「ごめんなさい、ごめんなさい、痛いよ**!もう忘れるから、誰にも言わないからだから、許して――」
またこの夢だ。私は目の前の人物に何度謝るのだろう。物凄い力で掴まれた両肩はとても痛くて堪らない。
あの小さな塊は何だろう――?
そう思った私は、何度目か判らないこの夢の中で目の前の人物以外に目を向けた。
どうやら手術室のようだ。
血塗れの石がぽつんと床に置かれていた。
私の両肩を掴んでいるこの人物も良く見ると血塗れである。見馴れた黒の小紋はぬらぬらと濡れている。寝台には誰かが横たわっていた。
ただ、私からは逆光になっているので誰だかは判らない。
石の傍に転がっている肉塊は赤ん坊のようである。
――赤ん坊?
榎木津は言っていた。私には赤ん坊が視えると。
目を凝らして見てみると、それは――、
頭蓋が陥没し、大きな両の目が飛び出た蛙のような赤ん坊が無感情に私を注視めていた。
私も無感情にその物体を眺めていると、赤ん坊はむくむくと成長し始める。頭蓋部分が伸びて飛び出た目が収まる。
髪も生え、丸々とした身体も縦に伸びて短い手足は、すらりとした手足に変わる。
そして眼鏡を掛けて白衣を纏った義兄――脇腹に果物ナイフが刺さった久遠寺牧朗に成長した。
ふと、牧朗と目が合う。
私はそこから微動だにも牧朗から視線を外すことも出来ずに生唾を飲み飲んだ。牧朗の口元が微かに動いた。
「***……」
私は肩を掴んでいる人物へと目を向けた。
そこには、血塗れの母が。
寝台から何者かが私を見ていた。
声にならない悲鳴をあげて私は目を覚ました。
整頓された本棚。文机には原稿用紙が積み重なっている。外から小鳥の囀りが聞こえる。いつもの私の部屋が目の前に広がっていた。
――悪夢だ。
寝汗が酷く、呼吸も上がっていた。頭も重くて痛かった。
時刻は午前九時。
私は重い身体に鞭を打ち、のっそりと起き上がると寝汗を拭くために手拭いを手にした。部屋着が身体にへばり付いて不快だった。手拭いを水で濡らし寝汗をかいた身体を拭き乍ら私は先程の夢を思い返す。
小さな私が泣き喚いているのはいつもと同じだった。夢は潜在的願望の現れだという説があるが、それでは私は牧朗が死んでいることを望んでいるというのだろうか。
いや、あまりにも短絡的過ぎるし何だか齟齬がある。
そもそも、私にとって牧朗が死んでいることを望む理由などないし血塗れの石と――母は何を意味するのか。
「蛙……」
私は鏡に映るもう一人の私をぼんやりと眺めてからボツリと呟いた。涼子と梗子にそっくりな容貌が私を見返している。鏡に映っているのは私自身なのか涼子なのか梗子なのか判らない。
あの夢で見た寝台からこちらを見ていた相手は誰だったのだろう。
直感的に涼子だと思ったが梗子かもしれないし、私自身なのかもしれない。
私達姉妹は外見がそっくりなのだという。
――蛙の顔をした赤ん坊が見えたんだ。
榎木津のあの言葉!
