私達は中禅寺の言葉をそれぞれが沈痛な面持ちで聞いた。

「そして、強い恐怖とストレスを経験したなまえさんは、一部分を忘れてしまった。心的外傷やストレスによるダメージを避けるため、彼女の脳は緊急避難的に機能の一部を停止させることで自身を保ったんだ。でもそれは記憶喪失――僕が思うに選択性健忘症を招いてしまった。健忘症は程度と内容によって五つに分類され、心的外傷を体験した人によくみられるし家庭内不和や、貧困、病気や怪我なども関係する」

選択性健忘とは、数時間から数日という短時間に生じたある出来事に関して、思い出せる部分とそうでない部分があることだ。
榎木津と一緒に中禅寺の家を訪ねたあの時、私は数時間から数日の極めて短い時間の記憶が曖昧だと話した。日常生活で支障を来すほどの困難なもの――名前を忘れていたり、全てのことを忘れている訳でもない。
私の話を聞いて、ある程度の予測が出来ていたのかもしれない。

「なまえさんは何かしら強いトラウマを短い時間に体験したんだと思う。榎さんは蛙の赤ん坊と母親だと言うから、僕は木場の旦那が持って来た久遠寺の歴史のこと、家族のことで何か気になることはないか聞いてみたんだ。彼女が忘れていた、覚えていないと言っても、脳の奥底ではしっかり覚えている。現に彼女は奥様に怒られる夢を何度も見るそうだ。
それは彼女自身が無理矢理封じ込めた記憶の一部分だと僕は検討付けた。既に彼女の脳は自身を騙すことに限界だったんだ。無理矢理記憶を封じ込めることは相当な負荷を身体に掛ける。以前から歪みは出でいたのだろう。だから奥様からのたった一言で限界を迎えた脳は歪みを生み出し――冥府に送られたもう一人の彼女が一気に滲み出た。それが彼女が見た身に覚えのない映像だ。それでも彼女の脳は持ち直してしまった。
だから僕は恐怖だけでなく、彼女にとって受け入れ難い事実があるのではないかと考えた」
「受け入れ難い事実とは一体何なんだ?」

木場が私を見る。
私は長い時間封じ込めていた感情モノを吐露した。
あんなに頑なに思い出さないようにしていたのに、それは簡単に出来た。

「私が記憶を封じたのはショックが原因ではなく、『姉を見捨てたこと』に対する事実――私自身を受け入れたくなかったからなのです」
「涼子さんを助けたかったのですね。でもそれは奥様の手によって阻まれてしまった。結果、なまえさんは涼子さんを『見捨てる』ことになってしまった。これが彼女の中で大きな痼りとなった。だから、奥様の手でこの痼りを解して上げれば彼女の記憶が戻ると考えたんだ」



陰陽師が語り終わると再び沈黙がやって来た。十年近く、主人と共に蓋をして来たあの晩の続きを私は語り始めた。

「名前が逃げ帰った後、涼子は再び錯乱しました。体力的にも消耗が激しく、生死の境を彷徨う程――でもそんなに弱っていたにも拘らず、あの子はまた獣のようになって――」
「子供を攫ったのですね」

暫く黙っていた黒衣の男が恐ろしい事実をいう。

「そうです。しかもその日のうちにです。私のときは、それでも三日は立ち上がれませんでしたから――私は慌ててその子を奪い返して、母親に戻しました」

あのに私と同じ過ちを犯させたくはなかったから。そんな私の思いも解らぬ涼子は抵抗した。無理矢理子供を取り上げると、以前にも増して凶暴になって暴れて私も主人も満身創痍だった。

