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※降谷さんが警視庁公安部所属の描写がありますが、捏造です。
「それ、今年も渡さないつもりなのか」
突然指摘され、カタカタとキーボードを打つ指が止まる。警視庁公安部の作業部屋の壁掛時計は、二十二時を指していた。
※
1
二月十四日。別名・バレンタインデー。女性が男性に対して、親愛の情を込めてチョコレートを贈る日。本命彼氏への純愛チョコから、職場での義理チョコ。大好きな友人へ送る友チョコ。頑張った自分へのご褒美チョコ。ショコラティエ達のチョコ愛。
日本中がチョコ一色で染まる時期。チョコレートメーカーの陰謀だと誰かが嘯いていた。年間消費量の四分の一が二月に集中していると、何かの記事で読んだことがある。テレビや雑誌の情報メディアからSNSまで、たった一日のために何週間も前から特集が組まれているくらいだ。ローマ時代のキリスト教殉教者から発生した祝日が、日本独自の文化を遂げた。
チョコレートの甘ったるい匂いとは縁のなさそうな
警視庁も、何だか落ち着かない雰囲気だ。刑事部のマドンナこと美和子からチョコが貰えないか、男性陣はそわそわしている。
「そう言えばさ、美和子はチョコ用意したの?」
「……チョコ?誰によ?」
「高木君しかいないでしょ?」
隣でニヤニヤする由美が雑誌を彼女へ見せた。誌面には可愛らしいフォントで、
『大切な人との時間を過ごしませんか?』
『バレンタイン限定スイーツやチョコレートパフェなど、チョコ愛が溢れるおでかけスポットを紹介!』
と、プリントされていた。
「よ、用意なんかしてないわよ」
「はあ!?何で?」
信じらんないと言わんばかりの由美の言葉に、食堂にいる男性陣が名前達の会話に聞き耳を立て始める。
「別に私があげなくても、高木君優しいから他の子から貰うだろうし」
「馬鹿ねぇ、あんたがあげないで誰があげるっていうのよ?もう本当に焦れったいんだから。ねえ、名前?」
「ホント。早くくっついちゃいなよ。美和子から貰えるの楽しみにしてるかもしれないよ?」
「うっ、うるさいわね!ラーメン伸びちゃうじゃない」
照れ隠しのつもりなのだろう。美和子が、ズルズルと大袈裟にラーメンを啜り始めた。誰がどう見たって両片想いなのに、肝心の二人が中々に焦れったいのだ。バレンタインをきっかけに進展すれば、聞き耳立てている男性陣も諦めが着くだろうに。
「せっかくのバレンタインなのに、浮いた話が一つもないなんて。つまらないなぁ」
「そういう由美はどうなの?」
「私?明日休みだから今日は徹マンよ!この間はリーチばっかで結局上がれなかったのよね。名前も来る?」
「ああ、ごめん。今日も帰れるか分かんなくて」
リベンジに燃えている由美に悪いと思いつつも、あれもこれも片付けなければならない事務処理が残っている。デスクに残っている報告書や申請書などの書類の山を思い出すだけで、名前は深い溜息を吐きたくなった。事務処理は好きでも嫌いでもないが、担当案件が立て込むとどうしても後回しになってしまう。結果、山積みの書類相手に悪戦苦闘だ。いつもこのループから抜け出せない。
何でも卒なくこなす降谷から、『これでよく公安が務まるな』と怒られる日も近いだろう。
「大丈夫なの?ちゃんとご飯食べてる?