私は自分の両肩を抱えて
どうして今までそれに思い至らなかったのだろう。彼と出会って以来何度か私に尋ねて来たではないか。
「……母様と榎木津さんに、会わなくちゃ……」
それに、昨日榎木津が書庫室で何を見たのかも私は知らないのだ。自分でも判る程、私の声は強張っていた。
朝食は食べる気がしなかったから、手っ取り早くワンピースを来て外に出た。途中、本屋が目に入ったのでふらりと立ち寄る。
本日発売という札が掛かっている雑誌を手に取ると私は誌面に印刷されたけばけばしい色の活字に釘付けにされた。
その雑誌は『猟奇實話』というタイトルの下劣なカストリ雑誌だった。
嬰児を食らふ鬼子母神・色情狂の腹に宿つたのは鬼か蛇か――。
雑司が谷のK産院の娘は、男を見ると咥え込む淫乱でその乱行たるや筆舌に尽し難く――
くらりと眩暈がした。活字が滑る。読むに堪えない。私は好き勝手書き連ねた誌面から目を離す。
他の雑誌を見てみると、同じようなカストリ雑誌には実家の病院のことが誹謗中傷の内容で面白おかしく書き散らされていたのだ。私は無意識に雑誌を持つ手に力が入っていたのか、粗悪な印刷紙がぐしゃりと潰れる音がした。
居ても立っても居られず、私は榎木津の事務所を後回しにして実家に行くことにした。
そのまま乱暴に雑誌を放り込んで店を飛び出す。後ろで本屋の亭主が何やら怒鳴り散らして来たが、そんなことはどうでも良かった。都電荒川線で最寄り駅まで出るとひたすら走る。
田舎の噂は気の遠くなるような時間を掛けてゆっくりと広がり民間伝承という形に変容するが、都市の噂の伝播は雑誌、ラジオのお陰で広範囲に瞬く間に広がる。それも、恐ろしい速さだから粗悪で悪質な尾鰭がついた噂である。
もっと早くに行動していれば良かったのだ。
カストリに書き散らされるまで放って置いてその結果がこれだ。
私の胸に去来するのは自責の念だった。
走っても走っても実家までの道程がもどかしかった。
法明寺の東側にある鬱蒼とした森を抜けると漸く石造りの建物が見えて来た。
しかし、その有様は見慣れた実家ではなかった。
私は足を止めて、一息付くと様子を窺った。
いつもは静かなこの場所には多くの人間が集まり、怒鳴り、喚き散らしていた。恐らく、カストリ雑誌を読んだ者達であろう。
壁という壁には口汚い落書きをされ硝子という硝子は割られていた。
ここは最早病院ではない。廃墟である。
目の前に広がる光景に一瞬怯んだが、私は意を決して人集りを縫って自宅へと足を進めた。
「あんたもこの病院の関係者か?出てけ!」
「赤ん坊返せ!」
「死んでお詫びしろ、この悪魔!」
罵られ、腕を引っ張られ背中を殴られる。
私は一言も応えず自宅へと真っ直ぐ進んだ。心の方がもっと痛かった。私には暴徒化した人間を止められる術は持っていなかった。
罵声を浴びせられ、揉みくちゃにされながらも門まであと僅かという所でぐんっと腕を引っ張られたので反射的に振り解こうとして身体を攀じると誰かに当たってしまった。
私の肘が胸に当たった男は痛みに苦しそうにしながら私を睨み付ける。
「ご、御免なさい……!」
「あ!あんたは小説家の――」
誰かが、そんな一声を上げるのを他所に私は睨み付ける沢山の瞳の間を一瞬の隙を突き、その人集りから素早く抜け出して病院へと入ったのだった。
中に入ると床の至る所に硝子の破片が飛び散っていた。外から石を投げ込まれた残骸である。
飛び散ったそれらを箒で集めている内藤がギョッとした顔で私に近づいて来た。
「名前お嬢さん、どうしたんです、怪我しているじゃないですか!早く診察室へ……手当をしますから!」
「……大丈夫です、内藤さん。こんな傷、ただの擦り傷ですから唾でも付けとけば治ります」
腕も脚も見てみると引っかき傷やら打撲やらで身体が痛く、服は所々汚れて解れてしまっている。
「そんな訳にはいかないでしょう!真逆、あの人集りの中を掻い潜って来たんですか?院長先生や奥様が知ったら――」
「それより内藤さん。母は……母様はどちらに?どうしても聞かなくちゃいけないことがあって……」
私は有無を言わせないよう住込の医師をじっと注視る。
久遠寺の主筋に当たるということで母親が目を掛けてきたこの男は、牧朗が失踪してからより一層不摂生に磨きが掛かっている様子だ。無精髭も伸び、窶れて眼孔は落ち窪んいるが切れ長の目だけは充血している。
内藤は私の視線を受けて大きな溜息を吐き出した。
「ちゃんと奥様の居場所を教えますから、兎に角手当を受けて下さい。打撲だらけだし、最悪骨に皹が入ってる可能性も否めない。それに、痛いのを我慢するのは良くないですよ、お嬢さん。跡が残ったらそれこそ大変だ」
