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近所に住む小芭内君は、昔から周りと仲良くしようとしない。クラスメイト達とは一線を引いているような、そんな感じだった。
私が彼と初めて会ったのは、小学校の入学式。左右色の違う両目が、ビードロみたいに煌めいてとても綺麗だったのを今でも覚えている。広い教室で小芭内君は他の子供達と一切馴れ合わず、いつも一人で本を読んでいた。勉強も出来て、運動もそこそこ出来る。
口を開くと、静かな物言いで理路整然と意見を述べる。その内容が余りにも正論過ぎて、いつも反論出来ずに皆が歯噛みする。
つまるところ、彼のそういった言動が近寄りがたい雰囲気を作っていた。小芭内君に悪気は無さそうだった。友達は小芭内君のことを、ちょっと怖いと言う。だけど私は、小芭内君を怖いとは思わなかった。

休み時間を殆ど読書で過ごす小芭内君は、たまに外の景色を眺めていることがある。何かに縋るような、寂しそうな顔をして。時折、優しそうに微笑むように外を見ているのだ。その姿が、彼を同い年の男の子より大人びて見える所以だと思う。
初めは特に気にしなかったのだけど、色の違う双眼で眺める景色は、一体どんな風に映るのだろう? ふと、そんなことが気になってから目が離せなくなっていた。
目の前に広がる校庭。校庭に沿って植っている桜の木々。子供達が楽しそうに遊んでいる遊具。
きっと彼が見ているのは、それらではない。どこか目に見えない別の場所を見ている。そんな気がした。
その瞳には何が映っているのだろう? 何を見て、どんなことに想いを馳せているのだろう?

「たまに外の景色を眺めてるけど、いつも何を見ているの?」
「……っ、何だって良いだろ。君には関係ない」

私が声を掛けると、彼はぶっきらぼうに言い放った後どこかに行ってしまう。
いつも冷静な彼が珍しくも感情を露わにする。彼の人間らしい部分を垣間見れて、私は小芭内君に話し掛けるようになった。

「小芭内君! 一緒に帰ろ!」
「……何故そんなに俺に構う?」
「私は小芭内君と仲良くなりたいだけだよ! それじゃ駄目かな?」

彼が私と言葉を交わしてくれるまで、数年掛かった。
今思えば、何かと構って来る私に小芭内君が折れてくれたのだと思う。恐らく、無視しても無意味だと思ったのだろう。ある意味私の粘り勝ちみたいなものだ。

「名字は、鬼殺隊を知っているか? 時代劇のように刀を差して、鬼を葬る組織のことを」
中学校の修学旅行の夜のことだった。私は楽しい一日を過ごし、ワクワク感に浸ってどうしても寝付けなかった。
少し、気分転換しよう。すやすやと穏やかな寝息を立てる友達を起こさぬよう、私は忍び足で部屋を出る。カチャリ。静かに閉めた筈なのに、ドアの音がやたら大きく響いた。
消灯時間はとうに過ぎている。部屋を抜け出す不届きな生徒がいないか、先生達が見回りをしているかもしれない。別に疾しいことをするつもりは毛頭ないのだけど、悪いことをしているような気がして、ちょっとドキドキした。

ひたひたと忍び足で渡り廊下を歩く。豆電球が点いたロビーに行くと、既に先客がいた。小芭内君だった。
どうやら悪夢を見たようで、眠れずに部屋から抜け出して来たらしい。そして、唐突に鬼を葬る組織のことを質問されたのだ。
鬼? 桃太郎や一寸法師とか昔噺に出て来る鬼のことだろうか? 鬼といえば、大江山の酒呑童子の話も有名だ。兎も角、小芭内君の質問の意図が全く解らない。珍しいこともあるんだなと、思った。
すると、彼は静かな口調で悪夢の内容をぽつりぽつりと――呟くように話してくれた。
その内容は余りにも哀しい物語だった。

その昔――人喰い鬼が闇夜を闊歩していたそうだ。小芭内君は、“鬼殺隊”という組織に所属しており、毎夜人喰い鬼を狩っていたという。鬼の始祖を葬るために、刀を振い続けたそうだ。
彼曰く、鬼殺隊は政府非公認の組織だったため、歴史の闇に葬られたらしい。確かにそんな話は私も一度だって聞いたことがないし、学校の授業でも習ったことがない。
人が人を忘れる順番。一番最初に忘れるのは声、次に顔。最後に匂いだとどこかで聞いたことがある。だけど小芭内君は、夢に出て来る人物達の声はおろか顔は勿論のこと、風景や血の臭いまで全て憶えていると言う。