「うーん。インスタントばっか」
美和子が深い溜息を吐き出した。日夜対象団体を監視していれば、不摂生になりがちなのは百も承知。
「でも、ほら!食堂に来て久々に二人とご飯食べるのとても楽しいし、気分転換にもなるし。ね!」
「あんたも相変わらず忙しそうねぇ。私のサラダ半分あげるから食べなさい」
「刑事は身体が基本なんだから。ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
「あ、ありがと……」
食べかけのアジフライの皿に、ポイポイと無造作に放り込まれたサラダと餃子。それを見て、頬が緩みそうになる。
特殊な案件を扱う公安としての職務内容は話せないが、名前は彼女達と仲が良い。美和子が何気なく言った『刑事は身体が基本』という言葉。きっと降谷も同じようなことを言うに違いない。
「ご馳走様!そろそろ戻って作業しなきゃ」
「今度こそ徹マンに付き合ってもらうから」
「時間が合えば飲みに行きましょ」
「二人共ありがとう。それじゃ、またね」
二人にひらひらと手を振って食堂を出たのがお昼休みも半ばを過ぎた頃。それからいつの間にか外は暗くなり、キラキラと光瞬く夜になっていた。
カチカチと時計の秒針は休むことなく時を刻み続ける。この世で一番の働き者は時計なのかもしれない。そんな馬鹿げたことをぼんやりと考えてしまう程、名前の脳味噌は疲労しているようだ。美和子と由美と一緒にお昼食べて作業部屋に戻ってから、ずっと事務処理をしている。もしかしたら、三徹目もあり得るかもしれない――なんて冷汗をかいたが、少しだけ先が見えて来た。今日は徹夜せずに終電で帰れそうだ。
明日は土曜日。そう思うと、ふぅと肩の力が抜けた気がした。久々の休日という事実に、少しだけ生まれたゆとり。安堵感が心地良い。あと少しだけやって、家に帰ったら心ゆくまで眠ろう。心に余裕が出来たお陰で、視界に黙々とパソコンに向かって仕事をしている先輩の風見が入る。
時間は二十二時に迫っていた。後二時間弱で今日が終わる。
一年に一度のバレンタインデーが今年も――。終わるのだ。
「……風見先輩はチョコ貰えました?」
「チョコ?貰うわけないだろう」
視線をデスクトップから一ミリも変えずに風見が答えた。カタカタと忙しなく打ち込まれるキーボード。その音は、まるで『興味ない』と言いたげだった。それなのに、質問にちゃんと答えてくれる辺り風見も相当お疲れなのだ。確か、三徹目だったと思う。
二週間程前、兼ねてから風見が張っていた団体に動きがあったようだ。詳しいことは解らないが、隣の仮眠室にお世話になっている様子を見て推察したに過ぎない。公安部に所属していても、それぞれがどんな案件を抱えているのか知らされない。知らない。つまり先輩である彼であっても彼女が担当している案件を知らないのだ。
公安警察官は基本的に一人きりで捜査して、必要があれば対象組織に潜入もする危険な職務だ。名前はまだ潜入捜査をしたことがないが、今もどこそこの組織に誰かが潜入していると耳にしたことがある。その内の一人がゼロである降谷だ。
「そうですか。先輩モテそうなのに意外です」
「……別にモテなくて構わない。チョコなんて珍しい物じゃないだろう」
「でも、貰えたら嬉しいと思いませんか?」
「自分は甘いものはあまり好きじゃないからな」
好きか嫌いか――明確な言葉にしない彼は、本当に優しいと名前は思う。眼鏡を外して、ふぅと息を吐きながら目頭を揉んでいる男の姿を見て、そんなことを思ったのも束の間。
「それ、今年も渡さないつもりなのか」
指摘された内容に、戸惑いを隠せずに彼女は少しの間言葉を失ってしまった。
「……え、」
「その鞄に入っている物だ」
「……鋭い人は嫌われますよ」
「毎年のことだ。どうせ渡さないまま来年に持ち越すつもりだな」
取り繕っても無意味なのは知っている。疑問形じゃないのが更に癪な反面、地味に傷付く。図星なので言い返すことも出来なくて、まるで魚が酸素を求めるように口をパクパクするだけ。風見の目にはさぞや無様な女が映っているだろう。指摘された通り――鞄の中にチョコレートの箱が入っている。
