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※宇佐美の過去描写があります。
※尾形短編(愛と矛盾の美しい食卓)と同夢主。作中の時間軸は宇佐美短編→尾形短編ですが、一話完結でも読めるよう構成してます。
※原作時系列と齟齬が出ない程度に、色々と捏造してます。
※ 尾形長編(堕ちる偶像に祝福を)は、この話をベースに作成しています。
名字名前という看護婦と出会ったのは、僕が敬愛して病まない鶴見中尉殿から紹介されたのがきっかけだった。五月――薄桃色の花びらが舞う季節。戦争勝利に沸く歓声と、沢山の日の丸に埋め尽くされた師団通りを練り歩いてから、数ヶ月経った頃だった気がする。
君に紹介したい人がいる。一見、お見合いのような内容に聞こえるけれど、そうじゃないことは分かっていた。新しい任務を任せたい。事前に言われていたので、きっとそのことだろう。鶴見中尉殿の別宅に来るように言付けられ、いざ訪ねてみると座敷にいたのが件の彼女である。
「鶴見中尉殿、宇佐美です。失礼します」
襖の向こう側から何やら楽しそうな談笑が漏れている。一声かけてから座敷の襖を開けると、鶴見中尉殿と見知らぬ女性が座っていた。僕が女性の隣に座ると、中尉殿が紹介してくれた。
「こちらは名字名前さん。そして、彼は私の部下の宇佐美上等兵だ」
「初めまして。宇佐美です」
「名字名前と申します」
小紋に藍色の羽織を着た女性は、柔らかく微笑み僕に軽く会釈する。育ちの良さを感じる所作なのに、どこかちぐはぐさを感じて気になった。何故だろう? 違和感があるのだ。
簡単な自己紹介が済むと、名前さんがかしこまった挨拶をした。
「この度は、お二人ともお務めご苦労様でした。旅順攻略は激戦だったと聞き及んでいます」
「我々はロシア側の堡塁から降り注ぐ弾丸と血の雨の中をひたすら走り、特攻作戦で多くの戦友が満州で散った」
僕達第七師団に出征命令が出たのは、開戦してから半年後の八月。旅順に到着したのが十月の下旬だった。第三軍に編成された第七師団は、旅順要塞の攻略戦に投入された。毎日突撃を繰り返し、夥しい数の死体が積み重なる。おまけに塹壕で夜を越すこともあり、空腹で凍死する奴らもいた。
「はい。ロシア人が身体に爆弾を巻いて、こちらの塹壕に特攻されたこともありましたね」
「あれには参ったな。ロシア人一人につき、こちらは十人以上がやられた」
名前さんは顔を痛ましそうに歪める。
年頃の若い女性なら、戦争の血生臭い話は聞くに耐えないはずだ。それなのに彼女はそんな素振りすらせず、二百三高地と奉天会戦の激戦話に耳を傾けている。見た目によらず、どこか変わった女性だ。
「陸軍病院にも怪我を負った兵士で溢れて、終戦後もしばらくは忙しかったです」
「名前さんは看護婦なのだよ。最近まで東京の陸軍病院に詰めていらっしゃったそうだ」
「そうなんですか!」
穏やかな仕草をするこの女性が看護婦? 白衣を着てテキパキと怪我人の処置を施すようには見えない。寧ろ血を見て怖がっている方が似合う。
「日比谷で大きな騒動があったのですが、ようやく落ち着いたので北海道に帰って来ました。今は小樽の病院に勤めてます」
「旭川の実家には顔を出したのかね?」
「まだ実家には帰っていません」
「駄目だぞ。せっかく帰って来たのだから、母君に元気な顔を見せないと」
「そうですよね……。次の非番に顔出してみようかな」
僕そっちのけで、名前さんは鶴見中尉殿と楽しそうに談笑している。鶴見中尉殿も珍しく楽しそうだし、ちょっと――いや、だいぶ嫉妬しちゃうな。
お忙しい中尉殿の別宅に呼ばれて嬉しかったのに、気持ちが氷点下まで下がる。
彼女がいつ、どこで鶴見中尉殿と知り合ったのだろうか。そんな疑問が頭をもたげる。母親の話までしているから、家族ぐるみで仲が良いのかもしれない。ああ、厭だな。
「鶴見中尉殿が大怪我を負ったと聞いて、心配していたのですが……お身体の具合はもう大丈夫なんですか?」
「ちょっとばかり前頭葉が吹っ飛んだが、大したことではない。向かい傷は武人の勲章。更に男前になったと思わんか?」
「ふふふ、お元気そうで安心しました」
名前さんが笑う。鶴見中尉殿に、気安く接しないで欲しい。篤四郎さんの一番は僕なのに!
