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※宇佐美短編(愛の崇拝)と同夢主。
※作中の時間軸は宇佐美短編→尾形短編ですが、一話完結でも読めるよう構成してます。
※尾形長編(堕ちる偶像に祝福を)は、この話をベースに作成しています。
尾形百之助という軍人が、瀕死の状態でこの病院に運ばれて来たのは、雪深い真冬の夕刻のことだった。丁度その頃、私は洗い立ての病床用シーツや枕カバーを綺麗に畳み終わり、薪ストーブで暖を取っていた。昇降口が騒がしいなと思っていると、同僚の看護婦に早く来るようにせっつかれた。
急いで昇降口に向かうと、強張った顔をしたままの軍人達が、毛布で簀巻きにされた男の周りを囲んでいる。簀巻きにされた男の顔色は青白く、顔面は原形が分からない程に膨れ上がっていた。おまけに右腕に添え木も施されている。両顎と右腕の骨折に、低体温症気味の顔色。重症ではあるが、どうも軍事訓練で負った怪我とは思えなかった。ひとまず身体を温められた後、駆けつけた執刀医によって手術が執り行われることになり――男は一命を取り留めた。
「尾形さん、おはようございます。朝ご飯ですよ」
病室の扉を開けると、薄暗い四人部屋の病床に一人の男が横たわっていた。問答無用で窓かけを開けると、結露が朝日に反射して眩しい。昨晩降った雪は止み、外は見慣れた銀世界だ。
「尾形さーん、起きて下さい」
私の呼びかけに、尾形さんは眠そうに目線だけ寄越して来る。うぅんと低い声で唸る様は、まるで安眠を妨げられた不機嫌な猫のようだ。毎朝鬱陶しそうな顔をされるのも、すっかり慣れてしまった。
「眩しい……閉めろ」
「もう。起きる時間ですよ」
尾形さんが、瀕死の状態でこの病院に運び込まれてから一ヶ月弱。まだ自由に歩き回ることは出来ないが――病床から上半身だけ起き上がれるようになった。順調に回復している様子に、看護担当である私もホッとする。
とは言っても満足に口を開くことが出来ない。そのため面会人数は、一日に二人だけと制限しているがあまり意味ないかもしれない。手術後、尾形さんは一時的に意識を取り戻したことがあった。丁度彼の元を訪れていたのは玉井伍長殿だったが、それ以降は主だった面会者は来ていない。
私は朝食の盆を病床脇の机に置いて、湯飲みに水を注いだ。それを尾形さんに差し出せば、彼はゆっくりと上体を起こして無言で飲んでくれた。顔面の腫れは幾分引いたものの、折れた両顎の固定も兼ねて包帯でぐるぐる巻きにされている。まだ大きく口を開けて咀嚼出来ないので、食事は主に食材を細かく刻んだものや喉越しの良い流動食だ。
ふわりと湯気が立つお粥をレンゲで掬おうとすると、尾形さんにぴしゃりと断られてしまった。
「必要ない。自分でやる」
「分かりました。どうぞ」
レンゲを受け取った彼は、生姜の佃煮をお粥に混ぜて不慣れな手つきで口に運んでいく。他人に面倒を看られるのが嫌なのか――何でもかんでも自分でやりたがるので、私も無理のない範囲で本人に任せている。些細な動作は、
機能訓練に繋がるのだ。
特に一ヶ月も床に臥せると体力は衰え、感覚も鈍ってしまう。一日でも早く回復して、師団に戻りたいはず。
「今日の午前中に先生の診察があるので、状態を診て機能訓練内容を決めましょう」
尾形さんは黙々と食事を続ける。お粥を半分程食べたところで、掠れた声でぼそっと不満を溢した。
「……もの足りねぇな」
「味ですか? それとも量ですか?」
「どっちもだ」
「量と味付けは先生からの指示なので……」
無言で食事を摂る尾形さんは、眉間に皺を寄せて不満げな顔をする。下顎が固定されているせいで喋りにくいため、表情で意思表示してくるようになった。