「それでなくてもお産の後です。このままでは死んでしまうと思い、私は主人と二人掛かりで暴れる涼子をベッドに縛り付けたのです」

今思えば、まともな精神状態ではなかったと思う。
もう、どうして良いか解らなくて正常な判断さえ出来なくなっていた私は――。

――涼子。よく見なさい……!命は玩具じゃありません!ひとときの遊びでこんな哀れな子供を作ってしまったのです。

「殺した赤ちゃん――無頭児を――ホルマリンに漬けて――枕許に置きました」

隣に座っている名前は悍ましい事実を聴いて、はっと息を吸い込んだものの吐き出すことが出来ずにいるようだった。

「酷い!」

今まで黙って話しを聞いていた女性の探偵助手が声を上げた。

「自分の子は死んだのだと、きちんと解らせたかったのです。そうしないとあの子は何度でも他人の子を攫う。あの子の気持ちは――私が一番能く知っている!それを解らせるにはそうするよりなかった。それに、無責任に子供を作ることがどれ程罪深いことか、それも解らせたかった。ひとときの遊びが、こんな哀れな子供を作ってしまった!
死ななければならない子供の気持ちを解らせたかった!慥かに――鬼のような母です。何といわれてもいい、それだけは解って欲しかった……!」

私は悲痛な想いを吐露した。

「子供は死ななければならなかったのではなく、あなたが殺したのです。残酷なようだがそれが事実だ。大義名分は解りますが、あなたのしたお仕置きが涼子さんにとってどんな意味を持ったのか考えたことはありますか?
あなたは自分がされたことを娘に遣り返したに過ぎないのです。あなたは脈脈と受け継がれて来た大昔の馬鹿馬鹿しい呪いを、そっくりそのまま娘に投げ渡したのです」

陰陽師は厳しい口調でそういった。

「私は……私は……」

ならば私はあの時、母として、一人の女としてどうやって涼子と接すれば良かったのだろう。
私だって、最初に産んだ我が子を一目でも見たかった。久遠寺の呪いを受けて産まれたとしても、抱き締めたかった。

お腹を痛めて産んだ我が子を一度も抱き上げることも許されず、産まれた瞬間に叩き殺されて――母親に成り損ねた涼子が可哀想だと思いながらも、しきたりだからと言い聞かせて石を振り上げた愚かな私。
しきたりという名の――久遠寺家歴代の母親達の怨念。

「あなたのしたことは間違いだった。あなたに必要なのは慈愛に満ちた母の理解と包容力、そして古い因習を断ち切る勇気と近代性だった。あなたには、その全てが欠けていた。それを以って涼子さんに接していれば、少なくともその後の忌まわしい事件は忌避出来ていたのです。返す返すも残念です」

陰陽師は更に厳しい口調で続けると、静かに立ち上がり「それで、涼子さんはその後どうしたのですか?」と質問した。

「慥かに――仰る通り、私には欠落した部分があったのだと思います。母として娘にどう愛情を注いでいいのか、自分がそうされなかった所為もありますが……能く解らなかった。涼子は鎮静剤が効いていない間は――三日三晩、昼夜問わず泣き叫んでおりました。私は枕許で滔滔とうとうと修身の教科書のようなことをいっていただけです」

地獄のような、終わらない日が十日ぐらい続いた。ある朝涼子は急に温順おとなしくなった。

――お母様、ごめんなさい。私が間違ってました。お母様に辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい。

「それで私は縄を解き――解放しました。以降、涼子は獣のように振る舞うことをせず、私は安堵したのでございますが……」
「その後も赤ん坊が消える事件があったのですね」
「はい。同じ年の九月と十一月に――二度程ございました」
「今回のが初めてじゃなかった訳だ。以前にも赤ん坊失踪事件はあったんだな?じゃあ今回も涼子の仕業なのか!」

木場という刑事は憤ったが、私は懸命に釈明した。

「違うのです!それは慥かに起きたのですが、でも涼子がやったかどうかはわかりません。勿論疑ってはみましたが何より育てた形跡もなければ始末した形跡もないのです。
涼子はいつもと何の変わりもなく生活していました。だから……涼子は犯人ではないと思います。当時私は――涼子の相手の男が嫌がらせをしているのではないかと考えたりしておりました。でも、そのときは、ごたごたしているうちに戦争が始まって、有耶無耶になってしまったのです」
「今回に就いてはどうなんだ?あんたは金撒いてるな。揉み消し工作を色色としたんだろう?」