つい先日チョコレートの祭典で買ったものだ。カカオにウィスキー特有のスモーキーな香りを閉じ込めて、アーモンドプラリネやキャラメルトフィーを何とかかんとかと――店員が説明してくれたが、あまり理解していない。ショコラティエのことはあまり詳しくないが、確か一箱四千円くらいした。
「……もうこんな時間なので。今年も先輩にあげます」
英語でブランド名がプリントされている白地の正方形の箱をそっと差し出せば、彼は一瞥するだけだった。在庫処分、と言ったら失礼だが自分で食べるより、人に食べて貰った方が買った甲斐がある。
「悪いが断る」
「な、何でですか!?毎年受け取ってくれるじゃないですか!」
「名字。去年言ったことをもう忘れてるのか?」
いつの間にか風見は作業を中断していた。連日連夜の徹夜のおかげで、眼の下に隈が出来ているにも関わらず、キリッとした鋭い眼光がチクチクと彼女の肌に突き刺さる。居心地悪いのを誤魔化すために、無意味に居住まいを正した。
何にも言えない彼女を置きざりにしたまま、時計の針がカチカチと二人きりの作業部屋に響く。
「来年こそは降谷さんに渡すから、と言ったのはどこの誰だ?忘れたとは言わせないぞ」
「……っ!そ、それは、その……」
「さては忘れていたんだな」
「忘れてた訳じゃないんです。私だって渡すつもりで毎年買ってます!だけど……、その場の勢いだけで生きるなんてもう出来ません……」
全知全能。何事に於いても無敵。根拠のない自信が溢れていた。世の中に対して怖いもの知らずだった学生に戻れたら。もう無責任な言動が取れない年齢になってしまっていた。及び腰の自分自身を見て情けなく感じるに違いない。『大人になる』とは、そういうことだ。
「……何か理由があれば渡せるのか」
「理由、ですか?」
「名字がそれを降谷さんに渡さない理由があるのだろう。逆にどんな理由であれば渡せるか、考えたことはあるのか?」
毎年『今年こそは渡す』と思ってチョコは買う。しかし、そこから一歩踏み出せないまま数年経っていた。これと一緒に気持ちを伝えてしまえば、何度も頭の中で想像したことが現実になってしまう。
名前と風見の上司且つ、とある組織に潜入中の降谷が女の気持ちに応えてくれるとは到底思えない。伝えなくとも明らかに結果は目に見えている。チョコを買っても降谷には渡さず、風見へ渡す行為が、いつの間にか恒例行事になっていた。そのことに二人とも気付いている。
降谷に対する恋心と風見への罪悪感が募るばかりで、どうにかしなければと思うものの――彼が何も言わずに毎年行く宛てのないそれを受け取ってくれていたので、彼女は甘えていたのだ。
『大人になる』と耳触りの良い言葉で自分自身を納得させていたが、結局は逃げているだけだ。
「渡しもしないチョコを毎年買う君の行動も不思議だ」
「……、すみません」
「別に謝る事ではないだろう。怒っている訳じゃない。まあ、君が渡さないと決めたのなら外野がつべこべ言う資格はないよな」
その言葉を皮切りに、風見は静かに作業を再開した。カチッとマウスをクリックする音。パラパラと資料を捲る音。四千円したチョコも受け取ってくれる素ぶりも雰囲気も一切ない。
『お喋りは終わりだ』と暗に示していた。いつの間にか二十二時半を少し過ぎている。名前は仕事を切り上げて帰り支度を始めることにした。
「お先に失礼します……。これ、どうぞ」
風見のデスクの隅にキャンディーを二つ置いた。流石にこの流れでチョコは渡せなかった。彼はそれには目もくれず、ひたすら入力を続けている。
「先輩も仮眠室にお世話になるのは程々にして下さいね。お疲れ様でした」
「……今日はバレンタインだから、あそこも忙しくてまだ店仕舞いが終わってないかもしれないな」
作業部屋から出る直前。背中からぽつりと漏れた言葉に、ふと足を止めてしまう。
「……え?」
「ん?どうした、まだ何か用か?」
「い、いえ!お疲れ様でした!」
名前は慌ててその場を後にした。急いで行けば、まだ間に合うかもしれない。
2
「僕からの気持ちです」
にこっと人好きする安室スマイルを顔に貼り付けた降谷は、ラズベリーソースがかかるガトーショコラをカウンターに置く。
「あ、ありがとう、ございます……」
