/ / / /

【注意書き】
※おばみつ+夢主のお話です。(キメ学じゃない現パロ仕様)
※伊黒さんの過去含め、最新話のネタバレがありますのでネタバレが嫌な方は閲覧をお控え下さい。
※話の構成上、伊黒さんと蜜璃ちゃんは互いに関わりはありませんが、最終的におばみつエンドになります。










鬼舞辻無惨を斃して死ぬ。それでこの身に諾々と流るる、汚れた一族の血が浄化されるのであれば俺は構わなかった。だから俺は、君の柔らかな笑顔に応えてあげることは出来ないんだ。
柔い木漏れ日が世界を照らす、鬼のいない平和な時代。誰も傷付くことのない、慈しみに溢れた温かい世界で。
もしも。もう一度人間に生まれ変われたなら。
俺は、君に――。



「ここ、空いてるよね?」
昼時の学食は活気溢れている。食材を切り刻む単調な音。火をつけて調理する音に混じる油の匂い。九十分の退屈な講義から、開放された学生達が次々とやって来る。
楽しげに談笑する声と食器同士が擦れる音。静かに昼食を摂りたい俺にとって、好ましいとは言い難い時間。もう少し早めに昼食を摂れば良かった。そんな些末な後悔を水で流し込んでいる時だった。顔を確認するまでもない、聞き慣れた声がしたのは。

名字名前。彼女は近所に住む幼馴染で、最早腐れ縁と言っても差し支えない程、既に人生の半分を過ごしている。名字は俺の返事を待つこともせず、さも当たり前のように前の席に座った。
親子丼の出汁の香りが、ふわっと香る。

「……おい。まだ了承していないのに、勝手に座るな」
「小芭内君が何も言わないのは、OKの意味だって解ってるから」

両手を合わせて、頂きますと一声かけた彼女は、熱々の親子丼をレンゲで掬い美味しそうに頬張る。こうも目の前で幸せそうに御飯を食べる姿を見てしまうと、抗議するのも馬鹿馬鹿しくなる。

「誰かさんのせいで寝坊しちゃったから、朝ご飯食べる時間なくって。お腹ペコペコだったんだから」
「また寝坊したのか。相も変わらず、弛んでるぞ」
「だから昨日、モニコしてって頼んだんじゃない!」
「大学生にもなって自分で起きられないお前が悪い」

そうか。わざわざここに来たのは、俺が朝起こさなかったことへの当て付けか。
これ見よがしに大きな溜息を吐いてやる。憎まれ口を叩いているとは言え、お腹いっぱいになれば、彼女の怒りが消えてしまうのも折り込み済みだ。
案の定、さっきまでぷりぷり怒っていた癖に、打って変わって親子丼に舌鼓を打って幸せそうである。現金な奴だと思う反面、美味しそうに食事をする名字の姿にチリッと胸に小さな痛みが走る。やり場のないもどかしさと、物悲しくなる程の懐かしさが募っていく。

手放すのが名残惜しい。既に両手で数え切れない程、何度も。何度も。俺は、愛惜の念に駆られた。『俺』はこの光景が何よりも好きだった。そう――、大事だったのだ。

劣悪な環境下で育った『俺』は、食べ物の臭いが大嫌いだった。じめじめした薄暗い地下牢は、いつも澱んだ脂の臭いがした。やがて空気中の黴と混ざり合って酷い悪臭となり、地下牢全体にこびり付く。息をするだけで肺が膿む。食べ物を目にするだけで、吐き気を催すから厭だったのに。
何の皮肉か解らないが、君と一緒に食事を囲むのは不思議と厭じゃなかった。忌々しい業を背負わされた当時の『俺』が、何よりも心穏やかに過ごせた貴い時間。

