銀星出版社を出ると私はそのまま実家がある雑司が谷へ向かう。『早稲田行き』のバスに乗り込んだ。期待の新人・久保竣公は独特な人物であった。
やや神経質な気はあるものの、特段嫌な印象は受けなかったが、好き嫌い分かれる人物だと思う。自分より下だと認識した相手はとことん貶すのではなかろうか。

気になるのは、彼の笑わない眼だ。
私が彼の視線から目を逸らしたのは、私が抱いている不安を見透かされてしまうんじゃないか不安になったからだ。
巷で噂になっている久遠寺医院の娘であるのが露見するのが嫌なのではない。

それは『私』を構成する一部分に過ぎず、もっと奥深くに根付いている――中身を久保に視られるのが堪らなかったのだ。

実家には午後二時過ぎに着き、まず涼子を探した。
内藤に涼子の居場所を聞くといると小児科棟の方へ歩いて行ったのを見たらしいので私も後を追った。小ぶりな造りであるが、堅牢な石造りの小児科棟へ入ると涼子、関口、榎木津と驚くことにそこには敦子の姿もあった。涼子から女性の探偵さんよ、と紹介された。

敦子はグレイの千鳥格子のハンチングを被り、同じ柄のズボンを履いていた。彼女はスカートを滅多に穿かないからいつも少年のような風貌である。だが、どこか少女っぽい雰囲気も併せ持っている不思議な女性である。
今日の榎木津は米軍のパイロットのような出で立ちで、航空隊にしか見えなかった。

『探偵』と云えば、シャアロック・ホームズのようにインパネスコートを着て、口には咥えパイプのスタイルを思い浮かべるが、榎木津にとっての『探偵』の基準は常人には理解出来ない。関口は昨日着ていたのと似たようなシャツとズボンであるが何だか顔色が良くなく、具合が悪そうに見えた。

敦子が私に今の状況を教えてくれた。
既に両親と内藤への聴取は済んでいるようで、これから小児科棟の現場確認の後、梗子へ面会する予定らしい。私は走ったために乱れた呼吸を整えた。強い消毒剤の臭いがツンと鼻につく。

子供の頃はよく一人で広い敷地内や建物内を探検して母親に叱られた懐かしい思い出がある。
勿論この小児科棟にも何度か探検した記憶があるがいつの頃からかこの場所の探検をしなくなった。
しなくなった、というより止めたという方が近いだろうか。

少なくとも子供のとき以来、梗子が倒れてからお見舞いに行くようになるまでの二十数年間この建物を避け続け、足を踏み入れることはなかったのだ。
草臥れて埃を被ったソファーとテーブルが当時のまま残っている。建物の中は相変わらず涼しかった。涼子は淡々と部屋を紹介する。

「こちらが大部屋――大きな病室です」

涼子は玄関から見て左手の扉を開けた。
部屋の中を覗き込んでいる三人の後ろ姿を私は少し後ろから眺める。

「今はご覧の通り使っておりません」

扉を開けたままにして、玄関から向かい合う位置にある部屋の扉を開ける。

「こちらには小さな病室があります」

いくつかの病室案内を終えると、私達は元いた待合室に戻った。

「そしてこちらが診察室――つまり妹夫婦の寝室です」

受付の小窓の隣の扉を指して涼子がいうと、関口と敦子は緊張した面持ちになった。この寝室から始まったのだ。しかし、一旦用を足しにその場をはずしていた榎木津が洗った手の雫を切り乍ら現れて、

「いや、ご不浄はお掃除が行き届いていましたねえ」

とこの場に似つかわしくない台詞のお陰で、二人の緊張感は一気に解れたようだ。涼子はゆっくりとした動作で扉を開けた。

部屋は待合室とほぼ同じ大きさである。
梗子が倒れて隣の書庫室で寝た切り状態になって以来、この部屋も空き部屋同然となっている。
部屋の中央に色褪せた絨毯が敷いてあり、何も掛かっていない装飾的なベッドが置いてある。壁には油彩の風景画がぽつんと寂しく掛けられている。
そんな殺風景な部屋だ。