今日までの限定スイーツだと降谷が言った。社交辞令を目に見える形に表したそれを見て、名前の胸はチクチクと痛んだ。
※
花金ということもあり、電車内は仄かにアルコール臭かった。米花駅に着いたのは二十三時を回っていたが、車も人も多く、酔っ払いと何度も擦れ違った。名前はカツカツとヒールを鳴らしながら、喫茶店ポアロを目指して走る。風見の何気ない一言で、彼女はやっぱりチョコレートを降谷に渡そうと思った。
この胸の中で大事に温めて来た気持ちを伝えるかどうかはさておき――今まで渡せなかったチョコレートを渡すだけでも大きな一歩のはず。女はそう思った。
大通り沿いを直進すると、ポアロの店看板が見えて来た。看板には明かりが消えていたが、ブラインドが降りた窓から店内の明るさが漏れているから、まだ店仕舞いの最中だろう。
ドキドキと逸る鼓動がうるさい。鞄に入っているチョコレートの箱の存在を、嫌でも感じてしまう。喫茶店への扉を開けると、カランカランと軽やかな鈴の音が来客を知らせた。
「すみません、今日はもう閉店で――、おや……」
「あ……、ふる――、安室さん。こんばんは」
お店のテーブルを拭いている降谷が、入口の方へ目を向ける。入口に立っている人物が、警視庁公安部所属の彼女だと気付いた降谷は、一瞬だけ『安室透』を引っ込めたものの――にこりと柔らかく微笑む。名前はつい、男の本名を口に仕掛けたが慌てて言い直した。
この空間は、降谷の潜入先だ。眠りの小五郎の探偵見習いとして、彼は『安室透』と名乗っている。本来ならば名前が降谷の潜入先に行くこと自体好ましくないのだが、彼が潜入するより少し前からこの喫茶店に通っていた。
勿論仕事としてではなく、ただの息抜きに利用していただけに過ぎない。偶然入ったこの店の珈琲が美味しくて、病みつきになってしまったのだ。降谷も念入りにこの喫茶店について調査を重ねていたが、まさか調査済の後に彼女が常連になっているとは思いもしなかった。
名前が安室の生活圏内に入る時は、彼を『安室』として接すること――店員と客――としてお互い接することが、暗黙の了解であったのに。つい素が出てしまった。公安のエースである降谷が、女のお粗末な失敗を見逃す訳もなく、案の定安室スマイルで牽制される。
「名前さんじゃないですか。どうしたんです?こんな夜遅くに」
「えっ、と」
「そんな所に突っ立っていたら、風邪を引いてしまいますよ。どうぞ入ってください」
言われるがまま、名前は喫茶店――安室透の領域に足を踏み入れる。店内は暖房が効いていて暖かかった。駅からここまで走って来たので暑い。コートを脱ぐことにした。
「こんな時間までお仕事だったんですか?」
「……はい。今週は繁忙期で毎日この時間まで仕事でした」
「それは大変でしたね。お疲れ様です」
そう言って降谷がホットミルクをカウンターに置いた。仄かに湯気が上がるそれは、電子レンジで少しだけ温めてくれたものだ。飲めば、緊張も解れるかもしれない。
「もう夜も遅いですし、珈琲だと眠れなくなってしまいますから」
「ありがとう、ございます」
どうかこの緊張が落ち着きますように、と念じながら名前はホットミルクを口にした。人肌程度の熱くもなく温くもない丁度良い温度の液体が、身体の中を巡る感覚を味わう。ほう、と息を吐く。
「落ち着きましたか?」
カウンター越しからにこにこする降谷は、『安室透』に成り切っている。いや――成り切っているのではなく、彼は正しく安室透なのだ。
ここでは徹底的に『降谷』を出さない。店の営業時間も終わり、安室で居続ける必要なんてないのに、名前と二人だけの空間に於いても一ミリもブレない。いついかなる時も、どこで誰が何を聞いているか解らないからだと降谷は言う。ついでに、小学一年生に盗聴されたら厄介だとも言った。ちょっと何を言っているのか名前の理解の範疇を超えていたが、そうですかと適当に流しておいた。
それはさておき、男の徹底ぶりに女は何度も内心で驚きつつ、最もだと同意する。潜入捜査官としての高いポテンシャル。上層部から期待と信頼が注がれる男は、やはり他の捜査員とは一線を画す。
