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明治から大正へ時代が移り変わっても、鬼は夜の闇を我が物顔で跋扈する。底冷えする大晦日に、私の師範である炎柱・煉獄杏寿郎は、任務で鬼狩りに勤しんでいる。
大掃除で屋敷内を清め、おせち料理や門松などのお正月準備も漸く終えて、後は年越しを待つばかり。
そんな時に、師範の鎹鴉がけたたましく任務を告げたのは、あと数時間で新年を迎えるところだった。
「兄上、怪我もなく無事だと良いんですが」
「大丈夫ですよ。今回の鬼は十二鬼月ではないそうですから」
師範の弟である千寿郎君は、任務帰りの兄を出迎える度に、師範とそっくりな濃い眉毛を不安げに寄せる。
「ほら、噂をすれば」
煉獄家の屋敷へと続く小道の曲がり角から、遠目でも解る程の目立つ容貌をした青年が姿を現した。
「兄上、お帰りなさい!ご無事で何よりです!」
「千寿郎、兄は今戻ったぞ!」
任務で夜通し駆け抜けた疲れすら見せず、師範は相変わらず元気そうだ。嬉しそうに近寄る千寿郎君の頭を優しく撫でている。
「師範、お帰りなさい」
「ただいま、名字!」
「あ、兄上!その血は……」
「む?……あぁ、これは鬼の首を刎ねた時に付いたのだろう」
黒い隊服にべっとりとこびり付いた鬼の血。羽織っている白地の羽織にも、ところどころ血痕らしきものが飛び散っている。
「心配するな。俺はどこも怪我はしていない!」
そう言うと、千寿郎君はホッと胸を撫で下ろした。
「お風呂は沸いてるので、どうぞ入ってください」
「すまない、助かる!先に身体を清めて来よう!」
東の空から昇る神々しい太陽の光に目を細める。丁度初日の出を拝むことが出来た。鬼をも灼き尽くす温かな日の出は、新しい一年の始まりの象徴だ。新年を迎えても、鬼がいる限り私達のやるべきことは変わらない。
「君は新年早々、もう隊服を着ているのか?」
黒の布地に、いくつも真っ赤にあしらわれた彼岸花が刺繍された羽織。鬼に刃を振るう際、羽織の紅い彼岸花が爆ぜた血のように見えるらしい。誰かにそんなことを言われたことがあった。血や泥汚れが目立たないので、個人的に気に入っているのだが。
「鬼殺隊士である以上、いつ任務が入るか解りませんから」
「心構えはバッチリだな!」
鬼は人間の都合など考えない。理性もなく本能のままに、人間を貪り喰う。私の役目は鬼を狩ることだけだ。
「兄上。今日はこの後、お館様の所へご挨拶に向かうんですよね?」
「うむ!少し仮眠を取った後、お館様に新年のご挨拶に行って来る。臨時の柱合会議が終わり次第、屋敷に戻るのは夕方頃になるかもしれん」
せっかくの新しい年の始まりに、柱であろう者が遅れる訳にはいかないと師範は明朗快活に言う。
半年に一度開かれる柱合会議は、お館様を中心に鬼殺隊最高位である九人の柱が集まり、鬼の討伐状況や今後の方針等を話し合う場である。今日は年明けということもあり、お館様へ新春のご挨拶も兼ねて手短かな柱合会議を行なうらしい。
「俺が戻って来るまで、父上と家のことは二人に任せた。宜しく頼む!」
それから風呂に入り程なくして、師範はお館様の元へ向かった。仕事柄、鬼殺は夜中に行うことが多い。そのため昼間に身体を休ませることが多いが、今日は仮眠も二時間程度しか取っていないだろう。
常人と比べて身体は頑丈なため、多少無理しても問題ないと本人はいつも言っているが、いざという時に何かあったらそれこそ一大事だ。師範の仕事量を調整するのも継子の役目である。