『ときしげー』
僕のことを親友だと呼んだあいつ。十年以上前だからどんな顔だったか思い出せないのに、あいつに対して抱いた感情は昨日のことのように覚えている。
小学生の頃に通った道場は、僕の実家から歩いて片道二時間かかる所だった。敷地の片隅には小さな井戸。気性が荒い一頭の馬。風が吹くと土埃が舞うあの聖地で、僕は
殺人を犯した。
喪失と同時に学んだこと。それは人間の身体は意外と柔らかく、脆いということだった。
乱取りで寝転がしたあいつの首元めがけ、思いっきり踏みつけてやった。篤四郎さんとの時間を邪魔されても、父親が陸軍のお偉いさんか何かで、将校になる未来が決まっていようとも、例え僕のことを見下していたとしても――今まで僕は何でも許して来たのに!
ぐにゃりと柔らかな感触が足裏に蘇る。口から細かい泡を噴き出し、両足をビンと伸ばしたあいつは、その後呆気なく死んでしまった。
篤四郎さんと僕だけの秘密。殺人隠蔽の共有以上の出来事が名前さんと篤四郎さんの間にあったら、それこそ僕は嫉妬に狂って彼女を殺すんだろうな。
「こちらに戻って来れたので、何かとお手伝い出来ると思います」
「私が名前さんに任せたいことは二つだ。一つは怪我をした私の部下の看護をして欲しい。何か怪しい動きがあれば、すぐに報告してくれ。二つは芥子の栽培だ。英国がアヘンから手を引いている今しかない。病院の一角に専用の花壇を作って欲しい。何か困ったことがあったら、宇佐美上等兵が力になってくれる」
「よろしくお願いしますね、宇佐美さん」
そう言って、名前さんはにこりと僕に微笑んだ。
ああ、着物が彼女に似合っていないのだ。
そこで僕はようやく名前さんに抱いた違和感の正体に気が付いた。着物の生地だ。育ちの良さを感じる所作に不釣り合いな垢抜けない着物。その落差がちぐはぐに感じた原因なのだろう。
「名前さんには、造反者炙りの一端を担ってもらう」
彼女が辞した後、僕はようやく鶴見中尉殿と二人になれた。湯呑みに冷えた麦茶を淹れると、それを美味しそうに飲んでくれた。そして、おもむろに名前さんのことを口にする。
「彼女は戦死した名字少尉の妹君だ」
「……少尉殿に妹がいたのは初耳です」
「宇佐美上等兵はあまり彼と接点がなかったか」
あの少尉に妹がいたなんて知らなかった。
確かに面差しが似ているかもしれない。でも兄妹だと言われなければ気付かないほど、僕にとって名字少尉には思い入れがない。そもそも興味なかったから、彼がどんな男だったのかよく分からなくても仕方ないのだ。
僕が知っている名字少尉の必要最低限の情報は、花沢勇作殿の先輩ということだけ。僕よりも百之助の方が詳しいと思う。鶴見中尉殿の任務で、名字少尉と一緒になることが割と多かったから。そういえば以前、百之助が「名字少尉殿は甘ちゃんだ」と吐き捨てていたっけ。僕から言わせれば、百之助も甘ったれの鼻垂れ小僧だ。
鯉登のボンボン狂言誘拐任務。百之助が鯉登の背中を撫でたと、月島軍曹から聞いた。自分の境遇と重ねて同情した故の行動なんだろう。“山猫”。師団長である花沢中将が芸者の妾に産ませた子供。百之助の生い立ちは師団内でも有名だった。
眉目秀麗。品行方正な異母弟の勇作殿と、よく比較されていた。父親は同じでも母親が違うというだけで、人生ってこんなにも明暗が別れるものなんだね。どんなに足掻いても、百之助は父親から無視し続けられるのが決まっていた。そんな自分を鯉登を通じて見たのかもしれない。だけど鯉登の父は息子を見捨てなかった。百之助ってば、捨て台詞まで吐いちゃうなんて余程悔しかったんだろうね。
僕ならもっと上手く立ち回れたのに。あの時僕は別の任務に出ていたから仕方なかったが、本音を言えば参加した彼らが羨ましかった。鶴見中尉殿の大立ち回り、見たかったな。
「鶴見中尉殿と彼女はいつ接点を持ったのですか?」
「おや、彼女に興味でもあるのかね?」
中尉殿は照りのあるみたらし団子を、美味そうに食べていた。
「いえ、そうではなく……これから名前さんの仕事を支援するにあたって、彼女がどういう人物なのか――情報が必要ですので」
僕に与えられた任務を遂行するにあたり、名字名前を知るのは必要なこと。仕事上の理由を述べたが、本音は八割の嫉妬と二割の興味が混ざった幼稚な感情だ。だって敬愛する篤四郎さんが、僕よりも彼女と甘い秘密を共有していたら? そんなの耐えられない。
「名字家は旭川で有名な実業家で、私が月寒の特務機関にいた頃、名前さんの父君とは第七師団旭川移転誘致の際に世話になった」
名前さんは、良いとこのお嬢様だったのか。彼女の仕草や所作が上品だったことに納得した。名字家もボンボンというわけだ。なるほど、百之助が少尉殿のことを「甘ちゃんだ」と毒付いた理由が分かった。
でも腑に落ちないことが一つある。上流階級のお嬢様が、何故看護婦として勤務しているのだろう。