俺には前世の記憶がある。前世と言い切って良いものか解らないが――そもそもそう言わないと、自分の記憶よりも更に古い記憶の断片の正体に説明がつかない。
最初に見た記憶は、まるで時代劇に出て来る侍よろしく、腰に差した刀を異形の化物へ一太刀浴びせた場面だった。目が覚めても、肉を斬って骨をも絶つ感触が生々しく両掌に残っていた。毛穴から冷や汗が滝のごとく溢れた。
その日を境に、羽織を着た『俺』が化物の首を刎ねる夢を何度も立て続けに見た。幼い俺にとって、化物を殺す夢は恐ろしかった。
気味が悪い。布団を頭まで深く被り、ガタガタと震える事しか出来なかった。手の感触だけでなく、鼻腔の奥にまで血生臭い臭いで溢れ――夢にしては余りにも現実味を帯びていた。

その内、あの悪夢が自分の前世の記憶なのではないか――そう思うようになったきっかけは、小学校の給食の時間。
それぞれの班ごとに机を向かい合わせにして、目の前で名字が御飯を食べる姿を見た時である。
美味しそうに御飯を頬張るその姿が、似ていたのだ。

『伊黒さんと食べる御飯が一番美味しいの。だって伊黒さん、すごく優しい目で私のこと見ててくれるんだもん』

ハッとした。底抜けに明るくて優しい君のことを、何故忘れていたのだろう。鈴を転がすように笑う姿に、何度心穏やかになったことか。
甘露寺と一緒に過ごした時間は、五十人分の怨嗟の手が身体中に纏わり付いた『俺』が、普通の青年になれた唯一の時間だったんだ。
もしかして。名字は『俺』が恋焦がれている甘露寺なのか。もし、そうだとしたら。

中学校の修学旅行にて、悪夢で眠れぬ夜のことだった。部屋を抜け出すと、旅館のロビーに名字がいた。どうしても眠れなくてと、罰が悪そうに笑っていた。俺は名字に確かめたくて、今まで見た悪夢を全て彼女に吐露したのだ。

「名字は、鬼殺隊を知っているか? 時代劇のように刀を差して、鬼を葬る組織のことを」
「鬼を殺す組織? 残念だけど、私にはそんな記憶ないよ」
「……そうか」

心に灯った一縷の希望。淡い期待は、泡沫の如く呆気なく夜の闇に呑まれて消えた。だけど彼女は、俺の話に横槍を入れることも、気味悪がることも、ましてや笑い飛ばすこともせず――ただずっと真剣に聞いてくれていた。

冷静になって考えてみれば、名字と『俺』の記憶にある甘露寺には、多少違和感というか釈然としない感じがあった。とは言っても、どういう所が違うのか上手く言葉で表せられないのだが、例えば話し方、御飯の食べ方。喜怒哀楽の表現や指先の動かし方や仕草一つ取っても、似ているようで似ていない。
他人の空似という言葉が一番近しいだろう。俺は密かに、幼馴染を甘露寺候補から消去した。

甘露寺と二人でご飯を食べに行った場所は、不思議と鮮明に憶えている。そこに行ったら何か変わるかもしれない。何となくだが、漠然とそんなことを思った俺は、記憶を頼りに辿ってみることにした。
心配だからと言って、名字も付いて来た。この幼馴染は、何かと俺に構って来るのだ。
中学生ながらも、乗り慣れない電車を乗り継ぎ、行ったことも見たこともない場所へ向かう。

『やっぱりここの御飯はとっても美味しい! いくらでも食べられちゃう』
『そんなに急いで食べなくても、時間はある』
『そうなんだけど、美味しくてつい急いで食べちゃうのよね』

白昼夢が目の前で掠れて消えた。
「ここだ……っ、ここに間違いない!」
道の曲がり角。小道。そして街の雰囲気。目に映るもの全てが、まるで上から古地図を被せたような塩梅だ。
「……お、小芭内君。だけど、」
横から気遣わしげな声がした。

それもその筈。俺が指を示す該当の場所は、『俺』の記憶を嘲笑うかのように。オフィスビルに囲まれ、沢山の車が走る幹線道路だった。そう簡単に上手くいくものかと、誰かに意地悪く言われた気がした。

鬼舞辻無惨を斃し、己の命が尽きてから何年経っていると思っているんだ。図らずしも今世で生を受け、学校で色んなことを学んだ。『俺』が死んでから、百年経っていたことを知った。
鬼殺隊の悲願が達成されてから数年後、帝都及び関東近郊は大地震に見舞われた。断水だけでなく火災も発生し、関東圏は壊滅的な被害を受けたそうだ。きっとあの定食屋も震災で被害に遭い、その後の火事で全て焼かれてしまったのだろう。それ以降は激動の時代だったらしい。