どんなに思い出そうと頭を捻っても、私には思い当たる節が全くなかった。手繰り寄せた一番古い記憶は、せいぜい四歳くらいのもので、しかも明確にはっきりと覚えていない。突然の独白に驚きはしたものの、小芭内君が余りにも真剣で――そして、辛そうに語るから。私に出来ることは、ただ話を聞くことだけ。

「鬼を殺す組織? 残念だけど、私にはそんな記憶ないよ」
「……そうか」

それだけぽつりと呟いてから、今言ったことは忘れてくれと言われた。彼が少し寂しそうな顔をしていたのは、今でも覚えている。
血生臭い日々の中で、唯一心安らかになれる時間もあったらしい。小芭内君が記憶を頼りに、当時よくご飯を食べたという場所へ一緒に行ったこともある。
何より、私は彼が心配だったのだ。到着した場所は四方をオフィスビルに囲まれており、幹線道路には多くの車が行き交っていた。

「ここだ……っ、ここに間違いない!」
「……お、小芭内君。だけど、あそこ道路だよ……?」
「……っ、」

小芭内君が夢で見た景色は、どこにも残っていなかった。彼は迷子の幼子のような瞳で、幹線道路を茫然と眺めていた。
私は漸く合点がいった。彼は幼い頃からずっと――今ではなく、過去を生きている。その色違いの瞳に映るのは、在りし日の記憶なのではないかと。

「小芭内君、小芭内君」
学食で、私はぼんやりした幼馴染の名前を呼んだ。
「な、何だ、名字」
「大丈夫? また考え事?」
「……いや、平気だ。気にするな」

時折、小芭内君は過去へ行ってしまう時がある。
きっと前世に、何か大事なものを置いてきてしまったのかもしれない。あなたが生きるのはここだと――私は彼に戻って来るように呼び掛けるのだ。
今日はお互い午後の授業はないから、一緒に途中まで帰ることになった。
ゼミのこと。バイトのこと。飼い犬のこと。そして、小芭内君が飼っている鏑丸のこと。何の変哲もない会話を繰り広げて、少しでも小芭内君がここに留まってくれたら良いな――なんて。
そんなことを思っていたら、定期券を落としたことに気付いて、結局小芭内君に迷惑を掛けてしまった。交番にも駅にも定期券は届けられていなかった。
ドがつく程の正論をネチネチ言われる。私は、昔から小芭内君に口で勝てた試しがない。きついことを言うが、心配の裏返しだと解っている。
もし明日も見つからなかったら、再発行しておけと言ってくれたのが何よりの証拠だ。

翌日。気を取り直して駅前の交番に行ってみたが、空振りだった。
「定期券? 残念だけど、そんな落とし物は預かってないね」
「そうですか……」
御礼を言い、再発行でもするかと交番を後にしようとすると、入れ替わりで一人の女性がやって来た。
「あの、落とし物を届けに来ました」
鈴を転がすような軽やかな声だった。女性が差し出したものを見れば――。

「あ、それ! 私の定期券です!」
「まあ、そうなの? 良かったわぁ!」
「あの、どこに落ちてたんでしょうか?」
「改札を出た階段の隅っこにあったの。もう落としちゃ駄目よ」

そう言って彼女は、私に定期券を渡してくれる。交番を後にして、私達は互いに自己紹介をした。
桜餅色の髪とミントグリーンの瞳の女性は、甘露寺蜜璃と名乗った。とても柔らかく笑い、ふわふわした優しい雰囲気の子だ。

「ありがとうございます、甘露寺さん。これを拾ってくれた御礼をさせてください」
「あら、そんなに気を使わないで良いのに」
「この間定期券を更新したばっかりだったから、すごく助かりました。御礼をしないと、私の気がおさまりません」
キョトンとした顔をした後、にっこり微笑む甘露寺さん。
「……名字さんがそう言うなら、お言葉に甘えちゃおうかな」
私達は連絡先を交換をする。甘露寺さんがずっと気になっていたペットカフェで、後日お茶をする約束をしたのだった。