近頃は女性の社会進出が盛んだ。職業婦人が増え、教員や医者などの専門職から企業の事務員、電話交換手など働き口の選択肢は増えた。だけど働かないと食えないほど、経済的に逼迫している家柄とは思えない。
女性はだいたい女学校在学中に、縁談がまとまって嫁ぐことが多いと聞く。ましてや実業家の娘ならば、家柄の良いボンボン共から縁談話が多数あってもおかしくない。
「名前さんの妹君は身体が弱くて、彼女がよく看病していた。それがきっかけで看護婦になったと言っていたよ」
「我々の計画に、彼女は必要不可欠なのですか?」
「名字少尉には、父君の死の真相を調べさせていた。兄君の遺志は、妹である彼女に引き継がせる予定だ」
そう言って鶴見中尉殿が声を潜める。僕は続きの言葉を待った。
「決して我々の意図に気付かれないよう、上手く誘導してやれ」
北海道に独自の軍事政権を樹立する。
鶴見中尉殿は日露戦争で死んだ部下やその遺族に報いるため、アイヌの金塊の隠し場所を記した刺青人皮を集めている。来たるべくクーデターの軍資金に充てるためだ。
僕にとってこの地が、焼け野原になろうが関係ない。だけど、敬愛する篤四郎さんが目指す野望だから、いの一番に役に立ちたい。今までその気持ち一筋でやって来た。これから先も――篤四郎さんの野望の先まで、僕は着いて行く。
「鶴見中尉殿の御期待に応えられるよう精進します」
久しぶりに鶴見中尉殿からの任務に高揚感を覚える。胸の高鳴りを抑えるのに精一杯だった。
「あ、宇佐美さん」
午前中に名前さんの元を訪ねると、日当たりの良い花壇で芥子の世話をしていた。鶴見中尉殿から任務を命じられた僕と彼女が、一番最初にやった仕事はこの花壇を整備することだった。まさか大人になって、土弄りをするとは思わなかった。頬に泥が付いても、気付かない名前さんを見るのは面白かった。
早いもので、この任務に就いて二カ月程経った。基本的に僕と名前さんは、電報で連絡を取り合っている。月に一度だけ僕が病院に顔を出して、病院内の様子を実際に確認する。そして、鶴見中尉殿に経過報告をする――と、名前さんと共に決めた。表向きはね。
「調子はどうですか?」
「順調です」
彼女は芥子の実を確認しながら笑顔でそう言った。
それぞれが緑色の実を付けており、風が吹くとゆらゆらと流れるように揺蕩う。そろそろ傷を付けて、アヘンを抽出しても良い頃合いだろう。可愛らしい花を咲かせるくせに、使い方を誤れば廃人にさせる麻薬成分の塊だ。
「丁度、実に傷を付けようと思ってたところです。手伝ってくださいませんか?」
「分かりました」
人の命を助ける白衣の天使が、人を殺す薬を育てる。悪趣味だと思う。医療に通じている者ならば僕達以上に、それがどんなに依存性が高くて危ないものか分かっているはずなのに、よく笑顔でいられるなと感心する。
天使と悪魔を内包した女。育ちの良さを思わせる所作と、垢抜けない着物の違和感。笑顔で患者に接する看護婦と、芥子の実がもたらす悪趣味さ。不釣り合いな符号達が妙に合致して、名字名前という人間を構成していた。
人の良い笑顔で、モルヒネの良い効能を騙られたら、馬鹿な男は信じるだろう。まるで毒婦だ。ようは、見た目に騙されるなってことかな。
僕達は無言で芥子の実に傷を付ける作業を続けた。ヘラでザクリと傷を付ければ、とろりと溢れるのは乳白色。
名前さんが腰を上げる。前掛けが土で少しだけ汚れていた。
「美味しい緑茶を婦長に頂いたんです。良かったら、当直室で飲みませんか?」
どんな風の吹き回しだろうと探っていると、僕が返答に迷っているように見えたのだろう。
「少し休憩しても、バチは当たらないと思いますけど」
「暇なわけじゃないんだけど……まあ、少しだけなら」
「良かった。こちらにどうぞ」
僕は名前さんの後を追う。去り際にチラリと病棟側の窓に視線をやると、人影がぼんやりと見えた。薄手の窓掛けが閉まっているから、僕から相手の顔は確認出来ない。だけど、相手からは見えているんだろう。じぃっと穴が開くほど病棟の窓を眺めていると、名前さんから声をかけられた。
「宇佐美さん? どうかされました?」
「いえ、何でもありませんよ。さぁ、行きましょう」
僕は彼女に進むよう促した。
「そもそも部外者の僕が、勝手に入っても大丈夫なんですか?婦長にバレて叱られても知りませんよ」
「見られて困るようなものは、置いてないから大丈夫。お茶の準備をして来るので、宇佐美さんはここで待ってて下さい」
そう言って名前さんは賄い所へ引き返した。
僕はきょろきょろと室内を見渡す。
八畳程の広さに古びた薪ストーブと寝台、円卓と椅子。壁に衣紋掛けが備えられた簡素な造りだ。当直日に仮眠を取るためだけの部屋である。僕は椅子に腰かけた。こんな所で油を売るほど僕だって暇じゃないのだけど、何もせずひたすら“待つ”という行為になると話は別だ。
「暇だなあ」
ぼつりと零した独りごちは、誰かに聞かれることはなかった。
しばらくすると、名前さんがお盆を手に戻って来た。