彼の看護を受け持って一ヶ月弱。無表情のように見えて、意外と表情豊かだと分かった。毎日顔を突き合わすからこそ分かる、微々たる変化なのだが。不満を言いつつもお粥を完食してくれたので、体力は戻りつつあるのかもしれない。看護日誌に書き記しておかなければ。
「今日の診察で、食事の件を先生に相談してみます」
「ああ、そうしてくれ」
ぶっきらぼうに言うと、尾形さんは私に背を向けてごろんと寝そべる。まるで、話は終わりだと言うように。
それから更に半月経ち、少しだけ寒さも和らいだ頃。日当たりの良い花壇に、芥子の苗木を植える作業に没頭していると、不意に真後ろから声をかけられた。
「土いじりというのは、熱中するほど楽しいもんなのか?」
猫のように音もなく現れた尾形さんは、患者衣にどてらを羽織っていた。右腕と顎に包帯が巻かれているから、余計に痛々しさが増す。
「あ、勝手に出歩いちゃ駄目ですよ!」
「病室に篭りっきりだと身体が鈍って仕方がない」
「雪で足元も悪いし、転んで怪我したらどうするんですか」
光が届かない暗い瞳孔が私を見下ろす。
そもそも、ここに運び込まれた時は死にかけていた。一ヶ月半しか経っていないのに、強靭的な回復力を以って歩き回れるほど回復してしまった。さすがは、北鎮部隊と恐れられる第七師団所属の軍人とも言うべきか。そこらの一般人に比べて、基礎体力が桁違いだ。
防寒バッチリの私ですら、数十分屋外にいるだけで身体が冷えているのだ。薄い患者衣の上にどてらを羽織っているだけでは、風邪を引いてしまうだろう。早く退院するためにきつい機能訓練に励んでいるのに、本末転倒である。私は自分の襟巻きを彼の首元に巻いてあげた。
「首元を冷やすのは良くないから。ほら、これで少しはマシでしょう?」
「あんたの世話になるのも悪くねぇな」
「……尾形さんって、実はお喋り好きですよね」
「はっ、暇潰しだ」
顎関節の機能訓練の効果なのか、口が開き易くなったのだろう。以前にも増して、今みたいに生意気な言葉を言われるようになった。多分、私を揶揄って遊んでいるだけかもしれない。
雪深い山奥で単独行動を取り、そこで何が起きたのか。尾形さんは軽口は叩くけれど、当時のことを口にしようとしない。下手に質問して警戒されると職務上困るので、彼の様子を見ることにしている。面会者も殆ど来ないし、特筆するものはないのだが。
「そいつは何の薬草だ?」
「芥子の苗木ですよ。尾形さんが拒否するモルヒネの原料」
私は、新芽が出たばかりの苗木を尾形さんに見せた。
芥子にもいくつか種類があり、モルヒネを多く含むものがある。未熟果実に傷を付け、分泌された白い乳液を乾燥させると黒く固まる。これがアヘンであり、単離するとモルヒネになる。
「この病院のモルヒネは、ここで栽培していたのか」
「これは病院で使用されているものとは別です。今後の軍需に備えて、まずはこの病院で試験的に栽培することになったんですよ」
「……ははぁ、
戦争中毒ってわけだ」
「戦争中毒?」
「何でもねぇよ。ただの独り言だ」
尾形さんは折れていない方の手で、少し伸びた髪を撫で付ける。
私はひたすら、得体の知れぬ暗い視線を背中で受け止めながら、苗木を花壇に植える作業を繰り返す。
「機能訓練のおかげで、口元が開き易くなって良かったです。でも、痛いのに痩せ我慢はだめですよ」
「痩せ我慢なんかしてない」
怪我で久しく動かせなかった顎や腕の関節は、治癒の過程で凝り固まってしまう。日常生活に戻れるよう機能訓練を施すのだが、硬くなった関節を動かすと当然痛みが発する。いつも無表情に近い尾形さんも、痛みに顔を歪めていることが多い。
その度に私は鎮痛薬として処方しているが、尾形さんは中毒性を盾にして絶対に服用しないのだ。
「モルヒネに冒された人間が最期どうなるか……俺よりも看護婦である名字サンの方が知ってるだろ?」