私は自分の怪我を改めて確認してみると、所々内出血して血が滲んでいたりかすり傷が沢山出来ていた。それでも矢っ張り心の方が痛かった。
「……お願いします」
そう答えると、内藤はこちらに来るようにと視線を投げて来たので私は彼に着いて行くことにした。診察室へ入ると一層消毒剤の臭いが鼻をついた。
大きな薬品棚が備え付けられ医療器具が所狭しと置いてある部屋だ。私は設えてある寝台に腰を掛ける。内藤は薬品棚から薬を幾つか取り出し、腕や脚の触診を始めた。
「痛っ……」
「骨に異常はみられないですね。腫れて内出血をしているので、これで冷やして下さい。その後包帯で固定します」
濡れタオルを渡され、腕や脚の腫れた患部に当てがう。
その間に、かすり傷の手当を受けた。
コットンにたっぷり含んだ消毒液がじんわりと傷に沁みる。赤い血が真白いコットンに滲んだ。
身体に出来たかすり傷は傷んだ患部の細胞を活性化させて新しい皮膚を作り、いつの間にか傷口を綺麗に塞いでしまうが心に出来た傷はそう簡単にはいかないのだ。
痛がる私の様子など無視して、内藤は清潔なガーゼで処置してくれた。
「有り難う、内藤さん」
手当を終え、片付けをしながらこちらを見ずに、
「打撲して内出血しているんですから暫くは安静にしてて下さいよ。走るのも止めて下さい。まあ、名前さんに言っても意味ないとは思いますがね」
内藤は横目で私の方を見て軽く嗤い、嫌味の一言を付け加えたが私が一言も返さないでいると、そのまま口を開いた。
「奥様なら、涼子お嬢さんのお部屋に居ると思いますよ。こんな雑誌が出たもんだから朝から大騒ぎですよ。名前さんが突破して来たあの人集りから飛んできたこれが涼子さんの胸に当たってしまって、先程院長先生に手当をして貰って漸く落ち着いた所ですよ」
そう言って内藤は苦々しい様子で丸めた紙切れを乱暴に広げて私に見せた。中には小石が詰められている。
嬰児を煮て食ふ亞魔の産院――
カストリ雑誌の一頁だ。私が先程本屋で読んできたものとは別のものだろう。
「――ところで、昨日お嬢さん達が連れて来たあのパイロットみたいな探偵さんは若先生の失踪をどう結論付けているのかな?」
私はくしゃくしゃになった雑誌の一頁から目を離すと、内藤は丸椅子に腰掛け姿勢を丸めて、私に挑戦的な視線を向けた。
「……警察を呼べと、仰っていました」
「け、警察?探偵がそう言ったんですか?」
内藤は口元を引くつかせる。
「何で警察が出て来るんですか!警察に来て貰って調べて貰うってことですか?そんなことされたら……っ、若先生は生きているんですよ、あの書庫室から如何にかして出て行ってどこかで生きているんだ、きっとそうだ!いや、そうじゃないと、でもそれだと……」
「な、内藤さん落ち着いて下さい。まだ牧朗さんが死んでいるとは決まった訳ではありません!私は榎木津さんとは途中で別れたので最後まで一緒ではなかったんです。だから、彼があの部屋で何を見たのか知らないんです」
寝室にあった血痕は牧朗の物だとしても、それで牧朗は死んでいるという証拠にはならないのだ。
――なあに、ここを開ければ全部判るよ。
彼は梗子に会って何を視たのだろうか。
ブツブツと独り言を言い始めた内藤の額に汗が浮かび始め、尋常ではなかった。
「……牧朗さんが生きているのなら、そもそもどうやってあの部屋から出て何処に行ったのですか?あそこの隣の小部屋は外からも中からも鍵が掛かったままで全てが密室なんです。それに牧朗さんがあの部屋に入ったという梗子姉様の証言があるんですよ?」
その証言自体が嘘でも、梗子と内藤が共謀していたとしてもどのケエスを考えても上手くいかないのだ。
「……その謎を解いてもらうために探偵は来たんでしょう!?」
内藤は私の問いに苛立ちを隠さずに短く答えると蛇のような目付きで私を見る。
「梗子お嬢さんがあんなことになったのも、若先生の悍ましい腹癒せなんだ!名前さんも牧朗さんが長い事研究していたのを知っているでしょう?」
「またホムンクルスの研究とでも?あれは錬金術です。硝子瓶の中で色んな材料から人間を創り出すことは出来ません!それに、その研究ノートはお父様に確認して貰って発生学だと内藤さんも言っていたじゃないですか!」
しんと静まり返る診察室。目の前にいる男は牧朗の幻影に怯えているようだ。
「……内藤さんは何をそんなに怖れているのですか?牧朗さんが死んでいても、生きていても困るような……このまま見つからないことを望んでいるニュアンスを受けますけど……」
彼は何も言葉を発しなかった。
その様は肯定しているように見えたので、私は続けて口を開いた。
「……事件当夜、内藤さんは梗子姉様と一緒に居たんですよね?」