師範から預かった汚れた羽織と隊服の洗濯を終え、物干し竿にそれらを干した後は、千寿郎君と打ち込みの稽古をした。
「師範の柱合会議が終わる頃、私が迎えに行きます。千寿郎君は休んでて良いですよ」
「い、いえ!こうして名前さんに稽古まで付けてもらっておいて、私だけが休むなんて出来ません!」
千寿郎君は本当に働き者だ。師範と私が任務で家を空けている間、家のことは全て彼に任せてしまっている。任務から帰って来たら、丁度良い塩梅にお風呂が沸いているし、美味しいご飯もすぐ出て来る。
太陽の光をたっぷり吸い込んだ、柔らかな布団まで用意してくれる。その上、部屋に篭りっきりのお父上である槇寿郎さんの面倒も見ているのだ。
少しは自分の好きなことに時間を使ってもバチは当たらないだろうに。と、言いたい気持ちをぐっと飲み込んだ。そう言っても、千寿郎君が譲らないのはもう解っている。
はて、他にやることはあっただろうか。腕を組み、空を見上げれば気持ち良いくらい晴れている。
「そうですねぇ……、では私の育手宛の手紙を烏で送って下さい!」
懐から手紙を取り出して千寿郎君に渡す。年末にかけて任務が入り、ついつい後回しになってしまったのだ。手紙は特に大したことは書いていない。
今日は何を食べたのか、屋敷の庭先に猫が迷い込んだことや、最近の煉獄家の様子だとか。私をとりまく日常を、徒然なるままに書き記しているだけ。謂わば日記のようなものを、勝手気儘に育手に送り付けているだけだ。ちなみに返信が来たのは今までで一、二回。私の育手は筆まめではないし、何より猫のように気まぐれなのだ。
「名前さんの育手って、元風柱様ですよね?気にはなってたんですけど、どうして煉獄家に?」
「さあ?私もよく解らないんですよ。ある日突然、もうお前に教えることはないから、炎柱の元で叩き直してもらえって言われてしまいました」
私が戯けたように答えると、千寿郎君も困り顔になる。
「……そうだったんですか」
「では、手紙お願いします。私はこれから師範を迎えに行きますね」
◆
◇
産屋敷家の正確な場所を私は知らない。鬼舞辻からの執拗な追手を躱すため、巧妙に隠されているからだ。恐らく屋敷の場所を知っているのは、柱と極一部の隠だけだろう。鬱蒼と茂った森の中。舗装すらされていないけもの道は、野生動物の気配すらしない。まだ冬眠中なのだ。どこか物寂しい雰囲気の中、私は師範の帰りを待ち続ける。以前、師範と任務に同行した後、柱合会議に赴くと言って途中で別れた場所が、このけもの道だったのだ。
風が吹くと、葉を落とした木々が寒そうに震える。冷たい風に、思わず身を震わせてしまう。待つことには慣れている。気が付けば、天を仰ぐ位置にいた太陽も西の方に傾いている。多少陽は延びたものの、まだ春は遠いようだ。
このまま陽が沈むと、夜と共に鬼がやって来る。どこかから、小さな音が聴こえた。腰に差す日輪刀の柄を、自ずと固く握ってしまう。一匹でも多く、鬼を葬る。聴覚を研ぎ澄ませ、誰もいない空間を睨み付けた。臨戦態勢のまま暫く待機していると、見知った気配が近づいて来た。
「名字、もしかしてここで待っていたのか?」
「……師範!柱合会議お疲れ様でした」
「毎回こんな所で待たなくても良いと言っているんだが……」
柱合会議がある度に、私がこうして師範の帰りを待っているのは割と柱の間で有名らしい。どっちがお守りをしているか解らないと、一部の柱から揶揄われて困っていると師範が言う。
「寝不足の師範に何かあったら大変なので」
「むう……。それは俺が道端で眠りこけたり、何か粗相をしでかすという意味か?」
