私は目を開けると、ちくちくとした頭痛を無視して涼子の部屋へと足を向けた。涼子の部屋へ行くと寝台の脇に座った母を見つけた。
涼子は静かに眠っていた。
「母様……」
私が一言声を掛け、母は静かに私の姿を確認すると悲痛な声を出した。
「名前、貴方どうしたの……この怪我は」
「――ただ転んだだけよ、内藤さんに手当して戴いたからもう大丈夫」
「そんな冗談通じるとでも思っているのですか?貴方、真逆――」
小刻みに震えた母の指は私の手当された頬に触れる。
「どうしても母様に訊きたいことがあって……」
何かを察した母は眠っている涼子を一瞥し、椅子からすっと立つと跫も立てずに歩いて廊下に出た。
廊下はまるで墓場のように静まり返っていた。
目の前にいる母の姿は肉が削げ、きっちりと結われた髪は解れ、艶は失われ、肌は乾燥していた。
おまけに目の下には隈が浮かんでいる。倦み疲れて鉛色をした倦怠感が薄い雲となって彼女を包んでいるようだ。
昔の母は綺麗だった。
艶やかな髪も色素の薄い肌理の細かい肌も長い睫毛に縁取られた瞳も、母を構成する全てが美しかった筈なのに目の前に佇む姿の老女が同一人物だとは思えない。
「訊きたいことって何かしら」
脳裏に浮かぶ蛙の赤ん坊。血塗れの母。
「母様は蛙の顔をした赤ん坊を知っていますか」
刹那、息を飲む音と共に母の目の色が変わった。わなわなと身体が震え始めゆらりとした動きで私へと距離を縮めて来る。
「何で……何でそれを訊くのです!?そんな赤ん坊、私は知りません!貴方も知らない筈です!」
倦怠感を宿した瞳は恐れに染まり、母の急変に驚いて、呼吸すら忘れた私が我に返った時には既に母に両肩を掴まれ、勢い良く壁に背中を打ち付けられた。
「蛙の顔をした赤ん坊何てこの世に存在しません!貴方はそんな赤ん坊を見ていないのです!!」
目の前で悲痛感を漂わせて取り乱している年老いた女が私に言い聞かせるように叫ぶ。
私は私自身の両の目を通して映る老女の姿を、怖いくらいに落ち着いたもう一人のわたしが観察している錯覚を覚えた。
これは、あの夢と同じではないか!
同時に私の脳内に怒涛のように映像が流れて来た。
その映像は夢で見たものよりも現実感を伴って一層生生しかった。
わたしは夜の病院の廊下を跫を立てないよう爪先で探るように歩いていた。電灯すら付いていない暗闇を
角を曲がると廊下の先にほんの少し開いた扉から眩しい光が漏れているのに気付いたわたしはそっと扉に近づいて、息を殺して中を覗き込んだ。処置室の壁は無形灯の灯りが反射して、より無機質な質感である。
誰とも知れない殆ど絶叫に近い叫び声。
血塗れの母が床に転がっている何かの肉塊を石で打つ悍ましい光景にわたしは目が釘付けになった。
「そんなことないわ!母様があの石で赤ん坊の頭を叩き割っている所だって――あれは、誰の……赤ん坊なのですか!?」
自分が何を言っているのか判らない。それでも勝手に言葉が出て来る。
「そんなものは忘れなさい!!赤ん坊を石で潰す何てそんな恐ろしいことを……況してや、ここは神聖なる病院です、
母が金切り声で私の疑問を一刀両断するかの如く怒鳴る。それでも私は負けじと母の言葉を否定した。
「だって母様、泣きながら何かを唱えながら赤ん坊を石で叩いてたもの――それで、わたし……と」
突如脳内に鋭い痛みが駆け抜けると私は両手で頭を抱え、知らず知らずの内に苦しげに呻いた。
頭の痛みが増すと映像は突然乱暴に途切れ、一瞬の映像を見ただけで、身体がどっしりとした疲労感に侵される。
私は呼吸を乱しながらいつの間にか涙を流していた。
「ごめん……なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
力が抜けてその場にへたり込み声も出さずに静かに泣きながら母を見返した。
母は私の様子が変わったのに気付いて我に返ったようで、その蒼くなった唇を固く結んだ表情をして一歩後ろへ後ずさる。何か言葉を発しようとする彼女に私は視線を向けた。
「名前――」
