涼子と母が逝った夜、梗子も後を追うように静かにこの世を去ったという報せが木場によって伝えられた。彼は四角い顔に、終始遣る瀬なさが滲ませていた。

その後、私と父は警察に護送されることになった。木場に案内され、無機質な素材で出来た安置室に入ると、まず最初に線香の独特な匂いが鼻を掠った。次に少しだけ肌寒く感じた。大雨に打たれて身体が冷えてしまっているから余計そう感じるのかもしれない。

木場が白い布を少しだけ捲る。
梗子の顔は青白くて、まるで眠っているようで――穏やかだった。私はゆっくりと手を伸ばし姉の頬に触れる。とても冷たかった。

「梗子の身体は、心臓をはじめとした内臓が手の施しようがないくらい痛んでたようだ。あの状態で一年半余り生きていたなんて信じられない、不思議だと……執刀医がいっていた。殆ど気力で生きていたんだと。死力を尽くしたが力及ばず申し訳ないってな」
「……そうか。御尽力頂き本当にありがとうございましたと、執刀医に伝えてくれ」

私は父に縋って子供のように泣くことしか出来なかったのに、父は涙を飲み込むように――木場に御礼を述べた。

「……梗子。今更いっても遅いが……本当に、済まなかった……菊乃も、涼子も、牧朗君も……!儂が見て見ぬ振りしなければ、こんなことにはならなったのになぁ……」

父は後悔の言葉を漏らした。

彼岸の住人は、いるべき場所に逝かなければならない。既に梗子も涼子と同じように、彼岸の住人として生きていたのだろう。
霧の濃かったあの夜。梗子から牧朗へ発露された鬱屈した愛情は毒のようにじわじわと細胞一つ一つを蝕み、彼女自身を殺してしまったのだ。
こうして久遠寺家の呪われた血筋は、私を残して絶えた。憑物筋の血を受け継ぐのは私ただ一人となった。

私と父は母と涼子の遺体にも対面した後、連日連夜の取り調べを受けた。
担当の木場と、その部下――青木と木下という――は今回の事件について頭を悩ませてしまっている。
告発者と犯人が同一人物で、既にこの世を去っている。容疑者死亡、書類送検で閉幕が濃厚だった。
私に至っては牧朗の死骸を目撃したものの記憶を失い知覚出来なかった経緯があるし、父は事件に直接関与していないが、見て見ぬ振りをしていたのである。

上記を鑑みると、最終的に逮捕されるのか書類送検にされるのか結論が出るには時間が掛かりそうだ。
取り調べと並行して私は精神鑑定を受けた。母と姉が目の前で死んだのを見ているし、長い間選択的健忘症だったことを考えて念のため受けさせられたが結果は特に問題なしだった。事件後、十数日経ってから私達は解放された。ただ、今後も調書を取るために警察に呼び出されるらしい。

関口が受け取った赤ん坊は幸いにも全く無事で、襲われた母親や看護婦にも大事はなく、ただ顔を切られた警官だけが六針も縫う大怪我だった。
そして、涼子の司法解剖でいくつか判明したことがある。涼子も梗子と同様、心臓がだいぶん弱っていたらしい。生きてるのが不思議な身体だったようだ。
涼子の脳から視床下部の辺りに物凄く大きな浮腫が発見された。つまり、頭蓋には殆ど水が詰まっていた。先天的なものらしく、大変珍しいケエスだという。涼子は出来損ないの無頭児だったのだ。
担当医はあの里村鉱市である――と、取り調べの時に木場が教えてくれた。

涼子と梗子、母、そして牧朗の遺体が戻って来たので、菩提寺の僧侶を呼び、私と父の二人だけのひっそりとした葬儀を執り行った。
私は僧侶が唱えるお経を無感動に聴いた。何だか、あっという間であった。
これだけ世間を騒がせてしまい病院は廃業を余儀なくされ、父は一旦私の自宅に身を寄せることになった。

ある日。父は古新聞の片隅に載っていた記事を指差して、私の方に見せてくれた。
良く見てみると、『失踪中の青年医師、変死体で発見』という見出しである。
記事は事件の本質は疎か、輪郭さえも何ひとつ擬えておらず、一体どこで起きた事件なのか判らない程に事実は省略され、歪曲されていた。