「真夜中に病院内の見回りって気味悪いし、怖くないですか? 僕なら面倒だしやりたくないけど」
「うーん、気味悪いけど平気です。自分の目に見えるものしか信じていないので」
「あはは。名前さんって、お嬢様の割りに意外と肝が座ってますね」
一瞬だけ、湯呑みにお茶を淹れる動作が止まったのを僕は見逃さなかった。
「……どうしてそう思うんですか?」
「鶴見中尉殿に聞いちゃいました。旭川では有名な実業家なんだとか」
「……ええ。父が亡くなった後は、一番上の兄が家業を継ぎました」
目の前にほんのりと湯気が昇る湯呑みが置かれる。僕は御茶菓子を掌で弄ぶ。
「鶴見中尉殿とは懇意にしているようですね」
「父が仕事関係でお世話になったんです。もう十年くらい前なので、どういう経緯で知り合ったのか覚えていないんですけど」
十年くらい前。僕と鶴見中尉殿が、例の秘密を共有した頃と同じくらいだろう。月寒の特務機関にいた頃に知り合った、と仰っていたし時系列は当てはまる。
「鶴見中尉殿は、私達家族を気遣って下さいました。お忙しいのに家に訪ねて来て、私や病弱な妹にロシアのお話をしてくれました」
僕の心情なんて露程も知らぬ名前さんは、鶴見中尉殿との思い出を語ってくれる。
甘味をお土産に持って来てくれた。一緒に本を読んだ。勉強を教えてくれた。旭川の町を案内した。交流期間は、鶴見中尉殿が任務でロシアに赴くまでの短い交流だったらしい。でも僕を嫉妬させるには十分だった。
彼女が口にする言葉。相好を崩した表情。光を帯びる瞳。醸し出す柔い雰囲気。明らかに、鶴見中尉殿を慕っている。僕の目に狂いはなかった。自分が敬愛している相手を、赤の他人も慕っているのは見ているだけで厭だ。この感覚、久しぶりだなあ。
やっぱり僕は、この女性が嫌いだ。どす黒い嫉妬心が黒い炎となって、舐めるように導火線を灼いていく。御茶菓子の包み紙がクシャッと音を立てた。無意識に力を込め過ぎていたらしい。
「宇佐美さんは、鶴見中尉殿と同じ新潟出身だと聞きました。幼い頃の宇佐美さんを知っているって」
「中尉殿は僕が通っていた道場に来て、よく乱取りの相手をしてくれましたよ」
「宇佐美さんが羨ましい」
「羨ましい?」
そんなことを他人から言われるのは初めてだった。だって、その感情はいつも僕が他人に抱くもので、決して他人が僕に対して向ける感情ではないからだ。どう反応すれば良いか分からなかった。だから僕は黙ったまま、名前さんが続きの言葉を口にするのを待つ。
「たまに思うんです。私も男の子だったら……今よりも鶴見中尉殿のそばで、何か役立つことが出来たのかなって」
「……あなたが中尉殿のそばに?」
勘弁して欲しいなあ。鯉登のボンボンでもう十分足りているよ。
嫉妬心で目の前が真っ赤になりそうだったけど僕は耐える。篤四郎さんから、彼女を預かっているのだ。
「宇佐美さんは
一番優秀な部下だと、この間鶴見中尉殿が仰ってました。私はそんなこと、一度も言われたことないんです」
思わず笑ってしまう。急に僕が吹き出すものだから、名前さんは少し驚いている。
ああ、良かった。鶴見中尉殿にとっての一番は、昔と変わらず僕なんだ。彼女の言葉で、真っ赤に染まった嫉妬心が嘘のように凪いだ。安堵で胸を撫で下ろす。
「名前さんは、鶴見中尉殿の部下じゃないんだから当たり前でしょう」
「だから、心配しなくても良いんですよ」
「……心配? 僕が?」
話の前後の脈絡が見えない。僕のことを羨ましいと言った後に、心配しなくても良いと言う。
微笑んでいた名前さんはお茶を一口飲んだ後、僕の方を見据えると口許から笑みを消す。空気が変わったと思った。
「……宇佐美さんは、私のこと嫌いですか?」
長く黒い睫毛に縁取られた大きな眦。そこに収まる暗褐色の瞳は清らかだ。悪意の一つすら感じられない。
否――そもそも、人間の醜さや汚さすら知らないのだろう。まだ誰一人手にかけたことがないのだ。命を助ける看護婦だから当たり前なんだけど。
揶揄っていないことだけは分かった。いきなり図星を突かれた僕は、苛立ちに似た感情を誤魔化そうと、思わず子供じみた意地悪な返答をする。
「いきなり何? 質問に質問で返さないで下さい」
「私が鶴見中尉殿とお話ししてると、隣で睨んでいらっしゃるから」
「あははっ、まぁね。鶴見中尉殿を慕う人は、誰だろうと嫌いです」
「やっぱり。そうだと思ってました」
名前さんはクスクスと小さく笑う。嫌味や嫌らしさは微塵もない。思わず毒気が抜かれた僕は、脱力してしまう。でも勝手に観察されるのは気分良くない。
「……僕のこと観察するのやめてくれません?」
「職業病ですね。看護婦は、日々患者の機微を見逃してはいけないんです。今日は何ともないけど、明日容態が変わるかもしれない。些細なことを見逃さないために、人を観察してしまうんです」
「へぇ……。そんな簡単に分かるものなんですか」
「宇佐美さんがとりわけ分かりやすいだけ」
「……ねぇ、喧嘩売ってる?」
僕の勘違いかな?
