと、まるで小動物を愛でるように頭を撫でられる。少し乱雑だが泣きたくなる程優しい手つきだった。
 久しぶりの感触に懐かしさを覚える。生前の名前も頭を撫でられることに、決して嫌な気分にはならなかった。既に体温は喪われ、感情も日ごとに薄くなっているのに、両眼から大粒の雨みたいな涙が溢れて止まらない。
どうしてこんなにも心が温かいと感じるのか。
 太陽のような温かい人だと、名前は思った。だからこそ長生きして欲しかった。妻を娶り子供を育てて――沢山の孫に囲まれて一生を終える。
 穏やかな幸せが似合う人。杏寿郎は幸せになるべき人だった――名前が泣きながら言えば、杏寿郎は柔らかく微笑むだけだった。

「俺は、自分の責務を全うした! 上弦の鬼は俺よりも強かった。ただそれだけのことだ」
 杏寿郎は晴れやかな口調で言った。どんなに哀しんでも、死んだ人間は生き返らない。時間は巻き戻ることなく、淡々と進み続ける。共に寄り添い、慰めてはくれないのだ。世の理りを理解している杏寿郎らしい言葉だ。
「煉獄さんは……これからどうするのですか?」
名前の愚問に、杏寿郎は少しだけ考える。彼がここに導かれた理由は、一つしかない。
「そうだなあ……彼らの行く末を見守りたい。壁にぶち当たって挫折することもあるだろう。きっと、死んだ方がマシだと思うことも沢山あるはずだ。決して平坦な道ではないだろうが……名字君がしてくれたように、俺も彼らが紡ぐ未来を見てみたいのだ!」
「……どうやら私は、煉獄さんと一緒に彼らの行く末を見守ることは出来なさそうです」
 どことなく諦めたような声だった。
名前は自身の掌を翳して杏寿郎に見せた。魂魄の粒がキラキラと輝きながら、少しずつ消えていく。それは指先から始まり、徐々に全身へと広がりを見せる。
「……。せっかく再会出来たのに残念だ」
「煉獄さん、またお会いしましょう。私、待ってますから……!」
「そんなに泣くと、目元が腫れてしまうぞ!」
杏寿郎は今生の別れを惜しむように、消えゆく彼女を抱き締める。自分よりも華奢な身体を腕の中に閉じ込める。

 来世があるというならば、今度は鬼のいない平和な世界で。誰も傷つくことのない、幸せな未来で再び出会えますように。
名前の唇が、声にならない声を紡ぐ。彼女は微かに微笑んだ後、眩ゆい光を残して跡形もなく消えてしまった。次第に光の残滓が闇に馴染み、辺りは静寂に包まれた。
「逝ってしまったのだな。また俺を残して……」
 寂しげな呟きが、静まり返った空間に響く。見渡せば、黒一色がどこまでも広がっていた。
先程の彼女に起きた現象は、成仏――なのだろうと杏寿郎は思った。死んでも尚、生前の姿を保っていた理由。それは彼女にとって、気掛かりなことがあったからだ。未練――と呼ぶことも出来るだろう。成仏出来たということは、心の中に残ったわだかまりや後悔がなくなったことを意味する。

 生と死の狭間の空間に、杏寿郎がやって来た理由も同じだ。心の中に残った唯一のこと。そばにいてやれないし寄り添うことも出来ないが、一つだけ出来ることがある。
長くかかるだろうが、杏寿郎には時間がたっぷりある。
「少年達よ、心を燃やせ!」
 空にはすっかり太陽が降臨した。雲ひとつない爽やかな青色が澄み渡る。柔らかくて温かな光が、地上にいる少年達を照らしていた。彼らの行く末を見守るかのように。

運命は天鵞絨のように艶やかで
- ナノ -