涼子は事故死、梗子は病死、母は自殺。
あの六日間の出来事が数行でまとめられている様は、妙にあっさりとしていた。
あんなにカストリ雑誌に騒がれた出来事なのに終わってしまうとこんなものなのだ。私達はその記事を無感動に読んだのだった。

その後、私達は病院の後始末に追われる日々を過ごしていた。
警察の出入りもなくなり、立入禁止となった住居兼病院の敷地は人の気配が消え、すっかり廃虚となってしまった。
どうやら父は、牧朗が行方不明になってしまった段階で病院をたたむことを検討していたらしい。
生活家財や病院で使用したものを処分し、廃業に必要な届け出の書類はある程度揃っていたので後は残りの書類を揃えてしまえば、提出出来るところだ。

一番頭を悩ませたのは、書庫室にある膨大な本の始末だった。その場に捨てる訳にもいかずどうしようか考えた結果、私は中禅寺に頼んで本の譲渡先を斡旋して貰うことにした。
長い間書庫室で誰にも読まれることなく処分されるよりも書物があるべき場所、書物を必要としている人間に寄贈した方が良いだろう。
中禅寺のお蔭で書物の処分は滞りなく終えることが出来た。久遠寺家の書物は歴史的文学的観点から非常に価値のあるものだったらしく、その道の研究者達や大学教授、博物館、果ては好事家達から引く手数多であっという間に処分出来てしまった。

病院の後始末の合間を縫って、私と父は警察署へ事情聴取に出向いたり忙しなく過ごしている内に季節は八月も半ばを過ぎており、母と姉達の四十九日を迎えた。あの哀しい夜から一箇月がとうに過ぎていた。
私はまだ実感が湧かずに過ごしているが、世間の興味は既に新しいことに移っているようだ。

数日前のとある深夜。女子中学生が駅のホームから飛び降り自殺を図ったという事件が報道されて、無遠慮な憶測が飛び交っている。女子中学生の身元は判っていない。

茹だる暑さの中目眩坂を登り、私は久しぶりに中禅寺の自宅を訪れた。
店先には上手いんだか下手なんだか解らない文字で『骨休め』と書かれた札が扉に掛かっている。主人は恐らく母屋にいるのだろうと検討付けた私は、玄関へと回った。
ここに来るのも榎木津に連れて来られたあの日以来である。玄関の戸を開けて、ごめんくださいと声を掛けると「あら、いらっしゃい」と鈴の音のような声がした。中禅寺の細君である。

「千鶴子さん、お久しぶりです。お元気でしたか」
「ええ、お陰様で。あら、髪の毛切ったのね」

細君は私の姿を見て目を丸くした。

事件後、私は胸下まで伸ばしていた髪を肩までの長さにばっさりと切った。特に理由などないのだが、あの事件が影響しているのは確かだ。

「短い髪のなまえさんを見るのは新鮮ね、似合ってるわ。さ、上がって下さいな。あの人はいつもの座敷にいますよ。榎木津さんもいらっしゃってます」

ころころと愉快に笑う細君に私は主人の元に案内された。

座敷に案内されると、主人はあの日と変わらず本を読んでいたし、榎木津は畳に横になってぐうぐうと惰眠を貪っていた。
榎木津は気が向くとふらりとここに来て、気が済むだけ昼寝をして帰るのだと中禅寺が教えてくれた。
細君は水羊羹と冷たいお茶を出してくれた。

「その節は色色とご迷惑をお掛け致しました。書物の処分もありがとうございました。この間母と姉達の四十九日も終わり、遅くなりましたがご挨拶にと思って」
「なまえさんがこうしてここに顔を出してくれて何よりだよ。お父上はどうだね」
「父も相変わらずです。今は私の自宅に身を寄せています。実は……漸く父と和解出来ました。今まで父に小説家として活動することを認めて貰っていなかったんですけど、隠れて私の作品を全て読んでいたことが判ったんです。反対した手前、私の作品を全て読んでいることが言えなくなっていたみたいです。ずっと――擦れ違っていただけでした」
「そうか、良かったじゃないか」