長じていく内に、この世界と『俺』の記憶が相違していることに気が付いた。図書館で古新聞を漁ってみたものの、悪鬼の歴史はおろか、かつて『俺』が所属していた鬼を滅する組織の存在すら、何一つ残ってなかったのだ。
そもそも、鬼殺隊は政府非公認の組織だった故、歴史の闇に葬られてもおかしくない。

「……小芭内君、小芭内君」
「な、何だ、名字」
「大丈夫? また考え事?」
「……いや、平気だ。気にするな」

目の前にいる幼馴染は、いつの間にか親子丼を完食していた。今日も百年前の過去に囚われたまま。心ここにあらずの俺を、心配する眼差しを軽く受け流す。

「小芭内君。この後、授業はあるの?」
「いや、今日はもう終わりだ。夕方からバイトがある」
「私も午後は授業がないの。だから、途中まで一緒に帰ろう」

名字は俺の前世を知っても、態度を変えることはなかった。普通ならこんな話は気色悪がると思うのだが、つくづく変わった幼馴染だと思う。
だから時々、目の前にいる幼馴染が姿形を変えた前世の同僚なのではと――ありもしないことを考えてしまうのだ。いや、あんなに一癖も二癖もある奴らが、そう簡単にいてたまるものか。 




「うそっ、やだ! どうしよう!?」
「どうした」

最寄駅に着いて早々、名字が慌て出した。一頻り鞄の中をガサゴソと漁った後、へなへなと力なく呟いた。

「定期券が……ない」
「何だと?」
「定期券がないの! どうしよう、落としちゃったかも!」
「何度も繰り返すな、一度言えば解る。それて、どの辺りで落としたんだ?」

俺の問いに、名字は思い出そうと躍起になる。昔からちょっと抜けているとは思っていたが、どうやら成人しても治っていないらしい。この先、就活だって控えているというのに。まったく、先が思いやられる。

「えぇっと……。寝坊したから授業に遅刻しそうになって、慌てて改札を出たの。その時はあった」
「ならば、この近辺で落とした可能性が高いな。俺は駅前の交番に行ってみるから、名字は駅員に聞いてみろ。運良ければ、届けられているかもしれない」

という訳で二手に分かれて定期券について聞きに行ったものの、残念ながら両方ともそんなものは届いていなかった。
しゅんと意気消沈する名字は、何だか小動物みたいだった。落としてしまったものはしょうがないだろうと、ピシャリと嗜めた。

「ごめんね、小芭内君」
「構わん。今更始まったことじゃない。いい加減、自分の持ち物くらい把握したらどうだ? 大体、お前は昔からどこか抜けているし弛んでいる。その歳にもなって朝が弱いとは、この先が思いやられるな。寝坊するから遅刻する。慌てるから、大事なものを落として失くすことになるのだぞ、解っているのか?」
「うっ、何もそこまで言わなくたって――、」

ああ言えばこう言う。相変わらず口が減らない。ギロリと睨めば名字は小さくなった。
「……まだ届けられていないのかもしれないから、明日また聞いてみた方が良い。それで見つからなかったら、再発行してもらえ」
「うん。そうしてみる」

それから数日後。俺のバイト先であるペットショップに、名字がひょっこりとやって来た。
丁度、蛇に餌をやっているところだった。俺が露骨に嫌な顔をすると、彼女も負けじと顔を顰める。無意味な無言の遣り取りが阿呆らしい。

「何しに来た」
「今日は、飼い犬の御飯を買いに来たの」

そう言って、ドックフードを何袋か手に取って籠に入れた。今日は買い物で来たようだが、わざわざ俺のシフトの時間に来店したことを鑑みるに、本題は別の所にあるのではないか。
そんな気がしてならない。たまに冷やかしに来ることもあるし、困った幼馴染である。