男は柔和な笑みを浮かべているが、視線だけは違った。彼女がわざわざここまで来た理由を知りたいのか、彼の瞳は探るような色をしている。刑事の目だと、思った。優秀な男の頭脳は、きっと色々な事柄が高速で巡り巡っているだろう。だから彼女は、何てことないように答える。
「お陰様で。ここに来たのも、別に大した理由はないですよ」
「へぇ?それにしてはかなり急いで来ましたよね?」
「そ、それは……!」
言える訳がない。『降谷零』ならともかく、今の彼は『安室透』なのだ。失敗したと思った。絶対に降谷のふの字を出さない男宛てにチョコを渡したところで意味がない。
名前はそのことに今更気が付いたのだ。やはり、勢いだけでは駄目なこともあるらしい。
それにしても、ホットミルクは良い塩梅の温度だった。急いでポアロに来たことが何故降谷にバレたのか解らなかったが、降谷なら名前の一つ一つの行動や所作である程度解ってしまうのだ。相手にまんまと見透かされてしまうとは、公安として些か問題がある気がする。
『これで公安がよく務まるな』と、言われる日も近いだろう。
「えっと、……店仕舞いのお手伝いしに、」
「ご覧の通り、ほぼ終わってますよ」
にこにこと人好きする朗らかな微笑みで返されてしまった。居心地悪そうに彼女がまごついていると、カウンターの隅にある物達を思わず二度見した。
「こ、これ、全部安室さん宛てですか……?」
「えぇ、お客様に頂いたものです。今日はバレンタインでしたから」
手作り感満載の包み。可愛らしいリボンと包装紙で包まれた箱。手紙付きの可愛いラッピング……。正しく女子高生からの贈り物といったそれらがいくつもカウンターに積まれていた。季節柄、中身は言わずもがなだ。
「気持ちだけで結構ですって、事前にお断りしているんですけどね」
「相変わらずモテますね。でも、棄ててしまうんでしょう?勿体ない」
職務上、手作りのものを口にするなんて以ての外だ。何が入っているか解ったものじゃない。万が一毒物でも入っていたら一貫の終わりなのだから。潜入捜査官の降谷なら、名前よりも尚更敏感だ。チョコの贈り主達は、自分のチョコが棄てられることを知らない。心ときめかせた乙女達は次に来店した時に、自分があげたチョコの感想を聞きに来るのだろう。
安室を想って心を込めて作ったお菓子。密かな恋心と共に贈られたもの。それらが本人の口に入ることなく、呆気なく棄てられるのだから。なんて――残酷なのだろう。
「嫌だな、名前さん。せっかく頂いたものを棄てる訳ないじゃないですか。僕と梓さんとマスターと毛利先生達で分けることにしたんですよ。流石に僕一人だけじゃ食べきれませんし」
降谷は少しだけ困ったように笑う。それから、何かを思い出したような素振りをして足早に厨房へ引っ込んでしまった。
ふぅ、と息を一つ吐く。棄てられないだけましかと、安室宛てのチョコの山を見る。あの言葉には本音がどれくらい占めているのか解らないが、多くの女子高生達の可愛らしい恋心が無碍にされることはない。安室を慕う女子高生達と、降谷を慕う彼女。同じ男でもあり、相容れない男を想う女達。他人事のようには思えなかった。沢山の贈り物が棄てられないと聞いた今、つい一息吐いたのかもしれない。
その反面、形容し難い感情が名前の心にじわじわと――まるで、地下水が地上に滲み出るように――湧いた。この中には、降谷宛ての物は一つもない。彼女達は安室の正体を知らない。
安室の柔らかい笑顔の裏に隠された本来の姿を知らないのだ。
命を張ってこの国を守っている孤高の存在。日本の安全が脅かされるものなら、凪いだ海のような綺麗な瞳を滾らせ、不届き者を食い尽くそうとする狼のような男。しかし彼は自分の信念を、名前や他の人間達に押し付けることはしない。
彼が名前の教育係だったのはほんの一年くらい。お世話になった教育時代は、彼女にとってとても濃厚で且つ火花のように鮮烈だった。
逞しい背中を追い掛けるのに必死だった。公安警察としての心構えは勿論、捜査のイロハ、変装の仕方、暗号解読、協力者の作り方など多くのことを教わった。
「対象者の個人情報は徹底的に調べろ。そいつの趣味嗜好、生活リズムや交友関係、健康状態を全部洗い出して把握するんだ。無駄だと思う情報が思わぬ所で役に立つことがあるからな」
降谷が求めるレベルはとても厳しく、無茶振りも多かった。
