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【注意書き】
※真純百合夢です。



「最近、素っ気ないよな」
「……え?」

世良さんが寂しそうに呟いた。日曜日のショッピングモールはとても賑わっているせいで、ぽつりと呟かれた言葉は私の耳に届くまで時間がかかってしまった。

今日は世良さんと久し振りのデートだ。
「学校終わったらすぐ帰るし、休みの日もあんまり遊んでくれないし、何かあったのか?もしかして、好きな男でも出来たのか!?」
「ええ!??な、何でそう思うの??」
「だって先週もその前の週も遊びに行こうって誘ったのに、全部断ったじゃないか。体調悪くてとか、急用が入ってとか適当な理由付けて。蘭ちゃんや園子ちゃんに聞いても、本当に何も知らないみたいだったし」
だから、今日デート出来るの楽しみにしてたんだと付け加えられる。

私達は、こっそりひっそりお付き合いしている。この関係は、クラスメイト全員に内緒だ。勿論、蘭ちゃんと園子ちゃんにも言っていない。
毎日、誰が誰に惚れただのあいつらが別れただの――そういう恋バナが大好物なお年頃だ。
本当は皆の前で、世良さんは私の恋人で私達付き合ってます!と交際宣言したいのが本音だ。

だけど世良さんは女子高生探偵として学校内で有名人だから、私のせいでイメージダウンして欲しくないのも本音である。同性同士の恋愛に偏見を持っている子や受け付けない子もいるだろう。冷やかす輩も出て来るだろうから、周りに言う必要はないと結論に至ったのだ。

「ち、違うよ!好きな男の子がいるなんて誤解だよ!」
「本当か?」

疑いの眼差しが肌に突き刺さる。どうしてそんなことを思ったのだろう。このままでは、あらぬ疑いを持たれたままだけど、まだ秘密にしたい。でも悲しいことに、彼女が納得行く弁明なんて私の残念なおつむでは思い付かないのが現状だ。
探偵である世良さんへ、下手に弁明をすれば寧ろ墓穴を掘る方が高い。不名誉過ぎる。もう素直に白状した方が良い。

「実は……、バイク免許を取るために教習所に通い始めたの」
「教習所だって?」
「世良さん、前に話してくれたでしょ?ツーリングしたって」

関東近郊のツーリングコースを、日帰りでふらっと行って来たそうだ。その時に撮った写真を見して貰ったが、北海道を彷彿させるようなどこまでも続く地平線の光景は素晴らしくて、今でも忘れられない。

山を眺めながらどこまでも一直線に続く広域農道。左右に広がる青いキャベツ畑。パノラマラインの絶景を、世良さんと見たい。私も一緒に行きたい。感動と時間を共有したい。連れて行ってと頼んだが、二人乗りは危険だから駄目と断られてしまったのだ。

「黙っててごめんなさい。世良さんを驚かせたかったの」
「二人乗りは自転車でも危険だろ。バイクだと余計危険度が増す。ボクは大事な人を危険に曝す行為はしたくないんだ。別にツーリングじゃなくても、こうして手を繋いで街を歩いたり、電車に乗って遊びに行く。それだけでも一緒に世界を共有出来るじゃないか。ボクはそれだけで嬉しいんだよ」
「……本当に?でも、貴女と同じ目線で世界を見たいの」

私は世良さんみたいに頭は良くないから、同じ目線は難しいかもしれないけれど。少し背伸びしたってバチは当たらないだろう。
告白は私からだった。平凡な私には持っていない何かを世良さんは持っている。
ずば抜けた頭脳、中性的な容貌。相手をからかうようなトリックスター的な振る舞い。
彼女と関わる内に、明るくカラッとした言動の中に陰を感じてしまったのだ。本音を見せようとしない確固たる線引きを感じた私は、もっと彼女のことが知りたいと純粋に思うようになった。気が付けば、ずっと世良さんのことを目で追っていて。

キミは何が目的でボクと付き合いたいんだい?と問われたけれど、貴女と同じ空気を吸って同じ目線で物を見て、貴女のことを感じたい。貴女の本質を知りたい。
ただ、それだけだと告白してしまったのが始まりだった。

「寧ろ今まで内緒にされてたことがショックだけど。言っただろう?キミがボクを理解するのなら、ボクもキミのことを理解したいって」
女の子同士で抵抗感はないのかと言われたけれど、同性同士だから付き合っちゃいけないのか。同性と付き合うことは、世良さんにとって都合が悪いのか。
彼女からの質問に私は質問で返す暴挙に出てしまったが、その後お付き合いの了承をあっさり得られたことに私はポカンとしてしまった。

