榎木津ビルヂングを出て、腕時計を確認すると時刻は午後五時近くを知らせていた。
大分話し込んでいたらしい。
榎木津は部屋に引っ込んでからうんともすんとも言わず、最後まで部屋から出てこなかった。
神田駅に向かうまでの間、私達は特に言葉を交わすこともなく駅へ向かって歩いた。

「名前さん、今日は有り難う。お仕事、大変だと思うけどあまり無理してはいけませんよ」

涼子の顔は幾分青白く今にも倒れてしまいそうな程疲れているように見えたので、私はそんな涼子が今日は無理をして来たのではないかと心配になった。

「うん、有り難う。私のことよりも、姉様、お顔の色が余り良くないみたいだけど――」
「……私は大丈夫よ、いつものことですから。心配してくれて有り難う。それじゃ、また明日」

私は涼子の姿が改札から見えなくなるまで見送ると、自宅へと帰路についた。

翌日。私は連載物の作品の打ち合わせをするために、銀星出版社の担当者・瀬川すすむを訪れた。
彼は私と同じ世代である。
くりっとした目に鼻筋はスッとしており少しお調子者の性質がある。思ったことはどんどん口に出すタイプなので、彼のアイデアは底が見えなくて――斬新だが没になることが多い――打ち合わせは長引くことが常だった。

今日もいつものように、白熱した長い打ち合わせが終わると、彼は是非私に会いたいという作家がいるので少し待っていて欲しいとのことだった。

「あ!苗字先生、お待たせしました!――此方が久保先生です」

瀬川の横には、眉墨でも引いたようなくっきりとした眉、きついけれど涼しげな目元の役者のような男がいた。
真っ黒な髪は整えられており、仄かに整髪剤の香りもする。身嗜みもしっかりしており、両の手には写真屋が着用している薄手の白い手袋をはめている。

「久保竣公です。実は、僕は苗字先生の作品が好きでして、今連載中の『ユートピア』も拝読してます。本日僕も次回作の打ち合わせで来たのですが、先生がこちらにお見えになると伺ったものですから是非お会いしたいと瀬川さんに無理を言ってお願いしたんです」

久保はちらりと瀬川を見遣ると早口に捲し立てた。どこか神経質そうな気がある。

「そう言って戴けると嬉しいです。私も久保先生の作品『蒐集者の庭』は拝読しています。確か、本朝幻想文学新人賞を受賞されたと聞き及んでます。他人の懊悩を蒐集コレクションするのを生き甲斐にした神主という設定も面白くて。不思議で、とても……興味深いお話でした」

久保の眼の色が変わったような気がした。

「僕は久保先生の作品を拝読した後は、暫く引き摺られましたよ。人間の心の闇と言いますか、修験者と神主の遣り取りの中から浮き彫りにされた神主の業の深さが後を引きましてね。僕も魅了されてしまったんですよ。久保先生の計算に嵌った内の一人です」

久保の隣で屈託無く笑う編集者は、人間の欲深さや心の汚い部分にまるで縁が無いような笑顔である。

「誰もが他人に見せることが出来ない秘密は少なからず持っていると思うんです。こうやって屈託無く笑う瀬川さんにも後ろめたい事柄があるのかもしれないですね」

私はにこりと笑って横にいる青年編集者に視線を投げた。

「何を仰るんですか、僕には苗字先生にも久保先生にも言えないような秘密はありませんよ!何なら、何でも聞いて下さい!」
「冗談です、瀬川さん」

私はゆっくりと、久保へ視線を向けた。

「あのお話は独特な世界観でした。主人公が伊勢神宮の神主という設定が新しくて良かったです。そういえば、久保先生は伊勢に縁があるとか」
「出身は伊勢ではありませんよ。物心付く前に両親は他界してます。ですから、私は伊勢に住んでいた祖母に育てられました」
「あ……辛いことを聞いてしまいましたね、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ、かなり昔のことなので私自身憶えていないのです」

私が謝ると、久保は特段気にしていない雰囲気の口調だった。私はそこで、話題を久保の作品について戻す。

「先生の作品には、人間の不幸――心の闇と業の深さを感じました。神主の業の深さに魅入られた修験者は、生きているのに心が彼岸に渡ってしまったんですね。人の心の闇は蠱惑的な何かがあるんでしょうね」