「次の案件には爆弾がいるから、足が付かないものを用意しておいてくれ」
「爆弾!?先輩、無茶言わないで下さい!ちなみにどれくらい必要ですか!?」
「ビル一棟吹っ飛ばせるくらいだ」
彼女は失敗する度に何度も怒られたけれど。しっかり頑張ればちゃんと褒めてくれるし、どこが良かったのか――悪かったのか教えてくれたし、どうすれば良かったのか考えさせられたのを覚えている。
ふとした時に見せる飾らない笑みが堪らなく好きで、ずっと見ていたいとすら思った。降谷のことを好きだと自覚したのは、彼が名前の教育係を辞して警察庁警備企画課に移って暫く経ってからのことだ。
偶々、名前の受け持つ案件の指揮が降谷だったのだ。一人前になった所を見て欲しくて――褒めて欲しくて――我武者羅に対応した。尾行に尾行を重ね、変装して対象者と接触もした。ついには、別件や微罪を無理矢理作って対象者の身柄を取り押さえた。この手法は降谷から教わったものだ。お陰で何とか片付けることが出来たのだ。
「良くやったな」
たった一言だけ声を掛けてくれたことは忘れない。胸の中にじんわりとした温かさとこそばゆい心地と共に、好きだと――純粋にそう思った。
ちらりと彼女は自分の鞄を見る。別に優越感に浸っている訳ではないのだ。降谷に渡したとしても、本人の口に入ることなく安室宛てのチョコに埋もれてしまうだろう。彼の特別じゃなくても良い。そう思っていたのに、自分の胸の中で生まれたばかりの独占欲に似た気持ちをどうやって処理しようか一人で悩んでいた。そんな時に、厨房から戻って来た降谷が声を掛けて来た。
「お腹空いてますか?これ、良かったら食べて下さい」
コトッとカウンターに置かれた物は、ガトーショコラだった。
「今日までの限定スイーツです。一つだけ残っていたので――僕からの気持ちです」
「降谷先輩からの……気持ち……」
彼女は思わず、ぽろっと口を滑らしてしまった。
濃厚な焦茶色の生地に、赤紫色のラズベリーソースのコントラストが美しかった。美しいそれに、身体が固まってしまう。
鞄の中にある物を渡す前に、降谷に先手を打たれてしまった。これはチョコを受け取り、全員にお返しを用意する面倒事を回避するためのもの。キャンディやクッキー、マシュマロには意味があるけれど、チョコレートケーキの仲間であるガトーショコラには何ら特別な意味なんて含まれていないのだ。即ち、これは降谷の意思表示だ。
「……、降谷って誰ですか?僕以外の男の名前を言うなんて、何だか妬けますね」
無意識に震える声帯。上手く発音出来たかどうか解らない程、覚束ない唇の動き。漏れてしまった呟きを、彼が聞き漏らさない訳なかった。
「……あははは、『降谷先輩』が男だなんて一言も言ってないですよ?」
薄っぺらくて、無意味な返事しか出来なかった。平常心、平常心……と心の中で唱え、泣き出したくなる気持ちを必死に押さえ込むことに精一杯だった。喉元まで迫り上がるツンとした切なさを無視する。
風見に勇気を貰い、せっかく走ってここまで来たのに一瞬で砕け散った恋心の破片を、女は必死に掻き集めていた。憐れだと自分で思った。何なら、あのチョコレートの贈り主である女子高生達の方がよっぽど幸せだ。彼女達は、自分が渡したチョコの行く末なんて知らないだろうし、降谷から提供された美味しそうなガトーショコラの意味も分からずに。
ただ嬉しそうにそれを頬張って堪能することが出来たのだから。何も知らない。無知でいられたら、良かった。
ふと、隣に人の気配を感じた。いつの間にか降谷が名前の隣の席に座っていた。頬杖を突いてこちらを眺めている。静かなアイスブルーの双眼は、まるで凪いだ海のようだ。
「お疲れ気味のようですね。ほら――目の下に、隈が」
「……っ、」
びくりと、肩が震えてしまった。
「ふふ、可愛い」
降谷の指先が名前の目元をそっと撫でる。触れられた箇所からジリジリと熱が燻った。その熱は目元だけに留まらず、彼女の萎びた心を灼こうと迫って来る。
期待するな。今目の前にいるのは『安室透』であり、『降谷零』ではないと自分に言い聞かせる反面、ふとこんなことを思ったのだ。
――安室圏内でどうやったら
本人を引き出すことが出来るのか、と。