母が何か言う前にふらりと立ち上がった私は逃げるように、廃墟と化した病院内をよろよろと移動する。
視界は涙で霞んでよく見えない。
埃を被った廊下も窓のサッシも消毒剤の臭いも全部、
恐怖と不安が稲妻の如く一気に通り抜ける。
――これは
でも何処から何処へ走ったのか分からない。
母は追っては来なかった。
倒れ込むように外へ出ると、相変わらず蒸し暑かった。私は病院内を走り抜けて玄関へと出たことに気付いた。
喧騒は止んでいた。あんなにいた人集りも今は誰の姿も見えなかった。暫く病院の入り口前でぼんやりとした。それが私を現実の世界へと戻してくれた。
さっきの出来事は夢かと思ったが両肩に母親から掴まれた感触が残っていた。
「榎木津さん……」
彼が私の記憶を再構成して視たものと、書庫室で何を見たのかを確認しなくてはならない。痛む身体の事は無視して当初の予定であった神保町にある探偵事務所へと向かった。
電車に乗り込むと、周りからじろじろと不躾な視線を肌で感じた。そういえば、内藤に手当してもらった腕や脚には包帯が巻かれ、見るからに怪我人の風情である。おまけに服も汚れていて解れていることに気付いた私はその視線を気にも留めず、ワンピースに付いた泥に目を落とした。
御茶ノ水駅に出ると私は打撲で傷んだ脚の痛みを我慢して、思うように走れないが一分でも一秒でも早く探偵事務所へと急いだ。
心から溢れ出した
ごみごみとした古書店街を抜けると三階建てのビルヂングが見えて来た。この辺りは二階建ての建物が多いから、三階建ての榎木津のビルはよく目立つのだ。ビルの階段を昇って、勢いのまま薔薇十字探偵社の扉を開け放つと驚いた表情の榎木津と和寅が私へと視線を向けていた。
私は腰が抜けたかのようにへなへなとその場に尻餅を着いた。
「なまえさんどうしたんですか、怪我してるじゃないですか!」
和寅が私の方に慌てて駆け寄って来て、接客用の椅子に座らされた。
榎木津は、接客用の応接セットの横にある『探偵』と書いた三角錐が置いてある大きな席に座って昨日と変わらず、陰鬱な表情で大きな瞳を半眼にして私を注視ていた。
私は息を整えるように何度も大きく空気を吸うと幾分楽になり、先程の出来事――カストリ雑誌に実家のことが書き散らされていたこと、実家に行った時に負傷したことと手当されたことを伝えた。
「手当しているので大丈夫……それより――」
「……先生は昨日帰って来てから今までずっとあんな感じでさあ」
和寅がそっと耳打ちしてくれた。私は椅子から立ち上がると榎木津の席へ近づき、両の手を机に置いて彼と目線を合わせるよう上体を屈めた。
後ろで和寅が、動いちゃ駄目ですよう、怪我してるんだからと喚く。
「……榎木津さん、昨日梗子姉様の部屋で見たことを教えて下さい」
私の視線を榎木津の硝子玉のような大きな瞳が見返した。榎木津は無表情のまま暫く黙っていたが、ふぅ、と息を一―息吐いてから漸くぽつりと一言喋った。
「なまえちゃんは僕に見えない振りでもしているのか?」
「……え?」
その言葉の意味が分からず、私がきょとんとしていると榎木津は少し不機嫌そうな口調で続けた。
「人間消失だというからどんなトリックがあるのかと色色考えたけど、あれでは馬鹿馬鹿しいじゃないか!藤牧は消失した訳でもなく、そこにいるんだ。だから、僕に出来ることといえば警察に報せること位なんだ」
それはつまり――。
「い、一年半前から……あの書庫室で……?」
今朝見た夢の中で現れた義兄の死体。ナイフが刺さり、身体を胎児のように丸く屈めて横たわっていた。
「なまえちゃんもお姉さんも藤牧の死体を一年半の間、ちゃんと見続けているんだ!どうやら関君にも分からないみたいだし、あれじゃあ関の猿が大変なことになるから今朝炬燵櫓男に電話で知らせてやったのだ!」
炬燵櫓男とは一体誰なのか解らないが、目の前の探偵は自信ありげに言い放った。
私達姉妹に加えて、関口も牧朗の姿が見えないのに榎木津には見えたらしい。私はますます混乱した。
「……牧朗さんは既に死んでいるということ……?」
私は心の何処かでずっとそう思っていたのではないか?