その闇の先を知りたいと思ったら命取り。引き摺られて真っ逆さまだ。

「あの作品の表現方法に興味が湧きました」
「…と、いうと?」

久保は私の視線を受けて不敵に笑う。
そのまま薄手の白い手袋をはめた手先を唇の上に持っていき、考える仕草をして私をまるで図るような、吟味するような眼差しを送ってきたのでその視線をそのまま真っ直ぐ受け止めた。

「何というか……包み隠すような、とでもいうのでしょうか。幻想小説という枠に無理矢理収めた感じです。作品中の表現の美しさや語句、文法、文体の技巧を技と崩すことで、わざとそのように見せている可能性もありますし、逆に気付かされることなく緻密に文体を崩している場合私は久保先生の計算に見事嵌っている訳です。読んでいる途中で読者にそれと悟らせてはならないから、作家自身の技量が試される訳ですが読者が見事術中に嵌っていたら作家冥利に尽きますね。尤も――それを判断するのは読者ですけど」
「実に興味深い考察ですが……先生と雖も、流石に文法技法や語句の選び方や表現方法は秘密ですよ」

口許は弧を描いているのに、久保の眼は笑っていなかった。彼の瞳には私が映っているけれど、私自身はそこには映っていないのだ。
彼の瞳に映る私は、私の心だ。
久保の瞳に映る私自身が私の中味を視ようとしている気がしたので、私は自分の心の奥底を覗かれるのを避けるかのように一旦彼から目線を外した。

「ええ、勿論です」
「全くです。……僕にも一つ、苗字先生の作品で質問させて下さい。先生のデビュー作『ジグゾオパズル』に出て来た主人公ですが、本当に一日しか記憶が保てない何てことはあるのですか?」

久保はそう言って意図的に話題を私の作品へ移す。彼にはそんな意図はなかったとしても、私にはそう感じられた。

「記憶喪失って小説の題材として使われますよね。瀬川さん、貴方の恐怖体験や思い出したくないエピソードってあります?」

急に久保に話を振られた瀬川は視線を天井に向けて少し考えて、身震いし乍ら話す。

「そうだなあ、矢っ張り前線に送り出されるのを待っていた時は生きた心地がしませんでしたよ。今だから言えますけど、御国のためとはいえ、まあ、死にたくはありませんでしたし。終戦の報せを聞いたのは、あわや送り出される寸前でした」

瀬川の死にたくなかったという言葉だけは言い難そうな口調だった。
当時、兵役忌避すれば家族は非国民扱いされるし捕まれば半殺しにされた者もいる。
『進め一億 火の玉だ』など、日本全体が連合国軍と刺し違える覚悟でいるようなスローガンも多く、政府が意図的に扇動していたと思う。
今思い返せば、正気ではなかっただろう。

「例えばその体験が瀬川さんにとって『思い出したくないエピソード』と脳が選択した場合、エピソードそのものを思い出させなくするのが心因性の記憶喪失ですよね」

脳と心――精神は切っても切り離せない関係だ。
心の病に罹ると脳の動きに異常が出る研究結果もある。ただ、大脳に関して分かっていないことも多いが、最近だと脳のどの部分がどういった働きをするのか解って来ているのだそうだ。これから新しい学説も出てくるから脳と精神の関係は次々と解明されて行くだろう。

「確かあの小説の主人公は事故か何かが原因だったと思いますけど――」

『ジグゾーパズル』はこんな話である。
主人公の青年は事故に遭って以来、一日分しか記憶が保てない。
だからいつもノートにその日あった出来事を書き記す習慣があった。次の日主人公が目を覚ますと怪我をしていて病院に運ばれていた。ノートが何者かに盗まれてしまった主人公は何故自分が怪我をして病院に居るのかも、何が起きたのかも判らない。

殺人事件の捜査を担当している刑事が訪れ、主人公がその犯人を目撃している可能性があるとして捜査協力を要請してくる。あの時何をしていたのか記憶を取り戻すために、主人公は刑事と共に捜査に同行する。

そこで浮かび上がってきた主人公の友人が怪しいと突き止めるが、確たる証拠もなく捜査は暗礁に乗り上げてしまう。
刑事と共に沢山の記憶の欠片を集め、パズルのピースのように当て嵌めていく――
そんな話である。