「なっ――お嬢さんも出鱈目の噂を信じると?巷でどんな噂が流れているか知りたくもありませんがね、僕は何度もその夜は自分の部屋に居たと言っているでしょう!?」
内藤は突然声を荒げて私を睨み付け乍ら捲し立てる。様子がおかしかった。
「でも、それを証明する人は誰も居ない。だから、あの夜本当は梗子姉様の部屋に居た可能性だって――」
「そう言ってるのはあの探偵サンですか?それこそ根も葉もないことじゃないですか!名前さんは、僕と梗子さんが不貞の関係を結んでいて二人で共謀してあの男を殺して何処かに死体を葬ったと?仮にそうだとしても梗子さんは肝心な部分の記憶を失くしてしまっているから真相は闇の中ですけどね」
内藤は私に次の言葉を喋らせないよう被せて来た。
「も、勿論、私だってそんな恐ろしいこと考えたくありません。でも――!」
あの時榎木津は、夫婦の寝室のベッド上に内藤が居たと言っていた。榎木津の幻視を信じるならば内藤と梗子は不貞関係を結んでいたと考えられるのだ。
「言っておきますが、僕は潔白ですよ。梗子さんとはそんな関係を持ったことなど一度もないし、それこそ彼女のことも疑っているってことですよ。名前さんは大事な家族と赤の他人である探偵の、どちらを信じるのですか?」
内藤は勢いを取り戻し、卑屈な表情になって詰問して来たが、私は答える術がなく詰まってしまった。
目の前の男は、私の様子を見て確信したかのように薄ら笑いを浮かべた。
「どうして何も言わないのです?……ああ、矢っ張り貴方は家族なんか――」
「止めて下さい……私のことは関係ないことでしょう?」
「いいや、関係なくないでしょう、貴方とご両親の仲はどこかぎこちない。お互い避けているように見えるし姉二人は貴方とご両親のことを非常に気遣っていらっしゃる。それに、僕がこの久遠寺に来た昭和十七年頃貴方は遠縁の親戚宅から学校に通っていたじゃないですか。戦争が激しくなるまでの二年間程新年の挨拶位しかここに戻って来なかった。当時僕は貴方のことを御家族に聞いても詳しくは教えてくれませんでした。貴方が今も昔も、特に奥様を避けているのは何故です?名前さん、僕は貴方が今でも小説家としてやって行くことを院長先生や奥様に認められていないことを知っているんですよ。貴方はあの二人が疎ましくて仕方ない筈だ!」
止めて、聞きたくない。
私は目を瞑って目の前の内藤の姿を遮断する。
言葉を、声を、耳に入れないようにするが耳は閉じることは出来ないから、そのまま内藤の声はずるずると這いずり回りながら私の耳に入り脳内に到達して、声は言葉に変換され私へと届く。
「――牧朗君が失踪して梗子さんが倒れて、こんな雑誌が出回って久遠寺の家が崩壊しそうな状態が内心嬉しいのではありませんか?本当のことを言ったらどうなんです!?」
私は堪え切れず激昂した。
「――そんなことない!当てずっぽうで物を言わないで、内藤さん!!」
私の激昂した姿に面喰らったのか内藤は黙ってしまった。
「……私だって、何とかしたいんです……だから榎木津さんに牧朗さんの行方を捜して貰うよう頼んだんです」
鼻の奥がツンとした。知らず知らずの内に声も身体も震えている。
「……どうも頭に血が昇ってしまったようで言い過ぎました」
「私こそ……怒鳴ったりして――御免なさい」
私は一旦言葉を区切った後、息を吸い込んでから、
「――私、母に会って来ます」
内藤へ目もくれず、ぎこちない動きで診察室を出た私は暫く暗い廊下をふらふらと歩く。
内藤が言った通り、両親とはまるでお互いが何処かにボーダーラインを引き、超えてはいけない境界スレスレを維持しているような関係性である。
両親は私が小説家として活動することを認めていないことも本当だし、姉達も私と両親の間を取り持つよう気を遣っているのも本当だ。私と両親の仲が上手くいっていないのはそれも一つの原因だとは思うけれどもどうも腑に落ちない。
理由は分からないのだが、何処か釈然としない。
両親、取り分け母親に対しての恐怖心は小説家になることを猛反対されただけで発生するとも思えない。
それだけでは恐怖心という効力は持たないのだ。
いつ頃から恐怖心を持っていたのか考えるならば、私が父親の遠縁の家から学校に通うようになったあの頃辺りだろう。
一息付いて漸く平常心へと戻った。
窓から射し込んでくる太陽の光で廊下は照らされており、床や窓のサッシには埃が沢山積もって時が止まったかのようだった。
この病院は既に死んでいる。
つい頭に血が昇ってしまい怒鳴ってしまった。私は深い溜息を吐き、目を瞑る。
網膜に映った映像は夢の中で見た牧朗の死骸だった。ならば、その死体は何処にあるのだ。
あゝ――頭が痛い。