あの時、キミは素直だねと世良さんに言われて。相手のことを知りたいと思えばどんどん知れば良いし、好きになるのに理由なんて必要ないよなとも言われた。
思い返せば、良い思い出だ。

「たまにさ、思うんだ。告白は名前からだったのに、ボクだけがキミを想ってばっかで、キミはその内他に好きなヤツが出来たらそっちに行っちゃうんじゃないかって」
世良さんは、私が中学生の頃彼氏がいたことを知っている。女子は恋バナが好きだから、蘭ちゃんと園子ちゃん達とそういう話をした時に世良さんもいたのだ。その男の子とは、ほんのちょっとのお付き合いだった。

あの頃は、“彼氏”という存在に憧れていたのかもしれない。同じクラスの数人の女の子は頬を染めながら、こぞって彼氏自慢をしていたから純粋に羨ましかったのだ。初めて手を繋いじゃったとか、キスをしたとか。デートでどこどこに行って来た記念にプリクラを見してもらったりした。
皆、恋する女の子の顔で各々惚気ていた。とても可愛かった。羨ましかった。私も、あんな風に誰かを想いたかった。

今思えば、私は“彼氏がいる自分”になりたかったのかもしれない。そんな理由で作った彼氏だったので、当然長続きはしなかった。どうやって“恋人”として接すれば良いか解らなかったのだ。だから今度好きな子が出来たら相手の中身を見ようと、そう思った。

「そんなことないよ!私の方が世良さんのこと大好き!もう隠し事しない!だから……!」
私の慌てように、あっはははと楽しそうに世良さんが笑う。
「ボクからの細やかな仕返しだよ。そんなことでキライになるもんか」
「そんなに笑わなくても良いのに……」
「ゴメンゴメン。焦っている名前が可愛くてさ」

嫌われたのかと思って冷やっとした。でも、世良さんは心が狭い人間じゃない。たまにヤキモチを妬いてくれて、私はそれが嬉しかったりするのだが、これは本人に内緒にしても良いだろう。世良さんも知らない、私だけが知っている世良さんだ。

世良さんは、ころころと笑いながら私の髪を優しく撫でてくれる。まるで、機嫌を損ねてしまった子供をあやすようなそんな手付きで気持ち良い。世良さんに良いように振り回されているような気がしかしない。
今だって彼女に髪を梳かれているだけで、先程感じた焦燥感は跡形もなく消え失せてしまい、うっとりしてしまっているのだ。我ながら現金なものである。

「あ、あのね!免許取れたら……、バイクやヘルメットとか諸々、一緒に選んで欲しいな」
「良いよ、一緒に選ぼう。サイコーにカッコイイの選んであげる」
「ホント!?嬉しい!」

高校生なのに原付じゃなくてアルテシアを乗り回している辺り、バイクが好きなんだろう。彼女のバイク姿は何度も見たことがあるが、とてもカッコ良くて様になっている。私もカッコ良くバイクを乗りこなしたい。バイク好きな彼女に選んで貰えるのだ。嬉しくないわけがない。

「楽しみだなあ。早く免許取れるよう頑張るね!バイトも沢山入って、お金稼がなくちゃ」
「ボクと一緒にツーリングしたいだけで教習所通うキミの行動力にびっくりしたけど安心した。名前に想われてボクは幸せ者だな」
隣でしみじみと感じ入っている世良さん。私が繋いだ手を強く握ると、握り返してくれた。嬉しかった。

「お昼時だし、ランチにしよう。何が食べたい?」
「えっと……何でも、」
「何でも良いは駄目だからな」
「えええ!」

先回りされて釘を刺されてしまった。
丁度お昼時で賑わうレストラン街は、多くの人で溢れている。世良さんとなら何食べても美味しく感じるんだけどな、とインフォメーションを眺めつつお店に悩んでいる彼女を横目で見た。

「中華も良いけど、和食も良いな。でもトムヤムクンも気になるし、パエリアも食べたい!」
うんうん唸っている彼女が可愛い。
中性的な見た目とパンツスタイルが相まって男の子に間違えられることが多い世良さん。今日の服装は、ライダースジャケットにパンツスタイルというカジュアルで動きやすいものだ。きっと今日の服装でバイクに乗ったらバッチリと決まるんだろうな、と密かに想像した。