「例え牧朗さんがあの部屋で死んでいるにしても私にも姉達にも矢っ張り死体が見えないのです。実は中禅寺さんから榎木津さんの体質のことは伺っています。榎木津さんは、私達の記憶から牧朗さんの死体を視たのですね……?」
探偵は何も答えなかったので私は肯定として受け取ると、息を吸い込んで息苦しさを吐き出すよう呟いた。
「――蛙の赤ん坊も……」
「そうだよ」
榎木津は私の頭の二、三寸上を見てから短く、呆気ない程あっさりと答えた。
私はその様子にすっかり全身が脱力してしまった。
「……実は言っていないことがあるのです」
私は探偵から目を外すと力無くふらりと上体を起こす。
「……私には今回の件を含めると二回、記憶が曖昧なことがあるのです。裏付ける確たる証拠もないからあの時お話することが出来ませんでした」
「に、二回?」
和寅が訝しげに話に入るが私はそれに構わず頭の中で言葉を並べ、そして並べ替えしながら口に出した。
「曖昧というよりは朧気とでもいうのでしょうか……思い出そうとすると、情景に霞がかかって頭が痛くなるのです。十年程前と一年半前です」
「そ、それって牧朗さんが失踪した時期じゃないですかい?」
「……実は一年半前の一月十一日に新年の挨拶に実家へ行ったと、この間ここでお話したのですが、それだとおかしいんです。当時はそうは思いませんでした。涼子姉様から梗子夫妻のことを聞いて彼女の様子を見に行ったのが、十一日だったのは確かです。既に牧朗さんは行方不明、梗子姉様は書庫室に移されていて父から妊娠三箇月の診断をされましたから。でもそれから二、三日経ってから九日にも帰ったのではと思って塵芥箱に捨てた日捲りカレンダーを確認してみると実家に挨拶、と九日に印が付いていました……だから私は新年の挨拶で二回実家に帰ったことになるのです」
「因みにどうしてしっくり来なかったんです?だってなまえさんは家に籠って執筆していたのでしょう?九日の予定だったとしても、筆の進み具合で変更した可能性だって――」
和寅の言う通り、私もそう思ったのだがそれだとおかしいのだ。榎木津は黙ったまま空中を注視ている。
「八日に原稿は仕上がるようスケジュールを組んでいました。予定通り、原稿は出来上がって担当編集者が受け取りに来たので渡したことを思い出したんです。それなら当初の予定通り九日に挨拶に行けない理由がないし、十一日に再度実家に行く理由とは何でしょう?これはおかしいと思ってその後に両親と涼子、使用人夫妻にも尋ねましたが九日には来ていないと……」
「……残った原稿を執筆してたとか新しい原稿に追われていたとか」
和寅は暫く目を瞑って考えていたが、名案だと言わんばかりの雰囲気を私は否定した。
「全ての原稿は八日に渡し済みなんです」
私は唇を噛んだ後、自分でも驚く位消え入るような声が出た。
「……何よりおかしいのは、私には九日の記憶が朧気で十日に関してはそっくり抜けてしまっているんです。気が付いた時は十一日で自宅で寝ていました。私が二日間何をしていたのか証明してくれる人物も居ません。思い出そうとすると頭に霞がかかって……」
「それなら二日間寝ていたとかでは?」
「こんな簡単なことも分からないなんて和寅、お前の頭ん中がどんな作りになってるのか逆に僕は気になって仕方がない!全くもって腹が立つ!お前のその馬鹿さ加減で僕は一日中寝込みたくなったぞ!」
榎木津は苛立ちを隠さないで叫ぶと椅子から立ち上がり、和寅の頭をぺしりと叩いた。酷い言われようである。和寅は叩かれた頭を撫で乍ら、お手上げ状態だと言わんばかりの情け無い声を出した。
「そんな考えることはない、簡単なことじゃないか」
榎木津は一旦言葉を切って私を指差してから、自分の言うことは絶対正しいという自信に満ちた口調で断言した。
「なまえちゃんはカレンダー通り、九日に実家に帰ってその日に藤牧の死体を見ているんだよ!何かの弾みで忘れてしまっているんだ。証明する人が誰も居ないのなら、僕が証人になるから安心しなさい!」
榎木津の言葉に私は目を白黒させた。
一瞬声の発し方を忘れてしまったようで、言葉が出てこなかった。目の前で
私はやっとの思いで言葉を紡ぎ出す。
「そう、なのかもしれません。私は自分でも知らない内に記憶が朧気なんです。でも、今まで何の支障もなく生活して来たものだから別段異変も感じて来ませんでした……でも母に蛙の赤ん坊のことを確認した時、記憶にない映像が――」
和寅がぎょっとした顔をして私の方へ視線を飛ばした。
「なまえちゃんの話はどうもいけない!僕は難しい話が苦手なのだ!こういう時はあいつに話すのが一番だな。僕が話を忘れる前に中野の古本屋に行こう」
「えっ?」
私が素っ頓狂な声を出したと同時に榎木津はつかつかと跫を立てて私の前まで来ると不敵に笑って私の手を掴んだ。中禅寺の自宅へ向かうべく私は引っ張られるままに探偵事務所を後にした。