クシャッと潰れた御茶菓子を卓上に放った。食べる気にはなれない。
「それでも嫌いな私の支援をするのは、鶴見中尉殿のため?」
「分かってるじゃないですか。全ては鶴見中尉殿のため。……自惚れないでよ」
湯呑みのお茶は、すっかり緩くなっている。僕はそれを一気飲みして、立ち上がった。
「お茶、ごちそーさま」
懐中時計を確認すれば、そろそろ兵営に戻らなければならない。他の仕事が残っている。当直室を後にしようとしたが、一つ言い忘れていたことを思い出した。
「あ、そうだ。次の当直以降、夜の見回りが無事に終わったら外に向けて洋燈を三回振って下さい。何か異変があれば、一回だけ振って」
名前さんが僕の背に向けて質問を投げかけてくる。だけど僕はそれに答える気は更々なく、適当にヒラヒラと手を振った。そろそろ動き出しても良い頃合いだろう。上手くいけば、片がつくはずだ。
十月も半ばになると、粉雪が散らつく日が多くなった。短い夏が終わり、長くて厳しい冬がやって来る。
薄らと道路に積もった雪の上には、無数の人の足跡や馬の蹄の跡があちこち散らばっていた。人の往来が多いこの大通りも、深夜の今はひっそりしている。
パカパカと馬の蹄の音だけが響く。今夜の僕は、鶴見中尉殿の別宅に呼ばれた名前さんの送迎役だ。
「着きましたよ」
「ありがとうございます」
三棟連なった建築前に馬車を着けた。二階建ての木造家屋は、病院に勤務する看護婦達が生活している寄宿舎だ。窓には明かり一つついておらず、静かだった。
「今の内に伝えておこうと思うんだけど」
部屋に入ろうとする名前さんの背中に呼びかけると、彼女が不思議そうな顔をする。
「どうしたんですか、改まって」
「鶴見中尉殿から、網走監獄に潜入するよう御達しが来ました。名前さんの支援と送迎役は、他の誰かになると思います」
「いつ頃向かわれるんですか?」
「時期は年明け後を予定してるので、それまでは僕も小樽にいますが」
鶴見中尉殿が僕を網走監獄に潜入させるために、日夜準備中だと仰っていた。中尉殿が僕のために、方々に根回しをして下さっている! それだけで幸せだ。
「網走ですか……、遠いですね」
名前さんはしみじみした口調でそう言った。
網走監獄――北海道の北端に位置し、日本一脱獄するのが難しいと言われている厳重な監獄だ。刑期が十二年以上、もしくは無期懲役の凶悪な荒くれ者どもが収監されていると聞く。この世の最果てみたいな場所というべきか。
「もしかして僕がいなくなるのは寂しいですか?」
「宇佐美さんは、私とさようなら出来て嬉しいんじゃないかなって」
「……嘘でも良いから、寂しいって言った方が可愛げがありますよ」
名前さんは、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。何か変なことを言っただろうか? いつも僕達二人の間で交わされる嫌味のつもりなんだけどな。彼女のきょとんとした顔は、珍しいから見ていて楽しい。揶揄いがいある。
「あははっ、変な顔」
「まさか宇佐美さんからそんな言葉が聞ける日が来るなんて、思ってもみなかったから」
そう言った名前さんは、喜びを瞼に乗せる。青白い明かりが彼女の肌を舐めるように照らす。
「……さっさと部屋に入って。身体が冷えても知りませんよ」
どうして嬉しそうな顔をするかな。いつも僕の減らず口を躱して、同じように返して来るくせに。揶揄ってやろうと思った僕の方がこのザマだ。
僕が彼女の背中を乱雑に押して部屋に入るよう促す。彼女は、くるりとこちらに身体を向けると僕の名前を呼ぶ。そして、折り目正しくお辞儀をする。
「御武運を」
初めて会った時と同じで、相変わらず綺麗な所作だった。近頃は花壇で土弄りをしたり、わがままな患者に手を焼いている姿ばかり見慣れているせいで、すっかり忘れていた。今更ながら、お嬢様なことを思い出す。
白い息と共に紡がれた一言は、僕の身を案じる色を含んでいた。まるで僕が戦地に赴くみたいじゃないか。厳重な監獄だと言われている場所だから、そこまで危険じゃないのに大袈裟だと思ったけど、鶴見中尉殿からの任務だから失敗出来ないのも事実だ。僕のことを心配するよりも、まずは自分自身を心配した方が良いのに、お人好しにもほどがある。
入院患者に、造反疑惑者が見つかったんだから。
「おやすみなさい。宇佐美さん」
「……おやすみ」