ごもっともなことを指摘され、私は押し黙る。先の戦争で負傷した兵士達の中に、モルヒネ中毒になってしまった者もいた。怪我の痛みを和らげようと、勝手に容量以上を摂取するのだ。依存性が高く、じわじわと蝕まれ最期は――。
「幻覚を見て、次第に頭がおかしくなる。あれでおかしくなった輩を何人も見てきた。俺はああなるのは御免だぜ」
「医師と看護婦の元、用法容量を正しく守れば中毒にはならないわ」
「新薬を試験的に投与されるのは、だいたい若者でそれが世の常だ。どうせ壊れるなら、俺は狙撃手として壊れたい」
そう吐き捨てる尾形さんから、ここにはもう用はないと言わんばかりに踵を返す気配がした。雪を踏む音が少しずつ遠ざかる。後ろを振り返れば、丁度尾形さんの背中が病院の中に吸い込まれて行くところだった。
戦場で共に戦った仲間には、夫婦よりも強い絆が生まれると聞く。死線を潜り抜けた戦友がモルヒネで狂ってしまう様は、命を預け合った仲だからこそ精神的にしんどいのだろう。もしかしたら、身近にモルヒネ中毒でおかしくなってしまった仲間がいたのかもしれない。今の言葉は、狂いたくない――とも受け取れる。魚の小骨が喉に刺さったような痛みに耽っていると、ふと首元が寒いことに気が付いた。
「あ、襟巻き持って行かれた……」
北海道に春はまだやって来ない。私は新しい包帯の束を持って、尾形さんの病室を訪れた。彼は病床で後座をかきながら、暇そうに外を眺めていた。今日はどんより雲が立ち込めている。午後から雪が降ってもおかしくなさそうな空模様だ。
包帯を取り、両顎の縫合痕の状態と噛み合わせを確認する。出来るだけ大きく口を開けてもらい、上下の歯並びを確認した私は、親指を口に突っ込んで両端を広げる。何か言いたげな視線を感じたが、あえて気付かない振りをした。
「奥歯を噛み合わせてイーッてして下さい」
尾形さんは大人しくされるがままだ。まさしく、借りてきた猫状態である。
「うん、噛み合わせも問題なし。縫合痕の腫れも引いてきましたね」
「……今のはいつまで続けるんだ。もう良いだろうが」
「先生が、完治と仰るまでです」
そう答えると、尾形さんはげっそりした顔を隠そうともしない。あからさまに嫌な顔をしても、残念ながら看護婦の私に治療を終わらす権限はないのだ。くるくると新しい包帯を尾形さんの頭から顎にかけて巻き付ける。
「そうだ! 暇潰しにと思って、本を持って来ました。また勝手に出歩かれると困るので。気になるものがあれば、好きに読んでください」
病床脇の机に数冊の文庫本を置くと、興味をそそられたらしい尾形さんはそれらを一冊ずつ物色する。要らないと言われなくて良かった。
「尾形さんの好みが分からなかったので、適当に選びました」
「ほぅ、トルストイか……。しかも翻訳されていない原文のものだ」
無骨な手にあるのは、ところどころ擦り切れて色褪せた一冊の本だった。
尾形さんはパラパラとページを捲る。いつもの私なら、「尾形さんはロシア文学に造詣が深いのですか?」と切り返すことが出来るのだけど、迂闊にも私と第七師団を繋ぐ可能性がある物を一緒に持って来てしまった事実に狼狽えて、上手く返す言葉が浮かばない。
「ただの看護婦がロシア文学を嗜むとは思えん。お前、本当に看護婦か?」
心の内を暴こうとする凶悪な視線が投げられる。尾形さんに信用されていないのだと、つくづく実感する。
「やだな、そんな怖い顔しないで下さい。私はロシア語なんて読めません。それは兄が士官学校時代に勉強したもので、お気に入りだった本です」
「お気に入り
だった?」
「……兄は戦死しました」
淡々と、事実だけを告げた。
戦争で家族を失った。満州の地に散った家族を想い、日本各地で盛大な公葬が執り行われた。その頃私は、東京の陸軍病院に詰めていたので、旭川の実家に戻ることは出来なかった。