「ち、違います!そうではなくて……もう日が暮れますし、万が一鬼と遭遇した場合、一人よりも二人の方が効率が良いからです」
「なるほど!名字に協調性が芽生えて来たようで感心感心!」
わはははと愉快そうに笑う師範の後を、私は追った。
「お館様や柱の皆様はお元気そうでしたか?」
「お館様とご内儀も、ご息災の様子で安心した!柱達も、誰一人欠けることなく、新年を迎えることが出来てホッとしている!」
いつ誰が死んでもおかしくない環境。次は生きて会えるのか解らない。今日隣にいて笑っている人間が、明日も明後日も――。一年後も五年後も隣にいるとは限らない。
鬼舞辻の血を胎内に取り入れるだけで、人間は鬼に堕ちる。鬼になれば心臓をひと突きされようが、腕や脚が欠損しようが――たちどころに復活してしまう。首を斬らなければ死なない。生身の人間ではそうはいかない。腹を刺されれば血が出て激痛に苛まれるし、腕や脚がもがれれば生えて来る訳でもない。鬼殺隊は不利な条件下で、日夜鬼と命のやり取りをしている。
そういう意味では、柱合会議は互いの無事な姿や生存確認の場でもある。そして、次回も生きて会えることをお互いに願って解散するのだ。
「それで、柱合会議で何か決まったことはありますか?」
「
丙以上の隊士に下級隊士を付けて、任務に同行させることになった!実戦を通して、互いを高め合う機会が必要だと結論に至った!」
近頃は、隊士の質が落ちていると話題に上がったらしい。しまいには、育手の指導の仕方まで議論が広がったようだ。
「それでは私にも、下級隊士を付けて任務に行けと指令がある訳ですね?」
「いや、君はまだ駄目だ。実力はあっても、下の者を導く気はさらさらないだろう」
「………。」
「沈黙は肯定と見做すぞ!」
私の下に付いた隊士を想像するだけで、可哀想に思えて来る。どういう訳か、私は同期からも疎まれているのだ。きっと私と組まされるだけで、後輩も何かしら誹られてしまうだろう。
「今年こそ、全て……終わらせたいですね」
「……。憎しみだけで振るう刃は、気付かぬうちに君の身も滅ぼしかねん」
無意識に固く掌を握る。冬の冷気に曝されて冷たくなった私の拳が、そっと温かいものに包まれる。それは、血の滲むような修行で節くれ立ち豆だらけの、大きくて温かい師範の掌だった。
「己の鬼に負けるな、名字。君は、鬼から人を守ることを優先するんだ」
師範は普段から私に、「鬼になってはいけない」と口を酸っぱくして言う。それは一体どういう意味なのか、未だに理解出来ない。私は生身の人間だ。刺されたり、斬られたりすれば出血するし痛覚もある。師範は私の顔を眺めた後、炎のような色をした瞳を細めた。
「ふむ……。意味が解らないなら、まだ修行が不十分な証拠だな!」
そう言って、ずんずんと脇目も振らずにけもの道を進んで行く。ふわふわした毛質の金髪が風に揺れる。
師範は普段から面倒見が良い。初めてお会いした時、全集中の呼吸が上手く扱えない私を、一度も馬鹿にしなかった。呼吸が上手く出来ないのは、肺が小さいから。肺を大きくする必要がある。もしそれでも呼吸が上手く出来ないのなら、他の方法で補えば良い。開口一番、彼は朗らかに言ってのけた。
私は炎柱の継子として、脈々と受け継がれて来た炎の呼吸を継がなければならないのに。風の呼吸を修めることが出来ず、精神的に切羽詰まっていた私がそう言うと、師範はニコリと笑ってから共に励もうと激励してくれたのだった。
寒い山の中で、お互い沈黙の時間が流れた。もしかして、怒っているのだろうか。