そう言って、彼女はようやく部屋に入った。
「……調子狂うな」
僕が吐き出した言葉は、冷える空気に馴染むことなく消えた。
翌日の夜。僕は病院の敷地内の物陰にじっと佇んで、窓から漏れる橙色の明かりを微塵も動かずに眺めていた。名前さんが洋燈を持って、夜間の見回りをしている最中だ。月に数度訪れる彼女の当直日に、こうやって物陰からうかがう行動を起こしてから一月半経った。今日まで一度も官憲から、職務質問は受けていない。
ちなみに、名前さんは僕が夜な夜な病院の敷地内にひっそり潜んでいることを知らない。鶴見中尉殿からは、僕がやりやすい方法で支援しろと言われているから問題ない。
造反者炙りは、思ったよりも長期戦に縺れ込んでいた。造反疑惑の入院患者は一名。訓練で左手首を骨折したため入院した。名前さん曰く、見舞いにしては滞在時間は短くて見舞品など持って来ない一等卒の男がいるという。そのくせ一週間に一度、件の患者の元へやって来るらしい。
彼らが怪しいと目星をつけてしばらく様子をうかがった。どんなやり取りをしているか、名前さんが探っているけど相手も馬鹿じゃない。警戒しているのか知らないが、尻尾を出さない。
造反者を見つけたら、捕まえろ。鶴見中尉殿は僕にそう言った。
だから僕は相手に精神的圧力をかけていた。名前さんに内緒で病院に赴き、物陰に隠れて観察した。時には彼女とやり取りしている場面を、わざと見せつけたりした。
さっさと成果を出して、鶴見中尉殿に褒められたい。あわよくば、ヨシヨシされたい!
「あッ!」
二階の窓から洋燈の明かりが不自然に揺れた後、滲むように消えた。明かりが消えた所は、造反疑惑の男がいる病室階のはず。僕は物陰から飛び出して、病院の昇降口めがけ脱兎の如く駆け出す。この時を僕は待っていたんだ! 一月半長かった!
胸いっぱいに高揚感で満たされた僕は、施錠された昇降口の鍵を物ともせず病院に侵入する。ぼんやりと薄暗い中、階段を駆け上がって廊下をまっすぐ進む。胸の高鳴りが抑え切れなくて、どうにかなりそうだ。
バリンと何か堅いものを踏みつけた感触に足を止める。廊下の中腹辺りに、割れた洋燈の残骸が散らばっていた。僕は硝子の欠片を摘む。まだ少し洋燈の熱が残っており温かい。当然、名前さんの姿は見当たらない。
彼女が襲われるのも、時間の問題だと思っていた――なんてね。語弊があるかな。正直に言うと、相手から何か行動を起こすよう仕向けた。つまり、僕は名前さんを囮にしたのだ。
マッチをつけて辺りを翳してみる。他に痕跡がないか、硝子の欠片周辺をくまなく探す。早くしないと造反者が逃げてしまう。
「これは……!」
指先に硝子とは違うぬめりのあるものが触れた。マッチの明かりに照らされた血痕は、まだ乾いていない。四つん這いになって注意深く観察すると、血痕は廊下の奥に向かって点々と落ちていた。
絶対にあり得ないけど、例えば僕が造反者なら――。鶴見中尉殿の差し金である名前さんをどうするか。すぐには殺さず、相手側が持っている情報を聞き出してから始末する。
時間をかけず、手っ取り早く相手の口を割るには痛みが効果的だ。逃げないように身体を縛りつけて水責めしたり、爪を一枚ずつ剥がしたり――それこそ精神的にも肉体的にも苦痛を与えることが出来るなら、ありとあらゆる手段を取るだろうな。
次に拷問に最適な場所はどこだろうか。人がいなくて、誰にも邪魔されない部屋。機材や道具があれば尚良し。良からぬことをしようとする輩は、誰かに見られることを恐れるという。どの病院にも必ずある
あの場所なら、誰かに邪魔される心配はない。物言わぬ目はあるだろうけど。
「僕ならあの部屋を使うかな」
追い詰められた人間は行動が大胆になって、なりふり構わなくなるといわれている。護身用にメスを拝借して、僕は目的の場所へ向かった。
解剖室と連なる死体安置室。病棟から西側に設えた建造物は、夜の闇に溶け込んでいる。安置室は蝋燭が一つ灯っており、部屋をぼんやりと染めていた。縄らしきものでグルグルに縛られた名前さんが床に横たわっている。
「あ、やっぱりここにいた! 名前さん、大丈夫ですか?」
場にそぐわない陽気な声をかけると、名前さんは目線だけ寄越す。屈んで彼女を覗き込むと、額から血が出ている。襲われた時に殴られて出来たものだろう。後で応急手当をしなければ。
「あぁ、これは傷跡が残りそうですね」