「ははあ、何のことはない、大部屋とこの部屋は待合室を挟んでシンメトリイになっているのですね」

部屋の様子を確認し、榎木津は愉快そうにいった、

「ここで惨劇が行われた訳だ」
「惨劇というのは何だい?夫婦喧嘩のことを差しているのかい?」

榎木津はそのまま関口の問いには答えず、ベッドに歩み寄る。

「まあ、そういえばそうかなあ。ああ、矢っ張り奴さんベッドの上にいたんだね。そして亭主が入って――」

ベッドの前で身を屈めた。

「奴さんとは誰のことだい?」
「もちろんさっきの内田とか斉藤とかいう情緒不安定な人だよ」
「内藤さんがこの部屋の、しかもベッドの上にいたっていうんですか?いったいいつのことです?」

敦子は榎木津の横で同じように身を屈めてから、そう訊いた。

「それってつまり、内藤さんと梗子姉様は――」
「敦ちゃんには刺激が強過ぎるね」

私にその先の言葉を言わせないよう、榎木津は被せるようにいった。

内藤と梗子が?
正直私は、信じられなかった。信じたくない。

そしてそのまま窓辺へ歩み寄り、暫く部屋を見渡して、今度は窓伝いにぐるりと歩き、入って来た扉の前で立ち止まる。

「なる程、逃げようとしたんだね」

蟹のような横這いの動きで壁沿いに移動した榎木津は、油絵の額の所で座り込んでしまった。

「ここで腰抜かしやがった」

関口、敦子、涼子は探偵の奇態に呆気に取られていた。関口は榎木津の前まで進み出てしゃがみ込むと、探偵の不可解な行動に苛立ったような口調で説明するよう求めた。

「榎さん。ちゃんと解るようにいってくれよ。それはいつのことで、どういう状況で起こったことなのか」
「それってもしかして、牧朗さんが失踪した晩に内藤さんがこの部屋で取った行動のことでしょうか?」

榎木津は他人の記憶が視えるのだ。しかも彼は先程、内藤に会って当時の梗子夫婦の状況を聞いたという。つまり、榎木津は内藤しか知り得ない情報――彼の記憶の映像を視たのだ。

「うん、正解!それにしても相変わらず関君は猿だなあ。――ああ、矢っ張り血痕だ」

榎木津は絨毯の端の方を指差す。私達はそのまま指差す方へ歩み寄ると、慥かに絨毯には黒い染みが付いていた。

「これ――血痕でしょうか?」

敦子はポケットからハンカチを取り出して、黒い染みが付いた絨毯をそっとつかんで恐る恐る持ち上げた。
その黒い凝固物は床にも広がっていた。
涼子は黒い凝固物を見ると蒼冷めていた。

「だ、誰の血痕でしょう――どうして――今まで誰も気が付かないなんて――」
「それはね、床に付いた血痕を綺麗に掃除した人がいるからです。しかし綺麗にしたつもりが急いでいたのか何なのか、絨毯に染み込んだヤツまでは洗えなかった。それがじわじわと床まで達していることにも気づかなかった。絨毯は暗褐色で染みが判り難いし、こうやって変な位置から見ないと矢張り気付き難いでしょう――」

榎木津は座ったまま陽気に答えた。

「私も気付かなったわ……」
「これは誰の血痕なんです?」

敦子が訊くと榎木津は、勿論失踪した牧朗君の血だよ――とあっさり答えてから立ち上がり、パンパンとズボンを叩いて埃を払った。

「それじゃあ榎さんは牧朗さんがここで殺されたとでもいうのか?」
「殺されたなんていってないじゃないか。この血痕が彼のものだといっているんだ」

物騒なやり取りである。

「それに、そんなことは関係ないじゃないか!」

その場の雰囲気ににそぐわない妙に明るい口調で榎木津はいう。

「関係ないってどういうことだい?榎さんはここに何をしに来たんだ!涼子さんとなまえさんからの依頼の内容を、忘れたのか」

関口は、もう我慢ならないといった雰囲気できつい口調で探偵に問う。

「忘れてなどいるものか。君もおかしなことをいうな」

探偵は、関口の言葉に心外だという表情を顔一杯に表してから関口を見つめる。

「なまえちゃん達は消えてしまった牧朗君がどうなってしまったのかが知りたい――といって僕のところに来たんじゃないか。そして生きているなら何故失踪したのか知りたい――といったんだ、ねえ?」