私は青冷め乍ら続ける。

「夏に――最初の赤ちゃんがいなくなったときは、驚きました。そのときは一切涼子を疑ったりしませんでした。過去のことですから。しかし、九月にあの手紙を見てしまい、考えを改めました。牧朗さんがあのときの涼子の相手だとすると――それは、当時私が疑った張本人だということになります」
「嫌がらせか」
「はい。九月、十一月と立て続けに赤ちゃんは消え、涼子と牧朗さんに対する私の疑念はどんどん膨らんで行きました。でも、もし二人が犯人だとすると……一人は実の娘、もう一人は娘婿です。事件が表沙汰になって一番傷付くのは何の関係もない梗子です。
そうしているうちに恐れていたこと、警察の捜査が始まりました。だから私は、急いで被害者のところに行って、できる限りのこと――お金や何かですが、兎に角訴えを取り下げてくれるようにお願いしたのです。お金は牧朗さんの持参金を使いました。尤も他にはありませんでしたが……」
「それだけじゃねえだろ。産婦に妙な薬を与えて混乱させたりしなかったか?」
「そ、そんなことはしておりません。ただ、死産だったから諦めてくれと、嘘を吐いたりはしましたが――」
「そんなすぐバレるような嘘付いてだませると思ったのか?」

木場の追求に答えたのは主人がだった。

「いや、そういえばあの産婦はいずれも様子が変だった……うん、睡眠薬を与えたような感じがしたな。慥かに普通の状態だったらそんな嘘は通じなかっただろうがな……どうも、変は変じゃった。ただ儂はそんなものは投与しておらんぞ。指示もしておらん」

刑事の疑いの目付きに、最後は慌てて否定した。

「ふうん――都合のいい話だな。看護婦を辞めさせたのも口止めのためか?」
「いや、あれは――気味悪がって自発的に辞めて行きよったのだ」
「それにしては辞めるときに随分な大金を渡しているじゃねえか。働き口の世話までしたんだろうが?」
「金は妻が――いや、事務長が渡したんだ。就職先の斡旋は親切心からやったことだ」
「私は、お詫びのつもりでした。皆一生懸命やってくれた、いい看護婦でしたから」
木場は納得出来ないようで、「お詫びねえ」と呟いた。

「戸田澄江に就いてはどうだ?澄江はどうも犯人がこの家の娘だと知っていたらしいんだがな。強請ゆすられて――それで一服盛って殺したんじゃねえのか?」
「あ――澄江さんは亡くなったのですか?富山……でですか?」
「池袋だよ。知らなかったのか?」
「知りませんでした。てっきり地元の富山に戻っているとばかり……」

私達二人が澄江の死に動揺している様子を見て、これ引き出せないと判断した木場は頭を抱えて下を向いた。それを横目で見つつ陰陽師は訊いた。

「澄江さんは、涼子さんと親しかったのではありませんか?」
「はあ、澄江さんはすこおしばかり変わったところかのある人でしたが――慥かに涼子が病がちのときなどは、能く看病をお願いしたりしていました。ですから、他の看護婦よりは交流はあったのかもしれません」
「なる程。そうですか」

彼は言葉短くそう答えると、眼を閉じた。何かを考えている様子である。私は誰に問われるでもなく、再び語り始めた。

「私は、何とか訴えを取り下げて貰ったまでは良かったのですが……それからどうして良いか判らなくて、お金も段段目減りして来るし……かといってこれといった証拠や決め手もなく、私達家族の間の溝は、深まるだけ深まって、そのままずるずると年を越してしまったのです。そして年が明けると――牧朗さんが失踪しました。本当は亡くなっていた訳ですけれど――そして梗子の妊娠です。これは、そっくり十年前と同じです。
私はてっきり牧朗さんの仕組んだことだと思いました。梗子を涼子と同じ目に遭わせてやろうとしているのだ、赤ちゃんの誘拐はその前奏曲だと。
でも、私は涼子を問い詰めることが出来なかった。日に日にお腹が大きくなる梗子は、まさに十年前の涼子そのものでした。私は、二度もあんな思いはしたくないし、させたくなかった。でも」
「なる程な。涼子は自分のときと同じように妹をあの建物に移してしまった訳だ。元元梗子の暮らしていた処だし、亭主が失踪した場所でもあるから、まあ移す理由はあるな」
「私は――だから怖くて、あの建物には近づけませんでした。梗子が十年前の涼子のように暴れたり、無頭児を殺す夢を何度も見ました」