墨を流し込んだ紋付着物に袖を通した母親達が、真新しい骨壺を手に持ち、小さな子供と共に俯き加減でぞろぞろと帰路に着く様は痛ましく映った。私はその様子を病院の窓から眺めながら、故郷で公葬に参列した母の姿を見たような気がした。
「どこの所属だった?」
「……東京第一師団で、少尉として指揮していたそうです」
「ならば、戦場で会っていたかもしれんな」
「すみません、しんみりしちゃいましたね」
尾形さんはそれっきり一言も発することなく、古びた文庫本を机に置いた。ひょっとしたら、読書する気が失せてしまったのかもしれない。
四人部屋の病室は、尾形さん一人が使うには広くて――酷くがらんとしている。普段は沈黙してもさして気にならないのに、今だけはどうしても耐えられなかった。尾形さんは気が向くとお喋りに興じるけれど、普段は大人しくて何を考えているか腹の底が読めないのだ。暗くて底が見えない瞳。私のことを無遠慮に探るような視線が肌に刺さって痛い。疾しい気持ちが渦巻いて、絡め取られそうだった。
上手く誤魔化せただろうか。ふと、一抹の不安が胸に広がっていく。黒い瞳に呑み込まれる前に――軽く会釈してから病室を後にした。あのまま病室にいたら、帰るべき場所に帰れなくなりそうだった。
夜も深くなるにつれて雪が散らつき始めた。宿直担当の私は洋燈を持って、病院内で異常がないか見回りをする。しんと静まり返る廊下に、コツコツと自分の足音だけが響く。洋燈が煌々と照らすのは数十歩先。心許ない灯りの外側は、真っ暗闇がどこまでも続く。
幽霊やお化けの存在は信じていないけれど、こうも静かだと得体の知れぬ何かが飛び出して来ても、おかしくないと想像してしまう。寝静まっている患者の病室を一つずつ見て回る。尾形さんの病室も確認すると、寝息が聴こえて来たので静かに引き戸を閉めた。
戦争終結直後に比べたら、今はさほど患者数が多くない。怪我を癒すため、退院した兵士達は登別温泉で療養していると聞く。時間を割くこともなく、見回りを終えることが出来た。
「今夜も病院内は異常なし、と」
当直日誌に書き記し、懐中時計を確認すればそろそろ出なければならない時間だった。私は手短に支度をして、粉雪がちらつく夜へ飛び出す。
誰かに顔が見られないよう、頭に被ったスカーフを念入りに抑えながら小走りで大通りに出ると、人力橇に乗り込んだ。
※
「こんばんは」
「よく来た。待っていたよ」
着流しの上から黒の肋骨服を羽織った、鶴見中尉が出迎えてくれた。ここは小樽市内にある中尉の別宅である。夜遅くまで起きて、私が来るのを待ってくれていたのだ。
「夜分遅くにすみません、鶴見中尉殿」
「身体が冷えてしまうといけない。さあ、早く上がりなさい」
鶴見中尉は私に、上がるように促す。火鉢で暖められた部屋に通された私に、中尉が唐突に尋ねて来た。
「名前さんは甘いものは好きかね?」
「はい、好きですけど……?」
きょとんとしたままの私を置いて、中尉が座敷から退出する。お構いなく、と声をかける暇は与えてくれなかった。
手持ち無沙汰なので凍えた両手を火鉢で温めていると、鶴見中尉はお茶請けとして艶やかなみたらし蜜の串団子を持って来てくれた。湯呑みに温かな緑茶が注がれ、食べるよう勧められる。
「小樽名物の花園公園団子だ。是非名前さんにも食べて貰いたい」
「あの……、わざわざ私のために用意してくれたんですか?」
正面に座る鶴見中尉は、にこりと笑うだけ。言葉にせずとも、簡素な仕草一つで十分だった。ただの看護婦一人のために、将校様に手間を取らせてしまった。
「私はこれが好物でね、時々無性に食べたくなるんだ」
そう言って美味しそうに団子を頬張る鶴見中尉に、私の緊張も少しだけ解けた気がした。