中禅寺は心なしかほっとしたような面持ちだった。

「今後のことを話し合ったんですけれど、いずれ私の自宅から出てどこかに身を寄せるみたいです。私と一緒に住めば良いといったのですが私達は長い間ぎこちなかったですし、別々に暮らしていましたから……どうも上手く距離感が掴めないといってきかないんです」
「君達親子にはその距離が一番合ってるということだよ。これから少しずつ広がった溝を埋めていけば良い」

生暖かい夏の残滓の匂いがする風が座敷を通り、りんと風鈴が鳴った。

「――あの後、関口先生は大丈夫でしたか」

私はずっと気になっていたことを口にした。
あの夜、彼の様子は尋常ではなかった。関口は涼子に恋文を届けたという過去がある。しかも彼の目の前で涼子は死んだのだ。それでなくとも鬱病気質だから神経が参ってしまったに違いない。

「なまえさんが関口君のことを気にする必要はないよ」

中禅寺は事も投げにいい、水羊羹を頬張った。

「あれは元来ああいう性質たちでね、いつも彼方あちら此方こちらをふらふらしているから危なっかしい。彼が彼方側に渡りそうになったら、致し方ないが僕と榎木津で引き摺り戻すから君が気にすることではない。あの後暫くはうちに居たが雪絵さんと一緒に自宅へ帰ったよ」
「……そうですか。それを聞いて安心しました」

私は緩緩と口角を上げた。
関口の周りには中禅寺や榎木津達がいる。
彼もゆっくりとあるべき日常へ戻ったのだ。これからの彼の日常が平穏でありますようにと、心の中で祈った。
二度と、彼岸に迷わぬように。

「そういえば、暫く活動休止だそうだね」

中禅寺が質問に私はぽつりと答えた。

「連載させて貰っている出版会社には全て事情は話してあります。取材という名目で休載になりました。私自身、時々警察に呼ばれて調書を取られている身ですし、いつどうなるかまだ分かりません。
それに……あの夜以来、小説が書けなくなりました。どんなに考えても自分が納得する文章か出て来ないのです。苗字 なまえでいる必要もなくなりましたし――そもそも、久遠寺 名前は空っぽだから……どうやって小説を書いていたのかも解らなくて。私は苗字 なまえにはなれないのでしょうね……。気持ちが落ち着くまで活動休止にすることにしました」

銀星出版の青年編集者・瀬川は、私が事情を話すとショックを受けた顔をしたが、文壇に戻って来てくれるのを待っているといってくれた。
私の心はチクリと痛んだが、それでも嬉しかった。

ひょっとしたら、もう小説家には戻れないかもしれないけれど、これは私が払わなければならない代償なのだ。
家族と向き合うことをしなかった私の業なのだ。

「おお、なまえちゃんじゃないか!」

突如、名前を呼ばれたので私は声のした方へ目を向けると榎木津がもそもそと起き上がった。へらっと笑い乍ら久し振りだねぇといった。
私が軽く会釈して、「榎木津さんも相変わらずお元気そうで安心しました」といった。

榎木津は日本人にしては色素の薄い鳶色の瞳で私をじっと注視めて来る。

「何か視えますか?」
「――何も」

榎木津は一呼吸置いてから短く答えた。
何も視えなかったのではなく、何も気になるものがなかったのが正しいだろう。

榎木津が今までずっと気になっていた蛙の赤ん坊の正体も明らかにされた今、彼の網膜に映る私の記憶の映像は不可解なものではなくなったのだ。

「やっぱり蛙だ」

悍ましいものには変わりはないが。

「あの日からずっと……考えていたんです。母様も涼子姉様、梗子姉様、牧朗さんは途中で常識を見失って姑獲鳥うぶめに取り憑かれていたと思います。久遠寺の家に姑獲鳥が取り憑いていたのならば生き残った私が彼等の呪いを解き放つ役目なのかもしれないと――そう思うんです。あの後、どうして私が生き残ってしまったのかとずっと考えていました。一緒に連れて逝って欲しかったと……、何度も思いました。この結末を招いてしまったのはひとえに私が家族に向き合うことをしなかった弱さ、自分の中の妄執に囚われて現実を認識しなかったことが原因でもあるのです。
だからこれは罰なのだと思ったこともありました。でも……雨の中、奈落の底に落ちるお姉様が私にいった言葉を思い出したのです」