定期券が見つかったことを、小芭内君に報告しないと。飼い犬の御飯も無くなって来たから、丁度良い。
私は彼のバイト先であるペットショップに赴くと、小芭内君は蛇の世話をしていた。話の流れで、定期券を拾ってくれた人とお茶をすることを話せば、顔を顰められた後お小言を言われてしまった。
売り言葉に買い言葉。見ず知らずの相手ならいざ知らず、甘露寺さんとは一度だけ会っている。
見た感じ年も近そうだし、小芭内君が言うような悪い人にはどうしても見えない。深い溜息を吐かれて、お人好しも大概にしろと言われちゃったけど、やっぱり解せない。ムキになったものの、結局小芭内君には口で勝てる訳もなく。私は悶々としたまま、ドッグフードが入ったビニール袋を持ちながら帰路に着いた。

甘露寺さんとお茶をする当日。私達は、ペットカフェの前で合流した。中に入ると、店員さんに席へ通される。「ここのカフェ、実は前から気になっていたのよ」
「爬虫類をメインにしたカフェなんですね。私も初めて来ました」

きょろきょろと店内を見渡す甘露寺さん。
店内は古民家風にリノベーションされていた。和洋折衷な雰囲気、と言えば良いだろうか。
それぞれの木製のテーブルの上には、可愛らしい花が一輪生けられており客席に彩りを添える。私達の席には、ピンク色の花が花瓶に生けられていた。何の花か解らなかった。
ショーウィンドウを兼ねる窓からは太陽の光が差し込み、店内を明るく照らす。その周りにケースがあり、そこに蛇やトカゲをはじめとした爬虫類がいた。それぞれの客席付近にも小さなケースは置かれているので、わざわざショーウィンドウの方まで行かずとも、近くで見ることが出来る。

「わあ、美味しそう! どれにしようか迷っちゃう」
メニューをパラパラとめくりながら甘露寺さんが、ほぅと感嘆の息を吐いた。
和洋折衷な雰囲気にぴったりな甘味が沢山載っていた。抹茶やほうじ茶などの御茶系のケーキは勿論、羊羹やわらび餅に葛切りに、口に入れるのが勿体ない位の和菓子まである。

「御注文はお決まりですか?」
店員さんがやって来たので、私は玉露の抹茶ケーキセットを頼んだ。すると甘露寺さんはメニューを眺めた後、私の方へ目配せする。
「私、沢山食べちゃうけど大丈夫かしら?」
「気にせず食べたいもの食べて下さいね」
そう言えば、甘露寺さんはホッとしたようで店員さんに注文し始める。彼女が言う『沢山食べる』という意味を目の当たりにした私は、ちょっと――いや、大分びっくりしてしまった。

注文したスイーツを美味しそうに、そして幸せそうに口へ運ぶ甘露寺さんと色んな話に花を咲かせた。
住まいや大学で何を専攻しているのか。どんなバイトをしているのかなどなど。甘露寺さんは芸術大学に通っており、私と同い年だと判明した。更に親近感が湧く。
甘露寺さんはとても話しやすい。私も誰かとお喋りするのが好きなので、一時間程度ですっかり打ち解けてしまった。定期券を拾ってくれただけなのに、まさかこんなに話が盛り上がるとは。

「名前ちゃんって呼んで良いかしら? 私達同い年だし、敬語はなしにしましょ」
「じゃあ私も、蜜璃ちゃんって呼んで良いかな?」
「嬉しいわ! 勿論よ」

甘露寺さん――もとい蜜璃ちゃんは、わらび餅をぺろりと平らげてからお茶でお口直しをした後、黒蜜たっぷりの餡蜜に舌鼓を打つ。本当に良く食べるなぁ。

「蜜璃ちゃんは、蛇とか爬虫類が好きなの?」
席から近いケースへ視線を向ける蜜璃ちゃん。ケースの中には一匹の小さなヘビが細い舌を出しながら、とぐろを巻いてこちらを見ている。私は、小芭内君が飼っている鏑丸をふと思い出した。

「蛇を見ていると、子供の頃から心が落ち着くの。飼ったことないんだけど、きっと蛇が好きなのかも」
「確かに、動物見ていると癒されるよね。私も飼い犬と戯れ合ったりすると、気持ちが和むっていうか」
「えー! 名前ちゃん犬飼ってるの?」

写真見せてと言われたので、スマホにある飼い犬の画像を見せた。可愛いわと、にこにこと朗らかに画像を眺める蜜璃ちゃんを見て、私も何となく優しい気持ちになる。
お店に入ってからいつの間にか二時間程経っていた。楽しいと時間はあっという間に過ぎる。伝票を持って御会計へ行こうとすると、呼び止められる。