「頂きます」と一声かけてから、私も同じように団子を一口食べる。甘い蜜が口の中に蕩けて広がり、疲れた身体に染みた。
やっと、帰るべき場所に帰って来られたような気がする。
「やはり夜遅くに食べる甘味は罪の味がすると思わんかね?」
「ふふふ、分かります。何だか悪いことをしている気がします」
他愛ない世間話から会話が始まり、病院内での芥子栽培や私の身の回りについて報告する。中尉は、芥子の花とアヘンが齎す重要性を淀みなく説いた。
戦争中毒。アヘンの話を聞いて、どこかで聞いたような単語がふと蘇る。
あれは確か――。
「尾形上等兵の様子はどうだ?」
脳裏に尾形さんの姿が過ぎったのと、中尉の問いかけは同時だった。疑念が頭をもたげかけるが、ここに来た本来の目的を果たすべく頭を振る。
「怪我は順調に回復しています。顎や腕の機能訓練も真面目に取り組んでますし、最近では身体が鈍ると言って、目を離した隙に病院内を歩き回って困ってるところです」
「尾形の元を尋ねる輩はいるか?」
「尾形さんの意識がしっかり戻ってからは、二階堂一等卒殿が面会に来ました。席を外してくれと頼まれたので、彼らが何を話したのか分からず尾形さんを探ろうとしても、私はまだ信用されていないようです」
「……ふむ、なるほどな」
「すみません。思ったよりも時間がかかってしまって」
「いや、構わん。尾形は中々に手懐けるのが難しい男だ」
目の前にいる鶴見中尉は、お皿に残ったみたらし蜜を団子に絡める動作を繰り返している。何やら考え事をしているようだ。この人はいつも数歩先――それこそ数十歩先を見ている。脳内でいくつかの仮定を組み立て、起こり得そうな結果を何通りも再現する。私なんかが想像すら出来ないことを、思案しているのだ。
暫く黙ったままの鶴見中尉だったが、おもむろに口を開いた。
「引き継ぎ尾形の監視を続けるように。奴を泳がせて残りの造反者を炙り出す。玉井達が行方不明な今、面会を口実に接触しに来るはずだ」
「……伍長殿に何かあったのですか?」
「数日前から山に行ったきり、困ったことに行方が知れんのだ」
口ではそう言うものの、本音は困ってなさそうだった。
寧ろ造反組を叩き潰す絶好の好機と捉えている節を隠そうともしない。鶴見中尉は私の手を軽く握り、一番欲しい言葉をくれた。
「私には名前さんの力が必要なのだ。この計画を進める上で、なくてはならない」
「鶴見中尉殿――、」
「戦死した兄君の遺志を継げるのは、名前さん……貴女だけだ」
「兄上は鶴見中尉殿の元で、どんなことをしていたのですか?」
「ふふふ……、知りたいか?」
「はい、もちろん」
光のない瞳は笑っていなかった。
鶴見中尉は先の戦争で前頭葉の一部を損傷して以降、葫蘆製の大きな額当てをするようになった。向かい傷は武人の勲章と言い放ち、誇らしげにしているきらいすらある。
「おっと、失礼」
眉間からドロリと変な液体が漏れ出し、中尉はそれをハンカチで拭う。その行為が異様な出立ちに拍車をかける。今の私の質問で、何かしら感情が昂った証拠である。
「……もう夜も遅い。次来た時に、兄君の話を聞かせてあげよう」
そう言われてしまえば、私は従う他ない。
亡くなった兄の面影を追う。第七師団でどんな生活をしていたのか、中尉の口から在りし日の兄を知りたい。
だから私は、皿に残った串団子を口に運ぶ。甘い蜜が唾液腺を刺激して、口の中で弾けた。鶴見中尉が施す甘美な言葉は、まるでこの串団子そのものだと思う。
人を惹き付けて離さない何かがある。それは、尾形さんにも同じように言えるかもしれない。底が見えない闇色。何を考えているか図れない瞳はとても蠱惑的で――それでいて怖い。甘くてとろみのあるみたらし蜜が団子に絡まる。その甘美な舌触りを味わいながら、私は尾形さんの暗い瞳を掻き消すように団子を飲み込んだ。
愛と矛盾の美しい食卓