瀬川が、ですよね先生と私に同意を求めてきたので私は頷いた。

「……脳の記憶障碍で、前向性健忘症の一種だといわれています。交通事故や転落事故、殴られたなどの頭部打撲によって脳が損傷を受け、短期記憶が長期記憶へ移行出来なくなるために起こる記憶障碍のことです」

目や耳、皮膚から入ってくる情報を全て精査して処理することは脳でも追いつかない。だから脳が効率良く情報処理するために人は眠る。

視覚、聴覚、臭覚、触覚からの余計な情報を遮断している間、脳はこれまでの記憶から必要な記憶と不要な記憶を取捨選択して、長期記憶の蔵へ貯蔵していくのだ。

「まあ簡単に言うと、脳の中にある長期間保管出来る箪笥の抽斗が壊れて開かなくなり保管が出来なくなってしまう感じです」
「仮に僕がその記憶障碍になったとして……苗字先生や久保先生の名前は疎か、自分の名前は勿論、両親のことや小さな頃の思い出も何もかも思い出せなくなってしまうってことですか?」
「瀬川さんの仰るものは全生活史健忘というものです。よくいう、此処はどこ、私は誰状態ですよ」
「ああ、あれですね!ならば、前向性健忘の特徴って?」

私は目の前にいる編集者を例に挙げながら説明した。

「僕は瀬川すすむだ。現在雑誌編集を生業にして日日を送っている。出身は千葉の勝浦で子供の頃は海辺でよく遊び、学生の頃の初恋の女の子には振られてしまった。大学進学で都内に出て来て銃後は出版社に就職。ある時頭部打撃を受けた事故以降、僕は誰と会い、何を話して、どこに出掛けたのかが次の日起きると憶えていない……という事故以降の新しい体験エピソードだけが抜け落ちてしまうんです」
「は、初恋の女の子のことはいいじゃないですか」

瀬川は決まりの悪そうな顔になって情けない声を出した。

「つまり瀬川さんは、事故以前の記憶は持っていても今日会社に来て仕事をしたことも僕と苗字先生と会ったことも、今話している内容も何もかも全て明日になれば忘れてしまうということが肝心な所ですね」
「ええ、記憶出来る容量には個人差はあります。
ある一定期間の中でほんの僅かな部分の記憶が思い出せないこともあるみたいですよ。一日分の記憶しか持てなかった場合、頼みの綱となるのが記録です。でも、その記録が誰かに盗まれてしまって如何やら自分は殺人事件の目撃者の可能性もある。そうした場合、犯人に狙われる可能性は十二分にあるし主人公の友人も何やら動向が怪しい。それに、盗まれた記録、欠けた記憶を取り戻すことは主人公にとって自分自身を取り戻すのと同義だと思ってます。不完全な自分からの脱却です。一つの殺人事件を発端に主人公の焦りと不安、友人達の思惑と人間の心の弱い部分を小説として書きたかったんです」

私の言葉を受けて久保は何か引っ掛かったのか、形容し難い妙な表情で一言呟いた。

「……不完全な自分、ですか」
「人間の感情表現は勿論、情景描写や構成などまだまだ課題はありますけどね」

私はそう言ってから腕時計をちらっと確認した。
時刻は午後一時半だった。
確か、午後一時から榎木津と関口が実家に訪問する手筈である。ここから実家の病院まで三十分程の距離だからそろそろ出発しなければならない。

「あの、お話の途中で申し訳ないのですが……久保先生、瀬川さん、この後予定が入ってますので私はこれで失礼させて戴きますね」
「ああ、挨拶だけでもと思っていたのに結構な時間お引き留めしてすみません。今日は苗字先生にお会い出来て良かったです。やはり同年代の方と話していると楽しくて時間を忘れてしまう……」
「とんでもない、私も楽しかったです。久保先生にお会い出来て良かったですわ」
「それじゃ先生、原稿の件よろしくお願いしますね!」

私は二人に軽くお辞儀をしてその場を後にしようとすると、

「苗字先生!またお会いしましょう!」

私が部屋の扉の前で振り向くと、久保は口元に笑みを浮かべていた。


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