口には手拭いで猿轡を噛まされているせいで、声が思うように出せないようだ。
「んー!! んんん、!」
「何ですか? 何言ってるか分からないな」
名前さんが呻き声を出すけど、聞き取れなくて分からない。
背後から殺気を感じ、手に持っているメスで思いっきり足元を突き刺した。鋭利な刃物が肉を裂く感触。男の唸り声が聞こえ、振り向き様に拳を一発お見舞いしてやった。
パキン。どこかの骨が折れる厭な音と、殴った衝撃が拳を通して伝わって来る。続け様にもう一人の男が飛び出して来たので、胸ぐらを掴んだ勢いのまま背負い投げた。その隙に男が落とした金槌を奪って、うずくまる男の頭へ振り降ろす。ゴチンと頭蓋骨が軋み、血が花火みたいに爆ぜた。生温かいそれが頬に飛び散る。相変わらず人体は温かくて脆い。
「君達が鶴見中尉殿を裏切った造反者だな?」
「う、宇佐美、上等兵……!」
足元にメスが刺さったままの男に名前を呼ばれる。
二人組の男の顔を確認したが、こんな奴らが仲間にいたかどうか記憶に怪しい。そもそも僕の視界には、鶴見中尉殿しか映っていないのだ。未だに床にうずくまる二人の男達を見下ろす。金槌の先端から滴る赤い雫。こんな物でも、使い方ひとつで立派な凶器になる。
「なあ……、彼女を縛ってナニするつもりだった?」
返答はない。ある意味無言の回答が、彼らの本心を如実に物語っている。
やることが清々しいほど外道だ。こうなることは見越していたのに、何故か腹が立った。意味が分からない。同族嫌悪ってやつ? 否――違うな。彼女を好き勝手使って良いのは、鶴見中尉殿から任された僕だけだ。
「勝手に僕の物に手を出さないで欲しいな」
名前さんを囮に使って良いのは僕なのに。自分達の立場を弁えもせず、彼女に良からぬことをしようとしたから許せないのだ。うん、きっとそうだ。
篤四郎さんを裏切った罪は重い。それを深く自覚してもらわないとね。
「名前さん。僕が良いって言うまで、目を瞑っていて下さい。ここから先、あなたには少々刺激が強過ぎる」
金槌を握る手に力を込め、再び躙り寄る男二人を相手取る。金槌を振り上げれば、ヒュッと風を切って相手に打撃を与えた。赤黒い血が病床のシーツに染みを作る。防御力が皆無の男を羽交い締めして、腕を絞めるとボキボキと骨が折れる音と感触がした。
せっかく左手首の骨折が治ったのに、また怪我しちゃったね。裏切ったお前が悪いんだから、仕方ないよな?
気が付けば、死体安置室の床には血痕が飛び散っていた。もちろん、僕の顔にも返り血が咲いている。床に伸び切ってぴくりとも動かない二人の造反者。鶴見中尉殿が制裁を下す前に、僕がボコボコにした。しまった。まずいな、殺しちゃった?
顔の上に手を翳せば、僅かながら呼吸を感じ取ることが出来た。どうやら僕は夢中で、男二人を気絶させる程の打撃を与えてしまったらしい。
「はあ……、鶴見中尉殿に叱られてしまう……!」
造反者は私が処罰を下さなければ、皆に示しがつかんのだ。
鶴見中尉殿の言葉が頭に過ぎった。不手際な僕に、一体どんな罰を下してくれるのだろう? あぁ、想像しただけで頭が沸騰しちゃう! 十年以上前に堕ちた初恋は、今でも色濃く鮮やかだ。異様な高揚感。ドキドキと高鳴る心臓を抑えるために、深呼吸をひとつ吐く。
「……もう目を開けても良いですよ」
そう言うと、名前さんはぎゅうっと瞑っていた目を開けた。
「
輪姦されなくて良かったですね。危機一髪でした」
僕はにこりと笑った。ゆっくりと彼女の方へ歩み、手拭いの猿轡を取ってやる。彼女の身体に触れると、カタカタと小さく震えていた。男に襲われて身体を縛られ、目の前で血生臭い暴力を見せつけられた。精神的外傷を負ってもおかしくない。
「ありがとう、ございます。まさか宇佐美さんが私を助けてくれるなんて……」
「……開口一番にそれですか? 僕はそんなに信用ありません?」
思わず溜息を吐き出しそうになった。きつく結ばれた縄を解いてあげる。彼女の両手首には、縄で擦れた痕が赤く腫れていた。どこか憂げな顔だった。額から流れる一筋の赤が映える。
「私のこと、嫌いでしょう?」
それ自体に間違いないけれど――この状況でよくその言葉が出て来るなと、逆に感心してしまう。そんなに震えているくせに、何故強がっているのだろう。素直に、怖かったと泣いて縋れば良いものを。今は、いつもの図太さはいらないでしょ。