「本当にそれだけか? 別の用件で来たんじゃないのか?」
「小芭内君、良く解ったね! 実はね――」

ジャン! と目の前に翳されたのは、いつぞやの定期券。どうやら慌てて走っている最中に、鞄のポケットから落ちてしまったらしい。
何はともあれ、見つかって良かった。

「親切な人が交番に届けてくれたの。駅の階段の隅っこに落ちてたって」
「これに懲りて、今度から雑な扱いをしないよう気を付けることだ」
放り込まれた餌に気が付いた蛇が、大きく口を開けて丸々と飲み込もうとする。
「それで今度拾ってくれた人と、このお店の系列店のペットカフェでお茶することになったんだ」
「……ちょっと待て。その人物には会ったことすらないのだろう?」
「ううん、一度だけ会ってるよ。私が交番に行った時に、丁度届けてくれたから」

あっけらかんな様子の幼馴染に、俺は頭を抱えたくなった。何故こんなにも危機感がないのか。心配というより、頭が痛くなる。
彼女は昔から俺より交友関係は広く、誰とでも仲良くなれる人懐っこさがある。だが、それとこれは話が別だ。誰とでも仲良く出来るのは美点ではあるが、お人好しにも程があるぞ!

「やめておけ。一度しか会ったことがない人間なんて、何考えているか解らんだろう」
「大丈夫だよ。これ拾ってくれた人、女の人だから」
「そういう問題ではない。まさか、この世の人間全員が善良な奴だとでも?」
「そ、そんなことないって解ってる、けど……」

人好きする笑顔の影に、どんな悪鬼羅刹が潜んでいるか解ったもんじゃない。
前世で散々――厭と言う程――目にして来たから解る。この世で一番厄介なのは、鬼でも幽霊でも魑魅魍魎でもない。人間だ。

「届けてくれた方とちゃんと話したよ。これを拾ってくれた御礼がしたいだけ。別にそれ以上でも以下もない」
「……どうなっても俺は知らないからな」

この幼馴染は意外と融通がきかない。これ以上何を言っても無駄なことは解っていたため、俺は深い溜息を吐いた。

寒さもだいぶ柔らいだ、とある晩のこと。沢山詰まったゴミ袋を担いで裏のゴミ捨て場へ行こうとした時、俺は思わず自分の目を疑った。
車が行き交い、人混みの多い大通りを挟んだ向かい側に、このペットショップの系列店であるペットカフェがある。丁度、通りに面して大きなショーウィンドウがあり、そこに――。

「かん、ろ、じ……」

周囲の音が掻き消えた。
心拍数が大きく跳ね上がった。期待と不安が混ざった鼓動が左胸からドクドクと響く。乾いた唇から漏れた音は、滑稽な程掠れていた。顔は、ここからだと遠くてよく解らない。
だけど、店の明かりで照らされた桜餅色の髪色は、『俺』の記憶と相違ない。

『絶対に君を幸せにする。今度こそ死なせない。必ず守る……』

お互いに血塗れだったと思う。両眼を潰されたせいで、何も見えなかった。身体中あちこち痛くて仕方がなかったのに、あの瞬間だけは不思議と痛みを感じなかった。最初は夢だと思っていた光景も、今では俺の中にすっかり馴染んでしまっている。
前世の記憶を思い出してから十数年経ち、俺はずっと甘露寺の存在を求めていた。血生臭い前世で誓った、最期の約束を果たすために。だけど今世では全くといって良い程、当時の歴史は掻き消され、彼女の痕跡すら見付けることも出来なくて。

身体が妙に強張り、バサッとゴミ袋が情けない音を立てて足元に転がった。
「甘露寺……!」
気が付いたら、俺は駆け出していた。宵の口ということもあり、車だけでなく人通りも多い。
「すみません、通してくれ……っ」
迷惑そうに顔をしかめる通行人達に構っていられない。
チンタラしていたら、彼女を見失ってしまう! 見間違う訳ない。この機会を無駄にしたくない。そんな想いを胸に、人混みを縫って走る。
中々前に進めずに焦燥感ばかりが募る。大通りを挟んだ系列店のペットカフェは、決して遠くない距離なのに、この先にある十字路の交差点を渡らなければ行けない。もどかしい距離感。まるで、今の俺を嘲笑っているかのようだ。
百年前、鬼殺隊最高位の柱であった『俺』であれば、こんな距離は造作もない。記憶は蘇ったが、当時の身体能力まで引き継ぐことは出来なかったらしい。