本当なら十箇月が過ぎれば何らかの結論が――良いにつけ悪いにつけ――出る筈だったが、それは出来なかった。長すぎる妊娠に私は疲れ果て、前を見ることを止めてしまったのだ。
そして、ただただ憎い牧朗に――呪詛を送った。

「何と愚かな女でしょう。何と愚かな――母でしょう」

私はひきつけを起こしたような、声にならない声を立てて、号泣した。

「お母様…」

ただ泣き続ける私を隣にいる娘は何て声を掛けて良いかわからず、ただ、そう呟いた。



ずっと立ち尽くして沈思していた中禅寺は、母が話し終わるのを契機きっかけにすうっと顔を上げ、父の方へ歩み寄った。

「ほぼ――事件の全貌は姿を現したようです。これは嵌め絵のようなものだ。後ひとつ判れば、そこに何が書いてあるのか瞭然はっきりと見える。院長先生、その小児科の菅野という医師は、どんな人でした?」

菅野博行。その名前に私はどきりとした。

「す、菅野か――あれは前に小児科を任せておった儂の先輩の同窓で、最初は非常勤で手伝って貰っておった。昭和七年にその先輩が亡くなって、そのまま居付いた。
そう……矢鱈にこの家に伝わっておる古文書や何かに興味を持っていてな、しょっちゅう当時の書庫――土蔵みたいなとこだが、そこに出入りしていた。あんまり頻繁なんで、慥か、ついには土蔵の鍵を渡したんだったかな」
「それは興味深い。お人柄はどうでした?」
「あまり評判がいいとはいえなかったよ。だからいなくなっても捜さなんだ」
「というと?」
「子供――女児に手を出しよる。たちの悪い悪戯をする。まあ、噂だったが。世間は広いからな、年端も行かぬ子供に劣情を抱く破廉恥漢はれんちかんもおるじゃろ。本当だったかもしれん。でも今では――解らんことだ」
「小児科の――涼子さんの主治医は菅野さんだったのではありませんか?」
「ああ。幼い頃は前の……その先輩が診ててくれてたが、亡くなった後は、まあ菅野だったかな。短い間だったが」
「そうですか。ときに奥様。富子さんの語った六部殺しの伝説に登場する秘伝の巻物というのは現存するのですか?」

中禅寺の問いに何の前触れもなく質問が飛んで来たので、母は虚を突かれたようでふうと貌を上げた。

「ま、巻物はございませんが、秘伝の写しというのは慥かに見た覚えがあります。相当に古いもので――桐の箱に収まっていたように思います。内容までは判り兼ねますけれど」
「それは今もあるのですか?」
「さあ――あるとすればあの書庫にある筈ですが、さてどうですか――そういえば、戦後は見掛けません」
「そうですか。消息を絶った当時、菅野さんはお幾歳いくつだったのでしょうか……いえ、お幾歳ぐらいに見えたのでしょうか?」

中禅寺の質問に父は分厚い瞼を細めて、当時のことを思い出しつつ唸り乍ら答えた。

「ううん、あれは儂より七つか八つ上だったから、当時五十五六かなあ――いや、でも、いわれてみれば妙に老けてたな。六十の坂は越してるように見えた」

中禅寺は一瞬射るような鋭い視線を発してから、父と母に会釈した。

「能く解りました。僕の質問はお終いです。言い難いことや、思い出したくないことばかりをお訊き致しました。非礼をお詫びします。木場刑事。お二人ともかなりお疲れのようだから、お引き取り戴いた方がいいと思うよ。勿論、警察の判断することだが」
「おい、いきなり仕切るなよ。俺にはまだ何が何だか皆目見当がつかねえ」
「それならもう肝心なところは大体判ったから後で説明するよ。このお二人は今お話し戴いた以外のことはもう御存じない。これ以上の追求はただの拷問だ。後の話はなまえさんしか知らないだろうからね」

隣からよたよたと父が手を挙げた。

「待ってくれ。ええと……」
「失礼。昨晩より名乗っておりませんでした、中禅寺秋彦といいます」
中禅寺は父に問われて、酷く遅い自己紹介をした。


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