「待って、名前ちゃん」
「どうしたの、蜜璃ちゃん」

左右の眉を下げて慌てる蜜璃ちゃんの目の前には、積み重なったお皿や器が並んでいた。おまけに全てが綺麗に空になっている。目の前で美味しそうに頬張る姿を見せ付けられると、一周回って見ているこっちが気分良かった。
蜜璃ちゃんは、エイッ! と一声出して私の右手から伝票を取ってしまう。その行動に思わず呆気に取られる。

「私が沢山食べちゃったのに、貴方が私の分まで払うなんて駄目よ」
「でもそれじゃあ、御礼の意味が……」
「ふふふ、その気持ちだけで十分よ」

何度か押し問答をしたが、蜜璃ちゃんは自分が食べた分はちゃんと自分で払いたいと譲らなかったので、御会計は別会計になった。
「今日はありがとう。とっても楽しかったわ! また会ってくれる?」
「勿論! こちらこそまた会って欲しいな」
私がそう言うと、蜜璃ちゃんはふわりと笑った。

それ以降、私達は時々お茶をしたりご飯を食べに行ったりするようになった。蜜璃ちゃんの自宅にお邪魔して、蜂蜜をたっぷり掛けたホットケーキを作ったりした。
最近小芭内君とは大学の講義時間が合わず、中々会えない。元気かなと思い、トークアプリで連絡をしてみたのだけど、既読が付いただけで特に返信はなかった。
元々返信不精なところがあるので、あまり気にならない。ゼミやバイトで忙しいのかもしれないと思いつつ――もしかしたらまだ怒っているのかもしれない、と思ってしまう私もいる。

そんな感じの毎日を過ごし、私は目の前で大きなトンカツ丼を食べる蜜璃ちゃんを眺めていた。
今夜はバイト終わりに、彼女オススメの居酒屋に連れて行ってくれたのだ。時刻は二十一時。まだまだ夜は長い。店内は仕事帰りのサラリーマンやOLは勿論、大学生らしき人達で満席だ。日頃の疲れを癒すように、楽しく談笑している。

「はあぁあ、生き返る」
「名前ちゃんったら、おじさんみたい」

バイト終わりに飲むお酒は、冷たくて美味しい。ジョッキが空になったので、店員さんにハイボールを注文する。既に何本目か解らない。
蜜璃ちゃんはお酒を少しだけ嗜んだ後、御飯物や麺類メインを食べていた。見た目によらず、蜜璃ちゃんは大食漢だ。その食べっぷりに、初めの内は感心しながら眺めていたが、気が付いたらそれが当たり前の光景になっていた。慣れって怖いかもしれない。
今日は二つの大きな丼物を一人で綺麗に完食。次にホッケの塩焼きを美味しそうに頬張っている。注文したハイボールを呑みながら、私は彼女の食べっぷり眺める。すると、蜜璃ちゃんはおもむろにぽつりと言葉を零した。

「ふふふ、名前ちゃんとご飯食べると懐かしい気がするの」
「……懐かしい?」
「どうしてかしらね? ねぇ、名前ちゃんは前世を信じたりしてる?」
「前世……」

ふと、小芭内君のことが頭に過ぎった。
私には前世の記憶らしいものは一切ない。きっと、世の中の大半の人がそうだ。子供の頃から、前世の記憶がある小芭内君と一緒に育って来た背景もあり、私にとって前世の記憶というのは、あながちあり得ないとは言い難い。
多分、小芭内君がいなければ――私だって自分の目で見たことも、感じたこともない不確かなものは信じなかっただろう。
小芭内君は、今も前世の中で生きていると思う。彼の両目に映る景色は『今』ではなく『過去』なのだ。本人にはそんなこと言わないけど、きっと彼にとって大事な記憶だから忘れたくないのかもしれない。否――忘れられないのかもしれない。

「私にはそういった記憶は全くないんだけど、前世の記憶を持って生まれ変わるってこと、あると思うよ。蜜璃ちゃんはそういう記憶があるの?」
「私も前世の記憶ってよく解らないの。きっと、産まれる時に置いて来ちゃったから、憶えてないのよね。でも、こうして誰かと一緒に御飯を食べる幸せを、ずっと前から……それこそ、自分が産まれる前から知っていた気がするの」

大きな瞳から涙をぽろぽろ零しながら、グスッと鼻を啜る蜜璃ちゃん。ごめんなさい、久しぶりにお酒を飲んだから少し酔っちゃったかもしれない、と言いながらも彼女の涙は止まらない。