焦燥と苛立ちを紛らわすように、その女性の元へ走った。彼女はまだショーウィンドウの前で、何やら動物を眺めている。あと少しで横断歩道だと思いきや、目の前の信号が点滅して無慈悲にも赤色に変わった。
勢い余って前へつんのめる形で足を止めれば、すぐ目の前でトラックが勢い良く走行する。トラックが埃を立てながら走り去った後に、向かい側を見やれば――。
ハアハアと息を切らし、該当場所に辿り着いた。ショーウィンドウの前には誰もいなかった。

横断歩道を渡る前まで、桜餅色の髪の女性は確かにここにいたのだ。僅差だった。
走れば走る程遠のく。真夏の蜃気楼の如く、水を求める愚者を惑わす。さながらそれは地鏡のようだ。
大きく息を吸い吐き出すと、指先から足先まで力が緩む。先程まで緊張で強張っていたのが嘘みたいだった。
あの女性は何を見ていたのか? ショーウィンドウを覗き込めば、透明なケースに入った小さな白蛇が、その細い尾を流木に巻き付けていた。
大正の頃の記憶が滲む。そう言えば、甘露寺も鏑丸のことを可愛がってくれていたな。
「……鏑丸の餌が無くなる頃だったな。帰りに買って帰らなければ」
脱力したまま元来た道を戻る。ゴミ袋も放り出して来てしまったし、一体俺はこんな所で何をやっているんだ。
過去ばかり目を向けて、今へ向き合うことが出来ない。

『伊黒さん! 嫌だ! 死なないで! もう誰にも死んで欲しくないよお!』

今にも倒れてしまいそうな満身創痍の甘露寺を隠に預け、俺は泣き叫ぶ彼女の声を振り切って仲間の元へ駆け出した。まだ身体は動く。まだ戦える。
『俺』は、鬼舞辻無惨を斃してから死ぬ。自身の穢れた血がそれで浄化されるなら、構わなかった。

『あんたが逃げたせいで、皆殺された! 生贄の癖に! 大人しく喰われてりゃ良かったのに!』

『俺』の一族は、鬼が人間から奪った金品で私服を肥やす汚い血族で、生まれた赤ん坊を鬼へ差し出し続ける代わりに、裕福な生活が保証されていた。
簡単に言うと、『俺』は鬼の食用児で、ある程度大きくなったら喰われる予定だった。
座敷牢から逃げ出して、怒りを露わにした鬼に一族が殺された。当時の炎柱であった煉獄の父に助けられたものの、生き残った従姉妹に呪詛の言葉を吐き散らされる。逃げればどうなるか、十分解っていた。だけど『俺』は生きたかったから、脱獄したのだ。

鬼を滅し人から感謝されると、自分が少しだけ“良いもの”になれた気がしたのを憶えている。生まれながらに汚れていた『俺』が、天真爛漫な君の隣に並ぶ事すら烏滸がましいんだ。
だから、一度死んで生まれ変わらなければならない。
そしてようやく、前世の忌まわしいしがらみから解放されたのに、今世では百年越しの想いに雁字搦めになる。
最終決戦で、甘露寺のそばから離れた業なのか。一つ解放されると新たに囚われる因果と応報。

ここのところ、毎晩悪夢に魘されて寝不足気味だった。日を増す毎、忘れたくない記憶に蝕まれていく。
九十分間の講義が終わったので、少し早いが昼にしよう。出来立ての昼御飯と共に、手身近な席に腰を落ち着けた。静かに昼食を摂っていると、先日と同じように幼馴染がやって来た。

「空いてる」
「ありがとう」

お昼前の食堂はがらんとしている。俺はそのまま食事を続け、名字は黙ったまま。付き合いが長い分、俺達を包む沈黙に気まずさはない。目の前の名字は、ラーメンに箸をつけることなく、何か言いたげな視線を寄越して来る。無視し続けるのも面倒になった俺は言葉短めに問う。