そしてお決まりの青い帽子を被っている。 以前帽子が好きなのか聞いた時、死んだ兄がよくこういうのを被ってたからボクも真似しているんだと言っていた。憧れのお兄さんの影響なのだそうだ。私には、どこからどう見ても可愛い女の子にしか見えない。
もうちょっとだけご飯について悩んでいる世良さんを見ていたいけど、お腹も空いてしまったので終わりにしよう。それぞれのお店の前に人の列が出来始めている。下手したらかなり並ばなくてはならないかもしれない。

「気分は中華だから、中華にしようよ」
「ああ、そうしよう!ラーメンとチャーハンセットにしようかな」
世良さんが嬉しそうにニコッと笑うと、八重歯が覗いた。

お腹もすっかり満たされ、お会計を済ませた。割り勘にしようと言ったのに、世良さんがボクが多めに出すと言って引かなかったのでお言葉に甘えることにした。申し訳ない気持ちもあるので、お茶する時は私が多めに出すと話を付けてある。

「せっかくだから買い物でもしないか?」
「実はね、気になってる雑貨屋さんが下の階にあるの。行っても良い?」

私は世良さんの返事を聞く前に、彼女の服の裾を掴んでエスカレーターへ向かった。
雑貨屋は沢山の人で賑わっていた。テレビで紹介された通り、お洒落な食器類、タオルなどの日常雑貨から可愛らしいアクセサリーまで品揃えが豊富だ。

「ここのお店、前にテレビでやってたから一度見てみたかったの」
「へぇ。洒落た雑貨が沢山あるなぁ」

二人で店内を回り、色んな雑貨類を物色する。白地に大きくアルファベット一文字がプリントされているシンプルなマグカップを見付けた。
お互いの名前の頭文字のマグカップを買えばカップルっぽくて良さそうだ。このマグカップで、世良さんにコーヒーや紅茶を淹れてあげたい。ありがとう、と言ってくれてニコニコしながら飲んでくれる世良さんを想像するだけで、自然と頬が緩んでしまう。
はたから見れば、両手にマグカップを持った女がニヤニヤしていた怪しさしかない。心地良い妄想の世界から脱しなければ。そっと商品棚に戻せば、至って簡単に現実の世界に戻れるのだ。心地良い妄想の世界の余韻を密かに楽しんだ。

「せっかく来たのに何も買わなくて良いのか?」
「うん。色々見れたから。世良さんは?何か買いたいものとかある?」
「実は下着が欲しいんだ!ちょっと照れ臭いけど、可愛いデザインの!」

ニカッと笑う世良さんはとても可愛かった。以前、怪盗キッドに男の子に間違えられて蹴りを食らわせてやったと言っていた。彼女は割と好戦的だ。男の子に間違えられてしまうのは筋金入りなのかもしれない。
だから下着は花柄にしているらしいが、何かちょっとズレてる気がしなくもない。

「出来れば名前とお揃いのが欲しいんだけど、どうだい?」
「え?」

聞き間違えだろうか。予想の斜め上を行く世良さんの要望に、私は至極真面目に返してしまう。どんな反応が正解なのか解らないから。素直に喜ぶべきなのだろうか。

「お揃いならシャーペンとかスマホケースとかいくらでもあるんじゃ……?さっきのお店で見たマグカップも!」
「それも良いんだけどさ、ボク達二人だけの秘密って感じがして良くないか?」

悪戯っ子のように笑う世良さんはとてもお茶目だ。蘭ちゃんや園子ちゃんも知らない私達だけの甘やかな秘密。服の下に纏う細やかな主張。
彼女はボクだけのもの。彼女は私だけのもの。
私と世良さんにしか通じない二人だけの言語である。




「ボクにもっと見せてくれって」
「は、恥ずかしいから……あんま見ないで」

鏡の前でブラを試着してどんなもんか眺めていたら、急に試着室の扉が開いて世良さんが乱入して来たのだ。凄くびっくりし過ぎて叫ぶのを忘れてしまったが、良く考えたらお店の中なので叫ばなくて良かった。自分を褒めてあげたい。

結局、私は“二人だけの秘密”という蜜のような甘い言葉に釣られ、お揃いの下着を買うことにしたのだった。
レースがふんだんにあしらわれたもの。カラフルな色合いの小花柄のもの。機能性を重視したスポーティなものまで。あれも可愛い、これも可愛いと色々と目移りしてしまった。
「女の子らしい可愛いデザインのものが良いな」
世良さんの要望に沿ったものを探す。ああでもない、こうでもないと意見を良いながら探す作業は楽しくて、店員さんにも色々と見繕って貰った。