「……あのさ、今そんなこと言ってる場合?」
「う、宇佐美さん……?」
グッと腕を捕まえて引き寄せれば、いとも簡単にぐらつく身体。名前さんを腕の中に閉じ込める。すると、力では敵わないと察したのか――彼女は身じろくことをせず大人しく身体を預けて来る。
何をされるか分からない恐怖は、さぞ堪え難かったことだろう。鶴見中尉殿のため、僕は名前さんを勝手に囮にした。そのことに対して、罪悪感は抱いていない。だけど――。
「……ご無事で何よりです」
腕の中にすっぽり収まっている温かなぬくもり。名前さんが、今も生きている証拠。
「あなたが死んだら、鶴見中尉殿が悲しむでしょう」
悲しんでる篤四郎さんは見たくないだろ? その意味を含めたように言えば、彼女は納得したのか――何も言わなかった。その反応に、忘れていた苛立ちが呼び起される。篤四郎さんは名前さんのことを気にかけているし、彼女自身も篤四郎さんを慕っている。思わぬ墓穴を掘ってしまった僕は、腕に閉じ込めた名前さんを解放する。
「彼らは僕が中尉殿の元に連れて行きます。名前さんは大人しくして下さい。後で僕が応急処置をしますから」
「……はい。病院側の処理は私がやっておきます」
「頼もしいです」
間が抜けた明かりが灯る死体安置室に、僕と名前さんの影がぼんやりと滲む。淡々と業務報告をした後は、お互い黙った。僕は無言で、テキパキと男二人を身動き出来ないように縛り上げる。苛立ちを結び目に込めたのに、無意味だった。
どうしても消えてくれない。やっぱり、名前さんが篤四郎さんのお気に入りなのが気に入らない――気に食わない。僕だけの篤四郎さんでいて欲しいから。強い忠誠心は、時に強い嫉妬心を生み出すのだ。
無防備な名前さんを眺めてみる。
ぺたんと尻餅を着き、縛られた縄と共に緊張感が取り払われ、すっかり脱力しているようだ。僕が脳内で、物騒なことを思案しているとは思ってもいないだろうな。
仮に、彼女を手にかけるとしたら、どんな時だろう?
「ねぇ……、名前さんはこいつらみたいに、鶴見中尉殿を裏切ったりしませんよね?」
想像してみたら、やっぱり腹が立った。篤四郎さんから大事にされているのに裏切る? 背徳行為だ。許せない! 僕が名前さんに嫉妬しても、手を出さない理由は至極単純だ。篤四郎さんが、彼女を必要としているから。
篤四郎さんに向ける敬愛の笑顔。患者に向ける天使の笑顔。芥子の花に向ける悪魔の笑顔。僕に向ける控えめな笑顔。上品な所作とお淑やかな物言い。血を恐れず、正確に適切な処置を施すテキパキさ。僕の嫌味に平然と切り返す図太い神経。この数ヶ月間で、色んな彼女を垣間見た。どれを取っても全部一人の女性だ。
結局僕にとって、名字名前はやっぱり嫌いな存在なのだ。屈折と鬱屈した感情が混ざり合い、どろどろに煮詰まる
愛。あぁ、なるほど。いっそのこと、僕が――。今まで持ち合わせたことがない、新たな感情が僕の中で発露した。
初めて殺人を犯した時に抱いた感情とはちょっと違う。
「……まさか。鶴見中尉殿には、お世話になったので裏切ったりしません」
名前さんはほんの少し沈黙した後、静かに答える。
それなら僕は、まだ彼女を
嫉妬し続けることが出来る。まだ殺さなくて良いんだと、自分自身に言い聞かせた。
「……良かった! もし名前さんが鶴見中尉殿を裏切ったら、その時は僕があなたを殺します」
名前さんの生殺与奪権を握っているのは、篤四郎さんだ。篤四郎さんが彼女を始末しろと命じれば実行するのは僕。彼女が裏切れば、始末するのも僕。
否、僕じゃないと駄目なのだ。だって僕が篤四郎さんの一番忠実な部下。篤四郎さんのためならば、何でもやるからさ。他の誰かが名前さんを手にかけるのは許さない。僕の目が届かないどこかで、勝手に死ぬなんて絶対に赦さないよ。
名前さんが裏切ったら、例えどんなに離れていても――。網走監獄からすっ飛んで、血に塗れた金槌で彼女の頭をかち割る。それが僕にとって精一杯の愛し方。
愛しみ方。篤四郎さんを崇拝して病まない僕が、名前さんだけに対して出来る唯一の愛情表現なんだよ。だから、低俗で下劣な殺人行為と同列にしないで欲しいな。
同じ人間を敬愛する
同士へ、これ以上ないほど敬意を払った理想の幕引きだと思わない? 手に持つ金槌を、名前さんの頭めがけて振り下ろす――その瞬間を夢想しながら、僕は無意識に唇の端を歪めた。
愛の崇拝