「……冷めるぞ」
他にも空いている席はあるのに、わざわざ俺の所に来た理由は一体なんだ。そう言外に含める。
「この間は心配してくれたのに、あんな態度取っちゃって……ごめんなさい」
「俺は怒っていない。名字の頑固さと危機感の無さに呆れただけだ」
「……的を得ているから何も言い返せないわ」

自分でも自覚している分、俺に指摘されて悔しげな幼馴染だったが、他に話したいことがあるようで話題を変える。
表情がころころと変わる様は、『俺』の記憶にある甘露寺を彷彿させた。

「それでね、定期券を拾ってくれた子と仲良くなったの」
「良かったな」

黙々と食べる俺の傍らで名字の話を聞くと、どうやらその女性とは意気投合したようで、何度かご飯を食べに行っているという。
つい三日前、バイトが終わった後に二人で飲みに行ったらしい。その時に、相手が何やら気になる一言を言ったそうだ。

「小芭内君は、前世の記憶があるんだよね?」
「……何だ、やぶからぼうに」

この話の流れにそぐわない唐突な質問だった。
俺の前世について、彼女から話題を出されたことは今まで一度もなかった。『俺』の記憶は、人間を喰らう悪鬼を狩ること。いつも生死は隣り合わせだったし、何より当時の自分がどうやって死んだのかも知っている。まるで幽体離脱でもしたように。
『俺』が死ぬ瞬間を、ぼんやりと上から俺自身が見下ろしているのだ。どう考えても、気分が良いものではない。

「小芭内君に前世の記憶がある理由を、考えてみたんだ。誰かとした約束を果たすために、前世の記憶があるのかもしれないって思ったんだけど」
優しい口振りの幼馴染は、麗かな春の陽光に似た眼差しをしている。

千年も脈々と受け継がれた意志を以て、鬼殺隊の悲願は――膨大な犠牲を払い――達成した。鬼舞辻無惨は黎明の光に灼かれ、灰となり崩れ去った。
辺りは瓦礫の山だった。そこら中に夥しい血痕が飛び散り、戦いの熾烈さを物語っていた。両目は潰されてとうに見えなかったが、鏑丸が導いてくれたおかげで、倒れている甘露寺のそばに寄ることが出来た。抱き起こし、傷付いた身体に羽織を被せる。
役に立てなくてごめんねと謝る甘露寺の声は、余りにも落ち着いていた。そんなに自分を卑下するな。君と話していると、楽しくて救われたんだ。『俺』は君の鈴を転がすような軽やかな笑い声が好きだ。きっと沢山の人の心を救ってきたに違いない。

『私、伊黒さんが好き』

グズグズと鼻を啜る音が腕の中からした。甘露寺が『俺』には死んで欲しくないと言うように、『俺』も君には死んで欲しくないのだ。だけど、どのみち俺達は助からない。出血と共に、互いの体温が傷口から流れていく。冷たくなればなる程、痛みに鈍感になる。

『また人間に生まれ変わったら、私のことお嫁さんにしてくれる?』
『勿論だ。君が俺で良いと言ってくれるなら』

今生で添い遂げられないのなら、せめて来世で。ぎゅうっと甘露寺の身体を抱き締める。
五十人分の一族の業を背負う、前世での最期だった。

今までずっと胸の内に抱え込んだ気持ちを、初めて幼馴染に吐露する。凪いだ湖面の如く、静謐さを含む言葉とは裏腹、口に出すことで余計に甘露寺への愛しさが募ってしまう。
「――ああ。死ぬ間際にした」
名字は俺の話を、真剣な眼差しで聞いてくれた。前世の『俺』の生い立ちから、こと尽きるまでの仔細。僅か二十年そこそこの一生であっても、話すとなると結構時間は掛かる。彼女の昼飯であるラーメンは、すっかり伸び切っていた。

「甘露寺蜜璃――という女性と、約束した」
目の前の幼馴染は痛ましそうな顔をした後、一瞬だけ今にも泣き出しそうな程、顔を歪めた。
「……小芭内君。今度の土曜日、予定空いてる?」
- ナノ -