「彼女さんへのプレゼントですか?」
と店員さんがニコニコしながら世良さんに聞くものだから、案の定男の子に間違えられた彼女は不服そうな顔をして、
「ボクも女の子だよ!」
と否定していた。何だかそんな世良さんが可愛いと思ったのは、本人には内緒である。
いくつか候補が上がったものの中から、ピンクと細かい白レースを組み合わせたフェミニン系のデザインのブラを手に取った私達は、試着室に向かったのだけど――。

「世良さん、隣の試着室に入ったんじゃなかったの!?」
「そしたら名前の試着姿が見れないだろ?……胸があって羨ましい」
「え、そこ?」

真剣な眼差しが胸元に注がれて、顔全体に熱が集まる感覚。私はどうしたら良いか解らなくて俯くことしか出来なかった。もじもじしながら、世良さんからの視線を受け止め続ける。
彼女は何も言わずにただ私を見つめていた。体育の授業で着替える時は下地姿を目にする。全然恥ずかしいと感じたことは一度だってないし、別に初めて目にするわけでもないのに。何故今になって変に意識してしまうのか、私は解らなかった。

まるで密室に見せかけた仮初めの空間は、薄い扉一枚隔てた外界からの雑音が聞こえてしまう程頼りない。目の前の扉を開ければ、店員さんや他のお客さんがいる公共の海がずっと先まで広がっている。
境界線は一枚の木の扉だけ。二人きりの試着室だからだ。それが余計に、私の羞恥心を煽って来るのだ。店員さんが、いかがですかといつ様子を伺って来るか解らない。イケナイことをしているようで――恥ずかしくて、鼻の中がツンとした。
目尻に涙が溜まりそうになった頃、漸く世良さんが言葉を零した。

「可愛いじゃないか。似合ってる」
「……あ、ありがと」

心がきゅんと甘く痺れた。こんな風に愛おしげに私を見る彼女が堪らなく好きだ。そう実感した。
そう言えば、世良さんと手を繋ぐ以上のことはしたことがない。キスだってしたことないし、況してや身体同士を触れ合う行為すらしたことない。興味がないわけでも、やり方を知らないわけでもない。寧ろその辺りの知識欲や性欲は年相応にあると思う。
世良さんは、一度も私のことを求めて来ない。それがちょっぴり寂しい。貴女に触れたい、触れられたいと思っているのは、私だけなのだろうか。そうだとしたら、悲しい。

中学生の頃に付き合っていた男の子とも、手を握る以上のことはしたことがなかった。男の子とのキスの味すら知らない。だから私にとっては、全てが初めてばかりなのだ。
世良さんは――どうだろう。知りたいような、知りたくないような。普段はそんなこと考えないのに。やっぱり二人きりの空間はイケナイ。

「じ、じゃあ次は世良さんの番だよ!着替えるから、ほら、出て!」
一旦世良さんを問答無用で試着室から出した。ささっと着替えを終えて、入れ替わり立ち替わり今度は彼女が試着室へ入る。
「良いよ、おいで」
試着室から世良さんの声がしたので、私はキョロキョロと周囲を見回してから、おいでという魔力に惹き寄せられるようにそっと中へ入った。別に悪いことをしているわけじゃないのだから、落ち着けば良いのに。

「似合ってるか……?」
小首を傾げ、少しだけ頬を赤くしている世良さんはやっぱりどこからどう見ても女の子だ。細身だが、格闘技を嗜んでいるためか程良く引き締まった均整の取れた身体に、ピンクとレースがあしらわれたブラが目に留まる。

「……綺麗だよ、世良さん。とっても似合ってる」
「良かった!ママは巨乳だから、ボクだってこれからボーンと出てくる予定なんだ!」
「ナイスボディになる予定なの?」
「ああ、勿論!今は成長前さ」
「今のままでも良いのに。私は好きだよ」

私は、そっと世良さんの唇を啄むようにキスをした。好きな人とキスをしたいと思ったら、勝手に身体が動いていた。ちゅ、と軽いリップ音の後私は唇を離す。
「え……、」
急な出来事で対処が追い付いていないのか、目を丸くしたまま固まっている世良さんがいた。

世良さんの唇は、ふにふにしていて柔らかかった。ファーストキスはレモンの味と良く言われるけれど、酸っぱいとか甘いとか味について良く解らなかった。もうちょっと私に心の余裕があれば、世良さんの唇の味が解ったのかもしれない。
「……レモン、なのかな……?」
自分の唇を彼女のそれに合わせるのに必死で、味わう余裕すらなかった。