「……食べないんですか?お腹、空いてるでしょう?」
目の前に、食べてくれと言わんばかりに鎮座するガトーショコラ。しっとりとした濃厚なチョコレート生地が口の中に広がり、ホロホロと溶けるそれは絶品に違いない。降谷は料理がすこぶる上手いらしく、彼が考案したハムサンドはこの喫茶店の看板メニューになってしまった程の腕前である。
ケーキを一口、身体の中に取り込んでしまったら。その意味が解らない程、馬鹿でもない。
それだけは避けたい。マシュマロじゃないだけマシと前向きに考えるべきだが、ついさっき失恋したばかりの名前にはマシュマロだろうが何だろうが意味を成さない。
「ごめんなさい、安室さん。もう夜遅いしこれ食べたら太っちゃうので」
「本当だ、いつの間に……」
降谷は垂れ目がちな瞳を少しだけ見開いてから、うんと伸びをする。
「忙しかったんですか?」
「はい、お陰様で。バレンタインだからいつもよりお客様が多くて、閉店も一時間半伸びてしまったんですよね」
壁掛時計は二十三時半を既に指していた。
「私、もう帰ります。安室さんと少しだけお話し出来て良かったです」
ガタッと腰を上げると、降谷がキョトンとした顔をする。結局ここに来た理由すら告げずに帰ろうとしているのだ。何しに来たのか解らないという顔をされるのも無理はないし、名前自身もどうしてここに来てしまったのか解らなくなっていた。もう帰って寝た方が良いかもしれない。既に二徹目をキメて疲弊した脳は、もう何も考えたくないと駄々を捏ねている。考えることを放棄した。
「もう夜も遅いですので、送ります」
「そんな……、大丈夫です。一人で帰れます」
「いえ。女性の夜道の一人歩きは危ないですから」
「先輩。……私はこう見えて警察官です。何かあっても一人で対処出来ます」
「そんなにご自分を過信されない方が良いですよ?お疲れ気味のようですし……。駐車場に車を停めてますので送らせて下さい。ね?」
この空間で本名を呼ばれるのことを何よりも嫌がる男に対して、敢えて意地悪な態度を取ってしまう。しかし、降谷はそれでも『安室』を崩すことはなかった。
甘い口調で女の名前を呼び、精悍な顔にあざとさを貼り付けてにこりと笑う。『降谷零』ではしない微笑みに返り討ちされる。
余裕な降谷とは反対に、名前は失恋した相手と同じ空間にいたくなくて、逃げるようにこの場から走り去りたい気持ちに駆られた。なのに身体は深い根が張ったようにビクともしない。
「……ありがとう、ございます。安室さんがそこまで言うのなら、お言葉に甘えますね」
自暴自棄になることにした。そうすればきっと、楽になれる。口内が乾いて上手く発音出来ただろうかと心配している名前をよそに、降谷はサッとガトーショコラの皿を下げる。
「今帰り支度をするので少しだけ待ってて下さい」
そう声を掛けて、降谷の姿はバックヤードの奥に消えた。
しん、と静まり返る店内にカチコチと時を刻む音が鼓膜に響く。彼女は強張った身体を脱力してカウンターにへにゃっと突っ伏した。
「……失恋、しちゃったなぁ」
言葉にすると尚更実感する。こうなることは何となく予想していた。だから胸の中でこの気持ちをずっと温めておいたのに。優しい世界で育まれた柔い想いは一瞬で砕け散ってしまった。大人になって上手くなったことと言えば、逃げることだけ。そんな自分に辟易していたのも事実である。
風見が呟いた言葉は単なるきっかけに過ぎない。ここに行くことを決めたのは、他でもない自分自身だ。
ごそごそと鞄を漁って取り出したのは、白地の正方形の箱。箱の蓋をそっと撫でる。脳が糖分を欲していた。降谷に食べて貰えないなら、自分で食べてしまえば良い。バックヤードに消えた男を待ちながら白地の箱を開けると、チョコレートが六つ入っていた。箱と同じ正方形に形取られたそれらは、一つずつ違ったマーブル模様でコーティングされている。付属の説明書きによると、マーブル模様によってチョコに練りこんだウィスキーの種類が違うらしい。名前は、その内の一つを摘み、口の中に放り込む。仄かにウィスキーの香りが鼻腔を抜けて、舌の上でアーモンドプラリネの甘さが理性と一緒に蕩けて消えた。
今夜だけ、夢を見させて下さい