「大丈夫? どこか痛むところある?」
「痛いところ……そうねぇ、ここ――かな」

そっと手を添える場所は左胸。そこは心臓が鼓動している。心が痛いんだなと、彼女が言いたいことがすぐに解った。
「名前ちゃんと御飯を食べていると、何だかすごく大事なことを忘れている気がするの。いつも美味しい御飯が、もっと美味しいってことを、私が知らないもう一人の『私』が知っているんじゃないかしらって……」
「蜜璃ちゃん……」

何と声を掛けて良いか解らなかったから、無言でハンカチを渡すことしか出来なかった。
私には前世の記憶がないから、蜜璃ちゃんが泣いている理由を理解してあげることは不可能なのだ。小芭内君が過去の記憶に縛られていても、私には何も出来ないのと同じで。

「だから、ふと思ったの。前世で何かしら約束をした人がいたして、その人と今世で出会えたら……」
目尻にたまった涙の粒を指で拭った蜜璃ちゃんは――酔いがまわり頬が少し蒸気しているせいか、いつも以上に艶やかに――美しく微笑んだ。

「とっても素敵だと思わない?」

もどかしい。私に何か出来ることはないだろうか? 大したことは出来ないのも解っているけれど、せめて。そんなことを思っていたら、勝手に口が開いた。

「あのね、蜜璃ちゃん。貴方に会わせたい人がいるの」
「私に? あら、誰かしら?」
蜜璃ちゃんは目をパチパチと瞬かせた。

※※※

「良いから、私に着いて来て」
「着いて行くも何も……一体どこに行くつもりだ?」

俺と名字は、朝から無意味な押し問答を続けている。
先週。久しぶりに学食で会った彼女から、唐突に予定を聞かれてから一週間経った。待ち合わせ時間だけトークアプリに送信されて、言われた通りに最寄駅に来てみたは良いものの、肝心の目的地を教えてくれない。
一体何のつもりだと問えば、名字は行けば解るとしか言わない。ガタゴトと電車に揺られながら、過ぎ去る車窓からの風景を眺めていれば、成り行きに任せてみるのも有りな気がして来た。すると、ぽつりと呟くような声がした。

「小芭内君に会って欲しい人がいるの」
「……会って欲しい人?」

なら最初からそう言えば良いものを。その相手とは誰なんだ、とは聞かなかった。
質問したところで、隣に座っている彼女から返答が来るとは思えない。何も教えてもらえないまま、電車に揺られている状況を考えれば、その可能性は高い。俺は諦めて、大人しく名字に着いて行くことにした。

改札を出て道に沿って歩く。初めて来る場所だが、幼馴染は地図アプリを確認することなく進む。
暫く歩くと、薄紫色の小さな花々が咲き誇る藤棚が目の前に現れた。頭上の棚に蔓を巻き付け、下へ枝垂れるように咲いている様は、清楚でありながらも華やかさを醸し出している。
この光景には見覚えがあった。鬼を山の中に封じ込めるために、一年中藤花が狂い咲くあの山である。ほんの少しだけ過去に思いを馳せた後、名字は藤棚の奥の方にいる人物へ声をかけた。

「おまたせ! 蜜璃ちゃん」
「名前ちゃん」

女性がこちらに手を振っている。
鈴を転がしたような軽やかな声に、心臓がトクンと震えた。ずっと、ずっと聞きたくて仕方なかった彼女の声を聞き間違える筈がない。
目の前には心から求めてやまなかった彼女が――百年前と何ら変わらない――桜餅色の髪をざっくりと三つ編みで纏めた女性が立っていた。
懐かしくて愛おしい記憶が溢れ出し、感嘆の息を漏らす。先日の夜、ペットカフェのショーウィンドウ前にいた女性こそが、彼女だったのだ。
名字に手招かれ、俺は自分が立ち止まっていたことに気が付いた。

「初めまして。甘露寺蜜璃です」
百年前。初めて出会った時と変わらない笑顔で、自己紹介をする甘露寺。

『伊黒さん、あのね……』

当時の彼女の姿が一瞬だけ折り重なり、太陽の光に消えていく。目の前でにこにこと微笑む甘露寺は、俺のことをどうやら憶えていない様子に、少しだけ切なさを覚えてしまう。
否――また一から関係を築いて行けば良いのだ。あの頃と違って、時間は沢山あるのだから。

「初めまして。伊黒小芭内です」

どのような経路で名字が甘露寺と出会ったのかはさておき、今は百年後の奇跡の再会に浸っていたい。
さあっと夏の匂いを運ぶ風が、藤の花の下を駆け抜けた。

初めまして、世界
- ナノ -