人の体温はぬるいことや、唇は湿っていること、女の子は柔らかい生き物であると――まるで他人事のように――感じることで精一杯だった。唇の角度を変えたり舌と舌を絡ませ、口内を嬲るような洋画に出て来る濃厚な大人のキスは私には出来ない。
だって私はまだ高校生だからと、恥ずかしさを誤魔化すために無意味なことを考えてみる。子供みたいな拙いキスをするだけで精一杯だ。私の心臓はどぎまぎと力強く脈を刻んでいるのが証拠だ。
それなのに、私の心は満たされていた。

「わっ!世良さん……!?」
世良さんが急に私のことをぎゅっと抱きしめて深い溜息を吐き出す。彼女が今どんな気持ちを抱いているのか――どんな顔をしているのか――私は知らない。解らない。だから、知りたい。

「ごめんなさい。嫌だった……?」
「まったく……。キミって奥手そうに見えて、急にボクを弄んだりするから目が離せないじゃないか」

私の肩に顔を埋めている世良さんの頬が熱いような気がする。これはもしかして。
「世良さん、照れてる……?」
返事は返って来ない。そのかわり、私を抱き締める力が先程よりも強まった気がする。無言の反応は、肯定として受け取ろう。彼女の毛先が私の頬に当たってこそばゆい。くすぐったさですら愛しいと思ってしまう辺り、もう後戻り出来ないかもしれない。

「なぁ。その“世良さん”呼びやめないか?何だか他人行儀みたいだ」
やっと目を合わせてくれた世良さんの顔は真っ赤だった。余りに可愛らしい反応に、こちらまで照れてしまいそうだ。鏡には、真っ赤な顔をした女が二人映っている。

「じゃあ、何て呼べば良い?」
「ボクは名前って呼んでいるんだ。だから、“真純”って呼んで欲しい」

“真純”。彼女の名前を私は何度も繰り返す。人間は進化の過程で言葉というスキルを身に付けてしまった。言葉は身体で感じて理解しないと実態を伴わないから。
私の中に違和感なくストンと“真純”が落ちて来るまで。

「ま、ます、み……ます、み……ますみ。真純ちゃん?」
「“真純ちゃん”か……。まあ、今はそれで良いよ。いつか“真純”って呼んでくれるの待ってるからな」

真純ちゃんはちょっとだけ残念そうに笑った。いつか、“真純”と呼べるように、彼女のことをもっともっと知らないといけない。

「ねぇ……、もう一回してよ。さっきの」

珍しくオネダリする甘い声音が、私の鼓膜を通って脳を揺さぶった。
彼女の要望に応えたい。私ももう一度キスをして、貴女をじっくりと味わいたい。“世良真純”を知りたい。感じたい。きっと、そんな気持ちが積み重なって互いに触れ合っていく先にセックスがあるのだろう。
私は真純ちゃんの首に両腕を絡ませた。彼女は私よりも少しだけ背が高い。上目遣いで伺えば、男性と女性の良いとこ取りをした綺麗な顔の恋人がいた。
本当に恥ずかしい。きっと、私の顔は茹で蛸のように真っ赤になっていることだろう。

「真純、ちゃん……」
癖の強い黒いショートの髪。鼻は高くて目の下のクマが特徴的だ。柔らかい唇から覗く八重歯。何よりも一番目を惹くのは、彼女のモスグリーン色の瞳だ。
日本人離れした色合いは、彼女にとても馴染んでいる。永遠に堕ちて行ける底なし沼のようにも見える。真純ちゃん以外の人間には似合わない瞳の色だと私は思った。彼女だからこそ、モスグリーン色が真価を発揮するのだ。

私の態度を焦ったく感じたのか、真純ちゃんが私の後頭部に優しく手を添える。後頭部を固定されて、いよいよ逃げられなくなってしまった。
「……っ、真純ちゃんは狡い」
私の逃げ場を一つずつ潰して。キスをして誘ったは私だけど、そう仕向けて来るのは真純ちゃんなのだと今気付いた。
「そうさ。ボクは狡いのさ。今更知ったのかい?」
自分の心臓の音が煩くて仕方がない。

きっと真純ちゃんにも聞こえているに違いない。だって、鼻と鼻が触れ合ってしまう程、距離を詰め寄られているのだから。
「ほら、早く。焦らさないでくれよ」
私は底がない深い色を湛えたそれに溺れることにした。

この世でいちばんしあわせな病気


Title By √A
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