私も涼子も当惑したまま榎木津の言葉に小さく頷いた。

「だから、関係なくはないじゃないか」
「何でた?ここで何があったのか知りたいなんて依頼は受けていないんだよ。牧朗君は間違いなくこの部屋からは出ているんだから、ここから出た後どうなったかが問題なんじゃないか。ここでどんな活劇が行われようと、それは失踪する前に起きた出来事にしか過ぎないんだよ、関君。だから僕等が深く立ち入る必要はないんだ」

榎木津は落胆した表情になってこう続ける。

「家族の話なんか聞くべきじゃなかったんだよ。僕は後悔している」
「聞かなくちゃ解らないだろう」

関口の言葉に、榎木津は本当に解らないといった風に首を傾げる。

「事情を知っている人達から話を聞かないでどうして捜査が出来るっていうんだ?失踪の動機が知りたいっていうのも依頼の一部じゃないか」
「関君、僕は捜査なんてしないんだよ。そんなものは警察がやれば良いだけのことで、探偵の仕事じゃない。探偵に必要なものは――結論だけだ」

榎木津のぶっ飛んだ答えに関口が言葉に詰まっていると、そのまま榎木津は口を開く。

「だいたい関君、君は間違っている。彼女達は、生きているならという括弧つきで失踪の動機を知りたがっているんだ。死んでいる場合は動機なんてどうでもいいんだ。そうでしたよね、ええと――」
「そうでした。慥かに私達は榎木津様にそう申し上げました」

涼子は私にも目配せする。私も涼子の視線を受けて静かに頷いた。私達の視線だけの応酬に榎木津は、決然きっぱりした口調で関口にいった。

「そらみろ。だからこそ僕は引き受けたんだ。人の気持ちのことなんかあれこれ推理したくなどないよ。生きていれば捕まえて当人に聞けばいいじゃないか。先ずは彼がどうなったか突き止めればいいんだろう」

関口が榎木津に近付き、何やら話すと榎木津はすっ、と表情なくした。
私からは榎木津と関口二人のやり取りはどうやら小声になり、聞こえ難かった。榎木津は暫く黙っていたようだがボツリと放った言葉は不思議と私の耳に入って――。

「なあ関、実は蛙の顔をした赤ん坊が見えたんだ」

それは――、初めて会ったときの――!

駐在軍の通事の仕事をしている友人に誘われて入ったジャズクラブ。
いつの間にか友人は帰ってしまっていたのに気付かずにぼんやりしていると、つかつかとこちらの方へ向かう靴音がしたかと思うのと同時に榎木津に話し掛けられたのだ。

心臓が一際大きく鼓動し、身体中に張り巡らされている血管という血管が膨張して呼吸が少し乱れる。

ほんの少し開いた扉から明るい光が漏れている。
私はそっと扉に近づき、中を覗き込むと中にいた人物と目が合った。
頭の中で警笛が鳴らされる。その先は、思い出してはならない――

「涼子さん!」

隣に立っている涼子がゆらりと蹣き、私が彼女を抱き止める前に素早く敦子が抱き止めた。
榎木津はそんな涼子と茫然と立ち尽くす私をぼうっと見つめて呟いた。

「ああ、矢っ張り両方共蛙だ」

そして大きな目を伏せた。

「世の中には視てはいけないものもあるんだよ、関君」

鬱鬱とした口調でそういった榎木津は暗い顔をしたまま彼は沈黙した。涼子は敦子に介抱されて椅子に座った。関口は何故だか酷く狼狽している。

「有り難うございます。ちょっと眩暈がしただけですから――大丈夫です」

涼子は無理に笑顔を造って介抱した敦子に礼をいった。そして、涼子は能面のような表情に戻ってから榎木津の方を見るとか細い声でいった。

「榎木津様は――この世のものではないものがお見えになるのですね」
「いいえ、僕にはこの世のものしか見えません」

また、二人にしか解らない会話である。涼子は能面の表情を幾分和らげる。

「蛙の顔の赤ん坊もですか?」
「勿論です。その子は何なのですか?」
「ここであの夜何があったのかお判りですか?」
「さっきの男が何を見たかは判りますが、理由も結末も知りません」
「いったい何が視えたんだ!牧朗さんはここで死んだのか?」

関口が二人のやり取りに言葉を挟んだ。
榎木津は関口を見やるとニヤリと笑って答えた。

「いや、少なくとも彼はここじゃあ死んでないよ。だって彼は隣の部屋に行って、自分でそのでっかい扉を閉めたんだから」

そういって黒い重厚感のある扉を指差した。


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