「あの、師範。怒ってらっしゃいます?」
「ん?怒ってなどいない。君は相変わらず育て甲斐あるなと思ってな!俺の指導もまだまだだ!」
師範は徐ろに私の名前を呼んだ。
「どんなに長い夜が続いたとしても、光と闇が紙一重ならば、明日だろうと百年後だろうといつか必ず朝はやって来る!」
「師範。鬼になれば百年も千年も大差ないですが、人間は百年も生きられないですよ」
師範は眉根を寄せて、真剣な顔をする。
そして、いつものはっきりした口調で「俺が言いたいのはそういうことではないぞ」と咎められた。
「人は老いて必ずや死ぬ。だから儚くて美しい生き物なのだと俺は思っている。人の思いや気持ちは目に見えないが、心を燃やし続ければ、誰かにその心を託すことは出来る。例え俺がこの先、志半ばで死んだとしても、君が俺の意志を受け継いでくれる。
俺から君と千寿郎へ。君達からまだ見ぬ未来の継子へ。そうやって、千年の途方もない時間を掛けて何代も紡がれたその志が、今の鬼殺隊に引き継がれている」
この人は、とても思慮深くて懐が深い。そして炎のように熱く燃える心を持っている。何故、私の育手である元風柱が、縁もゆかりもない炎の呼吸一門の煉獄家に、私の教育を委ねたのか。
今なら解るような気がする。
「新年早々、死ぬだなんて不吉なことを仰るのは止めてください」
「例え話だ、安心しろ!そう易々と死ぬつもりは毛頭ない!そうならないためにも、俺は――俺達の代で終わらせるつもりでいる!」
もうこれ以上、大事な家族を鬼には奪わせない。もう誰にも、自分と同じ哀しい思いをさせない。大事な人を失って涙を流すのは、もう自分達だけで十分だ。これから生まれて来るであろう未来の子供達が、健やかに暮らせるように。
受け継がれた意志は、鬼を ――鬼舞辻を――斬る大きな刃へとなる。
「……師範らしいですね。私もお伴しても宜しいでしょうか?」
「勿論だ!」
この人はこんなにも眩しい。私にとって――彼はあまりにも眩し過ぎる。師範の周りには沢山の人が集まって来る。まるで焚き火のように暖かい。多くの人が彼に惹かれるのだ。これが、人徳というものだろう。
鬼は嘘吐きだ。醜い。憎い。憎悪が渦巻く。
幼い日に家族を殺された復讐心を抱き、鬼殺の道へと進んだ。強い憎しみが黒い炎となり、今も私の心を灼き焦がし続けている。
姉が鬼となり、家族を貪っていた悍ましい光景。己の欲を満たす為に人間を食すのなら、鬼に慈悲や情けは要らない。
その思いを糧に、私は鬼狩りを続けている。あの夜、姉を殺した鬼を見つけ出す為に。
憎しみとは無縁な彼と私では、何もかもが眼に映る世界は違うのだろう。
例え私が、鬼に身を堕としてしまったとしても。
炎柱・煉獄杏寿郎は、迷うことなく私の首を刎ねてくれるだろう。そんなことを考えている私が、太陽のような彼の隣で肩を並べることすら烏滸がましい。
「さぁ、早く帰りましょう。槇寿郎さんと千寿郎さんが、美味しいおせちと共に待ってます」
「それは急がねばならぬな!」
だけど、許されるのなら。
「師範!」
そう呼べば、師範は大きな両目をきょとんとさせ、首を少し傾けてこちらを見る。その様子が、何故か子供っぽく映る。
心を燃やす、煉獄の赫き炎に少しだけ当たっていたい。この人の傍にいたい。私の中にある黒い炎は、きっと彼の炎に灼き尽くされるだろう。
「えっと……遅くなりましたが、今年も宜しくお願いします」
「うむ、こちらこそよろしく頼む!良い一年にしよう!」
炎のように力強くて朗らかな口調で。そして、とびきり温かい笑顔がとても印象的だった。
火焔色に炎ゆ