声は聞こえなかったけれど。唇の動きでそれは解った。

――生きて。

たった三文字の言葉に、それまで無気力だった私の心は強く打たれ、震えた。

「姉様は私にそういったのです。たぶん姉様は結末が解っていたんだと思います。自分が何を仕出かしてしまったのか、薄薄気が付いていたのかもしれませんね。だからこの凶事を終わりにするために私を伴って榎木津さんへ依頼したんだと思います。母様も姉様達も死に、久遠寺の呪いは私にも受け継がれてしまいました。……遣り方を目撃してますから。生き残った私が出来ることはその呪いと共に生きること――私の代で終わりにすることなのです。私が死ぬときに一緒に呪いも持って逝くことで延々と続いた呪いが終わるのだと思います。今まで家族に向き合うことをしなかった私が出来ることはこれしかないのです」

私は淋しくにこりと笑った。
時は刻まれ、世間は止まってくれやしない。あの日からあと少しで二箇月が経ってしまうのに私の時間は止まったままだ。

「死にたいとは思っていません。私には死んで逝った家族が遺した呪いと一緒に生きなければいけませんから」
「君が思っている以上に、彼岸と此岸の境界は曖昧なんだ。今だってあの庭の草陰からなまえさんが彼方側に転がって来ないか、手を拱いている不届きな輩がいるかもしれない。生半可な気持ちだといずれ歪みに引き摺り込まれて、戻って来れなくなるぞ……。それでも良いのかね」

中禅寺はいつになく厳しい表情で私を図るように見据える。

「全くもって駄目駄目だ!」

榎木津が突然仁王立ちになって、私に向って指差した。

「そんな生き方するのなら、人間なんか辞めてしまえ!」
「え、榎木津さん……?」

私は困惑しながら仁王立ちしている探偵を見上げる。

「人間を辞めちゃえばなまえちゃんは楽になれるさ、きっと。でも、そうしてまで生きたいのか?そんなものに縛られて生きるのは楽しいことなのか?なまえちゃんが楽しいのなら僕は何も言わないが……何でそんなに泣きそうな顔をしているんだ?」

榎木津は私へ怒涛の質問をするが、私からの回答など求めていないようだ。
そんなに酷い顔をしているのだろうか。私は己の頬に触れてみた。

「難しく考える必要はないのだ。僕は京極みたいに呪いだのお化けだの難しい話はよく解らん!身動きが取れなくなれば自滅するだけだ。お姉さんはなまえちゃんが苦しみ乍ら生きることを望んでいる訳じゃないだろう?僕は人の気持ちの彼是あれこれなど知りたくないが、僕は神だからこれだけは解るぞ!」

榎木津は自信たっぷりに続ける。

「なまえちゃんが満足する生き方をするだけだ!」

榎木津の言葉は、いつものように支離滅裂でも破茶滅茶でもなく至極まともだった。

涼子は私に生きて、といった。
久遠寺家の呪いで苦しみ乍ら生きるのではなく、きっと私自身が満足出来るような生き方をして欲しいと願ったのかもしれない。
涼子の言葉の真意は彼女にしか解らない。もう彼女の真意を確かめる術はないが、私があの言葉をどう受け止めるかによって変わるのだ。

「何で……そんな当たり前のことが私には解らなかったんだろう」

ぽつりと言葉を零してしまった。

あの夜から押し込めていた感情がせきを切って漏れ出す。
あの夜以来一度も流していない涙が瞳から溢れ――。

私はただ――泣いた。

瞳から溢れる涙は、私が背負い込もうとしたモノを吐き出す。
嗚咽を抑えることが出来なくて、苦しかった。
涙が冷たく凍った私の心と混じり合い、馴染んでいく。

そして漸く、私はゆっくりと日常に戻ることにした。
八月も半ばを過ぎた、蒸し暑い日のことだった。


(了)


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